〈がんばっぺし! 高田病院〉
岩手県立高田病院は2018年3月1日に、本設の新病院としてスタートした。
東日本大震災で壊滅的な被害を受けてからも、仮設の病院で診療を続けてきた7年間を思うと、我がことのようにうれしい。
陸前高田市氷上山麓地区に建設された新病院は、震災前にはなかった婦人科も標榜しており、「復旧ではなく復興を」というキャンペーンが実感される。
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2012年2月29日午後3時半、岩手県立高田病院のステッカーを張った迎えの車で、地域診療センターから陸前高田市を目指した。
15分も走ると右側を流れる気仙川沿いに、家や車など残骸が目立つ。
竹駒地区に入ると、道の両側に仮設のスーパーや飲食店などで賑わっている。映画で見た戦後の闇市を連想させる妙な活気。
ところが、その先の丘を越えると、海まで見通せる姿に変わり果てていた。
陸前高田市街地におりると、がれきは撤去され一面の更地に廃墟ビルがいくつか残っている状況だ。
屋上建屋に岩手県立高田病院という文字。思わず、そちらに手を合わせた。
両側に家の土台だけが並ぶ海岸沿いの泥道をすすみ、弘前から6時間かけて高田病院の仮設診療所に到着した。
院長室にとおされ、これから一年あまりの生活拠点として住田の仮設住宅を利用することなど、担当者から説明を受けているところへ石木幹人院長が現れた。
駆け寄って手を握ると、お悔やみや労いの想いとともに「一緒に頑張ろう」という激励の気持ちなどが、すぅーっと伝わっているのを感じた。
もっと嬉しかったのは、医師としての価値観や医療に対する姿勢という基本的な部分が一致しており、高田病院の復興にかける彼の手足として動けるぞという自信が湧いてきたことだ。
青森高校で同期生だった石木君とは、2006年に夫婦同士で食事会をしたことがあった。
4人で食事をしていた時、奥さんから無邪気に勧誘されたことを思い出す。
「高田病院で婦人科をやってよ!」
その奥さんを震災で亡くした彼が院長として超人的な働きをしていたことは、マスコミ報道などを通じて知っていた。病院思いの奥さんのことだから、今回の診療応援をきっと喜んでくれるだろう。
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婦人科診療用に必要な医療機器などの搬入準備を進めていた。
ところが直前になって、石木君からメールがあり慌てた。岩手県庁の医療局から許可が下りないのだという。
高田病院の総師長さんも嘆いていた。
「被災者から要望があったので、何とかしてあげたいと準備をしていたのに…」助産師でもある彼女が、弘前大学医学部附属助産婦学校の最後の卒業生だったとは。
結局、震災後の臨時医師として担当したのは内科外来。
実際に診療を始めてみると、女性患者のなかには婦人科的な問題を抱えている方が少なくない。患者さんとの会話の流れで自然に、更年期障害や自律神経失調症として、手書きの処方箋で治療を始めた。
患者さんからの口コミもあって、婦人科医がいるという情報は徐々に広まった。
地元のミニFM局も、情報を流してくれた。
「JOYZ2AK-FM。こちらは陸前高田災害FMです。周波数80.5MHzでお送りしております。次は、医療施設からのお知らせです。県立高田病院では、クィーンズクリニックの診療を始めました。対象は、更年期障害でお悩みの方、子宮ガン検診やピルなどをご希望の方、そのほか女性特有の悩みをお持ちの方などです。予約制でゆったり診療しますので、受診をご希望の方は高田病院まで御連絡ください」
婦人科を標榜できないため、内科のなかにクィーンズクリニックという窓口を作ったのだ。
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3月11日の日曜日には、岩手県と陸前高田市の合同追悼式が行われた。
私は高田病院跡で黙祷を捧げるつもりで、いつものように朝食を済ませて出勤した。
医局で仕事をしていると、石木君がふらりと入ってきて「一緒にお参りに行かないか?」と誘ってくれた。
金曜日に病院へ送られてきた花束を二つ持ち、ローソンで線香などのお参りセットを準備して、向かった先は高田病院跡と病院長公舎の跡地。
一面の更地になっていて私には見当もつかないが、石木君は「ここが車庫の入り口で、これは隣の家の大きな木の根っこだと思う」と探し当てた。
あたりの瓦礫で花束を固定したが、冷たい浜風でロウソクに火は付かない状況。
あまりに重苦しい雰囲気。ロウソクをティッシュペーパーで巻きながら、「これは亡くなった親父から聞いた墓参りのワザなんだ」と火を付ける。
「おおすごい!」と明るく返してくれたので救われた。
高田一中の追悼式会場まで院長を送ったあと、海岸に出て小雪混じりの風が吹き付ける海を眺めた。取り留めのないことを考えているうち、「地震が起きて津波が来たら」と恐怖感が湧いてきた。
高田病院跡に戻りかけると、大勢の職員や病院関係者が線香を上げている姿に群がるマスコミクルーが見えた。
誰とも話したくない気持ちだったので、病院を眺めながら遠巻きに歩いた。
追悼のサイレンが鳴り渡る。
海の方向に向かって独り手を合わせていると、寒風のせいか涙がボロボロこぼれてきた。
「どうしてこんな場所に病院を建てなきゃいけなかったんだ!」
石木院長が高田病院へ赴任してきたとき感じた気持ちを、私も全く同じ言葉で叫びたくなった。
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高田病院広報の編集作業中に、米崎コミセン仮診療所に対する診療応援者リストを発見した。
集計してみると、震災直後の3月14日から約4ヶ月間に、延べ4348人の支援を受けていた。
職種別では、医師1424人・看護師1358人・事務員762人・薬剤師456人・保健師157人・理学療法士43人・臨床工学士27人・放射線技師26人・その他96人。
2011年8月発行の「救命―東日本大震災、医師たちの奮闘」を読むと、大津波に飲み込まれ絶望的な状況で、リーダーシップをとり続けた石木院長の姿が目に浮かぶ。
「震災直後から救護所に入って、手伝ってくれている若い先生がいます。盛岡の中央病院からの派遣ということで、この春から内科医が一人増えることになりました。実を言うと、それはうちの娘なんですよ」
最後の部分には泣かされる。
その石木愛子医師は、弘前大学を卒業後に岩手県立盛岡中央病院で研修を終え、津波の数日後には米崎コミセンの仮診療所で父とともに診療していたのだ。
地元紙にも「娘と二人三脚、病院再興」という見出しで、石木親子の記事が載っていた。
高田病院を愛した母親の意志を継いで、医師として娘として父親を支えていくことだろう。
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その後、婦人科用の移動診療車が寄贈されたのをきっかけに、岩手医科大学から産婦人科医が派遣されたそうだ。
当時の状況からは予想もつかないような展開。
内科でクィーンズクリニックを始めたことが、陸前高田における婦人科医療のニーズを証明したのかもしれない。その実績と市民からの声が、岩手県や岩手医科大学を動かすことにつながったのではないかと自負している。
「地域の医療と健康を守るため、地域に寄り添い、地域と共に歩みます」高田病院の理念を思い出しながらエールを送る。
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