第11話 危険な一日
翌日の朝、彼女が出勤したのを見計らって、僕は再度裏山へ出かける為に部屋の外に踏み出した。
「何かする時はちゃんと私に相談してね」
玲子さん……、あれだけ言われていたのに、また勝手に出かけることを許して欲しい。でも、僕はこれ以上、玲子さんに迷惑をかけたくないんだ。
部屋を出る際、十分に辺りをチェックし、誰も居ないことを確認したつもりだったが、僕が階段を降りている時、険しい顔をした一人の男とすれ違った。
すれ違う際に感じた危険な香り…。何故かこの男には、とんでもない殺気が宿っていることを感じた僕は、美園ハイツがよく見える少し先の電柱に隠れ、その男の様子を見ていた。
その男は、203号室の前に立つと下を向いて何やら呟いていたが、急に右手でチャイムを何度も鳴らし始めた。だが、誰も出ないことがわかると今度はドアをガンガンと力の限り叩きだす。
隣に住む老夫婦が少しだけドアを開け、ドアを叩く男を見る。同時に恐怖の余り、すぐにドアを閉めた…。
誰だ、あいつ…。玲子さんの知り合いか?この男の行動は、非常識を遙かに超え、犯罪レベルだ。それに、何か言ってるみたいだ!?
「おい、玲子!お前、俺に嘘をついていたのか?お前男がいるらしいな。恥かかせやがって。もう容赦しないぞ。覚えてろ!」
僕は、スマホのカメラを立ちあげると、指でその男の顔を拡大して撮影する。かなりのイケメンのようだが何かに取り憑かれたかのように歪んだ表情…。駄目だ、嫌な予感がする。
そう思った僕は、裏山の散策を止め、彼女が研修中の調布北第三病院へと向かうことにした。
正直、タイムパラドックスのリスクはあるが、僕が病院まで彼女を迎えに行った方が良いと判断したのだ。
あの男が病院に行く前に、僕が先に病院に着いていないと…。
あいつは車だろうか?ならば、電車の僕と競争だ。
僕は、彼女から借りていた夏目漱石が描写されている千円札で、電車のチケットを購入すると、改札を走り抜ける。
急げ、急がないと…。嫌な予感がする…。
京王稲城駅のホームに滑りこんできた電車に飛び乗った僕は、調布駅に着くとすぐに、駅前の地図の看板を確認する。スマホの地図アプリもこの世界では使い物にならなかった。だから、この看板をスマホで撮り、それを頼りに目的地に向けて力の限り走ったのだ。勿論、スマホは、この時代の人に見られないように十分注意をしながらだが…。
漸く病院の建物が見えてきた。そして、病院の敷地に入ると僕は、『職員専用口』を探す。
あー、良かった…、どうやら、あの男は来ていないようだ。もしかして、僕の取り越し苦労だったのかもしれない。
今日、彼女が何時に上がるかなど正直、僕は全く分かってなかった。ただ、夕御飯が作れない時は予め言ってくれるので、遅番ではないはずだ。
僕がいた世界だと、ラインで「今日は何時まで?」、「今、職員専用口の前にいるよ」などと相手にすぐに伝えられるのに、この時代は本当にもどかしい…。
だが、こうして今か今かと人を待つのはなかなかいいものだな…。
僕は、専用口が見える場所にさりげなく立つと辺りを見渡す。さっきから何も変わらない状況に少し安心した僕は、すぐ近くにあった自動販売機で百円の缶コーヒーを買った。
どれだけ待っただろうか…。ドアが開く音と同時に、「お疲れ様です〜」と言う声が聞こえた。職員専用口を見ると、丁度玲子さんが出てくるところだった。彼女は、疲れているのだろうか、ぼんやりと下を向いて、ゆっくりと歩いている。
その時だった。黒い服を着た男がゆっくりと彼女に近付いて行く。僕は、その男を凝視するが良く見えない。だが、美園ハイツで暴れてたあの男に似ている気がする。そう思った時、その男は上着のポケットから、小さなナイフを取り出した。
「玲子さ…っ。危ない!逃げろ!!!」
僕は咄嗟に大声を出すと右手に持っていた缶コーヒーを思いっきりそいつに向けて投げつけた。
「きゃあー!!!」
缶はそいつの手前で「グシャッ」と音を立てる。直接当たらなくても、一瞬の隙を稼ぐことは出来た。
僕は、植木を飛び越えるとそいつに思いっきり体当たりする。
「ぐっ」
するとその男は態勢を崩し、壁に身体を強く打ち付け、ゆっくりと倒れ込んだ。
なんとか玲子さんを守ることが出来たみたいだ。
だが、その男と一緒に倒れ込んだ僕もダメージを受けてしまったようだ。さっきから、立ち上がろうとうしているのに、右足が痛くて上手く立ち上がれない…。
建物に逃げようとしていた玲子さんが立ち止まり、そして、僕の方へ近付いてきた。僕が怪我をしたと思ったのだろう。
だが、その時、気を失ったように見えたその男は急に立ち上がると玲子さんの方へと駆けだした。
「玲子さん!!すぐに建物の中に入るんだっ!」
僕は、力の限り叫ぶ。その言葉に反応した玲子さんが建物へ向かって走る。だが、その姿がまるでスローモーションのように思えた。
「逃げろ、逃げろ、逃げるんだ!!!」
必死で逃げている玲子さんの背中に、男が右手を大きく振りかぶった。
「間に合わない、玲子さん!玲子さん!!!」
僕が力の限り叫んだ瞬間、身体全身が小さな針で刺されているような感覚が押し寄せてきた。
『ぐっ、こ、こんな時に…』
そう思った瞬間、今度は割れ裂くような頭痛が襲ってくる。
「玲子さんが、玲子さんが…」
なんとかしたいという僕の気持ちとは裏腹に意識はどんどん薄くなって行く。もしかして、僕は、過去を変えようとした罰を時間の番人から受けているのかもしれない…。
それでも、最後に声を発した。
「や、やめろー!!!!」
僕の声を聞きつけたのか、職員専用口から、一人の男性が駆け寄ってくる。
そして、その男性は、躊躇無く玲子さんに覆い被さった。
狂った男は、玲子さんに覆い被さった男性の脇腹へ、雄叫びを上げながらナイフを突き刺す…。
「ぐっ…」
その曇った声と同時に玲子さんを庇ったその男性からおびただしい量の血が流れ出した。
刺した男は何故か呆然として突っ立っている。そこに、漸く駆けつけた二名の警備員がその男からナイフを取り上げ羽交い締めし、身柄を確保した。
僕は、ただ、みんなが動いているのを唖然と見ていた。
彼女は無事だろうか?そして、彼女を庇った男性は大丈夫だろうか?
職員専用口からストレッチャーが出てくる。医師らが刺された男性をベットに上げる…。
良かった…、ここが病院で…。彼はきっとここにいる優秀な医師達によって助けられるだろう。きっと大丈夫だ。誰も死なない。良かった…。良かった……。
僕は、全身を襲う鋭い痛みに耐えきれず意識を失った…。
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