第八章永久に 一節


世間を騒がせたカラス群飛来による惨事は、一ヶ月ほど経てどいまだ未解決のままだった。その間、大阪府警や警察庁の情報通信局情報管理課、さらには管区警察局の府県情報通信部による情報収集、そして警察の現場検証による分析を踏まえ、京極大学や東南大学の鳥類専門教授らを交えた合同会議を数度行なうが、いずれも発生原因の究明には遠く及ばず、明確な結論が出なかった。

それもそうである。まさかその首謀者が、クロであると識別できる者がいないのだ。ただ、正木が一連の襲撃状況を、テレビや新聞写真から統率するクロの姿を見ていたら明確な解答が出ただろうが、彼はいまだ行方知れずで名乗り出ることもなかった。それ故、原因究明による解決の糸口さえ見つからぬ状況に陥っていた。

正木の失踪は、執拗な田口の仕打ちにより発狂した如く職場を飛び出し、その後の行方を人事部が調べなかったことによる。もちろん、部課員とて指示がなければ、彼の住まいへは行けない。旧知の社員が心配し上司に相談したが、前向きな返事が返らず、尋ね伺うことのないまま時が過ぎた。

結局、田口の謀略にも係わらず、吉田たちが自殺したのは正木が課長職権を振りかざし、無理難題を押しつけては窮地に陥れ、指導するどころか苦しむ様を嘲り笑い、それにより精神的に追い詰められたことが原因である。と、まことしやかに局長や役員連中に田口が吹聴したのである。その詭弁に、局長も人事担当役員も疑わなかった。それは、正木が局を飛び出した時の奇怪さにあったからだ。それで正木を捜しだし反論を聞く機会も与えず、事務的に懲戒免職という処分を下していた。

その時の田口に至っては、してやったりとほくそえむ姿があった。

ざまあみろ、気違い野郎め。正木の処遇など、わしの策略にかかればどのようにでもなる。わしに逆らい、挙句の果てに発狂し局を飛び出してそのままだ。これじゃ、如何な処分になるか、自ら首を差し出すようなものだ。

ひとくさり胸中で呟き、続ける。

まあ、あの時。奴も頭に血が上り己を見失っていたが、翌日にでも詫びにくれば、寛大な気持ちで受け入れてやったのに。そうしないばかりか、無断欠勤に及んだ。これじゃ、いくらわしとて、庇ってやることなど出来なんだ。

これもまあ、周りの職員の手前もあるから、形式的にそうしてやるつもりでいたが、奴の顔を見れば憎さ百倍で寛大な気持ちなど湧かんがの。たとえ万に一、庇うことになろうとも、それは局長や役員に対するパホーマンスに過ぎんがな。

立ち寄ったトイレで放尿しつつ、含み笑いを浮かべた。

なかなか今日の出はいいぞ。うむ、うむ…。正直言って奴もわしの謀略に、頭を下げてくるとは思えん。事実来やせんが、これも馬鹿っ正直な性格が災いしているのよ。大体わしを蔑ろにするから、天罰が下ったまでのこと。それにしても図太いもんだ。奴を陥れるのに、何人の女をふいにしたことか。交際費を使いわしの女にして、これから存分に楽しもうとしてたのによ。

小便を終え、仕舞いつつ嘯く。

「まったく、思い出すとむかつくわい。奴のことを考えると、忌々しい限りだ。それにしても、あん時はびっくりしたぞ。けど、よく考えてみりゃ、糞ガラスと目が合ったのも単なる偶然で、威嚇してきたと見えたのも錯覚でしかなかったんだ」

さらに鏡の前で、己を見て呟く。

「大体、正木にそんな能力があるわけないか…。発狂した阿呆によ」

勝手に結論づけ、すっきりした顔でトイレを出た。

カラス騒動に絶叫した田口ではあったが、騒動が収まり一ヶ月もすると、病む状態から息を吹き返していた。不安が遠退くと、またぞろ悪い癖が頭を擡げてくる。行動が大胆になり、女性職員に指蝕を伸ばし始めた。その対象が、以前から顔見知りで常務取締役糸川伸介の秘書、佐々木道子である。

糸川への面会は、秘書を通すことから佐々木と意思疎通が出来ていた。副局長昇格祝いにと糸川にゴルフを誘われ、手配を田口自ら取り仕切り、都度佐々木を経由し常務に伝えるよう画策した。本来であれば直接連絡すればいいものを、意図的にそうしたのだ。それも巧妙に仕掛ける。

プレーするゴルフ場の選定、糸川の土・日曜日のスケジュール。それから使用する車の手配など、その都度佐々木を経由した。その中で言葉巧みに、彼女の携帯番号も聞き及ぶ。もちろん、それを使いわざとらしく夜に、再確認と称してキャディーの手配、それにプレー後のお土産の選定の相談をした。そうすることで、仕事から私的行動へと進んで行った。

それに加え、田口はもう一つ重要な趣向を試みる。メンバーの選定である。通常四人一組でプレーするが、これを常務、田口それに佐々木を入れ、さらに常務が贔屓にしている六本木の高級クラブ「綾」のママ、久美子を口説き参加させたのだ。

久美子は糸川の愛人である。当然ゴルフ終了後の段取りを整えた。早朝常務への迎いは社用車を使い、帰りはハイヤーで久美子と共に都内のホテルへと送り届けるものとした。ゴルフ場も、そのことを前提に稲城市にある東都ゴルフとする。この一連の計らいに、糸川が苦言を申すはずがない。上機嫌で乗ってきた。

そこで田口は、常務と久美子を送り届けた後の社用車を使った奇策を用いる。今回のゴルフコンペ開催で世話になったことを掲げ、帰りがてら佐々木道子を夕食に誘うというものだ。佐々木は躊躇うことなく乗ってきた。社用車でゴルフ場を一緒に出た後、紀尾井町にあるホテルニューオオグロへと向った。最上階ラウンジに席を取り、夜空に輝く街のネオンを観ながら、高級ワインを飲み食事をする。昼間のプレーで疲れたのか、佐々木は直に酔い始めた。田口はここぞとばかりにワインを勧め、煌めく夜景が彼女を包むとさらに気分が高まり、勧められるままに口にした。

「佐々木君、今日は有り難う。君のおかげで上手く行ったよ」

「いいえ、そんなことありませんわ。それより副局長、今日はご苦労様です。大変だったでしょ。でも、楽しかった。それに、こちらの料理とても美味しいし、夜景も素適。けれど、少し酔ったみたいですわ…」

「まだ宵の口です。佐々木さん、こんな機会はめったにないんだ。この夜景を存分に楽しみましょう」

「ええ、そうですね。それじゃ、ちょっと…」

トイレへと道子が席を立った隙に、夏美や森下を陥れた悪策を用いたのだ。佐々木が戻ると、田口が勧める。

「それじゃ、今夜を楽しむために乾杯しよう」

「はい」

目を合わせ、互いにグラスを掲げ飲み干した。すると、すかさず田口がワインを注ぎ勧める。

「素晴らしいね…」と、意味ありげにグラスを傾ける。すると、佐々木が漏らす。

「私、なんだか酔ったみたいですわ…」

薬が効いてきたのか、目が座り出した。

「お酒を沢山頂いたせいか、気持ちが悪くなってきたみたいです」

「それは大変だ。それなら部屋を取ってあげよう。そこで一休みしてから帰りなさい。ゴルフをしたんで疲れたんだろう。私が部屋まで送ってあげるから」

「いいえ、そんな心配なさらないで下さい。私、大丈夫ですから」

立ち上がろうとして腰が泳いだ。

「それみなさい。昼間張り切り過ぎたんだ。一休みすれば治る、そうしなさい」

そう宥めて、指を鳴らし先に手配していた部屋をあたかも新規で取るように予約した。すると、直ぐにウエイターから返事が戻った。

なにやら告げられ、「そう、それは有り難う」と田口が真面目面で礼を言い、佐々木に告げる。

「なんとか部屋が取れた。君も遠慮せずに、そこで休みなさい。私は君を送り届けたら帰るから。ああ、心配しないでくれ。勘定の方は、精算しておくから大丈夫だ」

「す、すみません。そこまでさせて、それでは甘えさせて頂き少し休んで帰りますわ」

「それがいい。無理しちゃいかんからな」

そう安心させ、介抱しつつ部屋へ連れて行く。佐々木は酔っていた。眠気が度を越す。意識が朦朧とする中で、田口に付き添われベッドに横たわるまでは覚えていたが、それ以降の記憶が途切れた。

道子は夢を見ていた。恋人との情事の夢である。愛する彼と激しく弄り合い、頂点に向かっていた。

「ああ、いいわ。もっと、もっと強く。いい、あああ…」

夢中で背中に爪を立て上り詰めるが、何時もと少し違和感を覚え、そっと目を開ける。抱き合う相手が彼ではなかった。驚き素に返ると、満足気に腰を動かす田口の顔がそこにあった。

「きゃあ!」

払い除けようとしたが叶わず、田口の顔が歪み一気に果てていた。道子は田口の謀略に嵌まり窮地に立たされることとなる。

そして数日が経った。目的を果たした田口は上機嫌だった。嘯く。

旨く行ったわい。道子をわしの女にしてやった。これから弥生の後釜として、仕込み甲斐があるというもんだ。昇進祝いに常務がプレゼントしてくれたようなものだからな。感謝せにゃならんで。

にたつき常務へと電話をすると、佐々木が取り次ぎおくびにも出さず繋ぐ。

「常務、先日は有り難うございました。御礼が遅くなり誠に申し訳ございません」

「いいや、なんの。この前は色々世話をかけた。充実した一日だったよ。特に、夜の方は最高だった。感謝するよ」

「なにをおっしゃいますか、お互い様でございます…」

「田口君、今度また同じメンツでプレーしようじゃないか。近いうちにな…」

「ええ、宜しいですね。それでは後程、失礼します」

思惑通りの展開に満足しつつ、電話を切ったあと受話器に向って頭を下げていた。

これらのことがあり、田口にとってカラス騒動で味わった恐怖など、すでに過去のものとなった。さらに頭に乗り、道子以外の女性にも目が及んでいた。女との情事に夢中になり、正木のことなど忘れたように意気揚々として、相手をとっかえひっかえ励んでいた。

ただ、己は業務そっちのけで励むが、否、恐怖の体験が心の奥に沈殿しているだけであることに、よもや気づかずにいたのだ。

田口のこの浮かれる状況を、じっと窺う者がいた。それも随分前からである。

本社前で田口の目前に、ドブ鼠の生首を落としたのもその証であり、常務とゴルフに興じた時も後をつけられ、帰りの道路に置石されたこともクロの仕業であった。

それらの行為に都度激怒した田口だが、仕掛けられていることにまったく気づかなかった。

目の前に落とされた糞には、「この野郎、汚ねえじゃねえか。危なく頭にあたるところだったぞ。この、馬鹿ガラスが!」と飛び去るクロに罵声を浴びせた。この糞攻撃は、その後出退社時にも受けた。「まったく、どこ見てしてやがる。野郎め、非常識極まりねえな。この糞ガラス!」と飛び去るクロに怒鳴り散らす有様である。そして、さらにクロが挑発の度を上げて行く。落とす物は蛙や蛇の死骸を頭上から撒いた。この蛇の死骸が田口の首に絡まった時には、悲鳴を上げ目を白黒させて怒り心頭になる。

「くそっ、なんてこった。カラス野郎、こんなことしやがって。からかっているとしか思えん。野郎め、わしを誰だと思っている。馬鹿にしおってからに。今度やったら、とっ捕まえ絞め殺してやるからな!」

その時の田口は怒りが先に立ち、不安の入り込む隙がないほど己の現状に強欲になっていた。考えることは昇進欲と性欲で、彼を完全に支配していた。出世欲では、局長職に上り詰めることを夢み、そのために糸川に急接近し、そのついでに秘書の道子を謀略にかけた。田口にしてみれば、まさしく一石二鳥の好都合で、さらに欲が深まり局長落としを画策すべく、野尻の愛人を寝返らせることだった。巧妙に策を施し徐々に馴染ませ、最後には肉体関係を持った上で局長の弱みを吹き込み、噂として流させるなど手の混んだ策略に及ぶ。 

性欲に至っては二股、三股の梯子がけである。もはや田口には、気象報道の予測など眼中になかった。この二つの狂欲に傾注する姿には、恐怖心など這い入る隙がないほど異様な目つきになっていた。

それ故田口にとって、正木の仕返しなどすでに過去の遺物となった。怨念の鬼と化した正木が、なにを企み呪っているかなど考えもしなかったし、仕掛けられる日々の災難が、迫る罠とはよもや思っていないのである。糞や蛇の死骸落しなどは、単なるカラスの悪戯と捉え、正木の放つ仕業などと予測も出来なかった。

ある朝、田口が意気揚々と自宅を出た時である。何時ぞや帰社時に被った出来事が、ふたたび起きたのだ。大きなカラスが、猫の生首を目の前に落として、屋根に止まり鋭く啼いた。

「グゥア、グゥア!」

目前に落とされた瞬間、衝撃で死骸の目玉が飛び出た。それを田口は目の当たりにし飛び退いた。

「ひぇっ、な、なんだ!。この野郎…」

怒鳴ろうとしたが、後の言葉が喉を詰まらせた。その瞬間、「あっ、ううう…」顔面から血の気が引いた。

深層に潜む恐怖心が、鎌首を擡げて来たのである。そのたじろぐ様を見てクロが、次の攻撃を仕掛ける。飛び立つや田口の頭めがけて攻撃したのだ。これには田口も驚いた。

「なにをする!」

睨み手で振り払おうとしたが、その直前に頭髪を毟り取られていた。

「痛、痛ててて…。なにすんだ!」頭を押さえ怒鳴った。それに応じて、クロが嘲り笑う。

「クア、クア、クアアアアア…」

それを見て、「このカラス野郎!」と怒り心頭に拳を突き上げた時、足元の猫の生首を踏んづけた。バランスを崩し、手を着いた拍子に生首を掴んでいた。

「ひえぇっ!」

奇声を上げ、掴んだ生首を放り投げその場にへたり込んだ。すると、クロが田口に襲いかかる。禿げ頭に爪を立てられ、「ぎゃっ、助、助けてくれ!」と絶叫し、もんどりうって倒れその場に這いつくばった。クロが屋根に戻った隙に、田口は頭を押さえ一目散に家の中へと逃げ込んた。

「助、助けてくれ…」

玄関でうずくまり頭を抱えた。その声に驚いた女房が居間から出て駆け寄る。

「あなた、どうしたの!」

「カ、カラスに襲われた…」と訴えると、女房が不可解そうに扉を開け伺うが、クロはいなかった。

「なに言っているの。カラスなんかいないわよ。あなた、どうかしたの。まったく朝から寝ぼけているんだから」

ぶつぶつ小言を言い、奥へ引っ込んだ。田口が恐る恐る扉を開け窺うが、確かにクロはいず、落ちているだろう猫の生首もなかったのである。暫らく上がり口でじっとし、カラスの気配がないのを確認し、そろりと出勤して行った。

ただ、クロが去ったわけではない。遠くの枝先から窺がいつつ、田口に気づかれぬよう尾行していた。いや、クロではない。その姿は正木そのものだった。ここ一ヶ月の間、正木はクロと連携し田口の行動を覗っていたのだ。

正木は反芻する。信頼する部下を失い。そして、最愛なる夏美の人生を奪われた。己を含め周りにいる者たちの将来を強略し、意気揚々としている田口が許せない。それに奴の我欲により、犠牲者が増えている。それらが許せない…。

出奔した当初、正木は田口ばかりか会社を恨んだ。さらには、この会社が存在する社会全体を呪う。だが、時が経つに連れ空しさが込み上げてきて、この世と決別しようと考えた。けれど、その前にやり残していることに気づく。すべての原因の根底にあるものを、叩きのめさねばならぬと思った。

奴をとことん苦しめ、恐怖の淵へ突き落としてやる。苦しみもがけ、夏美の悔しさを思い知れ。吉田や森下の無念を味わえ。クロ、俺と共に晴らしてくれ。頼む、お前の仲間と一緒に戦ってくれ…。

果たすべく決意し、行動に移したのである。

そんな仕掛けた日、クロが舞い戻った。そして、巣箱にちょこんと座り正木の顔を覗う。

「クロ、戻ったか。首尾はどうだ?」

「カア、クア、カア、クワクワ。カア、カア」

「そうか、上手く行ったか。傲慢な田口の顔が怯えに変わっていたか。そうか、そうか。それじゃ、次の手を打とう。今度は帰宅時を狙って脅かしてやれ。それで奴は恐怖心が蘇えり、気が触れたようになる。神経が破壊された如くな。俺や皆が苦しんだ分、存分に味合わせてやろうじゃないか。なあ、クロ。夏美だって駄目だとは言わんよ」

「クアー、クワー、カア、カアー」

同調するように、クロが応じた。正木がコンビニ弁当を差し出す。

「さあ、クロ。食えよ、好物の弁当だ。一緒に食おうじゃないか。なあ、クロ」

「カアー」





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