第五章生き地獄 一節

正木は、激しい頭痛の中で目を覚ました。

昨夜の飲み会で、打ち上げ後の記憶がない。悪酔いの残る中、思い出そうとするが出て来ない。頭を叩こうとした時、ふと隣に女性の気配を感じる。直感的に夏美だと思った。自分の部屋に戻り、彼女と一夜を伴にしたのだと思い込み、愛しそうに手を差し伸べ肩に触れた。だが感触が違った。

「ややっ、これは…」

急いで上半身を起こし、背を向け眠る彼女を覗くが夏美ではなかった。

「わあっ!」驚き声を上げた。

すると、寝ていた弥生が振り向き、目を丸くする正木を見て微笑む。

「おはようございます」

「な、なんだ、酒井君。どうしてここにいる?あいや、これは。俺の部屋ではない。どうした、どうなっているんだ!」

錯乱する正木に、弥生が猫なで声で応じた。

「あら嫌だ、課長。私を誘ってくれたでしょ。あれだけ激しく私を犯したのよ。覚えていないの。悲しい、私、泣いちゃうから」

顔を覆い涙ぐむ真似をすると、正木が慌て否定する。

「いやや、そんな。君を誘ってなんかいない。夏美と約束していたんだ…」

しどろもどろになると、けろりと弥生が否定した。

「なにを言っているの、夏美さんなんかいないわよ。昨夜帰り際、酔った勢いであなたたち喧嘩していたじゃない」

「いやっ、そんなことはない。喧嘩などしていない…」

「なに、寝とぼけているの。夏美さんと口喧嘩して、課長ったら私を誘ってくれたくせに」

「そ、そんな…」

「嫌ね、夏美さんだって。課長のこと『嫌い』とか言って、『飲み直しに行く』と告げ他の男性らと店を出て行ったわ。覚えていないの?」

正木はますます混乱した。

「いや、そんなことはない。締めの乾杯までは覚えているが、その後は…」

動揺する正木に、平然と告げる。それも、事前に田口と共謀していた罠である。

「まあ、課長ったら。乾杯のあとのことよ。それで誘ってくれたくせに。私、前から課長のことが好きだったから嬉しかった。それで、私の操をあげたの。それを、そんな言い方されて。私、騙されたのね」

「いや…」

正木は拒絶できなかった。さらに弥生が畳み掛ける。

「夏美さんに振られた腹いせに、私を騙し情事を楽しんだだけなのね。そんなの許せないわ!」

「あいや、そんなことは。なにかの間違いだ。君を騙して寝ようなんて考えてはいない。ただ…」

「ただ、なによ。まだ、私を虚仮にするつもり!」

「そんなことはない。ただ、あの時。そのあとのことが、全く覚えていないんだ。だから、君を誘ったと言う記憶がない」

「でも、課長。こうして一夜を過ごしたのは現実よ。肉体関係を結んだことは事実だわ」

「ううう、そんな…」

正木はどうにもならなかった。確かに、合コンの前に夏美と契りを約束したことは覚えている。だが、打ち上げ後のことが思い出せない。

締めの乾杯をしたのは覚えている。でも、意識が朦朧としてきて、「その後どうなったんだ…」正木の記憶が途切れていた。

ベッドの上で正木は、がっくりと肩を落とした。その様子を、弥生が窺がいつつにんまりとし、そそくさと服を着て化粧を直し甘える仕草で告げる。

「課長、これからは他人ではないのね。だから、私、あなたの子供が欲しいの。いいでしょ。それに、時々会ってくれない。いいのよ、正式に結婚なんかしなくても。だって、課長には夏美さんがいるんだもの。将来、結婚されるのよね」

「…」

「だから、私はいいの。あなたの子供を産んで、二人で静かに暮らすわ。ねえ、裕太さん」

途方もない言い草に、正木は慌てた。

「待、待ってくれ。そんなこと出来ん。今度のことはなにかの間違いだ。だからといって償いはする」

「いいのよ、無理しなくても。お互いに黙っていればわからないことだから。そう、二人だけの秘密にするの。もちろん、夏美さんにだって知らせたら駄目よ」

弥生が執拗に責めた。正木はどうにもならなかった。よもやこんなことになろうとは思いもよらなかった。

「それじゃ、私、先に帰るわね」

そう言い、にこりと微笑み部屋をあとにした。正木はそれを無言で送り、がっくりと肩を落とす。後悔すれどどうにもならない。そしてさらに、夏美がその後どうしたのかと、躊躇いつつも不安が募っていた。


「あああ…、裕太。いい、もっと。ああん、もっと強く…」

夏美は夢中で迎い入れていた。正木の求めに応じ、激しく反応する。

「いい、裕太。愛しているわ。あああ…、好きよ、ああ、嬉しい…」

目を閉じ快楽の満ちる中で、目一杯甘え悶え上り詰めていた。だが、何時もの正木の動きと違和感を覚え、空ろに目を開けた。ぼやける顔が映るが、気持ちのよさに思わずしがみついた。ところが、何時もの匂いではない。はっとして目を見開くと、裕太ではなかった。

「きゃあ!」

夏美は絶叫を上げ、その男を跳ね除けようとしたが結ばれた身体は離れなかった。その脂ぎる顔の男は、拒絶する夏美を強引に押さえつけ、渾身の力を込め激しく動き一気に放出していた。

「うっ、ううう…」

大きな身体が、彼女の上に覆い被さった。夏美は堅く目を閉じ力を抜く。閉じる目から涙が溢れ出ていた。男がむっくりと起き告げる。

「どうだ、夏美君。随分よがっていたが、気持ちよかっただろう」

その声を聞き、目を開け驚愕した。まさか、こともあろうに正木の上司である田口であろうとは。

「わあっ!」驚き跳ね除けていた。ベッドの隅で毛布を巻き怯え窺う。

その仕草を見つつ、「うむうむ、お前も好きだな。このわしを、誘うんだからな」好色の目で告げた。

「いいえ、そんなこと…」

夏美が青ざめた顔で弱々しく否定すると、田口が脂ぎる顔で傲慢に言い放つ。

「なにを言うか。お前から誘ったんだぞ。正木君がいるからと断ったじゃないか。それを、君らは口喧嘩してこうなったんだ。わしのせいじゃない。酔った勢いで執拗に迫ったくせに」

「…」

「こうして一夜を過ごしたのも、お前のせいだからな。そうそう、正木君と君が喧嘩したことは皆知っているぞ。なんなら酒井君らに聞いてもよい。嘘じゃないから」

「で、でも。私たちそんなことしないわ。私…、昨夜、裕太さんと喧嘩した記憶がないもの…」

後悔に陥る中で懸命に記憶を遡った。それを田口が真っ向から遮断する。

「いいや、そんなことはない。それじゃ、どうしてわしとここにいるんだ。お前は説明できるのか。わしに疾しいことはない。どうしてもお前が正しいというなら、出るとこへ出ても構わんぞ」

「そ、それは…」

夏美が手で顔を覆う。

「私、こんなことになって、裕太さんに合わせる顔がない…」後悔の涙が溢れていた。すると、見透かすように嘯く。

「うむ、わしとしても、どうしょうもない。酒の勢いで、お前の誘いに乗ってしまった。断ればよかったものを。この老いぼれが、他部署の女と関係を持ったなどと公然と言えんからな。うむ、困ったものだ…」

しくしく泣く夏美に、偽善の優しさを投げる。

「夏美君、こうなった以上後には戻れん。そこでだ、二人だけの秘密と言うことにしておかんか」

「でも…」

「いいや、黙っておれば誰にも知られん。正木君にも内緒にするんだ。いいな、これしか解決する方法がなかろう」

「私、私、うううう…」

後悔の念に駆られ、夏美は泣くばかりだった。

「おっと、もうこんな時間か。わしも行かにゃならん。わかっているな。それにしても、君の身体いい味していたよ。堪能させて貰ったが、これ一回ぽっきりというのも惜しい気がする。

どうだ、夏美。わしの女にならんか。いいや、たまにでいい。二ヶ月に一度位でいいから抱かせてくれ。それなら、正木君にもわかるまい。たまには他の男に抱かれるのも刺激があっていいもんだぞ」

「…」

「何故黙っている。お前だって、今日のことは誰にも知られたくないだろ」

「…」

「そうだろ。それに、お前が学生の頃に男に犯されたこともな。黙っていれば、なにも起こらん。すべて旨く行く。だから、いいな。俺の女になるんだ」

「ええっ。そ、そんなことまで…」

夏美の息が止まりかけた。

「ああ、知っているぞ。暴かれたくなかろう、夏美…」

耳元で田口のいやらしい声が響いた。

「あああ…」夏美は悔やんでいた。何故こうなったのかわからないが、取り返しのつかぬ事態になったことが悲しかった。毛布で繰るんだ身体を硬くし、田口の言いなりにならなければならぬことを悔いた。

ああ、裕太さんになんて謝ったらいいの。彼が知ったら驚くだろう。いや、驚くだけではすまない。蔑まれ、彼との仲も駄目になる。とても、こんなことになったなんて言えない。気づいたらラブホテルで田口部長に抱かれていたなんて、とても話せない。心の中で悔やんだ。すると、後悔の呻きが口を突く。

「ううう…」夏美は涙が止まらなかった。拭い去ることの出来ない過ちを犯してしまったのだ。

ああ、なんとする。裕太さんに嫌われたら生きて行けない。私がいけないんだわ。彼に甘えてのこのこと飲み会について行き、調子に乗りお酒を飲みおねだりするから、こんなことになってしまったんだ。許して、裕太さん…。

胸の内で己を叱責していた。

俯く夏美に、田口が狡猾な笑みを含み告げる。

「夏美、さっきから泣いてばかりで返事がないが、いいんだな」

「…」

「悪いようにはせん。どうだ、気持ちがよかっただろ。わしの見るところ、悦びもひとしおだったようだが。わしの女になれば、この悦びが定期的に味わえるんだ。満更でもあるまい。あんなへなちょこ男など忘れてしまえ。そうすれば、他の女より可愛がってやるから」

「…」

「何故黙っている。そうか、承諾するわけだな。それじゃ、もう一度極楽へ導いてやろうか」

夏美の後ろから、毛布で包む胸を弄ろうとした。

「嫌、止めて下さい。私、あなたの女になんかなりません!」

夏美が田口を睨み手を払った。

「痛てっ、なにをするんだ。優しく言っていれば、頭に乗りやがって。ああ、わかった。お前がそういう態度なら。わしにも考えがある。今日のところは、黙って帰してやるがよく考えろ。大人しく言うことを聞かなければ職場でばらしてやる。そうなれば、お前も一貫の終わりだ。それだけではない。お前が従わなければ、正木がどうなるかわかっているな!」

田口が後悔する彼女に、これも仕組んだ謀略の脅かしを掛けた。

「ええっ、裕太さんにまで…!」

絶句し、絶望感が覆い始めた。急に悲しくなってくる。夏美の嗚咽と共に、頬に大粒の涙が溢れ出していた。

その悔やむ夏美の様に、田口の顔面に不敵な笑いが浮かんだ。征服宣言である。

「それじゃ、よく考えるんだな」

田口が捨て台詞を残し部屋を出て行った。夏美はただ泣くだけで動こうとしなかった。いや、動けなかったのだ。


数日が過ぎた。

正木は後ろめたさが残り、酒井とは意識的に顔を合わせようとしなかった。職場に重い空気が澱むなか、経理部が騒然となっていた。あの日以来、夏美が姿を表わさないというのである。なんの連絡もなく、無断欠勤するという事態が起きていた。

「課長、ご存知ですか?」

吉田が浮かぬ顔の正木に、遠慮がちに尋ねた。

「なんのことだ…?」

空ろに応えと、吉田が耳打ちした。

「じつは、経理部の山城さんが、合コンの翌日から出社していないそうです。いや、確かな情報じゃありませんが。そんな噂が立っていますが…」

「ええっ、夏、夏美が会社に来ていない?」

唐突の情報に、正木は驚愕した。告げた吉田が慌てる。

「あれ、知らなかったんですか。一体どうしたんですかね」

「うう、来ていない…」

正木は知らなかった。と言うのも、己に負い目があり彼女に連絡せずにいたのだ。あの日以来、正木は不安の渦に飲み込まれ、後悔し空ろいていた。もちろん、記憶の曖昧な酒井との一夜のホテルでの出来事である。

どう話してよいのか。もし、彼女に知れたら、なんとするだろうか。驚愕し俺を見限るだろう。それはそうだ。夏美にとって許せぬことをしでかしたんだ。打ち上げの乾杯のあと、気づいたら酒井君と一夜を過ごしていただなんて許されんことだ。理解して貰えないだろう、どう話したらいい…。

正木が思い悩んでいる時に、吉田に聞かされた。唖然とするなか、不安が急速に広がってきた。連絡せずにいたことを悔む。

負い目があるとはいえ、正木はあの夜以降、夏美がどうしているのかさえ確かめずにいた。無断欠勤していることなど、スマートホンで話せばわかるものを、己の非ばかり考え連絡せずにいた。

俺は、一体なにをしているんだ…。

正木の鼓動が早くなり、手が震えていた。破局になるのを恐れ、己の殻に閉じ篭っていたのだ。蒼白の顔面が引き攣った。

「課長、どうなさったんですか。顔色がおかしいですよ…?」

吉田が心配そうに、正木の顔を覗き込んだ。

「いいや、なんでもない。…なんでもないんだ」

正木は視線を避けた。すると、酒井が見透かすように声をかける。

「どうされました。もしかして、寝冷えして風邪でも引かれたんじゃないですか。具合が悪いようでしたら、半休して病院へ行かれた方がいいですよ」

「そうよね、酒井さんの言う通りだわ。早く治して頂かないと、お休みになって下さい」

森下が口を挟み気づかった。正木は居ても経ってもいられなかった。だが、そう促され都合がよかった。そこで仮病を告げる。

「ううん、どうも頭痛がして風邪を引いたようだ。君たちの言うように半休させて貰うか」

「そうして下さい。あとは私たちがやっておきますから」

「そうか、それじゃ甘えさせて貰うよ…」

正木の本音は、仕事どころではない。何時、酒井がホテルでの出来事を喋り出すか気が気でなく、胃が痛くなるほど神経を尖らせていた矢先である。そこへ降りかかった夏美の非常事態。正木は逃げるように職場を後にした。そして、自宅にこもる。

とにかく、彼女に連絡しよう。

そう決め、震える手でスマートホンを取り発信した。呼出音がなる度に、鼓動が高鳴った。

夏美が出たら、なんと釈明したらいいのか。早く出てくれ、いや、もう少し考える時間が欲しい…。

呼び音が鳴り続けるが、なかなか出ぬことに気づく。

うん?どうしたんだ…。

すると、カチャっと音がした。

「夏、夏美…」

正木の声が枯れていた。すると、彼女ではなかった。留守番電話の録音が流れてきたのだ。ほっとすると同時に不安が募る。

どうした、何故出ない…。

止む無く切り、ふたたび架け直すが状況は変わらなかった。不安の渦が覆い始めると、胸中で思考が急速に動き出す。

どうして出ないんだ…。こんなことなら、もっと早く連絡すればよかった。それを、己のことばかり考えていた。夏美になにがあったんだ。無断欠勤することなどないのに、連絡もせず休んでいるとはただごとではない。一体どうしたんだ。

正木の顔から血の気が引いていた。己の事どころではなかった。

なにがあったんだ。自分のことで悩んでいる時に、夏美になにかが起きている。それも気づかず怖気の殻に逃避していたなんて。なんたることか…。

焦りを覚えつつ、再度かけてみる。

「お客様がお架けになりました電話番号は、電源が切れているか、電波の届かないところに架かっております。もう一度お架け直しになるか…伝々」

無常な案内に目の前が暗くなった。ソファーにしゃがみ込み、顔を両手で覆った。

弥生とのことがあって以来、正木は食欲がなかった。出社し昼食も、一人喫茶店でなにも食わず虚ろぐばかりだった。かろうじてこの不安から逃れるため、退社後酒をあおる。そうせざろう得なかった。衰弱した身体に、大量の酒は決していいはずがない。精神的に追い詰められ、肉体が壊れて行く。正木の身体はぼろぼろになりかけていた。それでも毎晩飲み歩いた。己の犯した罪を、一時的にせよ忘れようと深酒に溺れる。

そんな中で、夏美の無断欠勤を知ったのだ。ところが、彼にとって一番欠けていたのは、彼女のスマートホン番号以外知らなかったことだ。どこに住んでいるのか、正確に聞いたことがない。情事はラブホテルか、呼び寄せ正木の部屋で行われていた。後悔する。

世田谷の三軒茶屋までしか知らない。何故、もっと詳しく聞いておかなかったんだ。まったく馬鹿な俺だ。

正木は不甲斐ない己が情けなかった。

電話に出てくれ、お願いだ。そして、「なにもない。風邪を引き寝込んで連絡出来なかった」と元気な声を聞かせてくれ。

願うだけで、ついと悪い方へ考えが向き、不安が募るばかりだった。

それでも正木は、泥酔し深夜帰宅しては電話を架けた。架ける度流れるのは、留守番メッセージである。

「あなたのお架けになりました電話番号は、電源が入っていないか。電波の届かない…」

抑揚のないメッセージに、ぶつける暴言が飛ぶ。

「くそっ、どうして繋がらないんだ。なにがあった。頼む、出てくれ!」

焦る気持ちが声を荒げた。眠りにつける状態ではない。

どうして、聞いておかなかった。何故、夏美の部屋で抱かなかった。

後悔の念が、正木の頭の中を渦巻いていた。

職場は違うが、同じテレビ局にいるという安心感があったのか。何時でも、内線電話で話しが出来る安易な気持ちや、スマートホンで不都合がなかったことからか。住む住所を聞いていなかったことを、この状態になって愚かさと軽率さを嫌というほど、正木は味わっていた。

危機感の募るなか、なんの進展もなく数日が過ぎ行く。もちろん、その間なにもしなかったわけではない。昼間は人目を避け、さらに深夜彼女のスマートホンにかけ続けたが、一向に解決のないまま今日に及んでいたのである。正木の顔に焦燥感が表れてきた。

課員たちも、正木のあまりの変わりように戸惑うが、返事は何時も同じである。

「いや、なんでもない。心配しないでくれ。仕事を頑張ろう」

これだけだった。

そのうち課員らは、一向に改善せぬ正木になにも言わなくなった。彼とて、頼よれるものがあれば頼りたかったが、相談する相手がいず苦悶の日々が続き限界に近づいていた。

そんな時だった。ほとんど希望の火が消えた状態で、深夜に電話をかけた。留守番電話の録音とは違う声が出た。耳を疑うが、夏美の声だった。

「夏、夏美か…」

「ええ…」

か細い声が耳に入ってきた。必死に聞き取り、震える声で尋ねた。

「ど、どうしたんだ。何回、電話をかけたと思っている。どうして出ない。心配していたんだぞ」

「ご免なさい…」

謝るだけで理由が返ってこない。

「ただ、謝るだけではわからない。何故、出なかったのか教えてくれ」

「それは…」

夏美の言葉が詰まり、しゃくり上げる涙声に変わっていた。

「ご免なさい」

「電話で言えないなら、これから君のところへ行く。だから、住所を教えてくれ。三軒茶屋のどこなんだ」

「ご免なさい」

「夏、教えてくれ。直ぐに会いたいんだ!」

「駄目、駄目なの。もう、あなたとは会えない」

「な、なにを言う。どうしてそんなことを言う。会えないなんて、何故言うんだ!」

「駄目、理由は言えないわ。ご免なさい」

泣きながら謝った。正木が必死に声をかける。

「夏、よく聞いてくれ。君を愛している。なにがあっても、気持ちは変わらない。信じてくれ。だから会いたい、お願いだ。住所を教えてくれ、三軒茶屋のどこなんだ。直ぐに行くから、なにも言わなくていい。君を抱き締め、顔を見るだけでいいんだ!」

「裕太さん、私だってあなたを愛しているわ。だけど、もう会えないの」

「それじゃ、今直ぐでなくていい。落ち着いたら会おう。けれど、スマートホンだけは出てくれ。君のことが心配でどうにもならない。でも、今君と話しが出来たことで、少しは安心した。夏美、元気でいるのか。どこか、具合いでも悪いのか」

「ええ、大丈夫。でも…」

「でも、なんだ。話してごらん?」

「いいえ、とてもあなたに話せることではないわ」

「いいや、そんなことはない。なにがあっても耐えてやる。だから、話して欲しいんだ」

「駄目なの。話すことなど、とても出来ない…」

「それじゃ、今は聞かない。気持ちの整理がついたらでいい。その時話してくれないか。でも、約束してくれ。電話に出るか、話すのが辛いならメールでもいいから」

「…」

「それに…、夏美。聞いてくれるかい。じつは…、いや、なんでもない」

「どうしたの、裕太さん。なにかあったの?」

「いいや、なにもない。君に心配かけさせたくないんだ」

「なにかあったのね」

「いや、案ずるな。それより、君の方が心配だ。夏美、なにがあったか知らないが、俺に話せないことでも、それが不可抗力で生じているならそれは仕方のないことだ。君と俺との間は、そんなことで崩れるほどやわじゃないはずだ。そう信じているし、夏美だって同じだろ。だから、会ってくれ」

「ううん、でも、今は駄目なの。とてもあなたに会える状態じゃないわ。私は悪い女なの。会社は無断欠勤するし、あなたがくれる電話だって出ない。そんな女。あなたから見れば最低よ。嫌われても仕方ない。もうこれ以上、迷惑をかけられない。だから、あなたと会えないの…」

そこまで言い、後は泣くばかりだった。

「夏美、落ち着け。どんなことがあったかわからんが、思い詰めることはない。そんなことしたって、なんの解決にもならん。だから、今日が駄目なら明日会ってくれ」

「裕太さん、もうこれ以上話せないの。ご免なさい」

電話が切れた。

「もしもし、もしもし、夏美! もしもし、な・つ・み…」

彼の耳に夏美の声は戻らなかった。直ぐに架け直すも繋がらず、何度かけても結果は同じだった。都度、空しい留守番電話のアナウンスが流れていた。

正木はがっくりと肩を落とし、崩れ落ちるように座り込んだ。居たたまれず部屋を飛び出し、飲み屋のカウンターで深酒を煽っていた。その後、どうやって帰ったか記憶が飛んだ。気づくと着ざらしのままベッドに横たわり朝を迎えていた。そのまま激しい二日酔いに悩まされつつ出勤するが、仕事に身が入るわけがない。自席に座り、虚ろいでいる時に机上の電話が鳴る。

「はい、正木ですが…」

出た途端、ぎくっとして姿勢を正した。離席中の酒井からだった。

「ねえ、課長。今晩付き合ってくれない。また、この前のように抱いて欲しいの。いいでしょ?」

「えっ、そ、それは…」

受話器を片手で隠し、小声で返した。すると、酒井が脅かしをかける。

「なによ、課長。それはって。まさか、断らないわよね!」

「は、はい。申し訳ないが。それは、難しいんです…」

正木は周りに悟られぬよう言葉を選んだ。

「あら、この前のこと。喋ってもいいのかしら?」

「ああ、それは。そんなことされては困ります…」

 正木の弱みに、酒井がかさにかけた。

「そうでしょ、困るんでしょ。それだったら、付き合ってくれてもいいんじゃないの?」

「そ、そうはいいますが、ちょっと難しいんで…」

「大丈夫よ、誰にも喋らないから。だって、こんなこと部長に知れたら、大変なことになるものね。けど、心配しないで。私、あなたのことが好きだから。今晩、抱いてくれたら喋らない。それに、あなただって、この前私を貪るように愛してくれたじゃない。気持ちよかった。だからもう一度、そんな気分になりたいの」

「でも、そう言われても…。あの時のことは記憶がないんだ。だから、そんなことは出来ない」

つい気配りを忘れ、正木はきっぱりと告げていた。

「わかったわ、仕方ないわね。今日のところは諦める。でも、忘れないで、また誘うから。そうね、単刀直入に言うからいけないんだわ。それじゃ、食事に誘ってよ。そうだ、またこの前みたいな合コンでもいいわね。それの方が自然だし、その後二人で楽しめばいいんだから。そうしましょ。ねっ、裕太」

「うむむ…」

正木は返す言葉がない。これ以上抵抗すれば、秘め事がばらされると思うと、強く断れなかった。

「それじゃ、今晩は寂しいけれど膝を抱えて寝るわ。それで合コンの方は私が段取るから。そうね今度は、田口部長は抜きよ。制限も設けないの。予報課だけのペア合コンにする。ええと、吉田君と森下さん。それに私とあなた。後の川口さんには、私が相手を捜しておく。そうすれば、三組のペアが出来るでしょ」

「…」

黙って聞いていた。さらに酒井が調子づく。

「場所と日時は吉田君たちと相談して決めるわね。だから、二人だけの秘密を大切にして楽しみましょ」

「…」

「それじゃね、裕太。愛しているわ」

酒井が一方的に切った。正木は無言のまま受話器を戻し、パソコンの画面に向う。

こんなことが、何時まで続くのか。なんとかせねばいいように弄ばれ、やがて破滅に向うだろう…。

己に科せられた忌まわしき出来事は、強引に撥ね付ければ失態に繋がる。このことが社内に知れる事態はなんとしても避けたい。田口に及ぶことは、決してあってはならないのだ。こんなことが部長に伝われば、それこそ俺を蹴落とそうと、局長に言いふらすだろう。それに酒井を怒らせば、なにをしでかすか。だから、安易に突き放すわけにいかない。

今夜の誘いは回避できたが、次の手を打ってきている。痛いところを突いてきた。課内の飲み会では、不参加というわけにはいかない。それも忌まわしきペア合コンをするというのだ。これは、なにか裏があるのではないか…。

正木は誰かに酒井が入れ知恵され、脅しをかけてきているように思え一抹の不安を隠せなかった。そんなぎこちない態度を見透かすように、酒井が澄まし顔で戻りパソコンに向っていた。

正木は、そんな彼女を直視出来ずにいた。いや、意識的に避けた。それは、今しがた受けた誘いを公にされるのを恐れてと、さらに一晩伴にしたことを吹聴されたくないからだ。

いくら記憶がないと主張しても、通用しないだろ…。正木はそれを意識すると、尚更酒井のことが気になった。

すると、正木の業務遂行に著しい変化が現れ、どことなく動作にぎこちなさが目立ってきたのである。それが特に生じたのが、敗者の正木と勝者の酒井の態度であった。あの時以来、課内での振舞いやチームミーティング。更には、部長を交えたチェック会議で明確に現れた。

その中で顕著だったのが、今までにない正木の統率力低下であり、発言内容での曖昧さの増加である。

これが吉田たちには、不可解なものに映った。ただ、田口はそうではない。何故なら酒井の行為はすべて筒抜けだし、密かに裏で糸を引いていたからだ。      

この陰険な罠に嵌っているとも知らず、正木は不安な日々を己のコントロールも儘ならず、陰謀と邪策に振り回されていた。さらに彼にとり、変わり果てた夏美の電話口での応対が、致命的な如何なるものかを知らなかったことである。 

日々行われるチェック会議で同席する田口が、まさか彼女を犯していたとはまったく知らず、己の失態を隠しながら参加していたことになる。

そんな怖気づいた正木を田口はにんまりと眺め、蝕まれてゆく様を楽しむように正木の首に巻いた真綿を絞めていった。

そのためか予報課の業務効率は、極端に低下した。その原因は、正木の業務に対する集中力の低下であることは明白である。それが直に結果として現われた。まず影響を受けたのは課員たちだ。正木の激変に心配し、気を揉みつつ従事する中で、正木の指示にも不適切さが続くと混乱し始めた。それでも、培われた習慣や気概がそれを補い、気象予報課もなんとか的確に予測し続けてきたのだが、それも限界があった。始めに、吉田が精彩を欠き、細かいミスを連発しだすが、それをスクランブルチェックが摘み取り予測外れだけは免れた。それが出来たのも、気の緩みがちな課内で、森下の存在が大きかった。正木の実質的な補佐役である彼女が、脱線しそうになる課員たちを叱咤し、奮い立たせたことで維持されていた。

「吉田君、駄目じゃないの。自分の仕事が終わったら、必ず見直さなきゃ。そうすれば、凡ミスは防げるはず。そうてしょ、気象マークの取り違いなんて、素人でも起こさないわよ!」

「ううん、悪かった。どうも最近、気持ちが乗らなくて仕事も集中できないんだ。そうだよな、こんな凡ミスは課員として失格だよな」

「そうよ、それがわかっていて。雨と晴天マークを取り違えるなんて。もっとしゃきっとしなさい!」

強く言い含めるが、直ぐにフォローする。

「でも毎日忙しいし、たまには間違えることもあるわよね。生身の人間だもの、体調が悪い時なんか往々にしてあるわよ。そのために、スクランブルチェック機能があるの。全員で点検し合えば、ミスも防げるわ。けれど、それは最終手段。その前に各自が自分の業務に集中しなければね」

「そうだよな。俺、ついそのことを忘れてた。ご免」

吉田が苦笑いし、頭を掻き詫びた。課内の纏めを献身的にする森下の姿をみて、正木は己の不甲斐なさに頭を下げる。

「皆、申し訳ない。この俺がだらしないから、こんなことが起きるんだ」

「いいえ、課長。そんなことはありません」

森下が否定した。

「俺がもっと真剣に取り組めば、森下さんに注意されるようなミスも起きない」

吉田が謝ると、「決して課長のせいではありません。私の不注意です。今後はこんな間違いを起こさないよう気をつけます」森下が繕い、吉田にはっぱをかける。

「さあさあ、これでいいでしょ。課長も吉田君も時間がないのよ。最終チェック会議に間に合わなくなっちゃうじゃない。遅れたら、また陰険部長が怒鳴り散らすわ。嫌だものね、あの鬼のような顔見るのわさ」

 すると、吉田が気張る。

「そ、そうだよな。森下さんの言う通りだ。さあ、至急片づけちゃおう!」

正木は森下の奮闘に感謝した。落ち込む己を奮い立たせようと頑張る彼女の姿に目頭が熱くなるが、心の奥に潜む不安が直ぐに蝕んできて、苦しむ夏美の顔が思い出され手が止まっていた。

電話口での夏美が蘇える。

「あなたに迷惑をかけるわけにはいかない。だから、もう会えないの。ご免なさい、ご免なさい…」としゃくりあげる涙声が、頭の中を駆け巡った。

どうしたというんだ。何故、会うことが出来ない。一体なにがあったんだ。夏美、何故話してくれない。それに俺だって、君に言えないことがある…。 

待、待てよ。もしかして、夏美が知ってしまったのか。あの晩、酒井と過ごしたことを。酒井が告げ口し、それが許せず苦しみ決別を望んだのか…。

いいや、そんなことはないはずだ。でも、よもや夏美の隠し事をねたに、田口が脅かしているのか。どうなんだ。わからん、ううう…。

頭が混乱してきた。そうなると、仕事どころではなくなる。鼓動が激しくなり、手が震えだした。

「どうされましたか、課長。顔色が悪いですが…?」

森下が様子の変わった正木に声をかけた。

「いや、なんでもない。少し体調がよくないだけだ。直ぐに治まるから気にせず進めてくれ。時間がないからな」

「ええ、わかりました」と心配そうに見守る吉田たちに目配せし仕事に戻る。そんなことがたびたび起きていた。

大きな失敗は、小さなミスの連続から生じる。それは他部署でも同じだ。正木たちの課だけが特別ではない。ミス発生防止のために、機能しているスクランブルチェックとて万全ではない。今まで正木を中心に、各課員が責任遂行の下に業務をこなした上での機能発揮である。肝心の中心的存在である正木が脱落することで、課員の業務遂行力を結果的に下げることになった。その誘発は、やはり吉田の単純ミスからで、スクランブルチェックでも見逃された。

ことの発端はこうだ。

前にも犯した単純ミス。それは、天気予報図内に示す気象マークの取り違えだ。普段なら誰でも気づくマークの違い。夏至が過ぎ太平洋高気圧の勢力が落ちると、冷たいオホーツク海高気圧が張り出してくる。当然ぶつかる地域では天気がぐずつき、曇りか雨へと目まぐるしく変化するのだ。時間的推移及び両高気圧の動きに合わせ晴れマークから曇りあるいは雨マークに変えなければならない。それを変更することなく、天気予報図からそのまま予測を読み取ってしまったのだ。

本来であれば、誰かが気づき修正するが、結局スクランブルでも見逃し夕方の気象情報として流した結果、予報が外れてしまった。

正木が慌て検証したところ、その原因がマーク取り違えのミスであることに気づいた。反省会議で詫びたが、田口が許さなかった。

「正木君、君は課長という立場でありながら、そんな単純ミスも気づかぬようでは管理職として失格だ。それに、課員全員がぶったるんでいるから、こんなことが起きるのだ。ついこの前、残暑払いを行ったが、なにか勘違いしているんじゃないか。いい気になりおって、気が緩んでいる証拠じゃないのかね!

特に課長はそれが目に付く。それにだ、課内の風紀も緩んでいると聞く。『火のないところに煙は立たん』と言うが、今回の件でそれがはっきりした。正木、一体どうなっている。それになんだ、君は最近ぼけっとしていることが多いらしいな。ええっ!」

見透かすように欺瞞の目が光る。

「どうも、よからぬ噂が立っている。男と女の関係は、誰にでもあることだが、それが原因で今回のような失態が起きるようでは、厳重に注意せにゃならん。しっかりせんか、この馬鹿者が!」

この機に乗じて、田口が課員らのいる前で雷を落とした。それも、元を質せば田口が仕組んだ陰謀によるものであり、さらに正木が心配する夏美のことも、この男が指触を伸ばし陥れたことが原因である。それを操っていながら、堕ち行く正木に田口は攻撃の手を緩めなかった。反省会での仕打ちも度を越した。些細な間違いでも、演技なのか机を叩き容赦ない罵声を浴びせた。沈み込む課員たちと、それに輪をかけ正木が頭を垂れた。これらの責めは、さらに予報課員の士気を下げさせる結果となった。それも、田口が仕掛ける謀略だった。

正木はその卑劣な罠に堕ちたことになる。

連勝記録どころではなくなり、一度の予測外れが、二度、三度と狂いを誘発させる。それも短期間に生じる状況となり、業務遂行が正常さを失った。正木の統制力がなくなり、吉田ら課員たちの結束も崩壊寸前の有様となっていた。

気象予報が度々外れだすと、当然視聴者からクレームや励ましのメッセージが入る。連勝記録中は、応援メッセージが多数を占めた。その中で外れると頑張れの励ましが加わる。しかし、度重なる今日では、お叱りのクレームが殆んどだった。

他部署の連中が視聴者から受ける苦情で、連勝記録を伸ばしている頃は嫉妬心の傍ら協力的だったが、それが今では視聴者と同様に、気象予報課を目の仇にした。

そんな変わりように、田口はさらに攻め、心内でほくそえむ。

思った通りだ。守備上々というところだな。さてと、また奴を痛めつけるか。

正木を会議室に呼び、どうでもよいことを理由に挙げ、ねちねちとあるいは恫喝しながら責め立てた。

正木になすすべがない。叱咤されるまま、胃に穴が開く思いで低頭するばかりとなる。

「申し訳ございません。本当に申し訳ございません…」

「なにをやっておる。こめつきバッタでもあるまいし、ただ頭を下げれば、それで済むと思っているのか!」

「…」

「わしはお前の上司として、どれだけ迷惑を被ってきたか。すべて貴様のせいだ。局長には怒鳴られ、さらに役員からは、このまま放置するならわしの将来はないと脅かされている。一体どうしてくれる。お前がそんな体たらくだから、このわしが責められるんだ!ああ、これで昇進も水の泡と消えた。貴様みたいな屑の阿呆部下を持ったせいでな」

「…」

正木は無言のまま頭を下げ続けた。

「おい、黙っていれば許すとでも思っているのか、この馬鹿者が。なんとかせい。なんとか!」

「は、はい。申し訳ございません」

平伏す正木に、田口は勝ち誇ったように見下す。

「しかし、お前らの連勝記録など、所詮能無しからすればこれが実態で、まぐれでしかないと言うことだ。それを有頂天になりおって、陽炎の道を歩んでいたからこの様なんだ。なんともわしは、お前みたいな部下を持ちえらく損した。今度こそ配転時期がきたら放り出してやる。そうでもしなけりゃ、この身がもたん。まあ、それまで持つかだがよ。こんな調子じゃ、音を上げるのも時間の問題だろうて」

意地悪く罵り、さらに嫌味を言い出す。

「だいいち寛大な気持ちで許しても、これだけ視聴者から苦情が入っては局としても続投させるわけにはいかんな。正木よ、この際潔く社を去ったらどうだ。そうすりゃ、お荷物の厄介者がいなくなり、わしもすっきり寝られるからよ」

正木は田口の罵詈雑言に耐えていた。それでも飽き足らず、さらにしつこく浴びせる。

「まあ、お前の人生などローソクの炎のようなものだ。まぐれで気象予測が連勝してきて、鼻高々になり背伸びしおって。そんなもの長く続くわけがない。現にそうだ。一時的に輝いただけで、ちょいと息をかけられて消えたわい。局長に対しても、もうこれ以上庇い立て出来ん。お前自身、今にも消えそうな炎だ。なんなら、わしの手で握り消してやろうか。どうだ、正木。そうして貰いたいか。わしに消されれば本望であろう」

脂ぎった様相で慇懃に責める目は異様に光り、正木の心臓をえぐるように射られていた。その傲慢さは正木が気づいていない、夏美を罠にかけ己がものにした悪欲をも含んでいた。

それが、正木に対する攻撃手段であることは、田口の心を異常なまで冷酷にさせ、高ぶらさせることだった。二重、三重の波状攻撃が容赦なく正木を駆逐し、反論させる余地さえ与えず、その知恵も勇気をも削いでいった。

黙り俯いていると、田口が調子づく。

「そうだろうて。なあ、正木。なにも反論出来まい。すべからく結果がこれだからな。本来であれば助けてやりたいが、まともでないお前など救う価値が見つからんで。それを庇ってやっては、他の者らに示しがつかん。後は自力で挽回するんだな。これまでのまぐれのように、予測の連勝記録でも作れば救われることもあろうて。まあ、無理な気もするが、精々頑張ることだ。それじゃ、わしは他に用がある」

うな垂れる正木を見下し、会議室を出て行った。

今の正木には、反論する気力がなかった。残されたままうずくまり、じっと動かずにいた。どうにもならぬ無念さが胸を突くと、目頭から雫のような涙が一筋流れると、硬く握った拳で拭う。

「う、ううう…」正木の心に、諦めとは逆に怨念の慟哭が、憤りと共に以前にも増して膨らんできた。

くそっ、なんという仕打ちだ。どれだけ俺を苦しめれば気がすむ。正当性を主張してなにが悪い。気象予測だって、我らが貧血注いで立てたもの。決して軽んじて成したものじゃない。それを罵詈雑言、あまりではないか…。

悔しかった。反論できぬ己が情けなかった。

それでも耐えた。

日々執拗に責める田口の所業に、正木はくじけそうになりながらも堪える。が、その反動で酒にのめり込んだ。毎夜の如く泥酔し、酔いの中に逃避した。

ある晩のことである。鬱積が溜まり、極限状態になっていたのかもしれない。

泥酔し意識も朦朧として、高尾行きの各駅停車に乗り三鷹で下車し、ふらつく足取りで家路へと向っていた。急ぎ足で抜き去る足音や遠ざかるタクシー音など、雑音が哀れむように周りを通り抜け、酔いとともに雑然と聞こえていた。

そんな中で、正木が暴言を吐く。

「くそっ、てやんで田口の馬鹿野郎。偉そうに俺らのミスを誇張しやがり説教ばかりか、将来がねえだと。ふざけるなってんだ。手前のことしか考えねえ野郎が、それでも上司か。部下の足を引っ張り、役員には媚を売りやがる。お前みたいな奴がいるから、会社がおかしくなるんだ。糞ったれのこんこんちき!」

よろめき歩いていると、重石で頭を殴られたように頭痛が襲った。

「ういっ、痛ててて…。頭が痛てえな。それにしても飲まなきゃいられねえ。ううう…、なんだか気持ちが悪くなってきたぞ。うぐっ、うぐぐ、ううっ!」

吐き気を催し、立ち止まり口を押さえ背中を丸めた。

「げぼっ、げげぼっ、げええっ!」

耐え切れず吐いた。あまりの苦しさに涙が滲む。吐き終えると幾分落ち着くが、なにやら空しさが込み上げてきた。すると、心の奥に沈殿する苦渋顔の夏美が浮かんでくる。

夏、夏美…、どうして会ってくれない。電話にも出なくなったし、行きたくても住所もわからない。何故なんだ。何故こんなことになってしまった。でも、俺自身にも打ち明けられないことがある。まさか、お前以外の女と寝ていたなんて、口が裂けても言えない。あの夜…、参加させなければよかったんだ。そうすれば、こんなことにならなかったのに。ああ、俺としたことが。なんて謝ればいい。どう打ち明ければ許して貰える。いいや、無垢なあいつは許しくれんだろう。ああ、取り返しのつかぬことをしてしまった。これで夏美は、俺から離れてゆくのか。そうなったらどうする。ああ、気が狂いそうだ。うううっ…。

嘆きつつ、胸が張り裂けんばかりに動揺しだすと、ふたたび気持ちが悪くなってきて、しゃがみ込もうと口元を押さえた途端、胃が痙攣し吐いていた。ちょうどその時、後ろから来た男の足下に嘔吐物がかかった。

「ややっ、この野郎、汚ねえじゃねえか!」

罵声を浴びせられ、しゃがみ込む背中を思いっきり蹴られた。その弾みで嘔吐物に顔を打ちつけた。

「うぎゃあ!」

慌てて汚れた顔を上げ涙目で謝るが、更に罵声が飛んでくる。

「こんなに、汚れちゃったじゃねえか。この阿呆んだら!」

怒鳴りながら、汚れた靴で正木の顔面を蹴り上げた。

「ぎゃあっ!」

歪む顔で仰向けに倒れた。その醜い顔めがけ男の唾が飛んできた。

「とっとと、くたばりやがれ。この馬鹿野郎!」

二、三度脇腹を蹴られ、離れて行った。

「うううう…」また吐き気を催し、突っ伏したまま吐いた。

「げぼっ、げげっ、げぼっ、げえええ!」

むせつつ、あまりの苦しさに涙を滲ませ、汚れ痛む顔を拭っていた。

「うううう、たすけ…」

叫ぼうとするが、言葉にならない。余りの苦しさに油汗が滲んでくる。

「うぐうぐぐ…」

頭が割れるほど痛くなってきた。立ち上がろうとするがふらつき、その場にうずくまった。そんな薄汚れた正木を通行人が白々しく見て通り過ぎ、嘲り笑うように街の騒音が耳に入ってきた。

「ああ、誰か。ううう…」

絞り出すように正木は呻くだけだった。辛い現状と相まって空しささが込み上げ、明かりの見えない淵へと追い込まれていた。

どうにもならん…。

諦めが台頭してくる。うずくまっていると、少し吐き気が落ち着いてきた。立ち上がろうとした瞬間、また激痛が走った。

「痛てててっ…」

その場にしゃがみ込むが、再び吐き気が襲う。

「うげっ、げぼっ、げっ、げぼっ、げげげげ…!」

激しくむせり、黄色い胃液を吐いた。あまりの苦しさに、顔が引き攣っていた。

「誰、誰か!」恥も外聞もなく泣き叫んでいた。

その時である。

騒音と共にカラスの啼き声が、耳に飛び込んでくるが、苦しさが妨げた。耳に響くのは、浴びせられた暴言の残余と行き交う車の騒音であり、啼き声が掻き消されていた。その中で吐き続けた。それでも吐くものがなくなると、幾分落ち着いてきた。胸を摩りようやく息をつく。その時、ふたたび啼き声を聞いた。

「カア、カア、カア…」

騒音に勝り耳に入るが、苦しさに気を取られ聞き流した。すると今度は、一羽のカラスが近くの樹の枝に止まり、蒼白の正木目がけ勢いよく啼き放つ。

「グア、グワ、カア、カア!」

その啼き声にドキッとした。聞き覚えのある声である。吐き気の治まらぬ中で、思考を急回転させる。

「ああっ、もしやクロではないのか…」

凝視するとクロだった。正木は苦しさを忘れ、まざまざと見上げた。するとクロが啼く。

「カア、カア、グア、グア、カアカアカア…」

「お、お前、助けに来てくれたのか!」

正木の目が潤んでいた。涙に姿がぼやけたが、まさしくクロである。

「クロ!」

大きな声で叫んだ。すると、枝から飛び立ち旋回しながら激しく啼く。正木は、再会を喜んでいるものと思ったが、啼き方が違うことに気づく。

「クロ、そうじゃないのか。どうした。何時もの喜びの声ではないぞ。なにかあったのか。クロ、教えてくれ!」

伺う眼差しが真剣になっていた。クロがふたたび枝に止まり激しく啼く。

「グア、グア、クア、グア、カア、カア、カア!」

「うむ、夏美のことか。それとも、俺の秘め事が露見したのか…」

問いかけるが、さらに頭上を旋回しながら啼き続ける。

「俺はともかく、夏美になにかあったのか。クロ、教えてくれ。お前のその様子だと、夏美になにかあったということだな!」

啼き声と激しい動きから察した。正木は思い立ったように、ポケットからスマートホンを取り出し架ける。呼び出し音が鳴る。耳に押しあて待つ。繋がった。

「夏、夏美か?お、おれだ。裕太だ!」

「…」

「夏美?夏美だろ。何故返事をしない。裕太だ。夏美、聞いているのか。返事をしてくれ!」

クロが激しく啼き続ける。

「ほら、クロが近くにいるんだ。夏美、聞こえるだろ!」

「…」

「夏、お前を愛している。諦めることなんか出来ない。返事をしてくれ。愛していると言ってくれ!」

「…」

「夏美、お願いだ!」

そこまで言った時、電話が切れた。

「夏、夏美、どうしたんだ。もしもし、夏美。もしもし…」

絶望感が湧いてきた。スマートホンを握り締め、がっくりと肩を落とす。すると、クロがうな垂れる正木の頭を突っつき枝に止まった。

「痛って、なにするんだ!」

頭を擦りながら覗る。それを受けて大きく啼いた。

「カア、カア、カア!」

その声は、明らかに今までのものではなく、訴える啼き声がなにやら悲しげだった。

「クロ、やはり夏美になにかあったんだな…」

考えまいと避けていたことが、異常な啼き声で裏づけられたように、大きな不安となって胸中に広がっていた。グロが飛び立つ。

「クア、クア、グア、カア、カア、カア!」

頭上を二度ほど旋回し、そのまま暗闇の中に消えた。正木は去った方向に目を据え、暫く立っていた。

「クロ、戻って来い。頼みたいことがある。だから、戻って来てくれ。夏美に知らせたいことがあるんだ!」

叫ぶが、姿を現さなかった。

「クロ…」

寂しげに呟くが、思い立つ。

もしかして、俺の部屋に行ったのか…。そうだ、そうに違いない。あいつ、先に帰っているんだ。

有り得ぬと思いつつ勝手に結論づけ、頭痛と吐き気を抑えながら、ゆるりと歩き出した。ようやく帰り部屋の扉を開けた。

「クロ、いるのか!」

もどかしく照明のスイッチを入れ、巣箱を覗くが居ようはずがない。窓が閉まっており入れないことに気づき、急いで開け暗闇を覗くがクロの姿などなく啼き声も聞けなかった。

「クロ、どこにいるんだ。さっき会ったじゃないか。なにか俺に知らせに来てくれたんだろ。夏美のことを教えに来てくれたのか。もう一度、顔を見せてくれ。頼む!」

叫び願うが、反応がなかった。正木の声が闇に吸い込まれ、静寂が訪れる。遠くで犬の遠吠えが続いていた。

「クロ、来てくれないのか…」

沈む声で呟き、窓を閉めた。



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