五節

翌朝、目覚時計のけたたましい音に、二人は起こされた。

気づけば、互いに全裸のままで寝ていた。恥ずかしさを浮かべ、昨夜の激しかった契りに照れつつも急ぎ身仕度をし、朝飯も食わずに出勤する。瞼が重かったが、気持ちは満たされていた。クロに出逢えたこと。そしてなにより、夏美にとって狂おしいほど、幾度も上り詰めたことに感謝した。下半身に残る余韻が、悦びの証となる。正木とて同様だ。脳裏に残る彼女の裸体が動く度に、上気する気持ちを抑えるため空咳で鎮めた。

二人にとって、これらの密事が活力を与えその熱が仕事に表れていた。正木は張り切る。課員が訝るのをよそに、次々と予測を的中させて行く。それにつられ、吉田たちも張り切った。すると気象予報も、新たな連勝記録が延び始めたのである。一ヶ月の連勝が達成していた。すると、今まで卑下していた他部署の連中が、この成果に賞賛を送るようになり、彼らから驚きの声が上がる。

「大したものじゃないか。やはり気象予報課は、過去の記録がまやかしではなかったんだ。これぞ本物だ!」口々に絶賛した。

それでも正木たちは、浮かれることなく黙々と気象データの解析と、気象の変化を的確に捉えていった。そして一時は見くびる姿勢に転じた局長も、ふたたびエールを送るほどになった。

「正木君、よく耐えた。偉いぞ。これぞ我が社の鏡だ。頑張ってくれたまえ!」

部長に至っては、これ程までに蘇えった正木たちの仕事振りを、あたかも己の指導で導いた如く吹聴する有様だった。もちろん、局長や常務に対してである。その方便は、彼らを信用させた。だが、何時まで経っても田口の期待するものが発令されなかった。それどころか、正木を部長に推挙との噂が流れる始末となった。

田口は焦る。

なんと言うことだ。わしの成果をアピールしているのに、奴を部長にだと。とんでもない。もし、そうなったら。俺はどうなる。副局長に昇進すれば文句は言うまいが、それが叶わず奴が部長に昇格したら二人は要らんのだ。と言うことは、俺は用なしで弾き飛ばされるではないか。あいや、これは一大事。こんなところで、のほほんと胡坐をかいているわけにはいかんぞ。うむむ…。

焦りの中から眼光が怪しく輝き出し、そして動き始めた。先日来練っていた謀略を仕掛けたのだ。

西日本で続く猛暑の中、東日本ではオホーツク海高気圧の南下により、熱帯夜から開放された日、何時ものように正木たちが作成した午後六時以降発表の気象予測について、午後三時からチェック会議を行うことになった。

北海道を除く東北から関東にかけ弱い前線の停滞で、昨夜から今朝にかけての水曜日時点での気象状況は、降雨のところ及び曇りがちの天気となっていた。その時発表された週間予報上では、土曜日は曇りから雨となり日曜日は晴れ、翌日の月曜日は一日中雨模様となる。そして火、水と曇りの予報を出していた。

西日本方面は太平洋高気圧の勢力が強く、晴天の予測は立てやすい。また北海道は北方から張りだす冷たい高気圧の傘下に入り、比較的天気が安定し概ね晴れの予測でよかった。しかし、前線の張り具合とその動きによっては、東北の南部から関東にかけての予測は難しい。両の高気圧の微妙な力関係により、気象は大きく変わる。

ここ一週間では、太平洋高気圧が弱まり、代わりにオホーツク高気圧の勢力が強くなる時期であった。その端境期の気象予測は、地域によって統計資料の分析結果を重視するか、直近の気象データに重きを置くか。大いに判断上で迷うところである。

正木たちの予報課でも意見が分かれた。

慎重な森下は、何時もグローバルに捕らえる手法を採ることから、環太平洋エリアまで広げた気象データより予測を立てた。特に関東における気象条件の変化を、インドネシア付近と南太平洋東部で発生したラニーニャ現象に着目する。さらには、全国的な猛暑日越え。また最低気温が高い状況から、気温がさらに高くなる現実として、掲げた記録が群馬県館林市の四〇、二℃や史上最高気温を記録した埼玉県熊谷市の四〇、九℃等、七十四年ぶりと観測史上最高気温を更新するなど、厳暑列島になっていることにも着目し週間予測を立てた。

だが、吉田は違う。

確かに、太平洋高気圧の勢力は強いが、それに勝るオホーツク海高気圧の張り出しが増すであろうと推測し決める。互いに譲らぬ論戦に、正木が裁定しなければならない。両者の自説を論ずる眼差しは真剣そのものだ。どちらも正木からみて正しいように思える。この時期の一日ではなく、一週間の予測となると、日々変わる現象を捉えることは、一メートル先から針穴に糸を通す様なものだ。単純に言えば、難しいのではなく不可能に近いのである。

結局、課長への一任となった。そうしなければ収まらないのである。

正木は熟慮の末、両者の主張を取り入れ週間予測の原稿を作り上げる。それを週間予報として発表した。ところが、現実の動きは違って出た。関東の土曜日、雨の予測は曇りとなった。翌日の朝、夕の気象予報で、微妙に修正した。

正木たちは、チェック会議での田口の動向に注視する。と言うのも、前例があるからだ。異常気象の続く中で、日に変わる気象条件は判断を難しくする。正木は、自説を主張すべきか迷った。作成した原稿は気象予報課の意見が集約されており、それを前回の如く無視され異なる主張予測と差し替えられれば、今度こそ間違いなく、我が課は崩壊するであろうことがわっていた。それ故、部長の発言を慎重に見守ることにする。

ただ、正木は正義感が強い。迷った末、課員の総意に基づく週間予測を発表した。吉田たちが固唾を飲む中、堂々と主張した。だが、部長は頷くだけでなにも言わない。さらに続けて、夕方発表予定の気象予測を説明するも、部長自身の考えは出なかった。それどころか、予想外の返事が返る。

「正木君、概ねそれでいいんじゃないか。ただ、今夕の気象予測と週間予測に若干ずれがあるようだが、そこは修正してくれないか」

正木たちは、狐に摘まれたような面持ちになった。

「…」

吉田たちがぽかんとしていると、田口が不可解そうに尋ねる。

「正木君、どうした。聞いているのかね?」

「は、はい。伺っております」

「それならいい。まあ、この時期の予測は難しい。特に、今年は異常気象続きだ。猛威だの猛暑だの、それに酷暑とか新聞の紙面を飾り立てておる。我が局だけでなく、他局でも軒並みトップニュースとして騒がしているからな。さぞかし予報を発表するのが大変だろうて…。いや、君らも苦労しているな。毎日ご苦労さん」

あまりにもすんなり了承されたことに、口を開ける始末だった。そんな状況でも、田口がお構いなしに誘う。

「どうだ、正木君。今夜の予定は。おおそれに、君らもどうだ。残暑払いでもやらんか」

「は、はい…?」

正木が中途半端に応じると、それを田口が見透かし続ける。

「そうだな、ただ酒を飲むのもつまらん。なにか余興を入れるか。なあ、正木君どうだ?」

「は、はい。宜しいんではないでしょうか…」

考えてもいない正木は、言われるままに了解した。すると、田口は前々から練っていた謀略を押し出す。

「賛成してくれるか。それなら、ペア合コンというのはどうだ」

そこに、口を挟み吉田が尋ねた。

「なんですか、そのペア合コンというのは?」

すかさず、田口が策の内容を披露する。

「いや、これは各自親しい異性を同伴し、酒を飲み交わすというものだ」

「へえっ、部長。いい考えじゃありませんか。洒落ていますね。現代風でマッチしていますよ!」

田口の謀略など気づかずに、吉田が諸手で賛同した。狡すっからい目で部長が付け加える。

「但しだ、これには条件がある」

「なんですか、その条件というのは?」

知らぬ振りして酒井が尋ねると、田口が酒井と示し合わせた策を披露した。

「おお、これはな。何時も見慣れている相手じゃなく、他部署から連れて来るという趣向だ」

「ええっ、それはちょっと…」

吉田がうろたえた。彼としては、森下と一緒に参加するつもりでいるからだ。

「いいか君たち。同じ課員では何時も顔を見合わせている。それじゃ、視野が狭くなる。もっと広範囲に相手を探すことこそ、己の力が試される。要は、どれだけ顔が広く、信頼されているかわかるチャンスとなるからな」

尤もらしく田口が告げ、同意を求めた。

「どうだ、正木君。いいアイディアだろ。君の部下たちが、他部署でどれだけ信頼されているかわかるというもんだ」

正木が応える前に、弥生がしゃしゃり出た。

「いいんじゃないですか。部長のおっしゃるとおりだわ。それが、気象予報課として信頼度を計れるわけだから。私、賛成します!」

弥生が手を挙げると、吉田たちも躊躇うが賛同する。

「正木君、君も賛成するよな」と田口が念を押した。正木は促され曖昧気味に了解する。

「はあ、はい。賛成します…」

「ううん、それじゃ言い出しっぺのわしも、これから捜すとするか。しかし、言うのは簡単だが、いざ捜すとなると難しいな」

思惑通りの進み具合に田口の顔が緩むと、目ざとく弥生が惚け口調で促す。

「部長、駄目ですよ。捜して連れてきて貰わなきゃ」

弥生の突っ込みも段取りどおりで、田口はわざとらしく弱り顔で応じた。

「そう、プレッシャーかけるなよ」

「そうだ、そうだ。俺だって頑張りますから、部長是非とも頑張って下さい!」

そんな謀略も知らず、吉田が後押しした。そして、田口が会議の終了を告げる。

「それじゃ、そういうことで終わりにするか。正木君、週間予報と夕方発表原稿の微調整の方頼むよ」

「はい、わりました。仕上がりましたら、お持ち致します」

「うん、頼む」

田口が退席すると、吉田が囁く。

「しかし、どうなってんだよ。今日の会議は。拍子抜けしたぜ。それにペア合コンだって、奇抜なアイディアじゃねえか。どうしたんだか、最近の部長ちょっと変わったな?」

「そうよね、言う通りだわ。鬼の仮面を剥がして、ひょっとこ面にしたんじゃないかしら?」

森下が吹き出し言うと、一斉に笑いが起きた。

「さて、今日の仕事も終わった。あとは相手を捜さなきゃな」

吉田が意味深に呟くと、森下が応じる。

「そうね、それもちょっと大変な仕事ね。ねえ、酒井さん。どうするの?」

酒井に振ると、平然と答えた。

「私?もう決めているわ」

「ええ、なんだ。酒井さんはいるのかよ。誰、誰。一体誰なんだか教えてよ」

驚きの眼で吉田が首を突っ込んだ。

「駄目、内緒よ。今晩お披露目するから楽しみにしていらして」

「あら、いいわね。私、これから捜さなきゃならないんだもの。ああ、どうしよう」と森下が戸惑い気味に零すと、ここぞとばかりに酒井が田口と示し合わせる策を繰り出す。

「森下さん、なんなら紹介してあげるわよ」

「ええっ、紹介してくれるの。嬉しいな、それじゃお願いしちゃおうかな」

森下も難なく罠にかかっていた。

「了解、それじゃ後で相手から連絡させる。気に入ったら決めてね。その代わり、成立したら報酬として、お昼ご馳走になるわよ」

「構わなくってよ」

二人の会話を聞き、吉田が焦り気味に漏らす。

「ちぇっ、どうするか。仕方ねえ、片っ端から目ぼしい女の子に電話してみるか。まあ、誰か引っかかるだろう」

「なんだか吉田君、やけっぱちになっていない?」と森下の茶々に、吉田がふくれた。

「そんなことあるか。これが俺流のやり方さ。ところで課長、どうなさるんですか?」

体よく正木に振った。

「ああ、俺か。まあ、少々心当たりあるから連絡してみるよ。急なんで、予定が入っていなければいいが…」

「あいや、それって。これですか?」

吉田が小指を立てると、正木が慌てて否定する。

「なにを言うんだ、そんなんじゃないよ!」

「あれれ、照れちゃって。こりゃ、間違いなくこれだ。どんな人か楽しみだぜ」

照れる正木をおちょくった。

まんまと嵌まる正木らに、田口は自席へ戻りほくそえむ。

まずはこれでよし。正木の奴目、多分恋人の山城夏美を連れてくるだろう。はて、弥生はどうか。わし以外に男がいるのか、それも調べられる。これぞ一石二鳥というもんだ。しかし、弥生の男がどんな奴か気になるわい。

それにしても巧くいった。あの吉田の馬鹿が乗ってくれたし、森下も気づいていない。それに、ちょいと弥生にも鼻薬を嗅がせておいたからな。これで下準備は整った。後は夜の宴を待てばいい。

そうだ、今のうち弥生に次の指令を出しておくか。ここが巧く行かねば、仕掛けた意味がなくなる。それに、駄賃の餌でもぶら下げておこう。うむうむ、これが肝心だわい。

それにしても、あの噂が現実になってはたまらん…。ここは、なんとしても阻止してやるぞ。そのためにも確実に実行し、その成果を正木の脳天に直撃させねばよ。さすれば、貴奴の部長職昇進の噂など絵空事になる。それどころか、華々しく飾り立てた予測連勝とて、脆くも崩れ落ちるだろうて。それで、課長職も失うに決まっている。そうさ、わしにとって邪魔な男であり、居てはならぬ存在だからな。さっさと目の前から消えうせろってんだ。

田口の腹が黒ずんでいた。

暫らくし、正木らが自席に戻り最終原稿の手直しに入るが、緊迫した空気はない。先般のような、意見が通らず粉砕しなかったからだ。田口の陰鬱な横槍もなく、課長に一任した予測の微調整だけですむ。吉田たちの顔にも余裕すら伺えた。

正木とて同様な気持ちでいたが、ひとつ気がかりなのは、ペア合コンに夏美が承知し参加してくれるかだった。断られる可能性もある。そんなところに行きたくないと愚図られたらどうするか。とは言え、他に相手などいないことを思えば、どうしても同伴させたかった。しかし、正木にとって避けなけねばならない、余りにも危険な田口らの罠を見逃していたのである。

正木がそんな目先のことを考えている時に、酒井席の電話が鳴る。

「はい、気象予報課の酒井でございます。は、はい。先般の件につきましては、やはり大変厳しい結果となっておりまして…。いいえ、はい、有り難うございます」

どのような内容か不明だが、なにやら断りの電話であった。

その相手とは、何時の間にか自席を離れトイレで架けている田口からのものである。

「いいか、わしだと悟られるな。適当に話を作り相手をしろ。例の件、次にやって貰いたいことを話すから。いいな」

「はい、先般の件につきましては…」

「うん、それでいい。それじゃ言うぞ。例の件だが、経理部の山城が参加するよう承諾させるのだ。昔話でも持ち出して成し遂げろ。それに、正木から頼まれたら山城に多少愚図らせ、最終的に了解するよう仕向けろ。いいか、奴が連絡する前に手はずをつけるんだ。わかったな」

「はい、総体的に検討させて頂きましたが、結果的に…」

「そうだ、結果的にそうなるようにするんだ。確かお前は、山城とは昔アーチェリー同好会で一緒だったよな。そこでの出来事をお前が教えてくれたな。もし、愚図るようだったらそれを使え。彼女にとって恥部だから、必ず応じるに違いない」

「私の一存で決めたわけではございません…」と、弥生が尤もらしく外部電話の如く応じた。

「うむ、誰にも気づかれておらんようだ。しかし、お前も。ようそんな作り話ができるな。まあ、それでよい。さて、お駄賃だが。巧くことが運んだら、今夜とっておきのスペシャル手技を授けてやる。それも指先での特別メニューだ」

田口には、電話口から伝わる弥生の息遣いが上気しているのを感じた。

「有り難うございます…」

「おお、そうか。楽しみに待っていろ」

そんな様子を傍目から窺いつつ、田口は電話を切った。

これでよい。弥生の奴目、随分興奮しておるな。密かに鼻を鳴らしおって。さて、戻るとするか。

素知らぬ顔で席に戻り、要件を伝えるべく課長を呼ぶ。

「柿田君、ちょっと来たまえ」

「は、はい。何用でございましょうか?」

柿田が腰を折り、手揉みしながら近づく。

「ううん、先ほど気象予報課のチェック会議が終わった。例の週間予測と今夜の予測だ」

「はい、存じております」

「そこでだ、彼らも毎日頑張っているので、たまには景気付けをしてやらにゃならん。それで今晩彼らと一杯やることになったんで、君には留守番を頼みたいと思ってな。予報課全員いなくなるから、君の部下をそちらに回してくれんか」

「わりました。それでは二名ほど、留守番役と致します。時間の方は、午後八時頃までで宜しいですか?」

「ああ、それくらいでよい。それじゃ、頼んだよ」

「かしこまりました」

柿田が会釈し下がり、直ぐに部下に指示をしていた。それを覗い、田口が頷く。

「これでよし。そうだ、肝心なことを、弥生に頼むのを忘れていたぞ」

なにを思い出したのか。慌てて席を立つが、直に戻った。

「これでいい、これを忘れちゃ始まらん。しかし、気づいてよかったわい」

田口が独り呟き椅子に座った。

「悪いが、川口君。お茶を一杯入れてくれんか」

少々大きめな声で所望した。

「はい、かしこまりました。ただ今お持ちします!」

「忙しいところすまんな。頼むよ」

川口が茶の入った湯呑みを持ち、田口のところへ来る。

「お待たせ致しました。どうぞ」

湯呑を机上に置いた。

「有り難う」

「いいえ、どう致しまして。少々熱いので気をつけて下さい」

「ううん」と頷きながら、お茶をすすった。

「熱っつつ、こりゃ熱い!」

「だから言ったじゃありませんか。気をつけて下さいって!」

「そうだった、注意されたばかりなのにな。年寄りはいかん。言われるそばから、忘れちゃうんだからよ」

「なに言っているんですか。部長、まだお若いですよ」

笑いながら、川口が自席で胡麻を擦った。

暫らくして、正木が周りに気兼ねするように小声で夏美に電話を架ける。

「はい、経理部の山城ですが。あら、裕太さん。いえ、正木課長。急に電話を頂いて、なんですか?」

「いや、ちょっと相談があるんだ。今、出れられるかい?」

「大丈夫よ」

「それだったら、地下の喫茶店で待っているから」

「それで、用件はなにかしら?」

「ここではまずい。会ってから話すよ」

「そう、それなら直ぐに行くわ」

「ああ」

正木は電話を切り、その足で喫茶店「百合の花」に行き席に着くと、夏美が来た。

「裕太さん、急に電話くれて。なんの用なの?」

「ああ、じつは頼みたいことがあって、それも今夜なんだけれど。今日は定時で帰れるかい?」

「ううん、まあ大丈夫だけど。それで?」

「ああよかった。まずはクリアーだ」

「なによ、訳の分からないこと言って。もったいぶらないで話してくれない」

「うん、今晩付き合って欲しいんだ」

「ええ、今晩って。あなたの部屋に来いというの。嫌だわ、そんなこと急に言われても。私だって、心の準備があるもの」

「ううん、そうじゃない。頼みたいのは、今晩気象予報課でペア合コンをやるので相手が必要なんだ。それも部長の意向で、他部署から連れて来いという条件があり。思い当たる相手は、君しかいないから。こうして頼んでいるのさ」

「あら、そうなの。どうしようかな。なんだか恥ずかしいし、それに裕太さん、今気になること言ったでしょ」

「どういうことだい。なにか変なこと言ったか」

「そうでしょ、なんだか私虚仮にされているようで。裕太さんがそんな気持ちなら断ろうかな」

「ええっ、それは困るよ。君に断られたら、他に思い当たる女性がいないんだから」

「だから、言ったでしょ。私じゃなくてもいいみたいな、そんな言い方するんだったらお断りよ!」

「夏美、そんなこと言うなよ。言い方が悪いなら謝るから。どう言えばいいんだい?」

「そうね、女の子の心理は微妙なの。思い当たる女性がいないなんて言わず、君しかいないと言ってくれたらいいのよ」

「そうか、そうなんだよ。夏美しかいないんだ。だから頼む」

「そう、それだったら許してあげる」

「よかった、これでほっとした。もし、断られたらどうしようと思っていたんだ」

正木が安堵する笑みを送ると、夏美が意地悪する。

「あら、正式に了解したわけじゃなくってよ!」

「ええっ、それはないよ。今いいって言ったじゃないか!」

「言ったわ、でも条件がある。それを飲んでくれなきゃ行ってあげない!」

「な、なんだよ。怖いな。その条件ってなんだい?」

「聞きたい?」

「そりゃ聞きたいというか、叶えなきゃならないんだろ」

「ええそうね。どうしようかな、やっぱり行くのよそうかな」

「それは困る。夏美しかいないんだから。断られたらどうにもならない」

正木が頭を抱えると、それを見て夏美は冗談が過ぎたと思い真顔になった。

「嫌ね、そんなに困ることなの?」

「ああ、立場もあるし。俺一人同伴なしじゃ様にならんから」

「そうなの、それだったら考えてもいいわ」

「そうしてくれ、頼む!」

「それじゃ、条件を飲んでくれる?」

「だから言ってくれなきゃ、返事のしようがないじゃないか」

「あら、裕太ったら。その程度しか、私のこと想っていないわけ?」

「いいや、そんなことない。君のためなら火の中へも飛び込む!」

「まあ、大袈裟ね」

「いや、本心だ。なんでも言ってくれ。必ずそれに従うから」

「本当、嬉しい。それなら言うわね、さっきの件よ」

「ええ、さっきの件って…?」

「だから言ったでしょ」

「はて、なんだっけ?」

「まあ、惚けちゃって」

「いや、惚けてなんかいないよ」

「だから、思い出して。また言うの恥ずかしいもの」

「なんだっけ。ううん…。あっ、思い出したぞ!」

「叶えてくれるの?」

「当たり前じゃないか。それじゃ、合コンが終わったら俺の部屋へ来てくれるね?」

「ええ…」

「やっぱりそのことか。よかった」

「あら、大きな声で言わないで。他の人に聞かれたら恥ずかしいから…」

恥らう顔に紅が差した。

この合コンへの同伴約束が、後になってどのような結末になるか。その時夏美も知らないし、正木にも取り返しのつかぬことになろうとは考えも及ばなかった。

合コンの誘いに、夏美は胸を時めかしその時を待つが、正木から誘いが来ることは事前に知っていた。旧知の酒井から連絡があったのだ。

「課長は真面目ゆえ、部長の企画した同伴パーティーに、相手を捜すのは難しいだろうから、相談に乗ってやって欲しい」と。さらに「但し、私知っているの。あなたと彼のことを。せっかくだから、ちょっと趣向を試みてから承諾したら。彼って純情だし、あなたへの愛も確かめられるわよ」と弥生にそそのかされたが、望み通りの回答を得で感謝する。

結局、彼の想いを確認することが出来た。弥生さん、有り難う。

夏美は弥生の嗜好に乗り、正木も細工されているとは知らず、夏美が承諾してくれたことに安堵していた。だが、一抹の不安がよる。それは音頭取りの田口が、夏美の秘密を知っていることである。それが前回の騒動の折りに触れられ、引き下がざろう得ない原因となったからだ。

あれから一ヶ月経つが、その秘密をネタに強請られることはなかったが、何時また、引き合いに出し、難癖をつけるのではと密かに案じていたのだ。

幸い今のところ以前のように、田口と意見の相違から衝突することなく、平穏に過ぎていた。さもあろう、正木は意識的にも田口と正面から当たることを避けたし、無意識のうちに妥協していた。

その正木の様子を、周りでは丸くなったとか、課長として人格が備わったと評されるが、己の内ではまったく違う意識が働いていた。それは、愛する夏美への気がかりであり、愛しさからである。それ故、主導権を取れぬまま、田口の画策に安易にも乗っていた。そして一抹の不安を遮断した。

それでも長年蓄積された迫害感は、正木の心底に沈殿していた。時としてそれが悪夢となって現れては、寝汗をびっしょりかき飛び起きることもしばしばあった。日頃平常心を装っても、そう容易く沈殿物が排出されるわけではない。だからこそ、彼女を守ろうとする気持ちが強くなるのだ。

気象予測のチェック会議でも、また今回の部長主催の飲み会にしても、正木の信念からよしとすれば合意するし、否と判断されればきっぱり断るが、どこかで妥協していた。それは日頃の表面上の闊達さと裏腹に、不安という重圧に苛まれていたからだ。それでも無理して、日々の気象予測に全精力を傾けていた。結局は、重圧に対する見せ掛けの逃避である。

合コンが決まった後、どういうわけか部長に代わり、酒井からメールが各人に配信されるようになった。

集合時間と開催場所である。但し、末尾に「部長が多忙につき、依頼されたため。酒井」と付されていた。別にそのことに疑問を持つ者はいない。それより、新企画の宴に期待を込める。メール内容は「午後七時に新橋の飲み屋『トランキュラ』の住所と地図が示され、現地集合遅れなく」となっていた。

森下は、結局弥生の紹介で総務部の戸田と同伴。吉田は自分で探した人事部の織部育代と折り合いをつけた。酒井は遊び相手が多いのか、営業部の本田俊郎を同伴することになった。夫々身なりを整え、午後七時前には飲み屋に集合した。

ただ、田口は遅れたが、意外にも秘書部の谷川純子を伴ってきたのだ。こともあろうにと吉田は驚愕するが、今はあのことがあって以来別れていた。気まずい思いになる中、互いに他人を装い目を合わせることはなかった。もちろん、驚いたのは吉田だけではない。あの日関係を持った森下も驚いた。

飲み会に奇抜な催しはない。このペア合コンでも同様である。ビンゴゲームや、ペアの椅子取りゲームを催すと同時に、当然そこには酒がつく。負けたペアには一気飲みの罰が伴った。

だいたい負けペアは、一組に偏ることはない。一応に一気飲みが行われたのだが、そこに仕掛けが隠されていた。森下と同伴した戸田と、酒井が連れてきた本田には、前もって田口から因果を含められていた。元々この両者は酒に強く、皆と同量飲んでも酔い方が違う。酒を飲み身体を動かせば酔いが速やまる。場が盛り上がり、それにつられて、正木、吉田、森下それに夏美にしても鼓動が早くなり足が縺れるほどに酔っていた。

そのようになることを、田口は本田や戸田を通じて、始めから画策していたのだ。その中で酒に強い両者は、異様な目つきで会場の様子を窺っていた。田口が合図すると、正木と夏美のグラスに新たに酒が注がれ、その中に隠し持っていた小さな粉末を溶かし込んでいた。

ざわめき盛り上がる中で、気づく者はいない。飲み会も終盤に差し掛かったところで、田口が宣言する。

「この残暑払いも随分盛り上がった。皆も十二分に楽しんで貰ったと思うが、そろそろお開きにしたい。その前に全員席に着き、今一度乾杯して終わろうじゃないか。さあさあ、席に着いてくれ」

そう促され、各自が息を弾ませ、ふらつく足取りで戻る。

「楽しかったわ。裕太さん、有り難う」

「どう致しまして。君が喜んでくれれば、誘った甲斐があったよ」

互いに酔いつつも笑みを交わしていた。

「しかし、楽しかったな。織部さん、今日は有り難う」と吉田が満足気に言うと、笑顔で彼女が返す。

「私も楽しかった」

他愛無く、ペア同士で声を掛け合った。森下は吉田たちペアの様子を眺めつつ、嫉妬心を募らせていた。

そこで突然、弥生が声を上げる。

「さあ、皆さん。手元にあるグラスを持って下さい。それじゃ、部長。一言お願いします」

「おお、酒井君。ご苦労様。どうだ皆さん。今夜は楽しんで貰ったかい!」

「はいっ!」

賛同の大きな声が返った。

「それはよかった。私の企画したペア合コンも、皆が満足してくれればこんな嬉しいことはない。有り難う。…赫々云々、と言うことで。中締めをする」

拍手が響くと、すかさず酒井がリードする。

「部長、有り難うございました。それでは、乾杯しましょう」

弥生がグラスを高々と上げた。

「乾杯!」

皆が勢いよくグラスを掲げ飲み干した。正木も夏美も勢いに押され、残らず飲んだ。

「それじゃ、これで終了とします。お疲れ様でした!」

酒井が帰宅を促すと、各ペアはそれを合図に席を立った。

だが、正木は酒井がなにを言っているのかわからなかった。吉田や森下が出て行くのをおぼろげに見るが、声をかけようにも朦朧として出来なかった。そのうち座っていることすら辛くなる。それでもテーブルに伏せている夏美を起こそうと、必死に手を伸ばすが思うようにならない。

「夏、夏美。大丈夫か…」

それだけ言うと、その場に突っ伏し臥していた。夏美も空ろな状態でいた。最初は飲み過ぎ身体を動かしたせいで、そうなったと思った。しかし進行が早かった。そのうち意識が朦朧とし、正木に助けを乞おうとしたがままならない。

「裕、裕太さん…」弱々しく呼び、気を失っていた。

二人がテーブルに突っ伏している様を、田口が不敵な笑みで窺い指示する。

「うふふふ…、戸田、本田ようやった。その二人を運び出せ。わかっているな、指示した場所へタクシーを使って連れて行くんだ。運んだらお前らの役目は終わりだ帰ってよい。駄賃は後でたっぷり払ってやるからな」

「はい、有り難うございます。それでは連れて行きます」

本田が不敵な笑みで返すと、さらに田口が注意する。

「おい、くれぐれも運転手に怪しまれないようにな。そうだ、女の方は恋人を装え。それに男は酔い潰れた同僚としろ。それに、少し時間をずらし連れて行け」

「了解しました」

両名は指示に従い、正木と夏美を夫々が連れ出す。それを見守る酒井に田口が告げる。

「弥生、正木はお前にくれてやる。どうだ、嬉しいか。好みだろ。充分楽しめ」

「ええっ、くれるの?それは嬉しい。私、課長に抱かれたいと思っていたの。ちょうどいい餌食だわ。それじゃ、戸田君。連れて行って、私も同行するから。それの方が怪しまれないでしょ」

「わかりました。それじゃ行きます」

戸田が正木の腕を肩越しにかけ、酒井と共に出て行った。すると、勝利宣言の如く田口が滑稽な笑みを浮かべる。

これでいい、まずは第一作戦も順調に行ったわい。とうとう憎き正木を騙したぞ。奴も起きた時はびっくりするだろうて、弥生が隣で寝ているんだからな。酔ったあげく夏美を放ったらかし、部下の女と一晩過ごせば、こりゃただではすまん。ましてや、人事に知れたらなおさらだ。奴の信頼は地に落ち、課員全員がそっぽをむくだろう。前回の策略をお被せ、さらにこれが重なれば奴は間違えなく降格し、地方支局に左遷ということになる。ざまあみろってんだ。

これで正木には、最大の弱みを与えたことになる。己に背負わされたこの絶対に知られてならぬ恥部を、弥生を使って攻めてやる。それもちくりちくりとな。これがボディーブローのように効くだろうて。

わしに楯突く奴は、こうして制裁を受けるのだ。このおたんこなす野郎め!

さてと、それじゃ、これから正木の彼女を頂くとするか。うふふふ、たっぷり可愛がってやるかのう…。

額に脂汗を滲ませていた。狡猾な笑いが目尻を細くする。

さて、遠慮なく夏美の身体を味わおうぞ。これでわしの勝ちだ。まあ、明日になれば、その結果が正木の脳天に落ちるだろう。さあ、まむしドリンクでも飲んで挑むとするか。

「それじゃマスター、あとは宜しくな」と告げ、田口は腰をぶるんと振り慇懃な笑いを残し店を出て行った。




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