第9話 玲子と裏山

「玲子、今度の日曜、時間ないかな?」


 あー、どうしよう。渡辺君から電話があったけど、なんだか乗り気がしない。その日は、夜間実習だし、ゆっくり昼まで寝たかったし。断ってもいいよね。


 あやふやな形で消滅した私達の恋。なのに、転勤で東京に戻ってきたからといって、前と同じ距離感で話しかけてくる渡辺君が少し怖かった。だけど、私は、また誤魔化すような言葉を発してしまう。


「う〜ん、この日は多分、無理かな。夜間実習だし、それに国家試験の受験まで時間もないしね。ごめんなさい」

「そうか。しょうがないな。また誘うよ。じゃあ」

「うん、おやすみなさい」


 私は、渡辺君の前では、半分も素をだせてない。なのに、そんな自分を好きっていう渡辺君ってなんだか嘘つきだなって思ってしまう。


 実は、少し前から私には気になってる人がいた。その人は、薬剤会社の営業で、私が研修で働く病院にちょくちょく顔を出す。今日も挨拶程度の会話だったけど、なんだかとっても嬉しい…。この気持ちってなんなんだろう?




 「あー、今日は疲れたな…」


 夜勤が明け、さあ帰ろうと思っていた矢先に緊急手術が始まってしまった。人が足りず、結局私は帰るに帰れなくなり、結局こんな時間になってしまったのだ。


 駅前のスーパーで食材を買い、美園ハイツに向かう。今日は簡単なものにしよう、なんだかとっても疲れてしまった。

 階段下の郵便受けを開けようとしたら、住民の誰かの自転車が凄く邪魔で苛々する。新築だけど、絶対にこれって設計ミスだよね…。

 そんな事を思いながら階段を上がって行くとふと人の気配を感じた。そこには、ここら辺では見かけない服装をした若い男性がリュックから鍵を探しているところだった。

 しかも、私の部屋の前で…。


「えっ」


 もしかして、泥棒?もしくは変質者?いずれにしても危険極まりない。

 すると、その男は鍵をドアノブに入れるとくるりと回す。えっ、開くわけないじゃない…と思っていたら、『カッチャ』と鍵が開く音が響いた。


「ひっ」


 私の声に驚いたような顔で振り向いたその人、そう、檜原和也君と出会ったのはそんな夏の終わりの午後だった…。



◇◇◇



「ただいま!」


 あれ!?いつもなら「おかえり〜、お疲れさん〜」と言ってくれるのに無反応だ。


「和也君!?」


 狭い部屋だからすぐに分かる、彼はこの部屋にはいない…。


「えっ?もしかして、未来に戻ったの!?」


 馬鹿みたいだけど、彼がタイムトラベラーという事を私は信じてしまっている。誠実そうな人…、これは直感なのだけど妙な自信があった。


「あー、でも、未来に戻る前にちゃんとお別れ言いたかったな…」


 そう思いながら、初めて彼と会ったことを思い出していた。

 ちゃんと戻れたかな?そう思いながら、私は夕食の準備を始める。今日は、ナストマト、ベーコンを使ったシンプルな白ワイン味のスパゲッティにするつもりだ。


 「あっ、そうだ。携帯の電池マークが一つになっていたんだった」


 私は、バックから携帯を取り出すと充電スタンドに携帯電話を置く。

 昨年、無理して買った携帯電話。月々三万円近くかかるので、その分生活費を削らなきゃいけないんだけど、その利便性を一度知ってしまうともう手放せない…。


 でも、三十年後は、スマートフォンというものが出て、今よりも遙かに便利になっているなんて、本当に凄いなと思う。

「ん?」あれ、私の机の上に白いケーブルで繋がっているのは、和也君のスマートフォンだ。えっ?もし、元の世界に戻るとしたら、これは絶対に持っていくのではないだろうか?だとすると、散歩?いや、彼は図書館で借りてきた本を読んだ後、「僕は、出来る限りこの部屋にいた方が良さそうだ」と言っていたじゃない…。

 そうなると、答えは一つだ。きっと彼はまた、裏山の洞穴に行ったに違いない。

 私は、切りかけのタマネギをそのままにして、部屋を飛び出した。



「はあはあ。あー、きつい…」


 身体がなまってる…。これくらいの階段でここまできついなんて。えっと、洞穴ってどの当たりに行けばあるんだろう?確か、散策ルートとか言ってたけど、そもそもここにそんな散策ルートなんてあるんだろうか?


 しばらく山頂付近を歩いていたら、社の裏側に、山へと向かう道らしい道があることに気が付いた。

 私は、勇気を振り絞ってその道を進んでいく。雑草や竹藪が人の力でなぎ倒されている。やっぱり、和也君はここを通って行ったんだ…。確信を得た私は、歩くスピードを速める。すると、少し先に、黒のシャツとジーンズ姿の男性が倒れているのが見えた。


「和也君—!!!!」


 私は、力の限り叫んだ。

 だが、彼は深い眠りに落ちているように意識を失っていた…。



 それからは大変だった。意識を失っている男性を担いで帰ることなんて私には出来ない。だから、まずは彼の意識が戻るまで、ただじっと横に座って待っていた。

 よく見ると、和也君はとても整った顔をしている。目は一重だけどきつい印象はない。ふふふ、歯並びが悪いのは何故だろう?子供の時、乳歯を抜くのを嫌がったとか?

 それにしても、この人も大変だなと思う。もし私が三十年前にタイムトラベルしたとしたら、きっと気が狂い自らの命を絶つかも知れない。それくらい辛い状況の中で、冷静にそして平然を装うことが出来る人ってそんなにはいないと思う。彼はきっと強い人なんだろう。


 倒れた拍子なのだろうか?彼の頬に擦り傷がついている。私は、指で彼の頬を擦り泥を落とすと、ハンカチに唾液をつけゆっくりと拭いていく。この前の授業で傷口を舐めるのは実は効果があるって先生言ってたし、いいよね…。


 何故か心臓の鼓動が高まる…。

 早く目を覚まして欲しいな…、私は、そう思いながら彼の頬を今度は手で撫で続けた…。




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