四節
テレビ局員の正木にとり、一連のカラス騒動は直接関わりのないことである。ただそれが、彼が知らないところでの、クロによる仕業であったとは思いも及ばなかった。正木は、そのクロたちによる騒動をよそに、田口による執拗な攻撃に苛まれる日々を送っていた。日増しにエスカレートする責めは度を越すようになる。田口は些細なことを誇張し正木を責めた。そこに加わったのが酒井である。彼女の誘いになびかず、痺れを切らしての嫌がらせだ。執務中に正木を喫茶店に呼び出す。表向きの用件は、最近課内での人間関係に不満があるという。向かい合い、酒井が口を尖らせた。
「課長、私、もう耐えられません。どうして課長は容認するんですか。おかしいじゃないですか。吉田君と森下さんは出来ているわ。それは個人的なことで、職場に持ち込まれては困るんです。課長の方から厳重に注意して貰いませんか」
「ううん、それは…。そんなに皆の仕事に支障あるようには見えんがな」
「いいえ、そんなことありません。おかげで私、気が散って仕事に集中出来ないんです」
「そうかい、君の他に川口さんはどうだい。気にせずやっているようだが」
「あら嫌だ。川口さんは不感症じゃないですか。それとも鈍感なのかしら。なにも感じないみたい。それに比べ、私はデリケートですから。あれだけいちゃいちゃされると、課長のことが恋しくなって辛いんです…」
「酒井君、それは言わないでくれ。俺としても身に覚えのないことだから」
「ええっ、課長。そんな…、またそんなこと言って。私を抱いてくれたじゃないですか。それ以来忘れられなくて、毎晩寂しい思いをしているんです。だから、吉田君たちがいちゃついていると、敏感な肌が刺激を受けて耐えられなくなるの。ねえ、課長。お願い。今夜、抱いて欲しい」
「なにを言う。そんなこと出来るわけがないじゃないか」
「いいえ、駄目です。そうしてくれなければ。私、もうこれ以上口を噤んでいられなくなります」
「そんなこと言うもんじゃない」
「でも、本気です。もし、断られたらあなたとの関係を公にしようと決めてるんです。だから、課長。そんなことされたら困るでしょ?」
「…」
「ほら、黙っていてもちゃんとわかるの。あなたの顔に書いてあるもの。ねえ、いいでしょ」
甘い声で誘いにかかった。
「…」
「せっかくだから美味しいもの食べて、それから楽しみましょうよ。私と裕太は激しく絡み合い何度も行くの。生気がとことん抜け落ちるまで。うふふふ…、想像するだけで高ぶるわ。それじゃ、いいわね。今夜六時、新宿の「トンピーノ」で待ち合わせよ」
酒井が傲慢にも高圧的に出た。すると、聞き及ぶ正木が断る。
「なにを勝手に決める。そんなこと出来ない。君だってそれくらいわかるだろ。誰かに唆され振り回されているだけじゃないか。目を覚ませ、酒井君!」
「あら、なにを言っているの。この期に及んで、ばらしてもいいんですか?」
酒井の攻めに、正木が反撃に出る。
「張ったりでもなんでもない。あの合コンの後、俺と夏美がどうなったか仮設を立て推測してきた。すると、あることがわかった。ただ、確証が掴めない。だから次の手を打てずにいる。君だって、こんなことしているのは自らの考えではないはずだ。誰かに操られやっているだけだろう」
「…」
今度は酒井が黙る。
「酒井君、早く気づきたまえ。これ以上深入りしてはいけない!」
正木が諌めた。すると見返す。
「なに言っているの。訳の分からないこと言って、あの晩抱かれたのは事実よ。それが証拠にホテルで朝を迎えたじゃない。それが動かぬ証拠でしょ。馬鹿なこと言わないで。なにがこれ以上深入りするなよ。そんなこと、私の勝手じゃない。おかしな推理しないでちょうだい。ああ、気分悪い。なんだか抱かれる気分じゃなくなったし、今日のところは許してあげるわ」
核心を突かれてか、そう嘯き席を立った。そんな様子に、うむ…、田口が酒井君を使い、また仕掛けてきたな。と推測し、正木は思わず唇を噛む。こんな二人のやり取りが、瞬く間に田口へと伝わった。苦虫を噛む顔が歪んできた。
くそっ、あ奴め。逆らいおって、なにが目を覚ませだ。誰かに操られているだと。このわしが、簡単に尻尾を出すとでも思っているのか。自惚れやがって。今に見ていろ、貴様などもっと痛めつけてやる。…そうか、奴の弱点をさらに責め、窮地に陥れてやろうぞ。それが一番効くだろうて。それと、奴の課をめためたに壊してくれる。
うむ、ターゲットは森下だな。彼女を陥れれば、間違いなく吉田は発狂するだろう。なんせ奴の彼女を奪うのが今度で二度目だからな。これで吉田も一貫の終わりだ。されば、気象予報課は崩壊する。そこまでやらなきゃ気がすまん。
さて、これから弥生を慰めながら、じっくり奇策を練るとしよう。奴も正木に体よく断られ、がっくりしているだろうから。飯でも食わせ可愛がれば、機嫌も直るだろうて…。
傲慢な顔が、助べえな笑いに染まっていた。
その後、田口は気象予報課のチェック会議でも、その陰鬱さがでた。のっけから森下や吉田を攻める。言葉使いが悪い、返答する態度が生意気だと難癖をつけた。日頃正木を攻めていたのが、森下たちに向けられたのだ。さらに、正木に課員教育がなっていないと怒鳴り散らす。会議も予測の最終チェックどころではなく、無用な方向へと飛び火していた。それでも皆は耐えた。最終的には、夕方発表の気象情報に間に合わせなければならない。そのためには、部長の決裁が必要なのだ。今まで、それでどれだけ苦労したか。どれだけ屈辱に耐えてきたか。いくら正木たちの主張が正しくても、ここで反旗をひるがえせば、次へ進めなくなる。気象予報課を預かる彼らにとって、夕方の発表に穴を開けることは絶対に許されない。それ故田口の横暴を我慢し、耐えるしかなかったのである。
田口とて責任者として、万が一穴を開ければ責任問題になることは承知している。ゆえに散々嫌がらせをしたあと難題を与え、それをやらせることを前提に承認した。そうすることで己の責任を回避し、穴を開ければ正木に転嫁させる算段を施していた。
課員全員が、田口の度重なる攻撃に疲弊していた。そんな中態度をがらりと変え、田口が珍しく吉田と森下を夕食に誘ったのである。突然の誘いに、二人は戸惑うが断れなかった。正木に相談する間もなく、策略の罠に落ちていった。銀座にある高級小料理店「小石」に招かれた吉田たちは、舞い上がっていた。普段来たことのない店の風格や品のよさに面食らい、上気し飲み込まれていた。舞い上がるまま吉田たちは、田口の勧めに杯を重ねた。酔いが回るにつれ、日頃の課内での不満を漏らすようになった。田口が聞き役に徹すると、惑うことなく吉田は、上司である正木の指導方法を貶し始めた。田口の思う壺である。
「そうか、そうか。課長は君らのことを蔑ろにし、意見も聞いてくれないのか。それは辛いな」
田口の相槌に、吉田が調子に乗る。
「そうなんですよ、部長。この前なんか、急に席を立ち用件も言わず外出しましたからね。おかげで俺たち夕方の予測出すのに、えらい苦労したんです。それを課長ったら侘びもせず、俺は偉いんだという態度でしょ。やってられないですよ。なあ、森下さん」
「そうなんです。それに私たちいちゃついてなんかいません。それを、酒井さん辺りに言われたら、直ぐに『君たち職場内で公私混同しちゃ駄目じゃないか』などと叱るんです。これだけ私たち頑張っているのに、なんのつもりでしょうかね。どうも、酒井さんに気があるみたいで、差別しているんじゃないかしら?」
酔いが、大袈裟に誇張させと、吉田までもが勘ぐる。
「なんだ、そうかよ。俺もおかしいと思ったんだよな。噂じゃ、二人は関係しているらしいぞ。それも課長には経理の山城さんがいるくせに。二股かけているんじゃないのか?」
「そうよね、課長も随分変わったわね。最近、執務態度が違っているもの。これじゃ、私たちやる気がなくなるわ」
「そりゃそうだ、自分ばかり棚に上げて。こんなんじゃ、やってられねえや」
吉田が捨て台詞を吐いた。
田口は二人の会話を頷き聞いていた。その間、女将が愛想よく二人に酒を勧め、それで気が緩んだのか、二人は勧められるままに酒量が増えた。吉田たちの目が座り出す。そこで、田口が密かに女将に合図した。女将がそっと引き下がり、奥から新しい酒入りのグラスを三つ用意してきた。そこで、わざとらしく田口が言う。
「おお、来たか。特別高いスコッチの水割りだな」
女将がウインクし応じる。
「は、はい。お二人にご馳走しろとおっしゃるものですから、ご用意させて頂きました。さあ、どうぞ。部長さんからの奢りですよ」
吉田が、勧められるままに受けた。
「有り難うございます。俺、スコッチなんて飲んだことない。さぞかし美味いんだろうな」
続き、森下も受ける。
「それはそうでしょ、私だって初めてだもの…」
二人は味を確かめつつ、ちびりと飲み出した。そこで、田口が煽る。
「さあ、そんな遠慮せず一気に飲みたまえ。その方が美味いぞ」
その気になり、吉田たちはグラスを空けた。
「ひゃあ、美味めえな。こんな高級な酒、飲んだの初めてだ!」
「そうね、美味しいわ…」
そう漏らしつつ、二人はその場に突っ伏していた。その様を見て、田口が嘯く。
「うむうむ、これでよしと。こんな奴らにスコッチなんぞ合うはずがあるまい。それにしても、よく効くな」
「はい、はい。田口さんの言う通り、入れておきました。後はご自由に…」
女将がにやつき頷いた。
「そうか、それは有り難い。女将、例の方は用意してあるな」
「ええ、周到に…」
「それじゃ、彼女を車に乗せてくれ。それに、吉田は適当に女をあてがい、ラブホテルにでも泊まらせておけ」
「はい、わかりました。部長さんは悪知恵が働きますこと。こちらのお嬢さん、いい身体しておりますわ。存分に味わって下さいませな」
「そうさな、そうさせて貰うよ。前から頂こうと思っていたんだ。充分堪能させて貰うつもりだ。それじゃ、頼む」
田口は仲居に運ばせた森下を車に乗せて、薄笑いを浮かべ夜の帳に消えていった。
森下は吉田に抱かれていると思っていた。上気し悶えては、何度も上り詰める。それでも執拗に責める彼の様子が何時もと違和感を覚え、契りを結びつつそっと目を開ける。
吉田ではなかった。
「きやっ!」
撥ね退けようともがくが、力で押さえ込まれていた。じっと男を見ると、田口だった。脂ぎった顔が目の前に迫っていた。
「どうだ、気持ちがよかろう。お前も随分激しく求めてくるもんだ。それに応えるのも往生するぞ」
腰を動かしながらにやつく。
「嫌々、止めて下さい!」
森下が懸命に抵抗するも、密着した身体は容易に離れない。
「そう騒ぐでない。こうしているのも、お前が誘ったんだぞ。それも吉田を袖にしてよ。彼には気の毒だが、お前から強引に誘われては断るわけにもいかず、昨晩からこうして励んでいるわけだ」
「嫌、嫌…!」
なおも抵抗するが叶わない。
「どうれ、もう少しだ」
田口が激しく腰を動かし果て、彼女の上に崩れた。されるがままに森下は観念し、重い身体を受けどうにもならず力を抜いた。田口がおもむろに起き上がると、直ぐに飛び跳ね離れた。森下が毛布で身体を包みベッドの隅で泣き出した。何故こうなったのかわからぬまま、後悔の念が先に立っていた。
「嫌々、こんなの嫌。私、死にたい!」
「なにを今さら騒いでいるんだ」
「嫌、嫌よ。吉田君に言い訳出来ない。ああん、ああん…」
しゃくり上げ、泣くだけだった。すると、田口が憮然として告げる。
「なんだ、生娘みたいに。お前が望んだことだろ。酔った勢いか知らんが、執拗に迫るから仕方なく叶えてやったのに。その言い方はなんだ!」
聞く耳を持たず泣き続ける。
「嫌、嫌。ああん、ああん…」
「なにを処女のような真似をしている。始めてでもあるまい。よがり声など堂に行っていたぞ。それに、『いい、いい。もっと、もっと』と喘いで、積極的だったじゃないか」
森下が泣きながら顔を振る。
「そんなこと、そんなこと…」
「それを、わしに抱かれて満たされたんだ。泣き叫ぶのはお門違いだろう。それより、『有り難うございました』と礼を言うのが筋だぞ。まったく近頃の女は、礼儀というものを知らん」
うずくまる森下を、田口が見下した。
「さあて、帰るぞ。お前はどうする?」
促されても、森下は泣きじゃくるばかりだった。田口が業を煮やし吐き捨てる。
「勝手にしろ、わしゃ先に帰る。気が済んだら出ろ!」
捨て台詞を告げ、さっさと身支度し出て行った。残された森下は、この時田口に犯されたことを悟った。どうにもならない気持ちが胸を突く。こともあろうに、気づいたら田口と結ばれていたとは。それも愛しい吉田と思い込み、激しく悶えていた。悔いても許されぬことが脳裏をかすめる。後悔するれど、後の祭りである。吉田に対し言い訳ならぬ重大さが、大きく目の前に立ち塞がっていた。
「どうしたらいい。ご免なさい…」
服を纏うこともせず、森下は愕然と肩を落とした。
一方、吉田も朝目覚めたら、隣に見知らぬ女が寝ているのに気づき、驚き跳ね起きると全裸の女がにこりと笑う。
「よかったわ。あなたって、強引なのね。私の中で随分暴れていたもの。おかげで燃えさせて貰ったわ」
「な、なにを言う。俺は知らん、知らんぞ。なにもしていない。気づいたら、お前が隣で寝ていたんだ!」
吉田が慌てて否定した。
「あら、嫌だ。そんなこと言って、あなたったら、『小石』の前で通りすがりに声をかけてくれたじゃない。忘れたの?」
「ううん、いや、そんなこと。俺、確か部長に誘われ、森下君と共に『小石』で飲んでいた。待てよ、その後のことが…」
吉田には、それからがわからなくなっていた。
「なに、ごちゃごちゃ言っているの。そんなこと、どうでもいいじゃない。男と女が、こうして一夜を伴にしたんだもの。私の名前は、石川珠代、忘れないでね。そうそう、あなたの名刺を頂いているわ」
「俺、名刺なんか渡した覚えない…」
「なに言っているの。くれたでしょ、こう言う者だって。それに、あなたの自慢していたわよ」
そう言い、恥ずかしそうに珠代が呟く。
「これでぐいぐい責めてやるからなって。見せびらかせていたわ。私、びっくりするくらい犯されたみたい。嬉しかった。ねえ、吉田さん。近いうちに連絡するから、また悦ばせてね…」
豊満な胸を、吉田の腕に摺り寄せた。
「なにするんだ。よしてくれ!」
慌て身体を引く。
「これは、なにかの間違いだ。そうに決まっている。こんりんざい関係なんか持つものか。いや、俺は君を抱いてなんかいない」
「あら、嫌だ。そんなこと言ったって、こうして一緒にいるし、裸でベッドの中にいれば、誰が見ても関係があるってわかるんじゃない。そうでしょ、直人さん…」
珠代が鼻を鳴らし、吉田に身体を預ける。
「ねえ、直人君。また欲しくなっちゃった…」
吉田は、されるがままにいたが、昨夜のことを思い出そうとすれどままならず、思考が混乱していた。ただ、わかったことは取り返しのつかぬ事態になったことである。愛する森下を裏切り、愛しい笑顔が遠ざかろうとしていた。
待、待ってくれ、美穂さん。俺はなにもしていない。気がついたら、こんなことになっていた。嘘は言わない。本当だ、俺はなにもしていないんだ!
胸の内で叫べど、悲しげな森下の顔がどんどん遠のき消えた。
「ううう…」
がっくりと肩を落とす。
「俺、俺は…」
吉田は、どうにもならなくなっていた。
「ねえ、直人さん。早く…」
寄り添い迫る珠代に、はっと気づき跳ね除けた。
「止めてくれ!」
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