二節


夜明けを迎えた早朝だった。

歓楽街の目覚めは遅い。明け方に店を閉め後片づけをし、残飯のゴミ袋を店前の道路端ったに投げ置く。アルバイトの若い兄ちゃん、吉武が行う恒例の作業だ。店長から任された役目であり、半人前の彼の仕事である。彼は毎日明け方の閉店まで働き、一日の最後の業務として慣れた手つきで客の残した残飯をゴミ袋に詰め、定められた集積場所に持って行く。それで彼の仕事は終わる。後はどうするかなど考えない。とにかく、そこまでやって勤めを上がり「お疲れ様でした!」と挨拶し、店裏の路地へと出て家路に就く。

あの時、時期が十一月初めでは、午前六時近くに夜が明ける。白みかけた街は、まだ眠りの中に横たわっていた。

道路端のごみ集積場所に、一羽のカラスが用心深く舞い降りた。辺りを見回し危険がないか確認し、一度飛び去った。まもなく群れのカラスがやってきて、残飯袋を引き裂き漁り出した。

もちろん、その集団は統率が取れている。リーダーが先に残飯を食う。その次にリーダー以外のカラスが数羽群がり、そのあとに残ったカラスが漁る。この順序が時々狂うこともあるが、リーダーカラスが乱したカラスに制裁を加え秩序を保つ。

都会に住むカラスはクチブトカラスだ。その鋭い口ばしで窘め従わせる。カラスの集団には、勢力に応じて縄張りを持つ。この堺東銀座通り商店街は、「長治」というカラスにより統制されていた。彼の仲間は二十羽程度の小集団だが、この程度の集団を作って行動するのが普通だ。長治カラスらは、仲間内から「かわち」と呼ばれる集団であった。このような群れが、全国各商店街を餌場にし活動しているのだ。

ところで、食の方はこれで説明がつくが、ねぐらはこの商店街ではない。ここから数キロ離れた百舌鳥八幡である。その雑木林のある神社には、「かわち」の他に六つの集団が居を構えていた。従って、夜は七十羽から九十羽の群れが羽を休めることになる。

クチブトカラスはそのように生活しているが、対になるとどちらか死ぬまで、決して他のカラスと結びつくことはない。一生添遂げるのである。食事場にしてもねぐらにしても、一度決めるとその防衛が強力で、他の群れが縄張りを荒らすと勝ち負けの争いになる。争いは集団での戦いとなるため、奇妙な啼き声や恫喝する声、さらには口ばしでの攻撃と凄まじい。餌場で始まれば、就寝中でも闘争声のけたたましさに起こされるが故、人間には嫌われる所為である。

そんなカラスの行動に異変が起きた。

一夜明けると、クチブトカラスがこの商店街に集まり出したのだ。何故集まったかは定かでない。

吉武は何時ものように朝方仕事を終え、残飯袋を出そうと表に出た。目一杯働き疲れていた。道路端にゴミ袋を置こうとして、何故かわからぬが鳥肌が立つ。一瞬仕事疲れかと勘ぐるが、そうではなかった。ただ、何時もと空気が違う。夜明け近くの、異なる情景がそこにあった。なんと表現してよいかわからぬが、異様な空気が吉武を包み込んでいたのだ。

「ううん、なんやこれは…?」

思わず呟いた。だからと言って目に見えず、思い過ごしかとやり過ごす。疲れていた彼はごみ袋を置き、そそくさと店に戻ろうとした。が、後ろ髪を惹かれるように、その気配がついてきた。

「なんや、さっきまでどないもなかったちゅうのに…。ちょいと外へでただけで、こないに変わるやなんて。一体どないしたちゅうねん」

背筋が寒くなる。気色悪さを表す彼の顔を見て、店長が怪訝がった。

「おい、吉武。どないした。顔が青いで。外でなにかあったんか?」

「いや、別になにもないっす。変わったことありませんけど、けど、なにやらおかしい気がしますねん。特にこれっちゅうて街中は変わっとらんが、どうもおかしい。どこかが違うとるんです」

「なんだ、お前の言うこと支離滅裂やないか。どないしたんや!」

「だから、特に変わりよったことありまへんが、なにかがちごうてますねん。おかしいな、一体どないなってんやろ…」

「おいおい、お前こそおかしいな。風邪でも引きよって熱でもあるんか?」

「いや、別に風邪なんか引いておりません。でも、おかしいんです…」

「どないした。お前、気でも狂ったんとちゃうか!」

店長が口を尖らせ、訝りながら戸外に顔を出す。

「ううん、なんやこれは?」

一瞬たじろいた。

「なにかがある。なにかが忍んでおるんか。異様な気配やで…」

呟きつつ、窺がっただけで顔を引っ込めた。そして不思議そうに吉武に尋ねる。

「吉武、これはどう言うこっちゃ。なんやおかしいぞ、いや、街の景観は変わらんが、なにやら変やで。なんでこない気配するんや。吉武よ、どないなってんねん!」

慄くように叫んだ。

「わしにもわからんが、何時もと違うとるんです。外に出た時、肌で感じたんですが、街の空気かどうも違うとるんです…」

怪訝顔になっていた。すると、店長が予言する。

「これは不吉な予感がするで。目に見えんなにかが、この街を窺っているんや。その睨みは何時もんではない気がするで。吉武、これは大変なことが起きる前触れやないか…?」

「店長、脅かさんで下さいよ。俺、一人身でまだやることやっておらんさかい。このまま日本が沈没でもしおったら、損しますがな」

「なに、阿呆なことを抜かす。たかが街の様子が違ごうただけで、沈没するわけないやろ!」

強気に貶すが、店長は心穏やかでなかった。有り得ぬ話しではない。小説にもあったことを思い出す。

「そない言えば、日本沈没という小説あったな。もしかして、こりゃあその前兆とちゃうんか?」

「店長、まずいっすよ。もしそないになったら、俺の命がのうなってしまう」

「呆け、わしやて同じじゃ。もし、そないなったらえらいこっちゃで。おい、金子。お前、もう一度見てこいや!」

別の店員に吹っ掛けた。

「なに、寝ぼけてますねん。いくら夜通し働いたかて、寝ぼけちゃ困りまんな」

金子は、からかわれたかと反論した。

「なにゆうてんや、はよう見てこい。そないすれば異様さがわかるさかい」

「いや、店長。まだ片づけがあるよって、そげなことしておられん。はようすまして、帰り寝たいんですわ。帰る時に見ておきまっさ」

都合よく断った。

「いや、そげなこと言わんと、ちょいと見てこいや!」

店長が命令口調になった。金子は仕方なく手を止め、覗くように入口の扉を途中まで開けたが、途端に顔色が変わりそのまま扉を締めてしまった。

「こりゃ、なんや…」

発したのはそれだけで、蒼白になった金子が黙って戻ってきた。

「ほらな、なにかおかしいやろ?」

「ううん…」

店長も吉武も、そして金子までもがそれ以上喋ろうとしなかった。肌に感じる異様な感触が消えぬまま不安を募らせ、片づけの手が緩慢になっていた。そして不安が的中したように、急に朝靄をつんざき街中が騒然となりだした。

数千羽のカラスが姿を現したのだ。異様な群れの殺気が商店街を支配し、街全体を覆い尽くすに及んだ。その威力は一商店街だけでは賄えず、街全体の電線や屋根の上に止まっていた。雀ならまだしも、大きなカラスである。それすら異様な光景であり、そこらじゅうがカラスで真っ黒になるのも異常だ。それに輪をかけ、騒々しく啼く声が天地に響くほどとなり、明けやらぬ早朝からけたたましい騒音となって、住民を不安の坩堝へと叩き落としたのだ。

そんな折、日課とする耳の遠い檜山老人が、杖をつきこの商店街にやってきた。そこで異様な光景を目の当たりにし立ち竦む。家を出る時に何時もと違う気がしたが、耳が遠いし目もよく見えない。身体の変調でもと思い気に留めなかったが、商店街に近づくに連れ様子がおかしいのに気づく。そして一歩踏み入れた時、この有様である。窺い知れた瞬間、全身が凍りついた。

この世とは思えぬ光景が広がっていた。真っ黒な塊が、そこらじゅうを覆う異様さに肝を冷やした。遠い目を開き見ると、その黒い塊は無数のカラスだった。長く生きてきて、こんな光景は始めてである。数羽の群れなら見慣れているが、 数え切れぬカラスの群だ。

そのカラスたちが、じっと檜山老人を窺っていた。その鋭い視線が、全身に浴びせられる。心臓が止まるほど威圧を受け、動くことが出来なかった。身体が硬直し息をしようにも、その圧力に負けた。檜山がその場で泡を吹き崩れそうになり、よろけつつ必死に杖で持ち堪えた。

商店街の空が白んできた。やがて、太陽が照らし始めた時だった。睨みを利かす一羽のカラスが、「カウア!」と雄叫びを上げた。すると、群れが一斉に檜山老人目がけ襲いかかったのである。

「ぎゃあっ!」

杖が飛ばされ、あおむけにひっくり返り途絶していた。

瞬く間に老人は黒山に覆われて、目をえぐられ頭皮は剥がされた。そして、一瞬にして衣服は食い千切られ、皮膚や内臓が大方なくなっていた。漁り終わると一斉に飛び立つ。残る檜山老人は、破れた服と骨だけになっていた。その大群は、それだけに止まらなかった。彼一人の肉片だけでは腹を満たせない。大空に舞う黒い群れは、次のターゲットを見定め、狂ったように鳴く犬たち目がけ急降下した。「きゃん!」と鳴いたが、それっきりだった。それに、連れていた女性がひとたまりもなく、服と骨になった。さらに、そこらの野良犬や放し飼いの猫らも餌食となった。

一羽のカラスが、「グゥア!」と甲高く啼いた。すると大群が舞い上がり、空を黒く染める。そしてその塊が旋回しだし、さらに商店街にある大量の残飯のごみ袋へと殺到したのだ。

バー「ケイト」内にいた吉武が、異様な羽音と騒音のような啼き声に動転した。

「なんや、これは。さっきから薄気味悪いと思っとったが、一体なんや!」と叫びながら扉を開けた。その瞬間、目ん玉が凍りついた。街中にあるゴミ袋に、カラスの大群が群がっていたのだ。

「ぎゃあ!」と声をあげ、店の中に引っ込んだ。

「おい、吉武。どないした!」

店長が血相を欠いた。吉武はあまりの衝撃に声も出ずただ指を差すだけで、わなわなと震えていた。店長が恐る恐る扉を開け度肝を抜かす。

「な、なんや。これは…」

あまりの異常さに言葉を失った。足を震わせ、やっとの思いで漏らす。

「これは一体、なんや…」

黒山のカラスを覗い、全身の血が凍りついていた。後退りし、震える手で扉を閉めた。

「二人とも、どないしたんや!」

不可解に思ったか、金子が外を覗う。直ぐに血の気が引いた。

「カ、カラスの大群やで…」

あまりの光景に怖気づき、扉を閉めおろおろするばかりだった。カラスの啼き声が耳をつんざき、街中を支配した。そこへ誰が通報したのか、二台のパトカーがサイレンを鳴らし駆けつけた。ただ、あまりの異様な光景に、商店街の入口付近で止まり、車内から呆然と窺がうだけで、警察官は恐れをなし車外へ出ようとしなかった。

すると、どこからか鎖を外した犬が、猛然と牙をむき飛び出し吠え立てた。だが、その狂った犬も一瞬に「ぎゃん!」と鳴き、カラスの群れに飲み込まれ絶命していた。見るも無残である。両目をえぐられ、皮と骨だけになった。

それだけではない。他の繋がれた犬や飼い猫が、この異様な光景に狂ったように殺気立ち、唸りを上げているが、すでに視点が定まらないのか、どの犬猫も恐怖心を通り越し、すでに脳がいかれていたのである。そのうち飼い犬が鎖を噛み砕き、ふらふらと黒山の方へと近づくが、ひとたまりもなかった。

「ぎゃうん!」

瞬く間に食い尽くされていた。その光景を覗う人は皆、恐ろしさのあまり家内に閉じこもった。他の生けるものすべてが、暗示にかかったように黒山の群れへと飛び込んでは、カラスの餌食となった。

どれほどの時間が経っただろうか。数千羽のカラスの恐宴がさらに続くと思われた時、一羽のカラスが「グゥア!」と啼いた。たちまち黒山は大空へと駆け上り、いずれの彼方へと飛び去ったのだ。悲惨な状況がようやく収まったが、残された無数の残骸は、どれも目を覆うばかりの有様だった。

停車するパトカーから、警察官が用心深くと降りるが、目が異様に輝き声も出せずにいた。あまりの凄惨な光景に、己を見失っていた。パトカーの無線機から現状を報告せよと、が鳴り立てているが応じられる状況になく、その指令だけが空しく響いていた。

恐怖心に包まれた堺東銀座通り商店街は、皆、扉を固く閉ざし誰一人として街中に出てくる者はいなかった。大群のカラスが飛び去ったとはいえ、舞い戻ることが怯えに繋がっているからだ。今までに経験したことのない惨事に度肝を抜かれ、あまりにも凄惨な現況に恐れ戦いた。バー「ケイト」の吉武たちは床にへたり込み、極限の恐怖に口を開け失禁していた。

何故、こんな事態が起きたのか。カラスの習性から集団で行動することはわかるが、その数は精々十羽程度だ。多くて二十羽になることもあるが、それは稀だ。集団を司るのは親、兄弟、それに夫婦と子供らであり、親を中心とした集団生活を営むのが常だ。それが、異常としか思えない大群である。それも数千羽となれば、想像の域を遥かに超える。普通では有り得ないが、それが起きたのだ。突然の出来事は商店街の住民に最悪の恐怖心を植え付けたこととなった。

新聞がトップ記事として掲載し、各テレビ局が臨時ニュースで報道した。堺市はもちろん、大阪府、さらには関西の各県は下より、全国的にこの悲惨な事件が伝えられた。それにより、各地で風評が駆け巡り、上へ下への大騒ぎとなった。社説論評や特別番組で原因が論ぜられる。

この夏場一ヶ月にも渡り、全国的に異常なほど光化学スモックが発生したという。だとすれば、そのスモックにより街に住むカラスたちの脳が犯され、この時期になり集団化したのではないか。カラスの聴視能力はずば抜けており、時に何千キロにも通ずるという。それがなんらかの原因で、本能的集団行動へと走ったのか。

諸説論評が泡の如く論じられるが、いずれの場合も誰もが納得する解明がなされたわけではない。とにかくカラスの大群に堺東銀座通り商店街が襲われ、次なるターゲットに向って飛び立ったのは事実である。

そんな折、不思議なことが起きた。まことしやかに噂が伝播する。

一羽のリーダーカラスが、己の意思で統率したのではという。それも何者かによってコントロールされていたらしい。それは一体誰だろうか。しかし、そんなことが有り得るのか。

風評に疑心暗鬼が漂うが、現実に堺東銀座通り商店街が襲撃されたのだ。それは紛れもない事実である。しからば、どのような目的で起こしたのか。それが事実なら、人が殺され明らかに犯罪である。このようなことが、次の街で起こるとなれば、れっきとした大量殺人行為となる。

正気を取り戻した警察官が堺警察署に一報を入れ、さらに大阪府警本部に向け、凄惨な状況を仔細報告していた。聞き及んだ公安課長は、暫し呆然とする。さもあろう。今までに例のない出来事である。直ぐに緊急会議が開かれた。

「如何なる原因で集まったのか。誰が先導したのか。それにしても、あれだけのカラス数だ。腹を満たしたわけではない。必ず他の商店街を襲うだろう。そこで同様の殺戮が起きるかもしれない。なんとしても行く先を探し当て、先に住民に知らしめ被害を食い止めねばならない。

次のターゲットがどこなのか。そして、堺東銀座通り界隈の被害状況を把握し、襲われるであろう街を特定して、住民が外出を控えるよう呼びかけねばなるまい…」

緊急会議を催す主旨は明らかだったが、降って湧いたような異変を誰もが正確に把握していず、会議が喧々諤々となった。情報が異質で過去に例がないため、解決策など出しようがなく、また次なるターゲットといわれても、皆目見当などつかずぬほど収拾がつかなくなっていた。

出した結論は、まず被害を被った堺東通りの現場が、どのような状況であるかを把握することであった。早々に手配され、その結果他に類をみない凄惨なものであることが判明した。その情報が府警本部から、警察庁管区警察局府県情報通信部へともたらされ、庁内の生活安全局や情報通信局に伝えられ、さらに警察庁に伝達され、警察庁長官から首相の下へと報告されていた。

大量のカラスが怒涛を組み、何故人間や犬猫を襲ったのか。もちろん、残飯はすべて食い尽くされている。直ぐさま、京極大学生物学部の教授らによる実証検分と解析で明らかにされたことは、「十羽程度の集団であれば、早朝出された残飯を漁ることはある。しかし、数千羽では足りるわけがない。そこで、はからずも人間や犬猫まで襲い食い尽くした。もちろん、それで腹を満たしたわけでなく、次の街へと向ったのであろう」と、「さらに、狙われる街や商店街がどこなのか」数少ない目撃者の証言と、飛び去った方角から導き出すために意見の集約がなされ、集団の数から観て同一行動をとるのではなく複数に分散し行くか、またそのまま纏まり行くかの議論が粉砕し、その方向性すら導き出せなかった。

それが出なければ、近隣の自冶体に通報することなど出来ない。議論が長引けば、それだけ狙われる街は被害が大きくなる。止む無く官房長官から大阪府、奈良県、京都府、さらには和歌山県への緊急連絡が行われた。受けた各自冶体もこれまた混乱し、どうにもならないパニックに陥ったのである。得た悲惨な情報から、何時飛来するかと慄いた街は、皆扉を固め閉じこもった。それ以外の各県下の自冶体や県警には、まことしやかの風評に、不安を抱える住民の助けを乞う通報が殺到した。

堺市の商店街で発生したのが早朝である。一報がテレビで報道されたのが午前七時であった。朝飯を食い出勤の時間帯である。この異常とも言える報道に、出勤どころではなくなった。もちろん、通学の児童らも同様である。テレビ画面に映し出された犬猫の死骸、ぼかしの入った人骨。それらを見て親が震え上がった。動物のおびただしい亡骸は、すべて目がなく血にまみれた骨になっていたのだ。

この凄惨な状況が、我が街に来るとなれば誰もが血相を欠いた。各県にはカラスの飛行速度から、一時間から遠くて二、三時間あれば飛来するのだ。それを考えれば、出かけるどころではない。躊躇いも生じる。途中で襲われる危険性が高いからだ。どこの街も一人、二人と姿を消した。ただ、解き放たれた犬や繋がれた犬らが、なにかを察知したのか遠吠えを繰り返し、背毛が逆立っていた。

枚方市の香里が丘団地付近で、朝早くこの報道を知らずにいた新聞配達の兄ちゃんが、ほとんど配り終えた道すがら、犬たちの様子がおかしいのに気づく。と同時に、得体の知れないなにかが、背後から迫るような殺気を感じた。慄くようにひょいと振り向くが、街は何時もと変わらない。「ふうっ」と息を吐いた。しかし、その気配は消えるどころか、さらに強く覆いだしていた。

犬の遠吠えは、異常なほど長く続いた。こんなことは、今までなかったことである。兄ちゃんは、街の至るところで発せられる遠吠えに、思わず身体をちじめる。耐え切れぬ異様な殺気が気持ちを弱気にし、残りの新聞をぎゅっと握り締めた時、足が止まった。身体が硬直し動けなくなっていた。ちょうどその時、一匹の犬が気が触れたように吠えながら、彼の後ろから猛然と近づき兄ちゃんのふくらはぎに咬みついた。

避ける暇がなかった。激痛が走るのと同時に、得体の知れない何者かに襲われたように新聞束を放り投げ、「ぎゃあ!」と悲鳴を上げ逃げ去った。その絶叫は、団地内に響き渡った。異常な犬の遠吠えと断末魔の悲鳴に、「すわっ、飛来したか!」と住民たちは恐れ慄きちじみあがった。そして香里が丘団地内の道路は人影がなくなり、まるでゴーストタウンのようになっていた。

ただ、違っていたのは、閉じこもる住民の怯える眼差しが、テレビ報道に釘付けになっていたことだ。繰り返し放映される無残な情景が、慄きと悲鳴が相まってか怯えが倍加した。放映される堺東銀座通り商店街とは無縁だし近くではない。だが、カラスの飛翔力からすれば、無関係とはいえないのだ。

現に、犬の遠吠えと断末魔が如実に表わしている。なにもなければ犬は騒がない。だが危害が及ぼうとすれば、異常な行動に出る。カラスの大群が、この枚方市に来ないという保証はないのだ。むしろ、この地に向っているかもしれない。そうでなければ、犬たちが騒がない。街の状況が何時もと違うのだ。野良猫までもが屋根に上り、背中を丸め毛を逆立てている。遠吠えに触発されたというより、迫り来る何かに怯えているのか、本能的に察知しての行動なのか。路地の塀上の猫までもが目を剥き背毛を逆立て、来るべきものに唸り声を上げていた。そこには、朝を告げる小鳥の囀りという、穏やかな目覚めなどない。

香里が丘団地での異常な朝の光景が、そのまま昼を過ぎ夕方まで続いた。だが、一向にカラス群の飛来はなかった。それでも街中は、ひとっこ一人出る者はなく、やがて街の帳が落ちて行った。そのうち、犬の遠吠えが納まり猫の唸りも消えていた。動物たちの本能は凄い。一時的にせよ危険が遠のくと平常に戻る。午後八時を廻る頃にはそのようになっていた。何事もなかったように犬たちは寝そべり、疲れたのか眠りに就いていた。そして警戒しつつ翌朝を迎えるが、カラスの大群は押し寄せることなく、犬たちの何時も通りの行動がそれを示していた。

だが、住民たちは堺東街で起きた危機が、我が街に来ないと結論を出したわけではない。何故ならテレビ報道がいまだ惨事を取り上げ、次の標的が放映されていないことは、枚方市に来る可能性があることを示す。従って市民はじっと家に閉じこもっていた。凄惨な現実報道を見たが故に、究極の恐怖心を拭い去ることが出来なかったのだ。

そんな状態が幾日も続いた。

しかし、テレビ報道も次第に被害放映が影を潜めた。一週間経ち二週間経つと、枚方市の住民も恐怖感が薄れ日常の生活に戻る。人々は口々に囁き合った。「どこか遠くでいい、カラスの行動範囲を超えてでも飛んで行き、知らぬ街を襲って貰いたいものだ」と密かに期待した。

それは、己らから遠ざかって欲しいという、我欲のエゴである。

そして二十日が過ぎて、結局どこの街でもカラス群による被害の発生は起きなかった。テレビ番組の座談会形式での、専門家による講釈にも異口同音にこの不可解な出来事を訝り、カラスたちの行動予測を明確に推測出来ず困惑していたのである。そして、どこの街の住民も我が街だけは、惨事を回避したいと願った。

日頃、神頼みなどしない者までもが、神社仏閣に賽銭を投げ、災難除けの俄か信者になる始末である。その甲斐あってか、ともかく堺東通り商店街を襲ったカラスが、他の街に姿を現すことはなかった。住民の不安と怯えも、時間が経てば徐々に薄れてゆく。また、あれほど時のニュースとなり、朝から晩まで報道していたテレビ局や新聞社も取り上げなくなった。

一ヶ月も過ぎれば忘れ去られた如く、他の事件、事故報道へと変わっていく。

人の興味とは強欲である。第三者的立場にいる者ほど、己に被害が及ばねば記憶の中から消し去るのが早い。堺市近郊や枚方市、大阪市などを含めた関西地区、そして二次災害を恐れた中部や関東地区を含む全国の住民は、尽く新しい出来事に興味が移り不安の二文字は脳裏から抹消された。

だが、被害を被った堺東銀座通りの住民だけは、その衝撃が心の深層に刻み込まれ拭い去れずにいた。街中からカラスがいなくなったわけではない。日常に戻っただけで、早朝にごみ出しした残飯を数羽のカラスが漁る姿に、どこか躊躇い遠まわしに覗うようになっていた。

ただ違いは、残虐な情景が蘇えるのか、カラスらの餌となる残飯袋が極端に少なくなったことである。また、時折飛来し啼くカラスの啼き声に敏感となり、遠巻きながら警戒心を持ち覗う日々が続いた。

そんな中、大阪新聞の社会地方版の片隅に、小さな記事を見つける。

堺東銀座通り商店街界隈で、被害にあった娘の年老いた母親が、あの日以来毎日欠かさず、近くの神社詣でに励んでいるというものである。少ない年金で細々と暮らす身であり、毎日の祈願で賽銭を上げるのは月に一度と決めていた。この賽銭も食費代を減らす以外工面出来ないからだ。それでも懸命に願掛けをしているのは失った娘の供養と、二度とこのような惨事が起きぬよう、今日もお百度を踏みに出かけているというものだった。



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