第二話 記憶への渇望

 病院に入って第一声、俺は自分が、いや母が完全に勘違いをしていたことに気がつかされた。


「あ、あの! 笹川空音! 意識不明の重体だって……」

「え? ああ、一週間前に入院した笹川さんね。数日前に意識が戻って、今は三階の病室にいるわよ」

「え……」


 事故に遭ったのはなんと一週間も前、しかも普通に意識を取り戻している。なんだ、そうか。生きてたんだ、ちゃんと。

 説明不足な母への怒りよりもまず、言い知れない程の安堵が胸に押し寄せ、俺はその場にへたり込んだ。


 周りに配慮して携帯の電源を落とし、俺は階段を少しずつのぼっていく。急いでいたため見舞いの品などは持ってきていない。それでも、大丈夫だと受け入れてくれるだろうか。数年ぶりでもあいつは、空音は、俺の顔を見て笑ってくれるだろうか。一段一段、踏みしめる度に緊張で手汗が滲む。


 案内された病室の前で、俺は拳を一度だけ固く握りしめ、一気に肩の力を抜いた。大丈夫。時が流れても変わらないものが、きっとそこにはあるはずだ。そう信じて、ゆっくりと目の前の扉を横へ動かしていく。

 目に入ったのは真っ白なベッド、そしてそこに腰掛け、真剣な顔で本を読み漁る空音の背中だった。

 ああ、やっぱり変わっていない。昔からあいつは本が好きだったもんな。そう思い、集中する彼女の側へと慎重に近づいていく。


「……久しぶり、空音」


 振り返る彼女の髪がフワッと殺風景な病室に花を咲かせる。ほのかに、金木犀の懐かしい香りが鼻腔をくすぐったような気がした。


「大丈夫か? その……事故に遭ったって聞いて、俺」

「……誰?」


 その言葉の意味が、一瞬よくわからなかった。ダレ、誰だって? まさか、病室を間違えた……? いや、俺を見つめるその顔はまごうことなき幼馴染だ。俺が、誰かって聞いたのか、空音は。


「……覚えて、ないのか?」

「えっと、その……ごめんなさい。私、記憶喪失、みたいで」


 殴られたような衝撃が全身に走る。そんな、嘘だ。そう言いたくても、乾いた口からは何も、言葉も、息すらも出てこない。


「それで……あなたは? 私と知り合いみたいだったけど」

「あ、ああ。俺は黒木、黒木時雨。一応お前の幼馴染……っていっても覚えてないんじゃ信用ないか」

「そう、黒木君ね。覚えておくわ」


 黒木君、か。彼女が「時雨」と呼んでくれたあの頃は、もう返ってはこないのだろうか。


「本当に、何も覚えてないんだな」

「……ええ。でも、これでも少し思い出した方なの。ほら、これ」


 そう言って、空音は読んでいた本を空中でパラパラとひけらかす。


「私が書いた本なんだってね。両親の顔も未だにしっくりこないのに、自分が作家だった事実だけが頭の中にかろうじて残ってる。置き土産みたいに、脳の隅にこびりついて離れないの。そんなこと思い出したところで、今の私じゃ何も書けやしないのにね」


 本の表紙を優しくなぞりながら、彼女は少し悔しそうに目を伏せた。


「……ごめん、俺まだ仕事あるから。今日のところは、帰るわ」


 また明日、と言いつつ帰り支度を済ませると、空音はただ背を向けて「またね」と小さく呟いた。

 やけに明るく静かな病室を出て、そっと扉にもたれかかる。しゃくりあげ、すすり泣くような彼女のくぐもった声が、俺の鼓膜をかすかに震わせた


 俺から見れば、彼女の語彙力は今も健在のように感じる。しかし「作家とは、自らの経験を糧にありったけの脚色をして文をつづる職業だ」と以前、賞のインタビューで答えていた姿も同時に思い出す。要するに、失ってしまった記憶は全て、彼女のアイデンティティだったのだ。

 いくら語彙力による味付けが上手くても、肝心の素材がなければ小説は作れない。だから彼女はあんなにも、自分の本を穴が開くほど読みこんで、自ら傷つき絶望しているのだ。


「記憶喪失になったのがもし俺だったら、きっと幸せになれたのにな。……あいつも、俺も」


 そんな独り言を言う間もなく、俺はまた光溢れる夜道をふらふらと彷徨さまよう。そうやって何かに操られるように再びオフィスに舞い戻り、結局、俺はなんとか徹夜で仕事を終わらせた。

 携帯の電源を入れ直していなかったことには朝になってから気がついたが、今更どうでもいいことのように思えて、そのままポケットに放置した。朝焼けと共に襲いくる眠気には、とてもじゃないが勝てなかった。

 閑散とした職場には今日もまた、わずらわしい朝日がゆっくりと差し込む。




 時は戻り、丑三つ時。深夜の中の深夜。真っ暗な病室で一人、涙を流し眠る女は夢を見る。


 かつての栄光、そして全てを失い転落した今。記憶が、欲しい。失くした記憶をもう一度取り戻さなければ、私はもう「作家」ではいられない。作家でない私、それはもはや私などではない。存在する価値もない。

 ああ、欲しい。そのためなら手段は選ばない。奪ってでも、何としても取り返したい。その異様なまでの執着、渇望は、みるみるうちに膨れあがっていく。


 ——ドプリ。得体の知れない何かが、その悪夢から一滴伝い落ち、瞬く間に現実へと漏れ出した。


『……腹が、減った』


 その姿なきものは、ふわりと天井へ浮かび上がり、うなされている女をじっと見下ろす。そして、最初に喰らうべきまだ見ぬ記憶をあれこれと想像しながら、ペロリと大きく舌舐めずりしたのだった。

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