二節
正木は自宅に篭もり、打ちひしがれていた。結局、部長からの執拗な責めに、袋路地に入り込んでしまったのだ。そんななか、社内では窮地に迷う正木の様を楽しむような陰険な眼差しで、彼の素業に因縁をつけ吹聴していた。職場での田口の態度は、まさに勝者としての体であり、謀れた正木は敗者の扱いである。それは、自宅謹慎と言い放たれた言葉が如実に示していた。
田口の巧妙な罠に堕ち、またもや局長までもが見限るほど立場が悪化し今や報道局内では四面楚歌の状況になった。
自分の愚かさに、己を責めたところで詮無いが、今さら悔やんでもどうなるものでもない。だが、抵抗できぬ無力さが生じる一方で、その反動が田口への怨念となり、激しい怒りとなって燃え上がっていた。さらに正木には、陥れられた慟哭の怒りがあった。愛する夏美が、にっくき田口に犯されたことである。
正木にとって、絶対に許せぬものであった。誰よりも夏美本人が受けた衝撃は、計り知れないものであるに違いない。それが正木に対し、最大の過ちと認識し、自ら決別を伝えてきたのだ。それも唯一、一度きりのスマートホンでの別れである。 彼女にしてみれば、相当悩み苦しんだであろう。そう思うと、正木はやるせなく胸を締め付けられるのだった。
己を責める日々が続いた。
本当に俺という奴は駄目な男だ。もがき苦む彼女を、いまだ救うことも出来ずにいる。ああ、住所さえきちんと聞いていれば、直ぐに飛んで行けたのに。それがなにも出来ず、解決の糸口さえ見い出せないでいる。まったく情けない男だ!
自分を嫌というほど叩きのめしたかった。それで夏美が救われるなら、そうしたかった。彼女の住所を人事部に聞く手はあったが、これとて私的には難しいことである。事情を説明し、危機状況にあることを訴えれば可能かもしれないが、田口が絡むものであるならなおさら無理である。確たる証拠を掴み、セクハラ問題で訴えれば出来なくもないが、現状では不可能に近かった。
結局、なにも出来ぬまま、追い詰められていたのだ。
ああ、どうしたらいい、どうすればいいんだ。クロ、教えてくれ。俺のところへ戻ってきてくれ。クロ!
行き場のない憤怒が胸を突き、クロの名を呼んでいた。平常心ではいられぬほど酒の力に頼り、毎夜泥酔した。しかし、心のどこかが醒めていた。いくら飲んでも、そこのところだけは酔わずにいた。それが夏美に対する不安であり、自責の念である。
一日中自宅に籠っていられず新宿に出ては酒を飲んだ。終電車で三鷹駅を降り、ふらつきながらクロの名前を呼び続けるが反応はなかった。けれど諦めることが出来ない。正木にとって、クロは最も頼れる仲間であり他に頼るものがいないのだ。それ故、何度でも繰り返し呼んだ。自宅に帰っても窓を開け、声の限りにいまだ現われぬ夜空に向って呼び続けた。
だがしかし、忍び寄る諦めという魔物が心に棲み始める。
ああ、駄目か。やはりクロに頼むのは無理か。何時までこんなことしていても、夏美を救うことなど出来きない…。
落胆色の闇夜が、正木を覆い尽くしていた。なんともやるせない憤りが胸を突く。
「どうしたらいい。このままじゃ、助けることなど出来ない。教えてくれ、どんなことでもする。もし、命を捧げろと言うなら構わない。夏美が救われるならくれてやる。だから応えてくれ。夏美を助けてくれ!」
慟哭の叫びだった。暗黒の天地を揺るがすほど響いた。
その時である。
闇夜が大きく揺れた。
まるで木々がざわめき、夜空そのものが正木の前に競り出すように黒い大きな物体が迫ってくる。その瞬間、なにが起きたかわからなかった。とにかく、風を動かし、空気を震わせ見る見るうちに近づいてきた。
「ああ、なんだ。これは!」
酔いが醒めていた。全神経が逆立つほど鋭く尖る。
「おお、これは…!」
その大きな塊が数個に別れた。
総数の輝きが鮮明になり、一対の眼光がさらに正木に迫る。
「ク、クロじゃないか!」叫び、目を見張った。
「そ、それに続くのは…、お前の仲間か!」
驚きの中でそこまでわかると、一斉にカラスの啼き声が耳に入ってきた。クロを先頭に十羽のカラスがベランダ近くの枝に止まる。
「クア、グァ、グァ、カア、カア、グア、カア、カア!」
正木になにやら訴えた。
「そ、そうか。クロ、俺を助けてくれるのか!」
「グゥア、グゥア、クア、クア!」
「な、なにっ。助けるわけじゃないだと。それじゃ、どうしてここへ来た!」
「カア、カア、クア、グゥア、グゥア、カア、カア、グゥア、クワー」
「ええっ、そんな。そんなことがあっては生きて行けない。クロ、なんとかしてくれ。助けてくれ、頼む。お願いだ!」
必死に乞うた。すると、クロが応じる。
「クア、クア、グゥア、グゥア、カア」
「待、待ってくれ。どうにもならないなんて、白状なこと言うな。それだったら、この俺を導いてくれ。ついて行く、何処までも追って行くから。頼む、夏美のところへ連れて行ってくれ!」
必死に願った。
「グゥア、グゥア、カアカア、グア!」
「何故だ、どうして駄目なんだ!」
「あああ…」
正木は、がっくりと肩を落とすと、クロが一声を放つ。
「クア、クア、カア!」
すると、仲間のカラスが共に飛び立ち旋回して、見つめる先の黒い闇に消えていった。正木は呆然と立ち尽くす。それは一瞬の出来事だった。クロが夏美のことを伝えにきたのだ。そして黒い塊が去ったあと、静寂の星空が澄んだ大気の中で、きらきらと輝くだけだった。
「な・つ・み…」
どうにもならぬ無念さが、正木を包んだ。
その時である。デーブルに置くスマートホンが鳴った。着信を告げるメロディーである。だが、クロに見放された正木には、直ぐにメールを読む気力が失せていた。メロディーが鳴り終える。ふたたび静寂の闇が広がっていた。どうにもならぬ虚脱感が、神経を蝕み気力が萎え目の前が暗くなっていた。それでも着信メールが気になるのか、のっそりと開き発信者をみた。
一瞬、目が凍りつく。夏美だった。思いもよらぬメールに心臓が高なり出し、震える手で開いた。するとその手がぴたりと止まり、ふたたび激しく震え出していた。
「な、なんということだ。こ、こんなことがあっていいのか!」
目の玉が見開いたまま固まっていた。
「何故だ。何故はやまる…」
あとは言葉が出なかった。身体が震え、顔面が蒼白になる。その携帯画面に悲しみの文字が躍っていた。
「裕太さん、ご免なさい。こんなことになり、あなたに合わせる顔がありません。私の愚かな行為が、あなたに与える苦痛を考えると、ふたたび会うことは出来ないのです。そのことを思うと、毎日悔やみ苦しみましたが、もうこれ以上生きて行くことに耐えられなくなりました」
正木の目が潤み、涙で文字が霞んでいた。それでも必死に読む。
「私は今、冷静なそして穏やかな気持ちで、お別れのメールを書き込んでいます。あなたとの楽しかったこと、沢山ありました。そして、クロちゃんに出逢えたことも幸せでした。数多きこれらの想いを携え、永遠の旅へと発つことをお許し下さい。今まで愛してくれたこと、心から感謝します。と同時に、これからも永遠にあなたを愛し続けることを誓います。有り難うございました。夏美」
「あ、あああ…。夏、夏美。どうしてだ、どうしてはやまるんだ…」
スマートホンを握り締め、大粒の涙を流しその場に崩れ落ちた。一番恐れていた不安が的中したのだ。絶対阻止せねばならぬのに、それが出来なかった。正木は己の知恵のなさ、行動力のなさ。そして勇気のなさに憤ると共に、かけがえのない大切なものを失ったことに、苦い絶望感を味わっていた。
「クロ…、こんな悲しいことを、お前は告げに来たのか…」
打ちひしがれるその中で、クロたちが飛来した理由がやっと飲み込めた。
「クロ、有り難う。でも、夏美は戻ってこない。もう夏美と伴にお前と遊んでやれない。こんなメール一本で彼女を失うことなど、出来ないじゃないか。嫌だ。いなくなるなんて、絶対嫌だ!」
正木は、絶叫し受け入れ難い現実を拒絶した。そして、空ろになる目から輝きが失せ、念ずるような怨念の呻きが発せられる。
「そ、そんなこと。ううう…」
さらに、メールの末尾の追伸が、より悲しみを大きくする。
「裕太さん、ご免ね。あなたがこのメールを見る頃には、もう私は永遠の地に旅立っています。もちろん、あなたから頂いた沢山の愛をしっかり携えて参ります。あなたに出逢えたこと、心から感謝しています。有り難う、愛しているわ。夏美」
「あああ…。俺はなにをしていたんだ!」
奈落の底に突き落とされたように、激しい衝撃が全身を襲っていた。耐え難い苦しみが身体を凌駕し、己自身を消滅させるほど自責の念に飲み込まれる。
「夏美、何故先に行く。どうして話してくれなかった。それほど苦しんでいたなら、何故打ち明けてくれなかったんだ。俺はお前を心から愛している。どんなことがあろうと、包み込もうと覚悟していた。でも、君を助けてやれなかった。俺の愛が足りなかったのか、ううう…。それなら早く気づき、もっともっと深く愛を捧げていればよかったんだ」
後悔が涙となって頬を伝う。悔しさなのか、それとも不甲斐なさなのか、握り拳で泣きながら己の顔を殴っていた。
「くそっ、くそっ。こんなことになるなんて、この俺がいけないんだ!」
無念さが胸に溢れていた。どうにもならぬ悔しさが、己を責め続けた。
そして一週間もすると、社内掲示板の人事情報欄に彼女の訃報の知らせが小さく載った。改めて最愛の人を失った悲しみが、正木の全身を打ちのめしていた。
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