第七章反撃 一節


夏美の死を知らしめるべく飛来し、闇夜の中に消えてから数週間が経った。

悲しみの深淵に突き落とされている頃に、関西方面でとんでもない異変が起きたのだ。なんの前触れもなく、数千羽のクチブトカラスが大阪堺市の商店街に、突如飛来し集結した。驚いたのは商店街の住民たちである。上へ下への大騒ぎとなった。直ぐさま近隣の交番へと通報され、大阪府警も前代未聞の出来事に慌てふためき、とにかくパトカー数台を緊急出動させた。

この騒ぎに関西のテレビ局が飛びつく。それに端を発し、全国ネットのテレビ局や新聞社がこぞって、「すわっ、東京のカラス事件の再来か!」と大々的に取り上げるに至った。

そんなクロを首謀者とするカラスの大群が、関西方面に押し寄せていた頃、打ちひしがれ奈落の底に沈み、何故夏美が死を選んだのか苦悶する日々を送る彼がいた。苦しむ地獄で耐えている時に、その原因を確たる証として思い起した。それは、あまりの悲しみと落胆に、見失っていたに過ぎない。元を質せば日々受けた田口の謀略が、そもそもの根源である。

「一連の画策の罠に嵌められたことが、結果的に夏美を死に追いやったのだ」と漏らす。

すると悲しみにも増して、さらなる激しい憤りが胸を突く。そんな折に堺市での怪事件が起きたことにより、またしても全社挙げての緊急総動員体制が布かれ、自宅謹慎中の正木が召還された。

職場復帰するが、なんとしても夏美の仇を取らねばならない。

そう心に誓う。苦悩から逃避するため痛飲していた酒を断ち、対応業務に没頭する中でそのことばかり考えていた。

確かに、田口に対する不満はあった。それでも己にも非ありと、ずっと抑えてきたのだ。その中で、奴の卑劣な謀略により陥れられた。大切な部下を自殺に追いこみ、夏美までもが毒牙にかかり命を絶った。

正木にとり、これらの仕打ちがどれだけ深い傷となったか計り知れない。それが事ここに至り、狂気の鬼と化すほど怨念のマグマとなって一気に噴き出す寸前になっていた。だが、正木は懸命に抑えた。理性などと云う格好のいいものではない。今にも切れそうな精神状態の中でである。

吉田たちがいなくなった後、彼の預かる気象予報課はずたずたとなり、課としての体をなしていなかった。それでも、唯一残された責任感から、日々の予測だけは体裁を保てる程度に作られていた。ただ、それはチームとしてではなく、正木個人の力で成り立つものである。さらにこんな状況に至っても、田口の攻撃が収まったわけではない。相変わらず正木を責めた。課員が様変わりしおぼつかぬ体制での予測作成で、正木の手に委ねられている有様である。気象報道は時間管理されており、間に合わせなくてはならない。タイトな時間のなか、教育指導が後回しになっていた。致し方のないことである。だが、それに田口が噛みつく。

「正木、お前らの課はどうなっているんだ。まったく、組織の体をなしていないじゃないか。せっかく苦労して、吉田らの後釜に二人就けてやったのに、それをお前は育てようともせず、放ったらかしにしておるではないか。わしの苦労を無駄にする気か!」

ねちっこく、俺を責め立てた…。

ぐっと耐え凌ぐが、パワハラと言う説教は終わりを知らない。自席に正木を呼びつけねちっこく垂れる。

「だからお前みたいな能無しは、女も愛想を尽かすんだ。それを根に持ち追い掛け回すから、行き先を見失い死んでしまった。丸く収め共有すれば、夏美も悦びが増し死なずにすんだものを。まったく鈍感な野郎だ。せっかく熟れた女を味わい始めたところを邪魔されたんだからな。口惜しいったらありゃしねえ」

俯く正木を完全に見下げた。

その傲慢な態度に、もはや耐えられる状態ではない。それでなくても悲しみの淵で、もがいている時にである。追い討ちをかける暴言に、気が触れんばかりに怒りが込み上げてきた。田口の陰鬱な態度に、正木の心は限界線を越えた。そして、ぴんと張り詰める細いガラス線に衝撃を与えたように、脆くも弾け切れていた。

「う、ううう…」

思わず怨念の呻きが正木の口を突く。それを田口は待っていた。彼がそのようになるよう仕向けていたのだ。ここぞとばかりに、罵声を浴びせる。

「なんだその態度は。上司に向って吐く言葉か。獣でもあるまいに、歯向かい唸るとはけしからん。そこへ直れ!」

正木の目が空ろになり、そして鬼の奇相へと変わった。

「貴様、うううう…」

さらに唸り、ぬうっと田口に顔を近づける。

そんな尋常でない迫る形相に、田口が驚き目を剥く。一喝すれば負け犬の如く跪くと蔑んじるが、まるで違った。

「やや、なんだこやつは…。わ、わしに逆らいおって、この野郎!」

仰け反りつつ、反射的に手で正木の顔を叩いた。その衝撃によろけるが、さらに顔を近づけ睨み唸る。

「た・ぐ・ち。う、ううう…」

その異様さに、田口は一瞬たじろぐが権力を嵩に巻き返す。

「こ、この野郎。気が触れやがって、お前なんぞクビだ。わしがクビにしてやるぞ!」大声で怒鳴り散らした。

部長席での出来事に、部員らは固唾を飲み見守るが、突然の怒鳴り声に、皆、背を丸め萎縮する。それでなくても、聞こえてくる正木の唸りが尋常でなかったのだ。

正木の歪んだ顔から、反撃する声が地を這う。

「田口、貴様こそクビだ。この怨念で、地獄に叩き落してやる!」

目が異様に輝き髪の毛が逆立ち、この世の者とは思えぬ鬼相に変わっていた。

田口には、少なくともそう映る。

「うぐっ、なんだその目は。わしを逆恨みし、責任を回避しようとするのか。そんなことで地獄に落とすだと、笑わせるな。そんな貴様の言いがかりが、通用するとでも思っているのか。この気違いめが!」

田口が去勢の如く睨み返し反撃に出る。

「わしの力が、どれほどのものか見せてやるわ。お前など虫けらを捻り潰すように葬ってやる!」

いがら声で怒鳴った。

伝家の宝刀を抜けば、正木が恐れをなして足元に平伏すだろうと威嚇した。当然そうなるものと思った。が、意に反した。それどころか、怨念の鬼と化す奇相の顔が、ぬうっと鼻先に迫ってきた。地に這う呻りが響く。

「ううう、地獄に落としてやる!」

あまりの鬼面に、田口が思わず身体を引くが、さらに近づいた。

「ひえっ、な、なんだ。お前は…」

田口の顔から血の気が無くなった。

「よ、よせ。離、離れろ、俺から離れろ!」

思わず正木を両手で突いた。すると、鼻先で正木の歪む顔が止まる。

「うひえっ!」

あまりの恐ろしさに、田口は身体を硬直させ悲鳴を上げた。

「あわわわ、近、近寄るな…」と怒鳴ろうとしたが、腰を抜かしへなへなとその場にへたり込んでいた。

すると正木が、ふうっと息を抜き普段の顔に戻り、何事もなかったように傍を離れ、自席へと戻りパソコンに向っていた。だが、その目は明らかに普通ではなく、なにかに取り憑かれた異様な耀きを放っていた。職場の空気は沈痛なものとなり、課員らは見ぬ振りをし己の殻を硬く閉ざしていた。

からくも自席に座り直した田口は、平常心を装いつつも心穏やかでなかった。ところが、この異常な光景を目の当たりにした酒井が気味悪がった。恐れ慄き田口を頼り内線電話をかけると、田口が直ぐに出た。弥生が一方的に、異常な課長の様子を訴えた。

周りの詮索に気を配るどころではない。己が田口の愛人であることも忘れるほど動揺していた。田口の言い成りになり、正木を陥れたことが、不安を駆り立てる。異常な彼の傍にいれば、何時なんどき反撃を食らうかわからない。田口に唸りを上げる様を間近に見た弥生にとって、この上ない恐怖心が口を突く。

「ねえ、部長。怖くて怖くて、どうにもならないわ。お願いだから助けてちょうだい。早く、一刻も早くこの場から課長を遠ざけて欲しいの。助けてちょうだい。ねえ、どうにかしてよ!」

辺り構わず必死に訴えた。しかし田口にとっては、それどころではない。己の安全の方が先である。

「馬鹿野郎、あんな奴は放っておけ!」

突き放すように啖呵を切るが、弱腰になっていた。席に着き、ようやく危機から逃れた時に酒井からの懇願である。怯える弥生の声が、あの正木の奇相顔の衝撃波となって耳に響いていた。

「落、落ち着け、弥生。奴はまともではない。頭が狂っているんだ。だから近づくな、なにがあろうと奴を見るな。万が一、近寄ってきたら直ぐに逃げろ。わかったな!」

酒井は、正木が確かに気が触れていると思った。田口が拍車をかける。

「奴に先ほど危うく襲われそうになった。危ないところで助かったが、命拾いをしたぞ。だから、目を合わせてはいかん。決して口答えしてもならぬ。なにを言われても無視しろ。わかったな。おい、弥生。聞いているのか…」諭しているところに、「ぎゃっ!」突然、彼女の悲鳴が田口の耳をつんざいた。

「ど、どうした、弥生!」

恐る恐る予報課を窺うと、怯える酒井の視線と合った。

「部、部長。課長が、呼んでいるんです。助、助けて!」

「なにっ、それは大変だ。直ぐそこから逃げろ。早く逃げるんだ!」

弥生どころではない。次は己かと、最大級の恐怖が襲ってきた。

「早、早く逃げろ!」と己への災難の如く叫んだ。

ふたたび、酒井の二の矢の悲鳴が伝わる。

「ぎ、きゃっ!」

つんざく悲鳴に、怒鳴り問い返す。

「弥生、どうした!」

酒井の返事が戻らない。田口は目の前が真っ暗になっていた。

「な、なにがあったんだ…」

周りのことなど映らず、漏らす言葉が尻切れトンボのように細くなった。と同時に、繋がっていた弥生からの電話が切れた。

「おい、弥生。ど、どうした。や・よ・い…」

その場に棒立ちとなり、田口が弱々しく呼んでいた。

酒井は正木が襲って来たと思い込み、慄き無意識に受話器を戻すと同時に、恐怖のあまり目を廻し大股を開いて床にへたり込んでいた。

恐怖心は羞恥心を凌駕する。

さらに、弥生が失禁していたのである。恥も外聞もなかった。田口から感化された恐怖心が、恥じる行為へと落ちていた。そんな様子を視ていた川口が、彼女を覗いうろたえる。

「あの、課長。酒井さんが目を廻し倒れました。どうしましょうか…?」

「ええっ、それは大変だ。直ぐに医務室へ連れて行きなさい!」

正木は目を上げ、そう指示した。

別に彼が弥生に近づいたわけではない。ただ、予測の進み具合を確かめようと、名前を呼んだだけである。それを酒井の恐怖心が取り違え、喚き悶絶したのだ。

「はい、わかりました。酒井さん、しっかりして下さい。さあ、立てますか?」

顔を近づけ揺すった途端、気づいた弥生の顔が歪んでいた。

「ぎゃっ!」

川口を払い除け、狂ったように叫びながら部屋を飛び出していった。それ以来、酒井は二度と職場に戻ることはなかった。

その後、正木は予測の仕事に没頭することで、一時的にせよ鬼の懸想が消えた。と言うより、心の奥に閉じ込めた。まさしくそれは、ひと時の忘却でしかない。顔にある穏やかな表情の奥には、打ちのめされた怨念の魂が、マグマのように滾っていたのである。そのマグマは、ほんの小さな衝撃でも、爆発する危険を孕む。それを止めていたのが、遂行する業務に対する責任感だった。この責任感を放棄した時、間違いなく発狂する。いや、すでに歯車の一部が欠けているのかもしれないが、今はまだ表面上は冷静さを保てていた。

気象予報課も、課員が様変わりした。森下や吉田が去り、そして酒井が発狂し離脱した。残る課員は川口と、新たに補充された三名の課員だけである。予報課が連勝の原動力となったスクランブルチェック体制が消滅し、ほとんどの業務を正木自ら遂行することで、体裁を辛うじて保っていたに過ぎない。さらに、業務遂行が維持できたのも、正木の責任感であって、それとて今では決して太いものではなかった。

吉田たちとの連係プレーにより、太い絆と信頼感が醸成されていた過去の体制などなく、唯一残されたのがこのか細い責任意識である。だが、この生命線が切れる事態が発生した。

気象予測業務はこの予報課が受け持つ限り、飛ばしたり遅らせることは出来ない。毎日の決められた時刻割の中に組み込まれているのだ。正木は、それに従い細い線を頼りに業務をこなしていた。だがそこに、田口の姿はなかった。定例のチェック会議は消滅し、予測がそのまま報道されていた。

それでも支障なく運ぶかに見えた。

ところが、雲隠れしていた田口が、突如チェック会議を始めたのだ。正木にとって、それは対決を意味する。仇となった田口の挑発によっては、この会議も紛糾するであろうことはわかっていた。怨念化した正木は、田口の顔など見たくないはずである。それでなくても、殴り殺したい思いでいるのだ。

己を抑えることが出来るのか…。

正木は細い責任感の中で、激しく揺れる感情を抑え会議に参加した。すれすれの心境から、予測説明が最小限になるのは必然である。そこを田口が突いてきた。その顔はひん曲がり挑発的だった。

「なんだ、その等閑な説明は。わしに恨みでもあるのか。それとも、何時ぞやのことを逆恨みし、仕返しでもしているつもりか。どうなんだ、正木!」

「…」

乱暴な言葉に、目線を落とし堪えた。すると、見くびるように吠える。

「貴様、なんだその態度は。上司のわしに向って取る態度か!」

「…」

それでも耐えた。田口が慇懃に告げる。

「やはり思った通りだ。お前はすでにまともではないな。あれほど注意したのに、平気な顔をして業務に就いているんだからよ。普通なら、とっくに辞表を出しているはずだ。まったく、気づかぬ気違いに点ける薬はないものか。なあ、正木よ」

唇を噛む正木を卑下し、その傲慢な視線でしゃくり窺った。

「…」

無言で堪える彼に、さらに浴びせる。

「なんだ、なんだ、正木。なんとか言ったらどうだ。悔しいか、それとも全面的に降伏して、奴隷のように這いつくばるか。ううん、どうなんだ?」

「…」

「うぬは、惚けているのか。それともわしの言うことが理解できんのか。そうだろうて、お前はすでに、ここがおかしくなっているんだよな」

無礼にも、正木の頭を指先で小突き毒づいた。すると、正木が顔を上げ睨む。

「うむ、なんだその目は。わしに逆らうとでもいうのか!」

田口が負けじと怒鳴った。すると、正木の睨む目が異様に光る。

「う、ううう…」

正木の両拳が激しく震えだした。

それを見て、田口がドキッとし後退りした。そして威光を振りかざし、「なんだ、この野郎。俺に逆らう気だな!」

空威張りした瞬間、「お前を殺してやる!」正木が吠え、たじろぐ田口に飛び掛った。

「ぎゃあ!」

叫ぶ田口の首を絞め叫んだ。

「お前を殺してやる!」

「な、なにをする、離さんか。この虚け者が。うぐえっ!、苦しい。離せ離せ、この気違い。離さんか!」

予期せぬ逆襲に、田口は必死に抵抗し正木の手を振り払うが、なおも唸り掴みかかる。

「ううう、田口。殺してやる…」

「わあっ、止めろ、この気違い野郎。誰か助けてくれ、誰か!」

飛び退き、必死に助けを求めた。

すると、ちょうどそこへ通りかかった野尻が、二人の間に分け入る。

「正木君、止めたまえ。こら止めんか、止めろ!」

田口を庇いながら制止した。しかし、正木の形相はすでに域を越えていた。

「ぎゃおっ、貴様を殺してやる!」

局長を退け、田口に襲いかかろうとした。

「正木、落ち着け。止めんか!」

野尻が必死に押さえた。正木は制止された腕を払い、鋭い眼で田口を睨む。

「うぐぐっ、待っていろ。必ずお前を殺してやるからな!」

正木の心は、完全に限界線を越えていた。

「わああっ!」

突如叫び吊り上る目が異様に光ると、両手を天に突き上げるや一目散に部屋を飛び出して行った。その顔は、まさしく怨念に取り憑かれた魔界人のようだった。暫らくの間、放たれた雄叫びの余韻が部屋にこもり、皆の耳に沈殿していた。

そして、ここに正木の育てた気象予報課は消滅したのである。




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