三節


あの出来事以来、正木の消息は辞表が出ぬまま不明となった。

東都テレビは形式的に人事部付けとし、その後退職手続きを取りこのことを公表することはなかった。もちろん、夏美や吉田たちに対する田口の陰謀は闇に葬られ、洗い出されることなく隠蔽された。その後何事もなかったように、新メンバーによる気象予報課が発足したが、予報も正木たちに比べると、外れの多い予測が繰り返されていた。それでも統括する田口は、副局長へと昇進していたのである。

新チームが受け持ってから一ヶ月が過ぎた。その頃に、この予報課員たちの間で、薄気味悪い話が囁かれ始める。二人の予報課員が雑談していた。

「私、なんの気なしに局前の歩道を歩いている時、誰かに視られているようで、怖くなって急いで会社に飛び込んの。それで外を見たら、真っ黒なカラスが街灯の上に止まっていたわ。私を窺っているようで気味悪かった」

「そうなの…。じつは、私もなのよ。夜、退社してから誰かにつけられているようで。もしかしたらストーカーかと思って、冷や冷やしながら地下鉄入口へ入ったら、その気配がなくなっていたわ」

「もしかしたら、それってカラスがあなたを襲うとしていたんじゃない?」

「変なこと言わないでよ。それでなくても、カラスなんて気色悪いんだから。立ちの悪い男より、よっぽど気味悪いわよね。あの姿といい啼き声といいさ。ああ、気持ち悪い」

「それにしても、なんなのかしら。そう言えば、この前新聞やテレビで騒がれていたわよね。そうそう、たしか関西の方で事件があったじゃない。『カラスが人を襲ったり、野良犬や猫が食われてしまった』と言う、あれよ」

「嫌ね、それも一羽、二羽じゃないのよ。数千羽のカラスが群れを成して襲ったって。警察でもどうにもならなくて、一時は自衛隊まで出動かとなったらしいわ。でも動かなかったみたい。けど、警察も手が出なかったらしい。そりゃ、凄惨だったらしいわ。なんだか、怖いわね」

「そう言えば、それより前に新宿や銀座でカラスの群が浮浪者を襲ったじゃない。テレビや新聞で騒がれていたっけ」

「そうよ、思い出したわ。野良犬や丸々太ったドブ鼠なんかも食べられちゃったって。怖いわね。もしかしたら、私たち狙われているのかも…」

「馬鹿言わないで。そんなこと有り得ないわ」

「だけど、私、一度だけじゃなく。この前からづっとよ」

「じつは、私もそうなの…」

現実味のあるお喋りが、そこで途切れた。恐怖心が二人を押し黙らせたのだ。そして、間もなくその噂が一部の社員にメールで伝えられた。さらに、何者かによって、社内ネットで全員に流れる不祥事が発生した。それは、歌舞伎町や銀座でのカラスたちの残飯を漁る画像と、そこに犬やどぶ鼠の生首が転がっているものだった。それも両目が抉り取られ残忍なものばかりだ。生々しい映像に、局内は大騒ぎとなった。

野尻や役員、それに部長連中が必死に沈静化させようと試みるが、消せるどころか出退社時さらには飲食帰り夜半にカラスに追いかけ回されたとか、尾行されたという尤もらしい噂が飛び交うまでに至っていた。なかにはまことしやかに、犬の両目のない生首や猫の死骸を、頭上から落とされたという噂すら流れる始末となる。役員たちは、この事態を無視出来きなくなり、総務部辺りから鎮静化策が出されるまでに発展した。

さらに各商店街からも、何時もより残飯を漁るカラスの数が多くなったとか、カラスに頭を突かれたという情報やクレームが、近隣の交番や派出所にも入り始める。警察は事件として起きなければ初動捜査には入れない。だからと言って無視できず、止む無くパトカーを出動させ警戒するよう呼びかけていた。ただ、先般発生した新宿歌舞伎町や銀座でのカラス騒動が未解決である中での風評やクレームであり、一応レベルの低い警戒体制を敷かざろう得なかった。

ところで、田口はといえば副局長に昇進したが、正木を追い落としたことへの後味の悪さが消えたわけではない。さらに輪を掛け、叫びながら出奔した時の彼の形相が頭にこびり付いていた。それが後遺症となり、寝つきの悪さに繋がる。だが、陥れた夏美や吉田たちが自殺し、酒井までもが気が狂い職場を去ったにも係わらず、田口の狂欲は飽き足らず、秘書部の谷川純子や他部署の女性職員迄もに及んでいた。

ただ、そんな田口にとり気がかりなのは、正木の残した言葉である。

「お前を殺してやる。必ず来るから待っていろ!」

ふとしたことで思い出されては、慌てて打ち消した。そして、そのことが起きると不安が増幅し、胸騒ぎに陥り油汗が滲むのだった。ここ数日眠れぬ日が続く。言葉巧みに誘った女性を抱いている時でも、思い起こされると萎えて終わった。

さらに、カラスに睨まれているなどの社内で広まった風評も、田口には悩ましいものだった。

ふと思い起す。

そう言えば、奴は怪我したカラスを救ったと言っていたし、その後も飼ったとも聞いている。もしかして、最近起きている女性職員の噂話も、奴がそのカラスを操っているのではないか…。

そんな邪推に、不安が一気に膨らんだ。

いいや、そんなことはあるまい。奴は気が狂って、どこかで野垂れ死んでいるに違いない。そんなまやかし、あってなるものか。しかし、待てよ。死んだという噂もなければ、新聞報道もされてない…。いいや、生きていることなど有りえん。そうだ、奴の仕返しなど気にすることもあるまいて。

田口は都合よく結論づけ、己を宥める以外なかった。

ただ、本人が気づかぬことは、正木の怨念がすでに田口自身の深層に食い込んでいることである。この巣食った魔物が時折這い出しては、情緒不安にさせているのだ。さらに厄介なことは、この魔物が癌細胞のように体内で増殖していることである。そんな折、彼に思わぬ出来事が発生した。

夕刻近く田口が外出先から戻り、テレビ局の表面玄関から入ろうとした時、数羽のカラスがなにやら咥え飛来するや、頭上から彼の目の前に落としたのだ。不意を食らって見上げ、夕闇迫る中で睨みつけ怒り散らす。

「ちぇっ、なにしやがる。危ねえじゃねえか。カラスごときがわしに物を落とすなんて、ふざけるな。この馬鹿野郎!」

怒鳴り散らした途端、田口は蹴躓いた。

「おっと、痛てっ。このカラスめが!」

薄暗いなか目をこらし、その落し物を見て驚愕した。両目がえぐられ牙を剥いたドブ鼠の生首が、足元に転がっていたのだ。

「ひぇっ!な、なんだ。これは…」

次の言葉を飲み込むや、歪んだ顔が凍りついていた。背中を冷たいものが走った瞬間、「ぎゃあっ!」と絶叫し、そのまま一目散に社内へと逃げ込んだ。恐れ慄く顔でがたがたと震え、その場にへたり込む。

「ね、ねずみ。ドブ鼠の生首だ…」とうわ言のように漏らし、驚愕する目が一点を見詰めていた。

「なんでこのわしが、こんな目に遭わなくちゃならない…」

呟く瞳が天井をさ迷い空ろになっていた。そして、しゃがみ込んだ股間から、染み流れるものがあった。その瞬間、なにを思い出したのか、蒼白の顔が大きく歪む。

「あああ…、助、助けてくれ。奴、奴が現れた。狂った正木が、頭上からドブ鼠の生首を投げ落としたんだ」

唇が震えていた。へたり込んだ身体を両手で引きずり、逃れようともがくが僅かしか動かず、恐怖心を顕わにしていた。表面玄関先である。受付嬢二人が慌てて田口の両脇を支え、その場から引きずり連れ去った。

それから数日経ち、思わぬ事態に発展する。

陽の光が傾きかけた夕暮れ近くの寒空の下、明治神宮や皇居さらには新宿御苑、小石川植物園や上野公園などの木々に、今までにないほどのカラスが集まり出したのである。初めのうちは、園内にいる散策人や近隣の住民から、啼き声の苦情が公園管理事務所に入るぐらいですんだ。だが、そのうち数の異常さに、管理事務所だけでは収まらず、一一〇番に通報されたり最寄りの交番に苦情が寄せられた。それでも収まらず、そのうちカラス群が近隣の繁華街へと餌を求めて移動し始めたのだ。

これには繁華街の住民や通行人が悲鳴を上げた。忌み嫌う独特の啼き声と、糞公害をもたらした。近隣の交番や派出所では収拾がつかず、各警察署から警察庁へと情報が入るも、それで人的被害を受けたわけではない。各交番と連絡を取りつつ、警察庁生活安全局生活環境課や管区警察局府県情報通信部、さらには皇室警察本部警備部からも出動し、警戒に当たることとなった。

ところが、このことがきっかけで「呪われた東京に、不吉なことが起こる前触れだ」と、瞬く間に風評がまことしやかに流れ始めたのだ。その噂がインターネットでさらに広がる。大阪堺で起きた東銀座通り商店街での無残な情景や、新宿歌舞伎町での浮浪者襲撃場面がネット上に載せられるに至り、東京全体が不安の坩堝と化した。

ここまで広がると、警察はレベル二の警戒体制を敷かざろう得なくなった。パトカーが総動員され、冷静に行動するよう呼びかけるが、集まったカラスを駆除するわけでもなく、その動きを見守るしかなかった。

だが、その騒ぎも三時間もすると収まった。繁華街に集結したカラスが、一斉に飛び立ち夜の闇に消えたのだ。残されたのは、食い散らかされた残飯の山と、何処からか這い出した野良犬やドブ鼠の腸を漁られた死骸が、至るところに転がっていた。

この異様な光景を目の当たりにした人々は、一応に引き攣る顔で恐れをなし、すごすごと家路に急いだ。そして、動員された警察官が、それらの残骸を顔をしかめながら片づけていたのである。

この一連の状況をテレビ局が放っておくはずがない。カラスが集まり出した頃には、各局が中継車を配置し、臨時ニュースとして流し始めたし、新聞記者らもカメラ片手に状況を報告し、翌朝の新聞の一面にトップニュースとして、「呪われた東京になにかが起きるのか?」の見出しで掲載されるに至った。たちまち全国の茶の間の話題と化し、次はわが街に来るのではと、夫々の住民が最寄りの警察や役場へと嘆願する始末に拡大していた。

これらの報道に、一番衝撃を受けたのは田口である。降りかかる惨事が、いずれ己にと不安に慄き恐怖に陥っていた。仕事どころではない。自席にしがみつき負の妄想に耽った。

あやつ、何時ぞやカラスを飼っていたはずだ。そのカラスが、呪いの前兆ということか。まさか、あのドブ鼠の生首が…。やはり正、正木の仕業か。奴が、どこかでそいつを使い、カラスの大群を操っているに違いない。そうか逆恨みして、仕掛けてきているんだ。それが…。

顔色がどす黒く染まり、目だけは異様に光り自席で動こうとしなかった。その異様さに部員たちは慄き、遠巻きに窺うだけだった。この騒動に対応を強いられた野尻局長ですら、田口の変わりように驚きの表情を隠せない。とは言え、部下である。そのままにしておけず声をかけては、周りの職員に医務室に連れて行き、休息させるよう指示していた。

それから数日が経ち、各商店街でも、先日押し寄せたカラスのことも忘れかけた頃、大群が突如また現れたのだ。冬の日差しが降り注ぐ昼下がりだった。ひときは大きな声で威嚇する啼き声こそ、クロのものである。もちろん、誰もクロのことなど知らない。もし、正木がいたら即座にわかったであろうが、どこにもその姿はなかった。

クロが先に立ち「グア!」と啼くと、取り巻く数十羽のカラスが一斉に応え、敏速に行動する。それに従い数百羽と繋がり、さらに十の集団カラスが動き出していた。ただ、一連の動きの中で、前回の様相と違うのは、残飯を漁りに来たのではない。商店街の住民も通行人も、すわっと身構え事態を見守るが、啼かず整然と行動していたのである。

商店街の屋根やビルの屋上、そして街灯、路上や木々の枝、さらには電線に止まり異様な光景と化していた。その事態が三十分近く続いた。

クロが「グア!」と、大きな一声を発すると、すべてのカラスが飛び立ち、空が暗くなるほどの様相になった。皆はその事態を固唾を呑み窺っていたが、恐れをなし一目散に店やビル、そして地下鉄構内へと逃れていった。

さらに、クロが「グゥア、グゥア、グア!」と啼いた。

これを合図に、ひしめき合っていた空から、カラス群が四方へと飛び離れていったのだ。ただ、クロと数羽のカラスだけが、屋上の片隅に止まり傘下を睨む。それは、ちょうど東都テレビ副局長室を望める屋上であった。そんな折、偶然にも田口はクロと視線が合った。田口はぎくっとする。

一瞬仰け反るが、それでも空威厳で睨み返した。

うぬ、あのカラス野郎。わしを睨みおって!

すると、クロが挑発する。

「カア、カア、カア!」と啼き、両の羽をばたつかせた。

やや、カラス野郎が威嚇しているのか。うむっ…、いや、もしかして、奴の化身か…。

次の瞬間、田口の顔面が歪んでいた。

「わあああ、正、正木だ。狂ったあ奴が、あの黒ガラスに化けて、わしを睨み狙っているんだ!」

そう叫び、慄いて椅子にしゃがみ込み、恐怖心を顕わにした。さらにクロが羽ばたくと、連れ従う群れが一斉に羽ばたき、けたたましく啼き出した。

「カア、カア、グァ、グァ、カア、カア!」

「ひぇっ、襲われる。正、正木止めろ。わしが悪いんじゃない。お前がいけないんだ。すべてお前が蒔いた種だ。わしには関係ない!」

田口の目が狂って見えた。半狂乱になり、両手で顔を覆い絶叫した。するとクロが、ひと声「カア!」と啼き飛び立った。啼き声が遠ざかると、田口がふうっと息を吐き指の間から覗くが、すでにカラスの姿はなかった。副局長の悲鳴に、部員が副局長室を覗き伺うが田口はそれを制した。そして気を取り直し、虚勢を張るように嘯く。

「くそっ、野郎のせいで、えらい目に合ったわい。なんだカラスごときに脅かされうろたえたが、所詮能無しカラスたちだ。偶然に目が合っただけで、なんということはない。カラスなんぞに嘗められたわしがどうかしていただけだ。あんな正木ごときの亡霊に惑わされてなるものか!」

落ち着きを取り戻したように咳払いをして、小用を催したのか席を立った。ところが、受けた衝撃が尾を引き、ふらつく己に気づかぬのか、周りの者たちが心配そうに見守る中、肩書きを誇示するように毅然と歩む後姿は、まるでオットセイのような歩みだった。


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