第5話 治療します!
神殿からモソ男爵邸に戻った私は、男爵夫人にすぐにでも治療に行かれると告げた。
夫人は喜んで、病に伏している子爵夫人へと早速使いを送る。昨日の今日だから、むしろあちらの準備が整わないかも。
先方からの返答が届くまで、仕事をしないとね。
般若心経をこの世界の文字に書き起こす、翻訳作業だ。ペンと紙を用意してもらい、机に向かう。神殿のマーク入りの紙は、わら半紙が中心のこの世界において上質な、真っ白い色をしていた。
……終わってしまった。
これでもまだ、使者は子爵邸に着いてもいないわね。
紙はまだ余分にある。せっかくなので他にも何か書くことにした。病の治療によさそうなのがいいな。
延命十句観音経。
一番短いお経と呼ばれ、わずか四十二文字しかないのだ。暗記していたそれを、翻訳付きで書き込んだ。あ、曲がった。まあいっか。
般若心経が回復魔法なら、これも魔法になるのでは。今度、女神様に尋ねてみよう。
「そちらも経典ですか?」
休憩にしましょうと紅茶を淹れてきてくれた、侍女のパロマが尋ねる。さすがにのぞき込むような真似はしなかった。
「そうなの、でもまずは女神様にご覧に入れないと。他の人にはまだ内緒ね」
「分かりました! お嬢様が女神様から認められた素晴らしい方だと気付いたら、伯爵様達はと~っても後悔しますね!!!」
ふふふ、元婚約者のロドリゴもね。
首都にある彼の家のタウンハウスには、玄関を入った正面に大きな女神像が置かれている。そのくらい信心深い家なのだ。ロドリゴの父であるバンプロナ侯爵は、家族よりも先に女神像に帰宅や出掛ける挨拶をするほど。
早くネタバレしたいけど、早くても困るし難しいわね。
次の日の午後、護衛をピノとアベルだけに絞って、子爵家を訪問した。
二階建てのお屋敷は綺麗に掃除されていたので、古いながらも清潔感はある。歴史を感じる建物なのに、調度品は少なかった。治療費を
夫人は一階にある寝室のベッドで休んでいて、私達の到着に
「こんな格好でごめんなさいね、今日はあまり気分が良くなくて……」
メイドに支えられ、ベッドに身を起こす夫人。顔色が悪いし、大分痩せている。動くのも辛そうだ。
「そのままでどうぞ、気を楽にされてください。これから回復魔法を唱えます」
「ありがとう、腰や背中も痛くて。助かるわ……」
私は夫人のベッドのすぐ脇に椅子を用意してもらい、そこで経典を読むことにした。屋敷の使用人も緊張していて、祈るように手を合わせている。みんなに好かれている人に違いないわ、心配されているね。
「……そくせつしゅ~わつ、ぎゃーていぎゃーてい、はーらーぎゃーてい、はらそうぎゃーてい……」
ポクポクとかチーンて鳴るヤツ欲しい。
木魚と、確かりん、だったかな。そんな名前のいい音がするヤツ。
女神様の話では後半に病の治療用の呪文……でいいのかな? があるらしいから、これで快方に向かうはずよ。
「……腰も背中も、辛くないわ。体も軽くなった。なんだかすごくお腹が空くわ。こんな時に悪いけれど、ご飯を用意してくれないかしら?」
「すぐにご用意します、まずはおかゆにいたしますね」
「フルーツもちょうだい」
お経が終わったら、もう食欲が戻ったの?
予想以上の効果だわ……! 女神様、般若心経を万能の魔法と勘違いしていない? 観音経だったらどうなるのかな、誰か経典を持ってきてくれないかな。辞書も一緒に。色々試したくなる……!
ここにいると夫人が食事しにくいだろうから、私達は部屋を移動した。
子爵が待っていて、夫人の様子を低い声で尋ねてきた。色々試しても効果が無かったので、期待と諦めが入り交じっているのだ。
難しい表情をしている子爵に、メイドが明るい声色で答える。
「旦那様、それが奥様が食事を所望されまして。顔色も良くなりましたし、とても霊験あらたかな魔法でした」
「そうか、そうか……! 我が家には大した資産もないが、できる限りのお礼はさせてもらおう! ありがとう、イライア君!」
子爵が両手で、私の手を握る。まだ夫人の容体を確認していないのに、泣きそうなほど安堵していた。
「まだ油断できませんよ。女神様は経典の後半に病を治す力があると仰いました。明日になりましたら、また魔法を全文、唱えたいと思います」
「全文……、学者や治癒師の研究も難航していたのに、解読できたのか……?」
「女神様から啓示がありました」
と、いうことにする為に神託の間に行っておいたのだ。
子爵は手を合わせて床に膝を突き、私に向かって祈りだした。
「ああ……、なんとありがたい……! ありがとうございますイライア君、いやイライア様……!!!」
「わ、いえ、効果がどの程度かまだ分かりませんので。連絡させて頂いた通り一日一度、三度ほど回復魔法を唱えて経過を確認させてください」
「もちろんです、しかとおもてなしさせて頂きますぞ……!!!」
これから三日間、子爵の家でお世話になる。
食事もお茶も、用意してくれるわよ。
客人として子爵と会食するのが、とても楽しかった。
「大恩を受けたのに、大したもてなしもできず申し訳ない……。伯爵家の食事とは、ほど遠いでしょう」
子爵は申し訳なさそうにしている。具だくさんのスープ、籠に盛られたパン、前菜はトマトのカルパッチョ、きのことジャガイモのフリッタータ。ジャガイモは安価で長持ちする野菜よ。
メインは白身魚のムニエル。あ~~栄養が五臓六腑に染み渡る~!
「いえ、伯爵家では義母に嫌われていたので、家族で食卓を囲むことはありませんでした。私は使用人にお願いして、台所でこっそり使用人と同じ食事をしていまして……」
「なんですと……! こんな立派なお嬢さんに、パストール伯爵夫妻はなんて仕打ちを……!!!」
「聞けば聞くほど、伯爵夫妻の
でしょでしょ。子爵は怒りを露わにしていた。ピノまで一緒に怒っている。
何かの時の為に、私の味方は増やしておいた方がいい。婚約破棄された不名誉な令嬢って噂されているんだろうな……。
子爵には二人の子供がいて、二人とも私より年下だ。一人は同じ学園の一年生で、もう一人は軍学校に在籍している。学園に通っていた長女は、パーティーでの婚約破棄を見ているかも知れない。悪いのは私じゃないと印象づけたい。
輪切りのズッキーニとベーコンに火を通し、ズッキーニでベーコンを挟んで串に刺したものを食べた。塩コショウのシンプルな味付けながら、甘みがあっておいしい。
「これおいしいですね。もっと食べたいなあ」
「おお、待っていてください。料理人に追加させましょう」
子爵がメイドに申し付けて追加を作らせるようだったので、スープのおかわりもあるか尋ねた。
よく考えたら、資金繰りが良くないんだよね、子爵家。
ワガママ言って申し訳ないな、だって美味しかったんだもの。
一日一度、般若心経を唱えるだけのお仕事しかない。
それで至れり尽くせりの待遇を受けるのは悪いので、農作業のお手伝いもさせてもらった。子爵家の敷地の裏手に畑があるのだ。
トマトの木のわき芽を取り、キュウリを支柱に縛る。こちらはまだ実が付いていない。多すぎる枝を切るのだけれど、どれを切るのかよく分からなかったので、庭師が切った後に縛る係だ。
慣れない作業で足腰が痛い。しゃがむ仕事が多いので、後からじわじわ疲れが襲ってくる。
客室で一人になってから、般若心経を唱えてみた。自分には効果がないと判明したわ……。
ちなみにパロマとアベルとピノも一緒に農作業をしていたが、私より余裕そうだった。うーん、体力不足が否めない。ダンジョンまでにウォーキングでもするべきだろうか。
約束の三日が過ぎた時には、奥様は外を散策してご飯を毎食しっかり食べられるようになっていた。あまり外に出ていなかったから、疲れるのは早かったわ。
これから体力づくりをしないと。
「本当にありがとうございました。こんなにさわやかな気分は、久しぶりです」
「お元気になられて本当に安心いたしました。これも、女神様の
「イライア様は、なんと素晴らしい方でしょう……。私どもでお力になれることがありましたら、ぜひ相談してくださいね」
「気になさらないでください、こちらも実験なんですから。それよりも、他にも病気やケガで治療の必要がある方がいらっしゃいましたら、教えて頂けますか? 私の正体は秘密で、治療をしたいのです」
夫妻は素晴らしい活動だと感動しているが、ありていに言えばレベル上げだ。
魔法は使うほど強くなる。
ダンジョン攻略までに、少しは上達しておかないとね。
ちなみにダンジョン攻略は、それなりのレベルがあれば問題なくクリアできるくらいの難易度の低さだ。隠しキャラのピノがいるなら、安心だね!
ゲームで会ってないし、実力は知らないけれども。
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