三節
どんよりと曇り、今にも雨が降り出そうとする昼下がりだった。耐え難い屈辱のなか、正木は沈痛な面持ちで執務にあたっていたが、どうしても彼女のことに考えが及ぶ。
まさか、夏美がこんなことになろうとは。それにしても、自ら進んで田口の毒牙にかかるはずがない。夏美、どうして教えてくれなかった。いや、でもそれは、打ち明けられぬことだったのか。それで苦しんでいたんだ…。
だが、何故だろうか。どんな罠に嵌められたのか…。それも、夏美と俺の時期が同じだ。もしや…、あの夜に、同時に仕掛けられたのか?確かに、合コンでは勧められるままに酒を飲んだ。でも、意識がなくなるまで泥酔していたか。いいや、そんなことはない。それが、締めの酒を飲んでから訳が分からなくなった。気がつけばホテルで酒井と一緒にいたんだ…。
それに、夏美だって。意識がなくなるほど飲んでいない。ずっと傍にいたからわかる。ではどうして、こんなことになったのか。いや、待てよ。あの時、なにかがあった。
あいや、もしかして…。
正木は記憶を辿り、原因を突き詰めていった。
そんな、そんなことがあるのか…?
仮説を立てるが、首を振り否定する。が、疑念が消えない。
でも、他にあろうか…。あの合コンで、なにかがあったんだ。誰かに画策された。だとすれば…、酒井がやったのか。待てよ、これは俺だけじゃない。と言うことは、夏美も嵌められたことになる。となれば、酒井一人ではない。彼女を操る黒幕がいる。一体誰なのか…?
さらに、思考を深める。
ううむ、そんなことがあるのか。待てよ、今までの仕打ちを考えれば有るかも知れない。
疑念を膨らませ首を振るが、そこで核心的なものを掴む。
でも、そうか。そうだったのか、これでわかったぞ。最初にペア合コンの提案をしてきた。その後、酒井が口裏を合わせ嵌めてきたのか。と言うことは、うぬ、部長…。やはり、奴が仕掛けた罠か。夏美と俺は田口の毒牙に陥れられたということか?
熟考し結論を導く。
あの企画の実施場所も、すべて奴が仕切っていた。それで店の店員、それに息のかかった社員が加わることで。…筋書きが読めてきたぞ。頃合いを見て。そうか、締めの乾杯か。奴らにとり、飲み物に薬を入れることなど雑作ない。これを俺たちに飲ませた。
あとは、酒井が俺を。それに、にっくき田口が夏美をホテルに連れ込み一晩過ごしたのか。気づいたのは朝だ。奴らが口裏を合わせ、俺たちのせいにしたんだ。くそっ、なんと卑劣なことをする。特に首謀者の田口は許せん。奴がすべてを画策し嵌めたんだ。
正木は真相を知った今、腸が煮えくりかええっていた。と同時に、「このことを夏美に知らせ、責めている自分を思い止まらせなければならない」と気づく。そっと席を発ち、トイレへと駆け込んだ。
夏美のスマートホンに震える手で架ける。呼び出し音が鳴ると、緊張が走った。だが出ない。暫らく呼び出すが、途中で留守電に変わった。
「ただ今、お架けになりました電話番号は…」
くそっ、夏美。何故出ない。至急知らせなきゃならないのに。出てくれ、お願いだ!
数度かけ直すも繋がらなかった。仕方なくメールを入れた。
「とにかく一刻も早く電話をくれ。君が一番悩んでいることがわかった。これは罠だ。それに、俺も嵌められた。至急連絡くれ。真相を話すから。そうすれば、君は立ち直れる。だから電話をくれ」
急ぎ送信ボタンを押した。着信を確認し、返事を待つが来ない。仕方なく自席へ戻るが、待てど返ってこなかった。
夏、夏美。早まったことをするな。お願いだ。君が受けた屈辱は、陥れられたために受けた傷だ。君にとって辛いことかもしれないが、それで嫌いになったりはしない。…俺だって、罠に嵌まり酒井君と一晩過ごした。それで、彼女に脅かされていたんだ。このことがわかるまで悩み抜いた。君に話したら、嫌われるのではないかと思い打ち明けられずにいた。許してくれ。
心の中で念じ、彼女のことで頭が一杯になった。それでも、そこそこ業務をこなし、終礼後直ぐに自宅へ帰り夏美に電話をするが繋がらない。何度も試みた。焦り、続けるが駄目だった。メールでも同様である。
正木は一晩中試み、一睡もせず朝を迎えた。
ううう、夏美。どうしたらいい。君さえ電話に出てくれれば、すべて解決できるのに…。
呻きと共に、胃がきりりと痛み出す。と同時に、田口に対する慟哭の怒りが込み上げてきた。
夏美をこんな目に合わせて、許せん…。
だが憤怒の中で田口が仕掛けたという確証が掴めず臍を噛み、じくじくたる思いでいる時に、窓外の様子が騒がしいのに気づく。窺がおうと窓に近づくと、朝靄に浮かぶ周辺の木々、それにマンションや家屋の屋根に無数のカラスが止まっていた。窓を開けると、一斉に「カアカア!」と啼き出した。その中に聞き覚えのある声を聞き分ける。
「クロ、クロがいるのか。どこだクロ。いるならこっちに来てくれ、クロ!」
大声で叫ぶが、現われなかった。すると、カラスたちが一斉に飛び立ち、大きく旋回し彼方へと飛んでいった。正木は誰かに頼りたかった。誰でもいい、助けを乞いたかった。唯一、気を許すクロの啼き声を聞き、望みを託そうとしたが叶えられなかった。落胆し熟たる思いでテレビ局に出勤する。今朝も夏美に電話を入れたが出ずじまいだったし、昨夜のメールの返事もなかった。出社しても、四六時中夏美のことが頭から消えずにいた。
それでもどうにか、気象予測を課員たちと練り上げた。チェック会議では、何時にも増して、田口の横暴が目立った。その態度は勝利者としての様相である。正木の弱みを握り、それをねたに言葉の端はしに、いちゃもんを付ける有様だった。
それでも正木は堪えた。
最愛なる夏美を罠にかけ関係を持ち、おそらくそれをねたに強請っているに違いない。それを、俺にも仕掛けた罠と、取引と称して強引に夏美を奪おうと宣言してくるとは。だが、まさかこの俺が奴の仕掛けた謀略を探っていることなど、まだわかっていないのか傲慢に攻めてくる。
今はまだ、確証と反撃策が見つからず、耐えなければならない…。
田口の陰鬱で執拗な責めに、歯を食いしばり堪えていた。こんな状態が一日中続く。翌日も同様に、田口の慇懃な嫌がらせが正木を襲った。そんなことが、数日続くと、正木も耐えられなくなっていた。夏美への不連絡も続き、耐え得る限界が近づいていた。そんな状態から逃避するため酒を浴びた。意識が遠くなるまで深酒に浸るが、さらに醒めていた。
泥酔し部屋に帰ると、部屋の外で木々の葉の揺れる音と、カラスの啼き声が激しく震えるも、それらが空ろに聞こえてきた。だが、その中にクロの声をふたたび聞いた。
酔いが吹っ飛んでいた。
勢いよく窓を開けた。すると、暗闇の中で無数の対の光が輝き、その眼光が正木の目に飛び込んでくる。ぎくっとして凝視した。その光群の中心で、クロの視線が強く光を放った。
「クロ…、来てくれたのか。俺は今崖っぷちに立たされてるんだ。助けてくれ、クロ。話を聞いてくれ!」
手を伸ばし、ベランダの手摺りに止まるクロを掴もうとすると、するりと抜け夜空に舞い上がった。
「クロ、行かないでくれ。頼む、助けてくれ。夏美が危ないんだ。田口の奴に陥れられ、もう会えないと言ってきた。俺は嫌だ。夏美を愛している。なんとしても救ってやりたい。だが、住んでいるところがわからない。クロなら知っているだろ。だから、夏美を救ってくれ、頼む。他に頼れる者がいない。お前だけしかいないんだ!」
クロに向って、懸命に訴えた。旋回しながらクロが啼く。
「カア、カア、クワア、グワア、グワア…」
「クロ、わかってくれたのか。頼む、夏美に知らせてくれ。自分を責めてはいけないと。決して、お前が悪いのではない。だから、俺に連絡をくれと伝えてくれ!」
必死に訴えると、旋回していたクロがベランダの手摺りに止まり、「ガウア!」と啼いた。
「おお、伝えてくれるのか!」
クロが仲間に、「カウア!」と大きく一声を放つと、すべのカラスが飛び立ち、クロを先頭に暗い夜空へと消えていった。
「クロ、頼むぞ…」
漆黒の天空を視つつ全身の力が抜け、窓を開けたまま暫らくへたり込んでいた。数日が経ち、それ以来クロは正木の下へこなくなった。そんなある日、井の頭公園で奇怪な出来事が起こった。カラスの大群に占領されたのである。樹木の枝々、それに近隣の屋根など、至るところにカラスが止まっていた。
それも前日の夕刻から集まりだし、一夜にして集結したのだ。その数百羽となり、他の鳥たちがすべからく姿を消した。啼き声のすさまじさは、周辺の住民を震え上がらせた。直ぐに新川派出所に苦情が入り、高井戸警察署へと通報された。さらに前原、栄町派出所からも立川署に不安視する声が多数寄せられる。高井戸警察署から、パトカー二台が井の頭公園へと急行するが、集結し啼くだけで住民に危害を加えるわけでもなく、警察としてもお手上げで、警察官が木々に止まるカラスを覗うのみで手の打ちようがなかった。それでも、一時間ほど睨み合ったがなにすることなく、警戒する目的で三名の警察官を残し、パトカーは引き揚げていった。
この状態が一日、二日と続くと、あっという間に噂が広まり、この異常さにテレビ局が中継を始めた。最初は昼のニュースで取り上げられ、併せて新聞の社会面にも載る。もちろん、危機感のある内容ではない。今までにない意外性と話題性のニーズでの、井の頭公園に集結するカラスの大群としてである。興味本位の色合が濃く、他地域の住民にしても、珍現象として傍観していた。
三日目になると、そのカラスの大群が忽然と姿を消した。いなくなると彼らは、不安が薄れそして忘れた。だが、一週間後今度は、昭和記念公園に現れたのだ。 住民は、すわっと一一〇番した。井の頭公園での出来事を思い起し、今度は自分たちの地域に来たとばかりに騒ぎ出した。そこにも井の頭公園と同様、クロが統率していたのである。違いはカラスの数が三倍に膨れ上がったことだ。それだけの数が公園と、その周辺の民家や木々に集まれば異様さが増幅される。啼き声も半端ではなく、人々が恐れるほどになった。
それでなくても、人はカラスを忌み嫌う。集結場所は異なるが二度目の襲来である。なにか悪しきことが起きる予兆ではないかと、恐怖心が住民らを覆った。当然の如く前原、栄町派出所に連絡が入るのと同時に、立川署にも数多くの助けを求める連絡が入っていた。パトカー五台が立川署と高井戸警察署から急行するが、カラスたちが住民を襲ったわけではなく、ただ見守るだけである。その異様さの中、飼い犬たちが興奮し連鎖して遠吠えを始める始末となった。
そのことを、各メディアがこぞって取り上げた。井の頭公園に続き生じたものとして、今度はテレビで比較的大きく扱われ報道された。「すわっ!」とばかりに専門家たちがゲストとして招集され、何故このような事態が起きるのかと種々論説していたが、皆要領の得ないものばかりだった。各テレビ局では前代未聞の出来事として、このニュースを地域版から全国版へと拡大放映するに至ったのである。
住民に与える影響は大きい。忌み嫌うカラスが占領しているのである。緊張と不安が倍化し住民が殺気立ってゆく。各交番では苦情の嵐に、警察官が音を上げた。
二日目になると騒ぎがさらに拡大し、立川、高井戸警察だけでは収拾出来なくなり、東京都を巻き込み警察庁からも、多数の警察官が動員される始末となった。すると火に油を注ぐが如く各テレビ局が動き臨時ニュースとして報道し、新聞社も社会面からトップ記事へと格上げして大きく掲載しだした。
「どうして、こんなことが起きるのか。なにか不吉な予兆ではなかろうか。さらには、カラスが死神の使者ゆえ東京都下は呪われているのでは。それとも、大地震が起きる前兆ではないか」
飛び交う悪しき噂に、住民たちは不安に駆られた。警察は対応に苦慮し出す。一番恐れるのは風評である。実際に起きていないことが、まことしやかに流れ出す。一発触発で東京都に暴動が生じては一大事である。都や警察庁が苦慮し、合同緊急会議が開催されるに至った。だが三日目の朝になると、その大群は忽然と消え失せていた。皆、安堵した。そして数日が経ち、落ち着いたかに思われた時、最悪のケースが、こともあろうか新宿歌舞伎町で発生したのだ。
歓楽街の夜は長い。明け方近くに店を閉め、大方の飲食店が路上隅に残飯を出す。明けやらぬ街の、その光景は何時もと変わらない。まずはそこに、決まってホームレスの浮浪者が漁りに来る。生きて行くための食料探しである。それが終わるまで、近くのビルの屋上でカラスが見守り待つ。浮浪者が一巡したあと、次に彼らの出番だ。ところがカラスたちには序列があり、群れをなす仲間はその序列に従いすべてが執り行われる。カラスの群れが腹を満たし飛び去った次が、雀などの小鳥類、そのあとが小動物となる。これらの漁る行為が済んだ後、午前十時過ぎに清掃車が来て、残ったゴミ袋を回収して行く。この一連の行いが毎朝習慣的に続くのである。
その始まりで、異変が起きた。
先の昭和記念公園に集結したカラス群と同様に、夜明けと共に新宿歌舞伎町に飛来したのだ。半端な数ではない。想像を絶する啼き声とその異様さに、残飯を出しにきた飲食店の従業員が度肝を抜かした。泥酔しよろめいていた朝帰りの客や、ホステスらとて同様に足をすくませ、あまりの異常さになよなよとその場に座り込む有様となった。
「なんだ、こりゃ。すげえ数のカラスじゃねえか。今まで見たことがねえぞ!」
出くわした店員は、残飯袋を道端に放り投げ驚き勇んで店に引っ込んだ。
「おお、びっくりした…」
足がすくみ、わなわなと青唇を震わせる。それを他の店員が不可解そうに問い質す。
「なんだお前、小便でも漏らして寝ぼけているのか?」
「なに言っている。すげえ数のカラスがいるんだぞ…。何時もと桁違いだ。外を見てみろ…」
「なに、言いやがる。カラスごときが多いからと、びくつきやがってよ」
貶した従業員が、嘲り笑い扉を開けて凍りつく。
「…」
目を剥いたまま、声が出なかった。我に返り、震えながら扉を閉め呻いた。
「な、なんだ。こりゃ…」
足が小刻みに震えていた。
「そうだろ、俺だってびっくりしたよ。何時もの数と違うんだからな。そこらじゅうがカラスで一杯じゃねえか」
先の店員が、再度扉を少し開け覗き見る。
「うぎゃっ、な、なんということだ!」
見たものは、カラスの黒山だった。そのまま言葉が詰まり、蒼白な顔で扉を閉め後退りした。その手が震え、立っていられぬほど足腰が萎えていた。
「信じられねえ。こんなこと、初めてだ…」
「どうした、啓治!」
二人の異様な様子に、店長が怒鳴った。啓治が青ざめた顔で告げる。
「あれ、あれ。あ、あんな恐ろしいもの、今まで見たことがねえ。俺…、頭がおかしくなっちまったのかな」
ふらふらと店の奥に行き、カウンターの椅子に座り込んでいた。
「な、なにを見たんだ…」
店長が訝り尋ねた。
「ううう…」
恐怖心からか、啓治は唸るだけで返事が出来ない。
「ちぇっ、しょうがねえ野郎だぜ」
愚痴り、店長が扉を開き見る。その瞬間、目の玉がひっくり返っていた。
「ぎぇえっ!」
そのまま扉を閉めたが、目が空ろぎ口から泡を吹き、その場に突っ伏し倒れていた。
彼の見た光景は壮絶だった。群がるカラスたちの中に、一人の浮浪者が倒れていた。服が剥ぎ取られ、皮膚が破れ内臓が飛び散り、カラスたちが食い漁っていたのだ。さらに啓治が、震える手でスマートホンを取り出し一一〇番急報した。直に、新宿東口派出所から警察官四名が現場に駆けつけるが、容易に近づけぬほど路上を埋め尽くしており、どうにもならず二人を残して派出所に戻り、新宿警察署に緊急連絡を入れ、さらに警察庁生活安全局生活環境課へと緊急通報した。
異常な大群の啼き声に住民が、一斉に一一〇番をしたことで、テレビ局にも通報され、「すわっ、出動!」と各社が現場に急行する。そして、この異常事態をテレビ中継し、臨時ニュースとして全国に放映し始めたのである。
当然、東都テレビでも現場に急行し中継報道した。アナウンサーが絶叫し伝える。
「大変なことが起きています。新宿歌舞伎町に、おおよそ一千羽、いや、二千羽かわかりませんがカラスが集結し人間を襲いました。それだけではありません。路上から歌舞伎町全体がカラスによって、占領されています。これは一大事です。…伝々!」
つぶさに見る壮絶な状況を、懸命に伝えていた。
これだけのカラスの群れである。歌舞伎町の残飯は尽く平らげられ、襲われた浮浪者にしても、残ったのが千切れた服と大方骨だけになった。また、どこからか迷い込んだのか数匹の野良犬ですら、巻き添いを食い餌食となった。それどころか、丸々太ったドブ鼠が数十匹も引きずり出され、腸を食われ目玉もなくなったまま無残な姿に化けていた。
間もなく食えるものすべてを食い尽くし、カラス群は新宿東口歌舞伎町から、一斉に飛び立ち姿を消したのである。あとに残ったのは、喰い千切られた遺体と犬、猫、ドブ鼠の残骸が路上に散らばるだけだった。
少し経ちカラスが去ったのを確認しつつ、恐る恐る店員や住民らが出てくる。それを警戒する警察官が店や家に戻るよう呼びかけ、この悲惨な状況を無線で本庁に連絡していた。浮浪者とはいえ、人が襲われ殺された以上事件として扱わなければならない。午前十時には、新宿警察署に緊急対策本部が設置された。
テレビ局は、この無残な光景を撮り続け、朝の臨時ニュースとして一斉に流していた。
このニュースは歌舞伎町の住民のみならず、他の飲食街にも恐怖を呼んだ。首都圏の渋谷、上野、銀座、さらに品川の飲食街ではそのニュースに怯え、残飯搬出も恐々路上に放り投げては店に引き込んだ。だが、これらの繁華街には現れず、通常より多めのカラスが、順番で残飯を漁っているに過ぎなかった。
すわっと、警察庁生活安全局生活環境課と新宿警察署合同の対策本部による厳戒態勢を引くが、死んだ浮浪者の身元調べや動物たちの死骸の片づけなど以外に、なにも出来ず見守るしかなかった。その後一週間もすると、対策本部は縮小され新宿警察署と近隣派出所による、歌舞伎町を中心とした新宿商店街の巡回警備にあたるが異常現象は起きなかった。事件後一ヶ月が経つと、当事者の歌舞伎町ですら関心が薄れ、他の繁華街でも忘れるほどになり、何時もの如く飲食店から早朝のゴミ出しが行われるようになっていた。
ところが、突如としてカラスの大群が、今度は銀座に現れたのだ。
未明の深夜でもこの街に夜はない。カラスが鋭い目を光らせ飛び回り始めた。数が少なければ、呑み助らも無視する。午前二時を回ると数が増えていた。其処彼処から陰鬱な啼き声が耳に障るようになる。異常に気づいたのは、その頃からであった。酔った客が近くで啼くカラスに悪態をつく。
「こらっ、うるせえじゃねえか、静かにしろ。この馬鹿ガラスどもが!」
足元をふらつかせ睨んだ時、一羽のカラスがその酔っ払いを襲った。
「ぎゃあっ!」
目を突かれていた。倒れた男が絶叫しながらのた打ち回る。すると、それを見た仲間が恐れをなし飛び散った。遠巻きに様子を覗う人の群れが出来て誰かが一一〇番すると、けたたましくサイレンを鳴らしてパトカーと救急車が到着し、のた打つ怪我人をタンカーに乗せ走り去った。残ったパトカーから警察官がカラスと対峙するが、屋上などに止まり啼くだけで手が出せる状況になかった。警察官たちは見守るだけで、それ以上のことは出来ず一時間ほど睨み合うが、そのまま引き揚げていった。ところが早朝未明になると、このカラスの群れが異常に増えていた。やはり、飲食店の従業員がごみ出しの時、気づき恐れ慄いた。
直ぐに中央警察署に誰かが通報するが、数千羽のカラス群は歌舞伎町と同じ行動に出た。ただ違ったのは、酔っ払いの他に人的被害が出なかったことである。その代わり、数百匹の銀座に住むドブ鼠が、腸をえぐられ無残に転がりすべからく目玉がなくなっていた。
各テレビ局がふたたび動き出し、さらには新聞社までもが記事にし号外まで撒かれる始末となった。テレビ局は朝から現場に中継車を配置し、リアルタイムに放送し出す。すべての局が歌舞伎町に次ぐ大事件として、臨時特番を組み報道していた。この異常事態も二時間ほどで結末を迎えた。突如カラスらは一斉に舞い上がり高尾山方面へと飛び去ったのである。
その日の午後、高尾山麓の住民が非常に多いカラスの群れに驚き、立川警察署に通報した。皆、窓を閉め閉じこもったまま警戒を強める。先ほどらいのテレビ放映での悲惨な状況を目の当たりにし、異常な群れと、木々に止まり啼く声に恐れをなした。全国民が異常なニュースを固唾を呑み覗う。万が一、我が街に飛来したらどうすると、対岸の火の如く無関係でいられなかったのだ。
そんな状況が一週間続いたあと、忽然とその大群は消えていた。住民たちは安堵の表情に戻るが、何時また来るかと不安を抱え外出を控えた。そしてこの街の住民の間で、まことしやかに風評が流れ動揺が広がる。
「どう言うことだろう。歌舞伎町や銀座での悲惨な事件といい、我が街の惨事といい。何故こんなことが起きるのか。大体、高尾の山にこんなにカラスがいるはずがない。どこからか飛来したのだ。これはなにか、不吉なことが起きる前触れではないか。
高尾の街が呪われているんじゃないのか。さもなくば、あんな嫌われカラスの大群が押し寄せるはずがない。これは崇りだ。大変なことになったぞ…」
住民同士でひそひそと語られ、恐怖心が払拭できず日々過ごす有様となった。テレビ座談会でも、カラスの大群集結について討論されるに至り。なかには真顔で地球温暖化だとか、異常気象による原因だとする論評も現れた。
しかし、百家争鳴の如く交わされる論議がどれも的を得ず、住民らの不安を拭い去れずにいた。だがそれ以来、高尾山麓はもちろん、どこの繁華街にもカラスの大群が押し寄せることはなかった。
複雑な世の中でいろいろな事件が後を絶たず、数週間が経つとこれだけ騒がれたカラス事件も風化し皆の不安も何時しか消え、関心ごとがそちらに向き平常の暮らしに戻っていた。
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