三節


物陰から窺がう正木の瞳は、怨念に取り憑かれたように異常な輝きを放っていた。カラス群の中から、クロが一声を放つ。

「グアッ!」

すると、群がっていたカラスが飛び立つや、朝日の輝く大空高く舞い上がり、ゆっくり旋回し始めたのだ。それを見上げる正木の目から、大粒の涙が溢れる。すると、その顔からすうっと奇相が消え、穏やかな瞳が蘇えっていた。

「夏、夏美…」

一言漏らし崩れ膝をつくが、直ぐに立ち上がるやその場から姿を消した。

絶叫とカラスの鳴き声に驚き、飛び出してきた田口の女房が異様な光景と無残な夫らしき残骸を見て驚愕し、悲鳴を上げ卒倒した。近隣から数人が出て来て覗い、あまりの惨事に驚き勇み一一〇番通報した。直に急行したパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、異様な光景を物語っているようだった。群がり始めた報道関係者すら言葉を失う。

そして一時間もすると、撒かれた号外新聞トップに「またもや人間が、カラスの大群に襲われる!」の見出しと、青いビニールシートに覆われた残骸らしき写真が掲載されていた。さらに朝、昼と臨時ニュースが放映され、惨事の様相を克明に告げた。急行した元富士警察署の警察官と、警察庁生活局地域課から派遣された捜査官数名により、黄色いテープで囲まれた現場及び周辺を入念に捜索するが、残骸の他にカラスの羽が二、三枚落ちていたことと、周り近所の人の証言で今朝早くから、何時も見かけない精悍なカラスが飛来し、田口家を窺っていたことが判明した。横たわる悲惨な亡骸から、そのカラスに扇動された群れが田口を襲ったものと推測された。

その後警察の共同記者会見でも仔細が発表され、各夕刊新聞に載せられるが、その記事のタイトル末尾に「一連の襲撃事件と同様、今回の事件といい、何故カラス群に襲われこんな凄惨なことになったのか。本来、有り得ぬことだが…」と記され、?マークが付き究明の限界を露呈していた。惨事にあった被害当事者の東都テレビでは、野尻局長が沈痛な面持ちで有体を報道した。

「このたびは当社の者が、このような無残な事件被害に巻き込まれ…伝々」深々と頭を下げていた。

そして夕方以降の各局報道でも、この事件がメインで放映された。あるテレビ局では、新宿歌舞伎町や銀座で起きた大量カラスによる殺傷事件と大阪堺市の商店街で発生した事件を、同一首謀カラスによるものではないかと大胆にも推測する。その根拠として、夫々の現場でのカラス群の行動や、統率命令の啼き方をボイス検査機のデータから解明した結果一致しており、撮られた多数の写真から首謀カラスを割り出し、同一であると推定されると結論付けていた。

また、ある局での有識者による座談会で、鳥類研究の一人者である東南大学の田上教授が、尤もらしく解説した。「鳥類生態研究で、カラスの生態分析から推測すると、鳥類の中でも聴視能力が数千キロにも及ぶことがあり、その能力は他の鳥類と比べ数百倍にも及ぶ…赫々云々。よって知能指数が高く集団生活を行い、稀にその数は数千羽になることもあり、さらに賢い鳥で受けた恩は一生忘れない習性を持っている」とした。

ところが、それに反論する新聞記事が出た。日大スポーツである。田上教授の論説をこっぴどく虚仮下ろしたのだ。「お高くとまる大学の先生らしい机上理論だ」とか、「屁理屈で解説しているだけで現場を知らない」とか。「なにがカラスの習性だ。その生活実態を調べもせず、推論で東京と大阪を結び付けていること自体現実離れしている。これが銀座や歌舞伎町と横浜の伊勢崎町辺りを結びつけるなら関連性が実証できるが、数千キロも離れての聴視能力など、机上理論の夢物語で論外だ」と貶した。すると、各社がこぞって論戦を繰り広げ、百家争鳴の如く展開されることとなった。

ただ、どれも確証があるわけではなく、すべて推論の域を脱しないものばかりである。結局、堺東通り商店街や新宿歌舞伎町、さらに銀座での惨事を警察が懸命に捜査するも解決の糸口も見いだせず、直近の田口襲撃事件も難航していた。

そんな折、怨念を晴らした正木は自室に閉じこもった。長い間かけての戦いが終焉したが、気持ちが晴れたわけでなく何故か空しさだけが胸を突いていた。

祭られた祭壇に手を合わせ語りかける。

「夏美、お前の無念を晴らしてやったぞ。喜んでくれ。それに吉田君や森下さんはさぞかし悔しかっただろう。俺がもっと強ければ君らを守ってやれたのに、それが出来ず君たちの人生を絶つ羽目となった。だから俺は、許すことが出来なかった。奴の所業を黙って見過ごせなかったんだ。それ故、クロの力を借りた。それで全国の人々にも訴えた。でも、それだけでは解決にならなかった。

どうだ、夏美。これで君の気持ちが晴れたかい?夏美、教えてくれ。それに吉田君、森下さん。君らはどうなんだ。答えてくれないか…」

正木の頬に涙が伝うが、拭いもせず語りかけていた。

「夏美、俺は今でも君を愛している。お願いだ、いま一度でいいから戻ってきてくれないか。そして、愛していると言ってくれ。ああ、答えて欲しい…」言葉が止まった。

彼女を失った悲しみがふたたび呼び戻されるが、その顔に深く刻まれていた怨念の影は消えていた。ただ、失ったものが余りにも大きすぎた。終結したにも係わらず、正木はぽっかりと空いた胸を埋めることが出来なかった。

そうか、やはり君は来てくれないか。それなら、俺が夏美の下に行かなきゃならないな。そうすれば君に会えるし、ずっと一緒にいられるものな。

俺は、やるべきことをすべてやった。けれど一人では無理だった。クロやクロの仲間に助けて貰ったおかげだ。だから、クロたちには感謝している。そうだろ、そう思うだろ夏美。君だって、クロや俺を咎めないよな。俺は決して、己のためだけに無念を晴らしたわけじゃない。いや、少しはあるかもしれないが、君や部下に報いるためクロと伴に戦ったんだ。それだけは信じてくれ。それがすべてだ。

目を閉じ、大きく息をついた。そして静かに漏らす。

「もう思い残すことはない。他にこの世でやることもない。そうだろ、夏美。君がいなければ薔薇色の人生なんてないんだ。だから、君の下に行き一緒にいたい。いいよな、君もそれを望んでいるよな」

虚無の胸に、一筋の光が射し始めていた。微笑む夏美の手が差し伸べられる。正木が頷き告げる。

「それじゃ、これから君のところへ行くから、待っていてくれるね。夏に逢えたら、しっかりと抱き締め永遠に離さないからな。いいだろ…」

正木の耳に、彼女の優しい声が響いてきた。

「裕太さん、それほど私のことを想ってくれるのね。嬉しいわ。もう、あなたから離れない。ずっと、私を抱き止めていて欲しい」

「うん、そうするさ。決まっているだろ」

「嬉しい…」

夏美の声が小さくなった。ゆっくり目を開けると、心穏やかになっていた。室内を見廻す。夏美がいた頃と、なにも変わらぬ情景がそこにあった。クロが怪我をし、治療した時の巣箱も変わらずそのままだ。

苦笑する。

「クロ、随分世話になったな。これほどまでに付き合ってくれたこと、感謝するよ。君らが賢いことはわかっていたが、まさか、こんなに恩義を大切にするとは思わなかった。本当に有り難う」

空の巣箱を見つめ告げ、その視線を窓外に向ける。

何故だかクロが直ぐに戻り来て、巣箱に入るのではと思ったが、飛来するクロの姿はなかった。そして、クロ用にと買っておいた弁当を巣箱の前に置き、新しく水を替えてやる。

「何時でも戻って来いよ。そして食ってくれよな…」

そう言いつつ椅子に座り、睡眠薬を口に含みコップの水と共に流し込んだ。

「さあ、これでクロともお別れだ。夏美、待っていてくれ。直ぐに行くから」

そう言って立ち上がり、クロのいない巣箱の傍に横たわる。

意識が薄れてきた。なにもかもが白くなって行く。すると、楽しかった日々の出来事が、薄れるなかで走馬灯のように蘇えってきた。

夏美との出逢い、我が胸に深く刺さった君の眼差し、あの時からだった。忘れえぬ人となり、終生愛すべき人となった。

ああ、俺は君に逢えて永遠の愛を知った。君の一挙手一投足が、今でも愛しく思われる。それに、クロに逢いたさゆえ、井の頭公園や高尾山へと二人で捜し歩いた日々を思い出す。君も同じ気持ちで、クロを愛していたんだね。思えば懐かしいことばかりだ。早朝に捜しに行くと俺の部屋に泊まり、愛を確かめ合った。悲しみや辛いこともあったが、今は楽しいことばかりが思い出される…。

正木の口から、感謝の気持ちが零れる。

「夏美、有り難う…。クロ、有り難う…」

目くるめく日々が、ゆっくりと廻り揺れていた。その明かりが徐々に消えかけてくる。

その時だった。

窓ガラスが激しく揺れた。クロが飛来したのだ。

「カア、カア、カアー、カア!」

クロの姿が、窓越しにぼんやりと映った。

「おおっ、クロ。来てくれたのか…。でも、もうお前とはお別れだ。これから夏美の下へ行く。有り難うな、クロ。有り難う…」

必死に延ばす手が空を切り、だらりと落ちた。

「カアー、クァ、クァ、カア、カア…」

クロの激しく啼く声が遠くなり、やがて聞こえなくなった。

正木の住むマンションの屋上や付近の屋根、そして周りの木々に多くのカラスが集まっていた。それを見た住民が、「すわっ!」と新宿歌舞伎町、はたまた銀座での惨事再来かと恐れ、慌てて一一〇番通報した。新川派出所と立川警察署からパトカー三台が、サイレンを鳴らしマンションへと急行した。着くやいなや飛び出し身構える警察官らが見守る中、カラスたちは一斉に飛び立ち悲しげに啼きながら旋回するだけだった。

まるで、召される正木を門送りするが如く、数百羽の群が早春を待つ如月の大空を大きく弧を描き旋回していた。そして、輪の中心にいるクロが一啼きする。

「グァアア!」

それも、今までにない大きいな啼き声だった。すると、カラス群がクロを先頭にして、茜色の夕闇が迫る高尾方面へと飛び去って行った。啼き声と共に大きな塊が徐々に小さくなり、やがて点となって消えた。

それから、一年の歳月が経っていた。

あの惨事以来、彼の住んだマンション、そして各商店街や繁華街での人々は、カラスの大群が何処かに現われたというテレビ報道や新聞記事を見聞きすることはなかった。ただ、そんなある日、夜明け近くの朝もやに霞む三鷹駅に続く街路樹の片隅に、一羽の翼の折れたカラスがひっそりと死んでいた。そのカラスがクロであるかは定かでないが、もしクロであったなら、おそらくそれは正木や夏美の下へ召されていったであろう亡骸に違いない。

                                         完

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己が命を捧げ、報いよ 高山長治 @masa5555

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