二節


田口は、あのことがあって以来、用心しながら行動していた。

まさかカラスに襲われたなどと、局長や常務に話せなかったし、ましてや部下にも打ち明けられずにいた。心の奥に仕舞い込み、細心の注意を払い日々の業務に就いていたのである。そのせいか性欲にも影響し、負い目を持つ佐々木道子を強請り情事を貪るどころではなくなった。

そんな矢先、田口がふたたびカラスに狙われたのだ。糸川常務に誘われ銀座のクラブで飲み、二次会と称してカラオケルームで歌い上機嫌の常務をタクシーに乗せ見送ったあと、田口は気分良く六本木の「綾」に梯子した。先日のゴルフ後の夜のプレー話に及び、熱を帯びた情事談義に乗じてママの胸を弄ろうとするが、手を叩かれ飲み直した。 酔いが回り帰ろうと店をでた時、クロが飛来し田口の顔を引っ掻いたのだ。突然のことに息が止まった。

「ぎゃあっ!」

大声を上げ、両手で顔面を覆った。その拍子に足元が緩み倒れかけ、堪えようと手を伸ばしたところ、壁のポスターにかかり引き裂いて尻餅をついた。驚いたのは「綾」のママである。田口の悲鳴に慌てて飛び出してきた。

「田あさん、どうしたの。なによ、その顔、血が出ているじゃない。それに尻餅なんかついてさ!」

うろたえる田口を抱き起こし、店の中へと引きずり入れた。

「カ、カラスにやられた!」

田口が額を押さえ必死に訴えると、ママが訝る目で告げる。

「なに言っているの、カラスなんか何処にもいないわよ。だいいち店はビルの三階よ。それにエレベーターでなきゃ来られないわ。それに田あさん、なにその傷、血を滲ませて。そう、転んだ拍子に引っ掻いたのね。おまけにポスターまで破り、へたり込んでいるんですもの。酔ったのね」

「いいや、違う。ママ、違うんだ。酔ってなんかいない。間違いなくカラスに襲われたんだ。ほれ、見てみい!」

そう訴えられるが、尚も訝る。

「確かに血が滲んでいるけど。カラスなんかいないわよ。今言ったでしょ、お店は三階なの。来られるわけないじゃない。なに言っているのさ」

「そ、そんなことあるもんか!」

「そんなことあるかって。いないものは、いないわよ!」言葉が尖っていた。

田口の訴えが小声になる。

「いいや、確かに俺はカラスに襲われたんだ。嘘じゃない…」

「嘘じゃないって言われても、いないものはいないわ」

ママに否定された。

「そんな馬鹿な…」

へたり込んだまま呻くが、すでに血糊の点く顔には恐怖心以上のものが浮かんでいた。

「まったく、酔っ払って腰抜かすなんてさ。さあ、掛けてちょうだい」

ママに抱きかかえられ椅子に腰掛ける。深酔いのせいか、田口はそのままぶつぶつ吐き、カウンターに突っ伏し寝入ってしまった。

「まったく、しょうがないんだから…」とママが愚痴った。

このことがあって以来、田口は自分が狙われているような錯覚に陥る。

「誰も、わしの言うことを信用せん。女房だって、久美子ママだって。わしがカラスに襲われたのは事実だ。顔の傷が証拠じゃないか。くそっ…」

虚勢を張り漏らすが、心穏やかでなかった。忍び寄るなにかを恐れ不安が募る中、強く恐怖心が浮び上がってくる。自宅を出る時も、会社を出入りする際も用心深くなった。そんな中でさらに気になり始めたのは、常に視られているようになったことだ。そう思うと急に周りが気になり出し、どうにもならなくなる。神経が磨り減り、些細なことでも災難が及ぶのではと猜疑心が強くなった。

副局長室で悶々としている時、背中に視線を感じ、ぞくっとし部屋の入口付近を覗い「だ、だれだ。俺を視ているのは」と言い放つが、反応がない。次の瞬間、「ややっ、もしかして…。正、正木か!」鮮明に蘇えった。

そう思った途端、心臓がキュウっとちじみ頭の血がすうっと引いた。

「ううっ…」呻く。

まさか。いいや、そんなことはない。腰抜けのあ奴など、とっくに野たれ死んでいるはずだ。

胸中で否定するが、その滲み出る恐怖心は容易に払拭できない。机に両肘をつき手で顔を覆い目を閉じると、瞬く間に目前が暗くなりその暗闇の中から、突然鋭い輝きが飛びかかってきた。

「ぎゃあっ!」

田口が絶叫し、机に突っ伏した。

「副局長、どうなされましたか!」

隣室から窺い来た川口に声をかけられ、はっと顔を上げるが恐怖心で目が尖っていた。

たじろぎつつ尋ねる。

「ど、どうなされましたか…」

「ううん…」曖昧に応え、慌てて言い訳する。

「いや、なんでもない。大丈夫だ、ちょっと疲れて居眠りをし、変な夢を見ていただけだ」

「副局長、体調が優れないようでしたら、お早めにお帰りになられたらどうですか?」

「ううん、気にせんでくれ…」

極度の恐怖心に侵食されたせいか、田口は一瞬幻覚を見た。度重なるカラスの悪戯に、精神的に疲れていた。時計が午後五時近くを指す。

「なんだか今日は草臥れたな、早めに帰るとするか…」

ふうっと息つき、部屋を出て隣室に立ち寄り川口に告げる。

「すまんが、今日は先に帰らせて貰うよ」

「はい、そうなされませ」

「それじゃな」

覇気なく背中を丸め部屋を後にした。自宅に帰るなり夕食も取らず寝床に入るが、なかなか寝つけなかった。昼間の悪夢が蘇えり、今度は現実に襲われるのではと恐怖心が働き、結局一睡も出来ず朝を迎えていた。朝食も喉を通らない。二口、三口と箸をつけただけで、身支度しぼっとするまま玄関を出る。

悩まされ続けているせいか。日頃極度に警戒するあまり、鬱積が溜まっているのか。いずれにしろ緊張の糸が緩んでいた。何時もなら、用心深く周囲を窺い家を出るが、今日は気だるく注意散漫となりそこまで気が回らなかった。

一陣の風が舞い、残り少ない髪の毛を乱す。無用心にも手櫛で押さえ、顔を上げた。黄色い太陽が眩しく感じ、その手をかざした時である。急になにかがその輝きを遮り、暗雲が覆ったように血暗闇に包まれた。

おやっと思った。

その瞬間、目の前に黒い物体が、覆い被さるように急接近していた。

クロだった。

「ああっ!」叫べど、気づいた時には遅かった。顔面めがけ鋭い爪が食い込んでいたのだ。

眼球に激痛が走る。

「ぎゃあっ!」絶叫を放ち、両手で顔面を押さえ仰向けに倒れた時、強かに後頭部を玄関の縁石に打ちつけた。

「ぐえっ、ううう…」

激痛が全身に及んでいた。そして、ふたたび黄色い太陽を見ることなく、覆った両眼から鮮血が飛び散ると同時に半開きの口から泡を吹き、そして全身に痙攣が走っていた。

田口を襲い舞い上がったクロが、大空の中で朝日を両翼に受け旋回しながら激しく啼いた。

「グァアー、グァアー」

田口は、赤く焼ける太陽が瞼の裏に映し出され、消えかける意識の中でクロの啼き声が、あざけり笑う正木の雄叫びのように聞こえてきた。

「正、正木。貴様が、カラスに化けて俺を襲ったのか…」呻きつつ、正木カラスに向って拳を突き上げた。

それが合図になったのか、数十羽のカラスが「グァア!」というクロの号令で、一斉に田口めがけて襲いかかったのだ。瞬く間に目の玉が抉り取られ、服が引きちぎられ、さらに皮膚が破れ内蔵が喰われていた。まるで、銀座や新宿歌舞伎町の飲食店街で襲われたドブ鼠と同じだった。その有体は、破れた服と目玉のなくなった骸骨と、骨だけの無残な田口の跡形だった。

彼を襲ったカラス群は、田口の家の屋根に止まり、何かを成就したように啼いていた。




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