四節

長い一日が始まった。予報課にも、気象予報が外れたことにクレームや、叱咤激励が多数寄せられた。課員たちは、それの対応に追われると同時に次の予測も取り組んでいた。外れた原因の噂が全社的に広がる中で、妙な噂を耳にした。

「なんだと、そんな馬鹿な。それは違うぞ、逆じゃねえか。誰がそんなこと言っているんだ。くそっ!」

いきり立つ吉田が聞いた噂とは。まずは、昨夕の天気が引き続き晴天になると予測したのが課長であり、昨夜半から今日にかけ雨になるとしたのが部長であって、正木らが強引に主張したため止む無く田口部長が折れた結果、外れたというものだった。

この間違った情報が、まことしやかに伝播していたのだ。

「ふざけんなってんだ。まったく逆じゃねえか。俺らは間違いなく天気が崩れると、声を大にして主張したんだ。それを、へそ曲がりが自論を通し意固地になって、最終原稿の書き直しを強要したんじゃねえか。課長は止む無く、修正した予測を提出した。それなのに、そんな噂が流れるなんて、誰が流しているんだ!」

吉田たちは、仕事が手につかなかった。考えれば考えるほど、腹立たしさが込み上げてくる。それでも課員たちはぐっと耐え、夕方の気象予測に取り組んでいた。そんな矢先、匿名の電話が横山に入った。その内容は、この噂が田口に唆され、酒井弥生が流したというものである。

出どころは不明だが、何故酒井がそのような事実に反した、それも田口を喜ばせるような噂を流したのかである。その答えが、意外なところから判明した。それも、匿名による吉田へのメールだった。その文面には、吉田と森下の関係についても暴露されていた。と同時に、田口と酒井の愛人関係が明かされていたのである。ただ、着信は吉田のみにだった。

やはり、そういうことか。だから、庶務課の酒井が事実を捻じ曲げ、噂を流したのか。それもありうる。愛人関係であるが故、部長に脅かされたのかもしれん。縁を切るとか言われて。ぞっこんだった酒井は困った。それで言い成りになった。 

この噂流布の褒美が情事かよ。しかし、誰がメールをよこしたのか。それにしてもまずいな。俺と森下さんのことも知っているとは…。

このことを、森下の携帯メールに入れた。直ぐに返事が返る。

「誰なの、私たちの関係を知っているのは。わからないように会っているはずなのに、どこかで見られていたのね」

「そのようだ。どこでだかわからんが、注意散漫になっていたのかもな」

「そうね、これからは気をつけないと。当分会うのは止めようか」

「それが言い、ほとぼりが冷めるまで控えよう」

「でも、寂しいわ。私、あなたと会えないと駄目。それに、あなたなしでは耐えられない」

「俺だって同じだ。君を抱けなきゃ気が狂ってしまうよ。だから今回だけ、いいだろ」

「うん、でも注意しようね。それじゃ、今回だけ」

「わかった、そうしよう」

「ええ…」

メールの主旨が、二人の間で違った方向へと進んでいた。

「それにしても嫌ね。そんな間違った情報が皆に知れ渡るなんて。おかしいわ。だって、私たちの主張が部長のものになっちゃうなんて、信じられない。どうすれば、逆だと知らしめられるかしら」

横山の失望が言葉に出ていた。森下が応える。

「横山さん、そんなこと私たちが流せるわけないでしょ。名誉挽回するには、今後の気象予測をしっかり取り組むことよ。それしかないの。噂なんて、四十五日で誰も忘れるから。その間、じっと耐え邁進するしかないわ。さあ、くよくよしないで先を見ましょ。私たちにはそれが一番いいの。そうでしょ、横山さん」

「ええ、そうかもしれませんね。わかりました。私、これからも頑張ります。だからご指導下さい」

「わかったわ。私たち課員は、何時も一緒。進む道も同じだわ。それに纏まりにかけては他の課に負けない。この窮地を必ず乗り切りましょ」

「そうだよ、何時までぐじぐじても仕方ない。俺らには立ち止っている暇などない。今日だって、明日だって、気象予測が待っているんだ。頑張らないとよ」

吉田が気持ちを切り替え、前方を見据えた。その時、「その通り!」と正木の檄が飛んだ。

「我々には滅入っている時間などない。日々の仕事で手が抜けるところがないんだ。これから数え切れないほど予測を行っていかねばならない。雑言など聞いていては、また外してしまうぞ。それこそ、『やっぱりそんなものだ気象予報課は』と罵られるし、連勝記録だって『ただ運がよかっただけじゃないか』と比喩される」

すると、吉田が応じた。

「確かに、課長の言う通りかもしれませんね。勝手なことを言う奴が多いんだ。ややもすると、視聴者の希望に沿えないことだってある。レジャーに行くから晴れて欲しいと望まれても、気象条件によっては雨になることだってざらだ。それが当たったら面白くないよな。ここが難しいところなんだ」

「そうですよね、私だって休みの日なんか。テニスに行く時はやっぱり晴れた方がいいもの」

横山が同調すると、正木が促す。

「さあ、何時まで振り返っていても糧にならない。とにかく夕方の予測を外すわけにはいかんぞ!」

「わかってますよ、課長。頑張りますから」

吉田が皆の代弁をし、取り掛かっていた。正木は課員の様子を覗いつつ、自らを戒めていたのだ。先ほど田口から受けた衝撃は計り知れない。正木にとって、愛する夏美の爆弾を背負った以上、冷静さを逸するわけにいかないのだ。強請られた田口の思惑によっては、何時起爆されるかわからない。そのことを考えれば、正木は耐え軍門に下るしかなかった。胸中で思い巡らす。

今回の件は、悔しいが部長の要求に従うしかない。腹立たしさは煮え繰り返るほどだが、我慢しなきゃならんのだ。部長を追い詰めれば、必ずや反撃にでる。それを許しては、夏美に被害が及ぶ。それだけは避けねば。万が一、彼女の秘密が口外されたら…。

俺は耐える。しかし、夏美はどうだろうか。彼女には辛いことだし、決して覗かれてはならぬものだ。公になることは、愛する者への罪悪感から、とても耐えられないだろう。もしそうなれば、究極の選択をするかもしれない。だから、俺は部長の横暴に屈した。それが彼女を守る道だから。

それからというもの、正木に対する部長の仕打ちは、益々狡猾になった。弱みを握る田口にとって、従順に従う正木が憎くてならない。機嫌のいい時は当たることは少ないが、意に沿わない時など烈火の如くやり込めた。それも理屈に合わぬ論法を押し通すのである。その結果、気象予報課の的中率は極端に低迷するに至った。連続的中記録など、もはや過去の遺産ですらない状況に追い込まれていた。すると、部外からの論評も厳しくなり、えげつない内容の酷評が幅を利かせるようになった。

正木にとり一番辛いのは、己の信念を押し通せないことである。いくら自分たちが自信を持って出した予測でも、部長の機嫌一つで修正しなければならない。それは、課員らにも影響を与えた。どんな正当性があっても正木が折れれば、仕方なく従わざろう得ない。このことがあって以来、度々ミスが発生するようになり、現実に吉田たちのやる気が削がれ、やがて取り組む姿勢や情熱が失われていった。

正木は辛かった。

士気が低下する彼らを励ます者が道理をわきまえなければ、ただの絵空事になる。それでも正木は、叱咤しなければならない。受ける森下たちには、課長の立場がわかっていても、気力が失われればミスも誘発される。そこのところを見逃すはずもなく、田口はここぞとばかり突き、鬼の首を取ったように課長を攻撃した。正木にとり、部下のミスは己のミスと同じである。甘んじて責めを受けた。

如何な強い精神力を持つ彼とて、限界があった。それと同時に、連勝記録から見放されることによる風当たりが、数倍の圧力となり降りかかって来たのである。

あるところでは、豹変した言葉が返ってきた。

「当たらねえ気象情報なんぞ流しやがって、我がテレビ局の恥晒しだ。この給料泥棒が!」

こんなものではない。さらに過激になった。

「お前らみたいな屑は、我が社にいる資格などない。そんなこともわきまえず、のほほんと居座りやがって、とっとと辞めちまえ!」

最も酷かったのは、「生きている価値のない者は、この世から消えろ!」と言うものだった。それらの流布を基に、まことしやかに田口が責めた。課員たちは居た堪れなかった。 耐えられず結束を誇っていた課員の中から、横山が脱落していった。残る吉田や森下に至っては、昔の面影などなく抜け殻同然だった。

正木は苦しんだ。そのうち、酒に逃げ場を求めるようになる。毎晩深酒に溺れ、田口の攻撃から逃れようと泥迷した。心配したのは夏美である。職場でも、正木たちを責める噂が、彼女を苦しめた。

安寧の状態が暫らく続いた。

そんなある日、どういうわけか田口の態度が豹変した。正木に対する攻撃が収まり、さらに、欠員補充と称して酒井弥生を気象予報課に配転したのだ。正木は戸惑った。そして田口は、正木の出す予測を尊重し出した。何故、そうなったかはわからない。理解し難かったが、極限にある正木には救いの手となった。追い詰められ発狂寸前で事態が好転したのだ。それにより気持ちが落ち着き、吉田たちの態度も変わり始めた。すると、予報課の気象予測も正確さが向上し始め、格段の的中率に変わっていった。

正木の心に余裕が出来ると、思考が鋭くなる。また、課員に対するアドバイスも的確になり、それが吉田たちのやる気へと繋がった。正木は、何故田口が変わったか突き詰めることをしなかった。そんな余裕などなかったといえば、その通りである。横山に代わる酒井に対しても、惜しむことなく指導を重ねた。もちろん、酒井が田口の愛人であることは承知のうえでである。彼の信念から、公私混同を避け、分け隔てない情熱を注いでいたのである。

そんな接し方に、弥生は人間性を見た。本来あるべき愛の姿、それは酒井が抱く究極の望みである。しかし、現実は違う。田口との愛人生活に溺れる中で、次第に正木に好意を持ち始めていた。それが裏腹に田口へと及ぶ。感覚の鋭い彼に、変わり行く弥生の姿が映し出されていた。その表れが、密会による情事に示される。何時もと違う弥生を、田口が諌める。

「なんだ、最近おかしいんじゃねえか。何時もと違うぞ」

ことの最中に動きを止め怒った。

「あら、なにもないわ。あなたが単純になっているだけじゃない」

弥生が惚けた。

「いや、そんなことはない」

田口が懸命に腰をくねらすが、反応が醒めていた。

「どうも感じないわ。今日は駄目みたい。だから終わりにしない」

「馬鹿野郎、このわしに恥をかかす気か!」

焦り動きが激しくなるが、弥生の瞳が燃えることはなかった。

数日が経つ。

田口が悩み出した。

一体弥生の奴、どうしたというんだ。待てよ、彼女を異動させたのが原因か。まさか、正木の野郎に目が移っているのでは…。いや、そんなことはあるまい。今まで悦ばせてやったんだ。ただの勘ぐりだろうて。そう言えば、最近もたらす情報もいいものがなくなった。どうも奴を庇っている節があるぞ。まあ、少し様子を見るか。

顎を摩りつつ好色の目に変わる。

ちょうどいい。この隙に、秘書部の純子でも可愛がるか。もうそろそろ、わしの副局長、いや局長の椅子が転がり込んでくるはずだ。役員の動きを、純子との寝物語で聞くのも悪くない。それに正木めへの仕掛けも、いい時期に来ている。そろそろペア合コン作戦を実行する頃合いか。さてっ、どのように矢を放つとするか。

思い通りなのか、薄笑いが出た。

うふふふ…、やっとここまで来た。奴を脅かし空かしして、随分精神的にも参っているだろうからよ。最近まで締め付けて来て、ここで反転し緩めた。警戒心が薄れた今、奇策を放ってやる。いやその前に、奴らも曲がり成りに成果を出してきた故、この勢いを激励する名目で慰労会を催すのもいい。ここで一つ芝居を打つ。奴がまたぞろ警戒するかもしれんが、そうさせるのも裏をかき効果があるというものだ。

まあ、二度目くらいにペア合コンとするか。うむ、そうだ。ここで奴と弥生の関係も調べられる。巧く様子を覗えば、実態がわかるというものよ。

そんな思惑で田口が音頭を取り、正木と吉田たち課員、それに庶務課員合同の飲み会が行われた。新橋の居酒屋「民和」でである。冒頭田口が口火を切る。

「諸君、本日は私の主催する慰労会に参加して頂き痛み入る。日頃皆が業務に邁進して貰い、その感謝の意味を込めこのような宴に相成った。今日は仕事の憂さを晴らすつもりで、大いに飲んで食べて…伝々」

挨拶が長々と続いた。聞く振りして、誰も聞いていなかった。

「――――と言うことで、本日は無礼講でやって貰いたい。それでは、乾杯!」

一斉にグラスを挙げ、夫々合わせ飲み始めた。始めは硬い雰囲気であったが、酒が入るにつれ次第に柔らかくなってきた。頃合いを見て、田口が正木に声をかける。

「正木君、どうだ一杯やらんか!」

グラスにビールを注がれた。

「有り難うございます。それでは部長もどうぞ」

「うむ、有り難う。おっとと…」

満たされたグラスを、田口が口に運び一気に飲み干した。それを視ていた柿田が、酔った勢いで部長におべっかを使いだした。そんな中で酒井が正木の横に座り、ちょっかいをかけ始める。

「課長、ご苦労様です。どうですか?」

ビール瓶を傾け勧めた。

「有り難う、すまないね」

「いいえ、いいんですよ。どうぞ…」

弥生は意識的に胸元を覗かせるようにし、グラスに注ぎ誘いをかけた。そんな様子を、田口が窺う。

「弥生の奴、やはり気があるな。あんな格好して、わざとらしく胸元をちらつかせているんだからよ。どうなんだ、正木の奴が手を出すか…」

「ねえ、課長。私、相談に乗って頂きたいことがあるの」

「ううん、なんだね」

「今はいいんです。でも飲み会が終わったら、二人で飲み直しましょ。その時お話しますから…」

さらに、色香を漂わせにじり寄る。

「ねえ、いいでしょ…」

だが、正木は乗らなかった。

「酒井君、相談なら今夜でなくてもいいだろう。今日は皆で楽しく飲もうじゃないか。ほら吉田君らも、それに君のいた庶務課の連中も鋭気を養っている。君も飲んで、明日から一緒に頑張ろう」

ビール瓶を、弥生に差し向けた。

「なんだ、つまらない。少し酔ったみたいなので醒ましてきます。それに、昔の仲間とも話をしてこなきゃ。課長、すみませんでした」

酒井が一方的に切り上げ、正木の横から離れていった。田口はその様子に、弥生が振られたことを確信する。

正木の野郎も、なかなかやるわい。弥生の奴振られやがって、しょうがねえ今晩はわしが慰めてやるか。うふふふ…。

慰労会も田口には、策略の副産物として弥生への疑念を晴らす場となった。飲み会が終わったのが午後九時である。田口から締めの挨拶が発せられ、皆は三々五々散っていった。

田口の思惑通り、弥生は誘いに乗ってきた。皆と別れた後二人は落ち合い、ホテルへと向い一致した思惑で情事を貪っていた。若い吉田や森下、それに皆川たちは二次会へと流れ込むが、誘われた正木はそれを断り、一人自宅へと向った。荻窪辺りを過ぎたところで、無性に夏美に会いたくなり、西荻窪で降りホームで夏美に電話をかける。直ぐに出た。

「今、どこにいると思う?」と正木が問うと、夏美が訝る。

「ええ、そんな急に言われても、わからないわ。どこなの?」

「ううん、西荻窪で降りホームでかけているんだ」

「まあ、そんなところで。三鷹まで行ってからでもいいのに」

「いいや、直ぐに声が聞きたくなって…。夏美、好きだ」

「裕太ったら…。でも、有り難う。私だってあなたのことが好きよ。大好き!」

「わあ、急に大きな声で、びっくりするじゃないか」

「だって、裕太が大好きなんだもの」

「そうか、それじゃ。俺も大声で叫んでやるか」

「あら、駅にいるんでしょ。そんなことしたら、周りの人に聞かれるわよ」

「構わない。だって、本当だもの。むしろ、この想いを聞かせたいくらいだ」

「まあ、酔っているのね。ところで、飲み会は盛り上がったの?」

「ううん、今回は庶務課と合同だし、結構盛り上がったよ」

「それは、よかったわね」

「なあ、これから俺のところへ来ないか。どうしても会いたいんだ」

「待って、もうこんな時間なのに…」

「時間なんか関係ない。君に会いたい…」

「私だって、でも遅いから。明日なら行ってもいいわよ」

「嫌だ!」

「まあ、駄々っ子みたい」

「いや、俺は真剣だ」

「酔っているのね」

「酔ってなんかいない。いや、ちょっとだけ」

「私だって会いたいのに、我慢しているのよ。でも、もう限界だわ」

午後十時を廻っていたが、夏美は自宅を飛び出していた。先に正木がマンションに着いた。エレベーターで五階に行き、部屋の鍵穴にキーを差し込んだ時、背中になにか動くものを感じふと振り返った。

「ああっ…。ク、クロじゃないか!」

驚愕のあまり、正木の手が止った。

軒下の手摺りにクロが止っていた。正木は目の玉を開き声をかけた。すると、「グア、グア、カア、カアー」と応え、大きく羽ばたいた。

「さあ、クロ入ってくれ。お前の部屋だ!」

扉を開き招いた。すると入らず飛び立ち、暗闇の空で旋回し始めた。

「ほら、どうした。お前の部屋だぞ。忘れたのか。さあ、入れ。入ってどうしていたか聞かせてくれ」

訝り手招きするが、「カア、カア、グア、グア」と啼くだけで、大きく旋回し暗闇に消えていった。

「ど、どうしたんだ。折角会えたのに、なんで入らない。クロ、クロ!」

闇に向って叫んだが、クロは姿を現さなかった。正木は暫らくたたずむが諦め、部屋に入り明かりを点け、直に来るであろう夏美を待った。

ふうっと、息をつく。あまりにも突然であったため、クロの来訪が、酒酔いによる幻覚のような思いになるが打ち消した。

確かにクロは来た。けれど、部屋にも入らず飛び去った。どうしてなんだ。でも、何故今頃現われたのか…?ううん、そうか。何度も夏美と捜しに行ったものな。どこかで見ていたんだ。それで、礼を言いに来たに違いない。夏美に話したら驚くだろうな。

驚き喜ぶ様子を想像しては、なんとなく寂しい思いに駆られるが、チャイムが鳴った。急ぎ出ると夏美だった。その夏美にいきなり告げる。

「夏美、驚くなよ!」

「なによ、急に。まずは挨拶でしょ」

「そ、そうだけれど…」

「駄目、駄目よ」

夏美が裕太にキスをした。

「ああ、裕太…」

「夏美!」と正木が応じた。そして、堰を切ったように激しく抱き合う。

「愛しているよ」

「私も…」

抱擁し合い、気持ちが頂点に達したところで、ベッドへと倒れ込んだ。抱き合うその最中だった。窓の外で、なにやら騒ぐ物音に気づく。

「ううん?」

裕太が動きを止めた。夏美も我に返り訝る。すると、突然正木が声を上げた。

「そうだ、君に知らせなきゃならないことがあったんだ!」

正木が跳ね起きると、夏美も胸を隠し続いた。

「いやな、さっきクロに会ったんだ」

「ええっ、なんですって。クロに会った…」

予期せぬことに、夏美が絶句した。二人とも情事どころではなかった。

「そ、それで。何時会ったの?」

「うん、俺が帰って。扉を開けようとした時、後ろにクロが止まっていた。びっくりしたよ。部屋に招いたが、どうしてか旋回して飛び去ったんだ」

「そうなの、クロちゃんが来たのね。随分捜したのに現れないで、私を呼び出した日に来るなんて。会いたかったわ。私、クロちゃんに会いたかったのよ」

胸元を押さえながら涙ぐむ。

その時、羽ばたきと啼き声がした。二人は、はっとなる。

「あっ、あの啼き声はクロだ。クロがまた来たぞ!」

正木は、裸のまま走り窓を開けると、そこにクロがいた。

「夏美、クロだ。クロがいるぞ!」

「ええっ、本当。クロちゃんが来てくれたの!」

裸のまま正木の傍に駆け寄ると、そこにきょとんとした目で止まっていた。「カア!」と啼いた。夏美がはっと気づき前を隠す。

「まあ、クロちゃん。私の裸を見たわね」

恥ずかしそうに告げるが、その目は優しく歓迎の意を表わしていた。

「さあ、クロちゃん。お入りなさい。お帰り、あなたのお部屋よ」

夏美が誘うと、羽ばたき入ってきた。

「お帰り、クロ。久しぶりだな。でも、なんでさっき飛んで行ったんだ」

正木が尋ねると、クロが応じる。

「クワア、グア、カアカア…」

「ううん、そうか。確かに俺一人だったものな」

「クア、クア、グアウ」

「わかったよ。夏美の来るのを待っていたのか。夏美、二人して出迎えて欲しかったんだって」

「そうなの、クロちゃん。嬉しいわ。私、ずっとあなたに会いたかったの。だから、さっき裕太が、『クロちゃんに会えたけれど飛んで行った』と言われた時、がっかりしたの。だって、会えないと思ったから。でも、会えて嬉しいわ」

夏美の目が潤んでいた。クロが巣箱に入る。

「ううん、お前の巣箱、ずっとそのままにしておいたんだ。あの時から、何時か帰ってくると信じていたよ。クロ、有り難う」と正木が告げると、「クワア、クワア、カア、カア、カア」立て続けに啼いて、部屋の中を飛び回り出した。

「こらっ、クロ、なにしてんだ。急に暴れて、どうしたんだ」

心配そうに声をかけると、閉めた窓にクロが当たりだした。

「どうした。外に出たいのか、クロ?」

すると、「クワアー」と応じる。

「そうか、それじゃ開けてやるよ」

正木が窓を大きく開けると、クロは勢いよく飛び出した。正木の視線が追いかける。

「ああっ、なんだこれは!」

目を見張った。

すると、夏美が訝る。

「どうしたの、裕太さん…」

言いつつ正木に近寄った。

「あら、こ、これは…!」

夏美も驚愕した。

二人の視線の先に、クロと並んで別のカラスが止まっていたのだ。正木が声を上げる。

「お、お前、彼女を連れて来たのか!」

「クワアアア!」クロが応えた。

「クロちゃん、あなたのお嫁さんね?」

夏美が笑顔で尋ねると、クロが応える。

「クア、クア」

「そうなの、それはおめでとう。よかったわね、クロちゃんにお嫁さんが出来たなんて」

夏美は嬉しさのあまり、目頭が熱くなっていた。

「ほら、夏美。泣く奴があるか。嬉しいことじゃないか、クロが嫁さんを紹介するために連れて来たんだ。クロ、有り難うな。俺たちのこと忘れず、さらに嫁さんを伴うなんて」

 正木がクロに目を細め告げた。

「私もよ、有り難う」

夏美が礼を言うと、二羽のカラスが「カアー」と応え、大きく翼を広げ夜空に舞い上がった。

「な、なんだ。クロ、今日はここに泊まっていかないのか!」

「クアー、クアー」と啼き応えるクロを見つつ、夏美は正木を咎める。

「裕太ったら、馬鹿ね。お嫁さんがいるのよ。二人っきりで、自分たちの巣穴で寝る方がいいでしょ。それもわからないで、駄目ね」

裕太とクロたちを見比べながら諭すと、二羽のカラスは夜空を旋回し啼きながら消えた。

「ああ、クロちゃんたち行ってしまったわ。でも有り難う。まさか会えるとは思わなかった。今夜、強引に誘われてよかった」

「なにを言うんだ、強引だなんて。君だって、会いたかったんだろ。簡単に俺の誘いに乗ったじゃないか」

「あら、嫌ね。なんだかお尻が軽いような言い方しないで!」

「なに言っているんだ…」

正木が窓を閉めると同時に、彼女を抱き締めた。

「ああ、裕太…」

夏美がしがみつく。すると、胸元を覆うバスタオルがひらりと落ちた。

部屋の電気が消され、ベッドランプの淡い明かりに艶かしい夏美の肢体が浮かび上がり、怪しくその影が動き出していた。

その時は、二人とも夢中だった。クロに会えたことが刺激となって熱く燃え、何度も上り詰めた。が、何故クロが来たかという疑問は、嫁さんの紹介と簡単に片付けていた。

今思えば、正木はそれを悔やんだ。

どうしてあの時悦び勇むだけで、クロが雌カラスを連れ突然現われたか。何故その訳を深く考えなかったのか。それにしても、迂闊だった。舞い上がっていたんだ。あの時は異常なほど興奮していた。夏美とて同じだ。一睡もせぬまま情事にのめり込んだ。気づけば明け方になっていた。その異常さは狂っていたとしか言いようがない。それほど溺れ込んでいたのか。それは、彼女だって…。

いずれ正木の心の中に、この回想が映り出されるとは、その時考えもしなかったし、思いもよらなかったのである。




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