五節


吉田と森下は何時もの如く、なにもなかったように振舞う。互いが持つ秘密を胸に秘め予測業務を隠れ蓑にして、着かず離れず言葉を交し演技していた。

ただ、吉田は気がきでなかった。何時また、あの女から連絡が来るかとびくついていた。それは愛する美穂に悟れることを恐れてのことだ。あの夜、彼女を放ったらかし、気づけば見知らぬ女と寝ていた。などと、口が裂けても言えぬことである。それ故同じ職場にいながら、意識的に目を合わせようとしかった。

以前なら出社すれば、互いに目で愛を確認し合う。仕事中でも同じことを繰り返すほど、信じ愛し合っていた。それが後ろめたさから、急によそよそしくなり、日が経つにつれ意識的に距離を置くまでになった。

それは、吉田が一方的にそうしたわけではない。森下も田口に陥れられてから、そのことを打ち明けられず同様な行動を取っていた。

さもあろう。愛する直人がいるにも係わらず、部長と関係を持ったと言えるはずもない。それも、「気づかぬまま彼と思い込み、積極的に迎い入れた」だなんてとても言えない。そんな思いもよらぬ出来事に、森下はうろたえ後悔したが、田口の思うがままに操られる始末となった。それゆえ、吉田にはいくら弁明しようと、理解して貰えるはずがないと観念した。

愛するがゆえ、二人は距離を置き時ばかりが過ぎて行った。

このまま秘密にして、田口の言いなりになるのか。かと言って、許してもらえることなどないだろう。これからずっと、脅され関係を持ち続けなければならないのか…。

森下は己に問うばかりで、仕事どころではなかった。四六時中そのこが頭の中を支配する。すると余計、吉田に合わせる顔がない。気象予測の最終チェック会議でも、田口は森下を卑猥な目で舐めるように視ていた。俯く森下には、その視線が身体に纏わりつき、萎縮するばかりだった。

毎日その状態が続き、精神的に追い詰められて行く。さらに内線電話による、田口のいやらしい息遣いが耳に響き、弱みに乗じスマートホン番号を取られ、電話での誘いや脅迫まがいのメールが届いた。

さらに田口の嫌がらせは、度を越すものとなった。

電話に出れば、あからさまに関係を迫る。ほうほうの体で断るが、一向に収まる気配がなかった。森下はこの執拗な責めに仕事の正確性を欠くようになり、正木に注意される事態が増えてきた。だがそこには、以前のような吉田のフォローがなかった。

吉田とて同様である。

森下への気兼ねから注意が散漫になり、単純ミスを繰り返すようになった。普段であれば課内に敷かれるスクランブルチェックにより防げたが、有効的に機能しなくなった。さもあろう。メンバーに要らぬ思惑が入れば、容易に指摘することなど出来ない。そんなよからぬ気まずさが、予報課に蔓延していた。そこを最終チェック会議で、田口に突かれ攻められる羽目となった。

二人とも単純ミスを指摘され、異常なまでの攻撃を受ける。

「こら、吉田。なんだお前は。そんな子供染みた間違いをしやがって。これで三度目だぞ、なにをやっている。今度間違えたらクビだ。覚悟しておけ!」

姑息な攻めに肩を落とし、普く受け入れねばならない。さらに田口は、森下との関係を揶揄し、虚仮下ろす。

「半人前のお前が、女と付き合っているなど百年早いわ。まったく能のない奴ほど、女の股ぐらに入りたがる。毎回こんなことでは、わしの身がもたん。まったく能無し野郎には、困ったものだ。これも上司の正木が、しっかり教育せんから起きるんだ。どいつもこいつも能無しどもが、足を引っ張ることしか知らんのか。こんな馬鹿を集めた課なんぞ、役立たず課でどうにもならん。いっそ解体して総入れ替えするか!」

うな垂れる正木たちの苦悩など、お構いなしに毒づくばかりだった。

吉田も森下も田口の攻めに、防戦する手段を持ち合わせていない。その屈辱と執拗な責めを回避するため、互いの秘密事を打ち明けぬままホテルへと向かい、邪悪な悪夢から逃避しようと激しく求め合っていた。一時的にせよ快楽の坩堝に入り、陰鬱な田口から逃げようともがくが、情事が終われば直ぐに蘇える。怯える森下を見て吉田は不安に駆られ、このままでいればずっと田口の毒牙に脅かされるのだと観念した。

ある日の夜、二人はホテルの一室にいた。抱き合いながら吉田が打ち明ける。

「美穂、俺はもう限界だ。このままではいられない…」

「私だって、あなたと同じだわ。これ以上耐えられない…」

「そうか、君も同じ気持ちでいるんだね。それじゃ、ここで永遠の誓いをしよう。なにがあっても、離れないと約束できるかい?」

「…」

森下は恥じていた。優しく振舞う吉田に、己の身体に田口が染み込んでいることを打ち明けられず、辛く悲しくなる。

「どうしたんだい、涙なんか流して。黙っていてはわからないじゃないか。それと…」

吉田は己が持つ秘事を話そうと思った。

「美穂、聞いてくれるかい?」

「なに、…」

「じつは、君に謝らなければならないことがあるんだ。それを話せば俺を軽蔑するだろう。でも、嫌われてもいい。このことを話さねば、一生後悔するから」

「なんなの。…私こそ謝らなければならないわ。あなたが一番嫌がることをしてしまったんですもの」

二人は見詰め合った。

「それじゃ、聞いてくれるかい」

「ええ…」森下が頷く。

躊躇うことなく、吉田は己の過ちを話し出した。

「知らなかったではすまされないことだが、あの夜泥酔していたせいか、翌朝目覚めると、ホテルで隣に見知らぬ女性が寝ていた。驚き飛び起きると、その女が関係を持ったと言ったんだ。こんなことになって、知らない関係ないではすまされない。君に申し訳ないことをしてしまったんだ。許されぬことはわかっている。でも、俺はなにもしていないし、君を愛していることに変わりはない。本当だ、信じて欲しい」

黙って聞く森下が泣き出した。

「これが、君に話せずにいたことだ。打ち明けたが、後は君がどう判断するかだ」

森下に振ると、泣きながら打ち明け始める。

「あああ…、直人さん。私こそ許して。絶対あなたに話すことの出来ない過ちを犯してしまったの。ご免なさい、ご免なさい!」

「美穂、慌てるな。どんなことなのか、話して貰わなきゃわからないだろ」

「いいえ、とても話せないわ。恥ずかしくて」

「いいや、なにがあっても愛することに変わりはない。だから話してごらん」

「嫌々、私、死にたい。話せば嫌われる。あなたに見放されたら生きていけない。だから、だから…」

吉田の胸に顔を埋め、嗚咽を繰り返すばかりだった。吉田が、そっと肩を離す。

「さあ、話してごらん」

「でも…」

「いいから話すんだ!」

「ううん…、私、あの晩。飲み過ぎたのね。勧められるままに舞い上がって、それがいけなかったんだわ。泥酔して意識がなくなっていた。それであなたに抱かれ、激しく燃え受け入れた。そう思っていたの。でも、途中で気がついた。あなたではなく、田口部長だった。驚き拒絶したけど叶わなかった。

そう、てっきりあなたと信じ、悦びに浸っていたのがいけなかったの。部長に犯されていたなんて、あなたを裏切ったことになる。ご免なさい、許して貰えないことはわかっている。だから、嫌われるのが怖くて話せずにいたの。でも、心まで売らなかった。信じて貰えないかも知れないけど、それは本当よ。今でもあなたを愛しているわ」

話せぬと決めていたことを、互いが打ち明けた。

話し終え一瞬沈黙が支配する。そして、吉田がぽつりと呟く。

「そうだったのか。そんなことがあったとは知らなかった」

「私だって辛かった。でも、あなたも悩んでいたのね」

「それにしても、田口という奴は酷いことをするものだ。それで会議の時も君を変な目つきで見ていたんだな」

悔しそうに漏らす吉田に、さらに打ち明ける。

「それに、スマートホンの番号も強請られ教えてしまったわ。何度も関係を迫られたけれど断ってきた」

「なんと卑劣なことを、そんなことまでされていたのか。君も辛かっただろう。それに比べ俺なんか、卑怯と言われても言い訳できない。君の辛さからみれば、もっと早く打ち明けるべきだった」

「いいえ、そんなこと」

吉田は思い起していた。

森下と付き合う前に恋人がいた。秘書部の谷川純子である。彼には始めての彼女だった。それ故夢中になった。そんな折、森下から部長の愛人探索を持ちかけられ、強引に誘われるままについて行った。そこで衝撃的な事態に遭遇した。溺愛する彼女が田口と密会しているところを見てしまったのだ。

吉田は驚愕した。寄りにもよって直属の上司である部長と関係を持っているとは。受けた衝撃は計り知れなかった。だが、興味本位の森下には、現場を押さえた優越感から得意気に吉田に自慢しようとしたが、驚愕する様に部長の愛人が彼の恋人であることを知った。

それ故、森下は償おうと我が胸に招き入れ慰めた。

吉田は己を見失い、彼女に救いを求めたのである。そして二人は関係を持った。それから吉田は、森下にのめり込んでいった。何時しか二人の間に愛が芽生え、離れられぬ関係へと発展した。

走馬灯の如く思い巡らせる。

今では誰よりも美穂を愛している。彼女とて直人なしにはいられない。

「美穂、お前がいなければ駄目なんだ。この世では君を守もれず、幸せにすることが出来なかった。許して欲しい…」

「いいえ、私こそ。弱い自分を、もっと戒めていれば。あの時、浮ついた気持ちを抑えていれば、こんな辛い思いをさせずにすんだのに。ご免なさい…」

「いいや、いいんだ。美穂、どこまでも一緒にいてくれるかい。いや、ついてきて欲しい…」

「私だって、あなたと離れない。何処までも一緒よ…」

互いに目を合わせ、誓い合うように口づけを交した。そして、密かに覚悟を決める。こんなことが社内に知れ渡ればどうなるか。職場にはいられない。共に生きてゆく道を失っていたのだ。

「美穂、俺は決めた。君を永遠に離さない。たとえこの世を去っても、二人は一緒だ。わかっているね」

「ええ、私だって、あなたを愛しているわ。絶対に離れたくない」

ふたたび息の詰まるほど、深い口づけをした。

翌日、二人は職場に出社しなかった。無断欠勤である。なんらかの都合で、休みが重なったのかと思われた。それでも、一日見守ったが現れない。不安になった正木は、吉田のスマートホンに架けるが繋がらず、森下も同様に繋がらなかった。数度時間を置き架けたが同じだった。

メールを入れるも返事がない。二日経ち、三日と連絡のないまま過ぎた。そして一週間が経った頃、一通の手紙が正木の下に届いた。なかを開けると、二人の詫び文と死に至る理由が記されていた。最後に別れの言葉があり、正木の目を釘づけにした。

「ああっ!」

絶叫に近い声を上げ目を疑うが、二人の遺書だった。

彼らの顔を見たのは、それから数日後である。それも、東尋坊近くの米ヶ脇海岸に打ち上げられ、変わり果てた姿が地元住民に発見され、地元警察署より知らせが入ってからだった。さらに身を投げる前に、投函されたであろう二通目の遺書が届いた。その内容に、正木は愕然とした。

「なんてことだ、こんなことになっていたとは…。何故、もっと早く気づいてやれなかったんだ!」

絶叫の如く発し、頭を抱えた。悔いても悔い切れない後悔の念に襲われ。信じられないこの内容が、己の受けている境遇に重なり、悩み自ら命を絶つに至ったとは。二人の追い詰められた悔しさを思うとやるせなかった。と同時に、死に追いやった田口に対する無念の怒りが込み上げてきた。

そして、二人の部下を失った悲しみが、重く圧し掛かってきたのである。

なんと卑劣な奴だ。俺だけでなく部下まで誑かし、死に追いやるとは…。慟哭の怒りが、腹の中で猛烈に湧き出していた。




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