第一話 走馬灯の呼び声
「おい黒木……お前、昨日休んだ挙句、書類が出来てないとはどういうことだ、ええ!?」
バン! と机を強打する音が、オフィス中に響き渡る。俺は思わず肩をびくつかせてしまった。
「し、しかし……。書類はきちんとまとめたはずですが……」
「知らん。少なくとも俺は見ていないぞ」
「そんな……ちゃんと見せましたよ! なあ、お前らにも渡したから覚えてるよな?」
俺は後ろで仕事に打ち込む同僚達に助けを求める。しかし、彼らは一言も喋ることなく、我関せずといった顔でキーボードを鳴らし続けるばかりだった。
「サボった上に言い訳、嘘。どれだけ上司を舐めれば気が済むんだ、お前は!」
ドン! と鈍い音が、また机から響く。ドン、ドンと打ち鳴らされるたびに、俺の心が悲鳴を上げる。苦しい。何故、誰も助けてくれないんだ。どうして、俺の声を無視するんだ。なんで、なんで俺がこんな目に……。
「……クビ」
「え?」
「この書類、今日、一からやって出来なきゃクビだ! それでいいな」
「そ、そんな……無茶苦茶ですよ!」
「また言い訳か? そんなこと言ってる暇があったら、とっとと仕事しろ! ほら、失せろクズが」
上司に追い払われ、俺は自分のデスクへと戻る。遠くで、嘲り笑う同僚達の声が聞こえたような気がした。
夜。残業。おびただしい数の仕事、書類、データ。終わらない。一日で終わるはずもない。
「一日休んだんだから妥当だろ。甘えるな」
「マジそれ。俺らが昨日どれだけ残業したと思ってるんだろうな」
帰り際、同僚達は吐き捨てるようにそう呟いて、僅かに口元を歪めながらオフィスを出ていった。多分、俺を笑っていた。
もう、疲れた。疲れ切ってしまった。そう思った途端、キーボードを打つ手がピタリと止まる。指先は震え、エンターキーに乗っかった小指を押し込む動作すら億劫になる。
「……やめた」
オフィスにはすでに俺一人きり。今更席を立ったところで、怒るやつなどここにはいない。頭に白く
「さすがに、閉まってるかな」
普段は鍵のかかったそのドアノブに手をかけ、試しに捻ってみる。驚いたことにそれはあっさりと回り、体重をかけていた扉はそのはずみで勢いよく俺の体を放り投げた。
「痛ぇ……。何だ、開いてんのかよ。……畜生」
おもむろに立ち上がり、申し訳程度の柵にまた全体重を預けてみた。夜風がオーバーヒートしかかった脳を急速に冷やしていくのを感じる。今なら、飛べる。そんな思考が重たい頭に一瞬よぎった。
「ハハッ……もう、ダメなのかもな、俺」
思い立ったが吉日。考える前に俺の足は振り上げられ、踵が目の前の柵を捉える。
たったそれだけの動作で、瞬間、思い出が走馬灯のように駆け巡り、目からは涙がこぼれ落ちた。思えば、涙を流すような暇すら、今までの俺にはなかった。
「ごめんな、父さん、母さん……
ギリギリになって何故だか、長年会っていない幼馴染の顔が瞼の裏に浮かぶ。最後に会ったのは何年前だっただろうか。そうだ、確か小説で何か賞を取ったって言ってて、そのお祝いに駆けつけた時だ。やっぱり、あいつは凄いな。俺とは人間の出来が違う。
「最後に……声が、聞きたかったよ」
でもあいつに迷惑はかけられない。心配もかけたくない。俺はひっそり死んで、誰にも悟られず地獄へと落ちる。それで構わない。
足に力を込め体を浮かせる。あと一歩で完全に柵の外。そうだ、靴……まぁ、いいか。履いたままで。
——ピロリロリロ。
不意に、夜の静寂を電子音が切り裂く。
「うわっ」
突然のことで驚き、俺は柵の内側へと逆戻り。コンクリートの地面へ強かに腰を打ち付けた。
「……ってて、何だってんだ、もう」
音の発信源はポケットに入れっぱなしの携帯電話。俺はつい、いつものクセで手を伸ばし、その電話に出てしまった。
「もしもし、
発信相手は俺の母、まさか自殺しようとしたのがバレたわけではあるまいし、一体何の用なのだろう。
「何? 俺、今忙しくて……」
「そんなこと言ってる場合!? 空音ちゃん、笹川さん家の娘さん覚えてるでしょ? あんたの幼馴染の……」
「……そりゃ、覚えてはいるけど」
「今連絡があって、交通事故で意識不明だって」
意識、不明。その四字熟語が
「……どこの、病院?」
「え?」
「だから! 病院はどこだって聞いてるんだよ!」
あれだけ脳内に詰まっていた真綿は一瞬で焼け落ち、取り払われてしまった。空音、俺の大事な幼馴染。どうか、どうか無事でいてくれ!
俺は仕事も、何もかもほっぽり出して、ネオン輝く夜の街をひた走った。
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