二節

朝、目覚めると、頭の芯に激痛が走った。

「ううう…」

ベッドの中でうずくまる。気だるい朝だったが、出勤しなければならない。むっくりと起き、歯を磨き顔を洗うが食欲などない。むかつきが胃を痙攣させる。

「うぐ、うううう…」

手で口を押さえるが出るものがない。逆に嫌な思いが蘇えってきた。

昨夜、確かに夏美が電話に出た。しかし、言葉を交わすことなく切られてしまった。それにクロが来たが、あの啼き方は尋常ではなく、夏美になにがあったというんだ…。

愛しさと不安が胸騒ぎとなり、正木を覆い尽くす。そんな状態で局へと出勤した。課員たちが沈痛な面持ちで迎える。

「おはようございます…」

「おはよう…」

元気のない声で返し自席へと座ると、そこへ森下が来て詫びる。

「課長、申し訳ございません。昨日の予報ですが、今朝は曇り一時雨の予測でしたが、ご覧のように晴れてしまいました。本当に申し訳ございません…」

すると、吉田も伴に頭を下げた。

「ううん、そうだったのか…」

それだけ返した。それ以外のことは、なにも告げられなかった。森下は、目礼し自席へと戻り、覇気のない応対に言葉もなくパソコン画面に視線を向けた。そんな時、正木に案の定内線電話が鳴る。

「は、はい。申し訳ございません。はい、それではこれからお伺い致します。はい、失礼します」

田口に呼び出され、会議室へ行くと森下に告げ席を立った。

「わかりました。戻りは何時になりますか?」

「うん、午前十時にしておいてくれないか」

「はい、かしこまりました」

正木はなにも持たず部屋を出た。吉田がその様子を見て訝る。

「ああ、課長も変わったな。予報が外れたら、直ぐ俺たちに検証しろと指示が出るのになにもないんだものな。それに部長のところへ行けば、相当絞られるんだろ。今までなら資料を持ち行くのに、なにも持たずに出たからな」

「そうよね。課長って、最近おかしいわね」

川口が相槌を打った。雑談はそれで終わる。吉田たちには、正木がどれだけ部長に責められるかわかっていた。だから、心配しての会話になったのだ。

ああ、また部長に。こっぴどくやられんだろうな…。森下は変わり果てた正木が、叱責される様を思い心痛めていた。

六階会議室で、正木と田口が合い向い、田口が陰険な眼差しで咎める。

「どういうわけだね。予測が外れているじゃないか。この前、あれだけ注意したはずだ。それを、舌の根も乾かぬうちに、また外しやがって。なにやってんだ。お前、やる気があるのか!」

「申し訳ございません…」

 頭を下げる正木に、田口が胡散臭そうに匂いを嗅ぐ。

「ややっ、なんだ。お前、酒臭いぞ!」

「ええ、昨夜少々飲みまして」

「なにを言っている。いい歳して、羽目を外し暴飲したんだろ。少しはわきまえろ。翌日仕事だと思えば、控えるはずだ。それを、なにを考えている。そんなことだから、予測を外すんだ。まったくもってなっておらん。しっかりせんか!」

「…」

「何故、黙っている。なにか、不満でもあるのか。そうか、わしに逆らうというのだな?」

「いいえ、そのようなことは…」

「それじゃ、何故黙っている。詫びるのが筋ではないか。それを貴様は抵抗するかのように黙りこくってからに。まったく、可愛げのない奴だ」

「…」

無言のまま、正木が上目遣いで覗うと、田口がカチンときたのか怒鳴った。

「なんだ、その目つきは!」

「…」

「なんだというんだ。文句でもあるのか、言ってみろ!」

「はあ、二日酔いでこんな目になっておりまして、文句などありません…」

「なんだと、二日酔いだと。馬鹿者が!まったくだらしない奴だ。それだったら、ここに来る前に顔でも洗ってこい。酒臭いし、死んだ魚のような目をしおって。ああ、どうにも救いようのない野郎だ」

「…」正木は黙っていた。すると、当然の如く尋ね愚痴る。

「ところで、正木。外れた原因を分析してあるんだろうな。わしはこれから局長のところへ報告しにいかにゃならん。ちぇっ、まったくもって余計な仕事をさせられるもんだ」

「…」

「どうした報告せんか。それと、分析資料は何処だ」

「はあ、まだ調べておりませんで、これから分析するところですが…」

「な、なんだと。貴様、なにを寝ぼけておる。それじゃ、局長のところへ説明に行けないじゃないか!」

「はあ…」

「なにが、はあだ。これからだと、このど阿呆が!」

無表情の正木に烈火の如く怒鳴り散らした。そして猜疑心の目となる。

「くそっ、なんとしたことか。うむ、待てよ。お前、わしに嫌がらせをしているのか。日頃あれだけ面倒をみているのに、逆らいおって。そうか、局長に報告できぬよう、わざと遅らせているんだな。そんな姑息なことを企んでいるとは。この野郎、許さんぞ!」

目を吊り上げ、立ち上がり睨んだ。すると、正木が言い訳する。

「いいえ、そのようなことはございません。部長、これから戻りまして分析して参りますので、暫らくお待ち頂けませんか?」

「なにを課長ごときが、わしに指図する気か!」

田口が怒り心頭になり、思わずテーブルを足で蹴った。「ガン!」と響く。

正木は一瞬怯むが、悪びれる様子もなく繰り返す。

「あの、至急分析しますので。お時間を…」

「馬鹿野郎。そうか、よくわかったぞ。貴様の魂胆が。このわしを陥れるつもりだな。なんだその目は。わしを愚弄しているのか!」

「いいえ、そのようなことはありませんが…」

「いいや、その軽蔑した眼差しが物語っておるわい!」

突っ立ったまま手を震わせ、正木を烈火の目で睨んだ。

「そうか、そうであればこちらにも考えがある」そう言い、ふっと息を抜き蔑む目線に変える。

「正木、よく聞け。お前がそういう態度をとるならそれでよい。わざと分析資料の作成を遅らせ、わしの報告を邪魔しようとする魂胆は、わしにではなく局長に対する反抗となる。すなわち、会社に対する背任行為だ。そんな大それたことを画策しているとはけしからん。そんな奴を庇うことなど、もはや無用だ。正木、覚悟は出来ているな」

「…」

「うぬ、黙りこくって。そんなことをしても無駄だ。もう、許さんぞ。これから局長のところへ報告に行く。これで、お前も一貫の終わりだ。首でも洗って待っていろ!」

「部、部長。私は決して、そのような大それたことを考えてはおりません。会社に逆らうなんて滅相もないことです」

「なにを今さら、ぬけぬけと言い訳しおって」

「いいえ、決してそのような…」

「なにを減らず口を叩くか。お前の邪心はお見通しだ。嘘を並べわしを陥れる根端ではないか。それが証拠に、今回のことが示しておるわ。いい加減に観念せい。いくら足掻こうが、貴様など救われないわ!」

「そんな、部長。私はなにも嘘などついておりません。今回のことは深くお詫びします。直ぐに資料を作成しお持ちしますので、今暫くご猶予を頂きたいのです」

「ふん、言い訳ばかりしおって。見苦しいぞ、正木!」

「…」

「お前などこれからどうなろうと、わしゃ知らん。地獄へでもどこでも落ちるんだな」

正木は黙ったまま唇を噛み、恨めしそうに罵倒する田口を覗った。

「な、なんだ、その目は。辛気臭い目をしやがって。もう、遅いわ!」

「申、申し訳ございません…」

詫び深々と頭を下げた。すると、田口が白々しく告げる。

「ううん、正木。どうせお前は地獄へ落ちるんだ。冥土の土産に、いい話を聞かせてやろうか?」

そう言われ、正木は田口がなにを言おうとしているのかわからなかった。

「お前も、馬鹿な野郎だのう。課内の女と寝るなんて、最低の男だ」

「いいえ、それは。身に覚えのないことでして、朝起きたら隣に酒井君が寝ていたもので、私はなにもしておりません」

「なにを今さら軽口を叩いておる。お前は、部下の女に手を出したんだ。そんな言い訳けは通用せん。そんなこともわからんのか」

「で、でも。部長、何故このことを知っているのですか?」

「お前も、頭が悪いの。そんなこと直ぐにわかるわい。貴様が犯した当日、酒井君がきて、泣きながら訴えたからな」

「ええっ、そんな。話しが違う…」

「なにをごちゃごちゃ抜かしている。事実は事実だ。この件を局長に報告したらどうなるか。ううん、どうなると思う?」

「あああ…、そればかりはお許し下さい」

「なんだ、その態度は。急に変わりおってからに。ふん、今度はわざとらしく、下げ被面つもりか」

「…」

「お前も部下に手をつけるなんて、どうしようもない阿呆だな。どうする、正木。お前の一生など、わしにとってどうでもよいことだが、一応貴様の上司だ。無下に話半分も聞かず報告したんじゃ、いい気持ちがせんでな」

「部、部長…」

嘆願する目で視ると、田口が見下げる。

「どうだ、正木。わしと取引するか?」

「えっ、取引…?」

「そうだ、取引だ。以前にもしたではないか。そうそう、お前の愛する山城君の件でな。まあ、あの件は程よく成立し、わしの面子も保てた。そのかわり、彼女の密事も公にせずすんだではないか」

「ううう、…部長」

「なんだ、その陰鬱な目は。そうか、その気がないということだな」

「あっ、いいえ、部長。そんな…」

「それじゃ、どうする。応じるのか。即答しろ!」

田口が高圧的にでた。正木はなんともし難たかった。田口がなにを要求しているのかわからないからだ。視線を落とし、見据えることが出来ずにいると、次の矢が飛んでくる。

「正木、そんな難しいことではないぞ。お前が了解すれば、それですむことだ」

「…」

「どうだ、お前の密事が知られては、どうにもなるまい。わしの胸先三寸で、この件は伏せることだって出来る。貴様とて、それが一番望むところではないのか?」

慇懃な口調で迫った。

「部、部長…」

正木が肩を落とす。

「そうか、応じるのだな。ううん、いい心掛けだ。それじゃ、要求というか、お前さえ首を立てに振ればそれですむ」

「…」

「お前の彼女、山城夏美を一晩貸して貰えんか?」

「ええっ、なんですって。部長、今、なんとおっしゃいましたか!」

目の玉をひっくり返し聞き直した。言われたことが、直ぐに飲み込めなかった。絶対に有り得ないことを告げられたのだ。

「だから、今言っただろう。一晩でいい、貸してくれんか」

「…」

あまりの唐突さに言葉を失った。真っ白になった頭が錯綜し、辛うじて告げる。

「部、部長。そ、そんなことは…」

「なにっ、わしの言うことが聞けんというのか。そうか、それならばらしてもいいんだな」

「部、部長。そればかりは…」

「お前は、まだ気づかんのか?」

「はあ…?」

「薄鈍い奴だ。言っている意味が、わからんのかと聞いておる」

「そう言われましても、お貸しするとかしないとか、そういう問題ではなく。そんなことは出来ないことでして…」

「なにを寝とぼけている。夏美を一晩貸してくれと言った意味が、まだわからんのかと問うておるのだ」

「…」

「そうか、わからんか。それじゃ仕方ない。話してやる。もうすでに頂いておる。それの事後承諾ということだ」

「ええっ、なんですって。部長、どっ、どういうことですか!」

「だから言っただろ。わしと夏美は、もう男と女の関係になっているということだ」

「馬、馬鹿な…。そんなこと有り得ない。夏美がそんなことをするはずがない。嘘だ。あんたの言っていることは作り話だ。俺を陥れようとしている罠だ!」

拒絶すべく叫んだ。すると、田口が制する。

「正木、よく聞け。お前のことが知られたくなければ、言う通りにしろ。このことは、夏美も同意の上での関係だ。だから、信じようがしまいが本当だ。それ故、取引しようと言ったではないか。承諾すれば、ことは丸く収まる。お前にとって一番よい選択ではないのか?」

田口の言うことに、思考が逆回転していた。

「…」

「そうだろ、お前だって夏美のことを愛しているんだろ。そこにわしが時々加わっても減るもんじゃない。ものは考えようだ。わしとお前で、交互に責めてやれば刺激が増し、彼女も大いに悦ぶというものだ。どうだ、いい案だろ」

「…」

声が出なかった。

「そう言えば、この前抱いてやった時、随分燃えて悦んでいたぞ」

田口がいやらしい目つきで告げた。

「うぐぐぐ…」

あまりの衝撃に、正木は混乱し発狂しそうになっていた。まさか、愛する夏美が田口の毒牙にかかっていようとは、とても信じられなかった。ぬけぬけと語る口調に、現実味を帯びているのが辛かった。

否定するなか、衝撃波が全身を砕くほど覆い尽くした。そして、沈みゆく奈落の底で、ふいに思い起される。

そういえば、夏美の変わりよう。ああ、このことだったのか…。正木は夏美の変わり様を悟った。最近の急変が蘇えり、田口の言うことが真実であることに気づく。

どうしてだ。どうして、こんなことになってしまった。電話での態度が変わり心配していたのに、まさか、このことだったとは…。

遠くで許しを乞う夏美の涙声を聞いていた。

「裕太さん、許して。もうこれで終わりなの。会うことは出来ないわ。ご免なさい、ご免なさい…」

悲しげな顔がぼんやりと浮かび、やがて消えた。

「夏、夏美…」

がっくりと膝をついた。

「うううう…」

目の前のすべてが崩れていた。

田口の慇懃な眼差しが、呻く正木に注がれる。

「なあ、正木。そう気を落とすことはない。夏美の行為を、お前が許してやれば、それですむことだ。これから三人で仲良くやろうじゃないか。そうすれば、お前の失態だって闇に葬ってやる。どうだ、それでいいじゃないか。なあ…」

「…」

正木は返す言葉を遮断した。

「それじゃ、取引は成立だ」

呆然とする正木を尻目に、田口がそう言い残し満足気な顔で会議室から出て行った。

「あああ、な、な・つ・み…」

一人残る室で、正木の悲痛な呻き声が漏れていた。



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