三節

夕方の気象情報が、東都テレビの報道番組から流された。

「今夜から明日までの天気予報を発表致します。ここ続いております晴天が、続くものと予想されます。こちらの天気図で見ますと、猛暑が予想され、太平洋高気圧がすっぽりと覆い、強い日差しが降り注ぐものと思われます。熱中症には十分気をつけ、小まめな水分補給に心がけて下さい。

それでは、全国の天気予報をお知らせ致します。九州、中四国地方は晴れ。近畿、中部は晴天。関東、北海道、東北地方も晴れるでしょう。続きまして、各地の気象情報をお知らせ致します…伝々。以上のようになるでしょう。天気予報を終わります」

正木たちの主張は、日の目を見ずお蔵入りした。

うむうむ、これでいいんだ。正木らひょうろく玉の予測など、当たるはずがない。それを、あんな奇怪なことを言いおって。なにが青空の中で雲が集まり出しただ。そんなことは一時の現象にすぎん。それを非現実的な理屈をこねおってからに…。

慇懃な顔で田口が満足気に頷いた。

それにしても、視聴者からの問い合わせが多かったな。なに、ただの自然現象だ。それが気象に与える影響など有り得ん。なにが中国の黄砂だ。なにが南太平洋の海水温だ。糞ったれどもめが!そんなもの、今日、明日の天気とは関係ない。それを訳の分からぬ理屈こね雨になるだと、馬鹿馬鹿しい。そんな予報を流せば、それこそ視聴者からブーイングが起きるわい。そうなれば、わしの管理能力が問われるどころか、局内の笑い者になろうて。

さらに謙る。

うむ、局長、それに役員までもがこのわしを諌めるに違いない。それこそ一貫の終わりだ。先日の失態の名誉回復どころではなくなるわい。ましてや昇進がかかっておる時に。うむ、そうか…、正木め仕掛けてきたな。くそっ、危なく陥れられるところだった。幸いにも阻止できたからいいものを、ちょっと甘やかすと頭に乗り、わしを誑かし、追い落とそうと企みやがる。これは気をつけんといかんぞ。そうか、のんびりしてはおられん。早く次の手を打たんとな。

田口の目が異様に光り、端倪に悪知恵を働かし、仕事が跳ねたあと久々に六本木へと繰り出していた。

夜は暗く、外灯がぼんやりと浮かび上がる感じはしたが、田口は気にすることなく高級クラブ「綾」の暖簾をくぐり、ママを相手に酔いに任せ口説き落とそうと懸命だった。結局泥酔し久子ママに弄ばれ、タクシーに乗せられ自宅へ送られた。酔いの中、車を降りた時に冷たいものが禿げた頭に感じたが、ただ避けるだけで意識に残らず崩れるように寝床に潜り込んでいた。

翌朝が来た。二日酔いのせいか頭痛の響く中、胸を摩りふと窓越しに外を見た。

「うへっ、なんだこりゃ! あっ、痛っててて。うぐぐ…」

嘔吐を催し、我慢できずトイレで吐いた。さらに激痛が走る。込み上げる嘔吐を繰り返し、ようやく居間に戻り驚いた。晴れではない。昨朝のような陽射しがなく、曇天の空から雨粒が落ちていたのである。

「わっああ…、どういうことだ。こんなことがあっていいのか!」

田口は目の玉が飛び出るほど驚いた。

昨日、正木たちにあれほど激しく修正を求め、彼らの主張を退け意固地になって押し通した気象予報が、まったく外れたのだ。それどころか、正木たちの予測が、ずばり的中する結果となっていた。

田口は直ぐにテレビのチャンネルを震える手で変えた。ちょうど某局で、気象情報が流されていた。画面に食い入る。

「どういうわけか昨日まで続いた晴天が途切れ、降って沸いたように列島沿いに前線が発生し、本日の天気は雨。全国で終日雨となり、日照り続きの中休みとなるでしょう。ただ、昨夜半からの雨も今日一日だけで、明日からまた晴天が続くものと見込まれます」

気象予報士が解説者にマイクを向ける。

「浦上さん、どういうわけでしょうかね。昨日まで晴天が続いていたのに、急に雨空になるんですから」

「そうですね、私の予想では。昨日、東都テレビ、いや他局で申し訳ないんですが、気象予報官の正木氏が予測していた根拠が、正しかったと言う以外に申し上げられませんね」

「ほう、それはどういうことですか。視聴者の皆様も、知りたいのではないでしょうか?」

「そうですね。彼曰く、『昨日午後三時頃の奇怪な現象が暗示していた』とのことでした。と言うのは、我が局にも観察した視聴者の皆様から、数多く問い合わせを頂いておりましてね」

「と、申しますと?」

「ええ、例の青空の中で点在する雲が、一点に集まってきたという現象です。正木氏が予兆であると述べておられました。その裏づけとして、あらゆる地域の異常現象を集め解析した結果、昨日の夜半から本日終日雨になると予測しておられたそうですが。何故か、東テレさんは気象予報が違いましたね。

どうしてなのかな…。もし、彼の言う通り発表していたら、そりゃ、大変なスクープになたんじゃないですか。どこの局も外しましたから。しかし、どうしてでしょうかね?」

解説者は東都テレビが異なる予報を発表したことに不可解さが残り、ただ首を傾げるばかりの解説だった。その中で、正木の説がきらりと光っていた。

田口は足が地に着かなかった。手足が震え動揺する。

「わ、わしの処遇はどうなる…、指示が間違っていた。奴の言ったことが正しかったんだ。よもや、こんなことになろうとは…」

だが反省の色もなく、直ぐに言い訳を思案しだす。

こりゃまずい。なんとかせにゃ…。そうだ、局長に弁解しなければならん。いや待てよ、局長だけではすまぬ。常務にも説明しなきゃならんぞ。なにか良い手はないか。

崇史、焦るな。ここは一番の勝負だ。己に言い聞かせると、妙案が浮かんだ。

うむ、そうだ。いいことを思いついたぞ。この手があるじゃないか。正木の奴におっ被せればいいんだ。

考えつくと震えが止り、田口の顔に薄気味悪い笑いが浮かんでくる。

あいつを黙らせ、失策の責任を負わせる。こんな時に、弥生が調べた正木の彼女の弱点情報が役に立つとは思わなんだ。これで脅かし、奴を言い成りにさせればいい。そして、あとで代償を払う振りして、二人を誘き寄せる…。

どうだ、これで。

正木とて、彼女の弱みを公にしたくはなかろう。こりゃ、言い成りになりそうだわい。さすればわしの失態も隠せるというものよ。まあ、これまで連勝続きで、気が緩んだことにすればよい。これなら局長だって、疑うこともあるまいて。

田口は大きく息を吸った。

どうやら、命拾い出来そうだ。うむ、待てよ。そう言えば、昨夜冷たいものが頭に当たったようだわい。よもや雨だとは。酔っていたせいか気にもせんだった。と言うことは、昨夜から降り出したということか。うむ、正木の野郎、よく当てたもんだ。

苦笑いし、己の失態を隠蔽すべく、さらに悪略が閃く。

そうだ、いいことを思いついたぞ。予測の主張を逆転させればいいんだ。「俺は正木の予測を聞いて反対した。諸々の現象から天気が崩れるとした。奴は晴天が続くと言い張った。結果的に連勝記録更新のためと唆され、止む無く奴の主張を取り入れ外れた」と言うことにすればいい。さすれば正木の信用は失墜し、逆にわしの信頼は高まり、副局長への昇進推挙がより確実になるだろう。

いや、待てよ。先ほどの他局での気象情報解説はどうする…。正木の主張が正しかったことを告げている。よもや、常務や局長がそれを突いてきたら…。そこは同様に惚けてすり替えればいいか。まあ、両名が見ていればの話だがよ。

田口が勝手に結論付けた。

この手で行くしかあるまい…。不敵な笑みが、田口の顔に浮かぶ。そして、少し前まで激しく動揺したことが、嘘のようにしゃきっとしていた。さらに、心拍数が上がったことが幸いしてか頭痛や吐き気もなくなり、異様に光る目が熱を帯びていた。

田口は自信に満ちた顔で局に出勤した。それも、何時もより早い時間にである。

誰もいない部屋で自席に座り、思案を練り直す。

…伝々。まあ、これでいい。さて、そろそろ常務も出勤しているだろう。

出社時間は心得ていた。何時も午前八時前である。時刻を確認し、おもむろに常務室へと向った。息を整えノックをする。

「田口ですが、おはようございます!」

「おお、君か。入りたまえ」

直ぐに糸川の返事が返り、田口は部屋に入った。

「おはようございます。ご報告に参りました」

「なんだ、今朝の天気の件か?」

「はい、ご察しの通りでして…」

「そこへ座りたまえ」

「はい、有り難うございます。早速ですが、昨夕刻の予測と違ってしまい、誠に申し訳ありませんでした」

「まあまあ、そう律儀に謝ることもない。そりゃ、自然現象が相手だ。外れることもある。気にせんでよい」

「はあ、そうは申されますが。私としてもいくら部下の過ちとて、私の責任であり反省しております…」

「そうか、とうとう連勝が止ったか。それは残念だ。それにしても咋夜からの天気の崩れ、意外だったな。私も昨夕の予報が外れるとは思いもよらなかった」

「はい、面目ありません」

「ところで、外れた原因はなんだね。君らしくないが、部下がどうとか言っていたが?」

田口は筋書き通りに糸川の質問が飛んできたと思った。きっぱりと答える。

「そうなんです、正木の読みが甘かったのが主たる原因でして。それに連勝記録を塗り替えていることから、知らぬまに彼が傲慢になっていたものと」

「ほう、あの男がね。そうは見えんが…」

「いいえ、私も彼のためと思い、随分嗜めたのですがガンとして譲らず、晴天が続くと主張しまして。私としては、このところの異常気象と、最近少しばかり気になっていたフイリピン沖でのラニーニャ現象。さらには中国大陸での汚染状況等々から、連続した晴天も、昨夜から本日一杯崩れると説いたのですが、言うことを聞かず、強引に昨夕の報道内容になったわけでありまして」

一気呵成に、田口はあたかも正木の主張を己がもののように解説した。感心する顔で糸川が返す。

「うむ、そうか。しかし、君もよくそこまで調べたな」

「はあ、私としても。見聞きして下さる視聴者方々の期待に副わなければならぬという、一念でございまして」

田口の面が得意顔になっていた。すると、糸川が尤もらしく垂れる。

「それは我が社にあって、忘れてはならぬ基本理念だ。よくそこまで考えているとは。それにしても、正木君も少々鼻高になり、視聴者側の視点でみていないのではないか?」

「はあ、面目ありません。私の指導が足りませんで」

「いや、そんなことはない。君はしっかりやっている。まあ、彼に少し灸を据える必要があるな」

「常務、やはりそのようにお見えですか。じつは、私もかねがね彼の傲慢さが目につき注意はしていたのですが、聞き入れず苦慮しておりまして…」

そこまで告げ、田口は糸川が思惑通り傾いたことに満足し、席を立とうと挨拶する。

「常務、お忙しいところ。私のつまらぬ愚痴など、お聞き頂き有り難うございました」

「いいや、わざわざ朝早くから報告に来てくれ有り難う。まあ、君のことだ。言わずとも指導してくれると思うが、彼に活を入れておきたまえ」

「はっ、有り難うございます。そこまでご指導下さるとは、光栄でございます。それでは失礼致します」

頭を下げ、常務室を出た。その顔は満面の笑みに包まれ、その足で局長室へと向う。午前八時半になっていた。

「局長、おはようございます。田口でございます」

名乗ると、野尻の返事が返る。

「入りたまえ」

「はい!」

部屋に入り、軽く会釈し挨拶する。

「おはようございます。早朝から押しかけ申し訳ありません。ご報告に参りました」

「なんだ、今朝の予報が外れた件か?」

「はい、その通りでございます…」

田口の返事に、野尻が残念そうに告げる。

「返す返すも残念だ。連勝記録を塗り替えているというのに。これは私だけではない。社長、会長も気にしておられてな。と言うのも、この記録は我が社にあって前代未聞の快挙なんだ。それにテレビ放送協会にとっても、意義のあるものだったからな。社長はともかく、氏谷会長は特にがっかりされておられるだろう」

「本当に申し訳なく思っております」

田口が白々しく頭を下げ、そして嘯く。

「正木課長の暴走を、私が身体を張り止めなねばならぬところを。それが出来ずこのような結果となり、責任のすべては私にあります」

「なにを言う。自然現象を予測するのは難しいものだ。まあ、仕方がない。それで原因はなんだね?」

糸川と同様な質問に、思惑通りと釈明した。

「はあ、話すのも恥ずかしいのですが。やはり、きちっと話しご理解頂いた方がよいかと存じますので、ご説明致します」

「なんだね、原因は」

「じつは、正木君が、…赫々云々。このような訳でありまして、私の主張を拒み、強引に自説を発表すると暴言し、『聞き入れなければ連勝記録も止る。そうなれば部長の立場上困るでしょう』と、半ば脅しをかけてきまして。そんなことはない。そんな強引な論議はないと嗜めたのですが、『局長や社長、強いては会長にも迷惑が及んでもよいのか』と脅かされる始末で。私とてそれを考慮すれば、強引に止めるわけにもいかず、止む無く彼の主張を取り入れた結果、ご迷惑をかけるに相成った次第でございます。私の至らなさが原因と考え、まずもって局長にお詫びとをとまかり越した次第です。大変ご迷惑をかけ、誠に申し訳ございませんでした」

田口は尤もらしく起立し、深々と頭を下げた。聞き及ぶ野尻が納得したのか、田口を褒める。

「そこまで、考えておったのか。その謙虚な態度痛み入る。まあ、外れたことは事実だ。これは致し方ないことだが、説明の内容から決して君の指導が誤っているとは思えん。そこまで自分を責めることもなかろう。ただ、正木君を少し買い被っていたようだ。確かに気象予報課の快挙に、皆が遠慮し意見が言えぬ状況になっていたような気もする」

田口の謀略を、野尻はまったく疑おうとしなかった。そこを田口がつけ入る。

「はい。そこのところは、私めがもっと厳しくすべきなのですが、彼の独善さが増し、それを抑制できなかったことに、自身大いに悔いているところでありまして…」

「確かに、それもあると思うが。それよりも最近正木君は、少し頭に乗ってきているようだな。強引さが目立つ」

「押さえ切れず申し訳ございません」田口が調子に乗った。諦めきれぬのか、野尻が嘆く。

「それにつけても、連勝がストップし残念だ。まあ、何時かは途切れることもある。こんな難しい予測が、今まで外れなかったこと自体奇跡といってもいいくらいだ。田口君、今まで素晴らしい夢を見させてくれて有り難う。感謝するよ」

「とんでもない。局長、私の不徳の致すところでありまして、返す返えすも残念でなりません」

「仕方ないじゃないか。途切れたのは事実だ。まあ、一番がっかりしておろう氏谷会長には、私から報告しておく。一から出直しだ。今度はこの記録を塗り替えることが目標になる。精々暴れ馬の手綱を締めてくれよな」と野尻が促した。

「はっ、かしこまりました。私も褌を締め直し励む所存で御座います。それでは、ご多忙の中有り難うございました」

田口は謀略の完遂に腹で笑うが、神妙な面持ちで挨拶し局長室を出て自部署へと戻った。皆が出勤し出した午前八時五十分頃である。一時間ほどの演技を終えたが、今日一日分のエネルギーの大半を費やしていた。だが、得た両名の反応が、すこぶる満足の行く結果となり、笑みを隠せなかった。

「おはようございます」

酒井がお茶を入れ、田口の顔を覗き込む。

「部長、笑顔が素敵ですね。ご自宅でなにかいいことでもあったのですか?」

すると、田口がにやけ顔で応じる。

「おお、何時も悪いね。ちょうど、お茶が飲みたいところだった。酒井君は気が利くな。おっと、それに自宅でなんかいいことあるわけねえだろ」

「そうですか、それでは昨晩ですね」

「なにを言う、そんなものあるか」

「まあ、惚けちゃって」

酒井が田口の二の腕をつねった。

「痛っ、なにするんだ!」

「駄目よ、嘘ついちゃ。顔に書いてあるわよ。いい思いしたみたいですね」と酒井が惚けた。

「馬鹿な、そんなことあるか」

田口が反論しつつ、「お前しか興味がない」という仕草で、皆にわからぬよう彼女の尻を撫でた。

「そうですか、それならいいんだけれど」

納得して、腰を振り席へ戻った。その後ろ姿を見つつ、心内で嘯く。

まったくもう、相手にしてやらねえと、直ぐに疑いやがる。これは用心せんとな。しょうがねえ、今晩付き合ってやるか。

受話器をとり外線にかける振りして、弥生の内線にかけた。わざとらしく敬語で、今晩の密会の約束を取り付けた。これも田口の常套手段である。

酒井が演技応対する。

「それでは浜田社長、本日午後六時にお迎えにお伺いさせて頂きます。いいえ、どう致しまして。何時も大変ご贔屓頂き有り難うございます。それでは失礼致します。いいえ、そうではございません。本当に申し訳ございません。昨日の気象予報は、私共の予測違いでございました。重ねてお詫び申し上げます。は、はい。有り難うございます。失礼致します」

酒井が大袈裟に詫びた。もちろん、演技である。受話器を置きわざとらしく呟く。

「今日は朝から、お叱りの電話ばかりだわ。まったく、嫌になるわね。予報課さんも、間違えないようにして貰わないと」

すると、隣席の同僚が同調する。

「そうですよね、全然狂っているんですもの。私だって視聴者の立場だったら、ひと言文句いうわよ。そうでしょ、弥生さん」

「ええ、そういう気分だわ。ねえ、皆さん」

「そうですとも」口々に返してきた。

社外からのクレームに庶務課の皆が対応に追われ、不満をぶつけ合っていた。すると、田口が窺い胸中で漏す。

うむ、もう昨夕の予測外れが蔓延しているな。それじゃ、そろそろ正木を呼び出すか。但し、一人で来させねえと…。

そして、弥生に指示する。

「おい、酒井君。悪いが正木課長を六階会議室に、そうだな、九時三十分に来るよう連絡してくれんか。私はちょっと、会長のところへ寄ってから会議室に行くから」

「はい、かしこまりました。直ぐに伝えます」

弥生は心弾むのか、色よい返事を返した。すると、田口がおもむろに告げる。

「それじゃ行ってくる」

「行ってらっしゃい!」

送られる言葉を後にし席を立った。もちろん、会長への訪問など嘘である。局近くの喫茶店に入り、謀略を確認していたのだ。コーヒーをすすり、時々薄笑いを浮かべ、飲み終えたところで席を立つ。

「よしっ、これでいい。さて、奴の阿呆面でも拝みに行くか」

会議室に来ると、すでに正木が憮然とし待っていたが、田口を見て立ち上がる。

「おはようございます!」

すると正木に対し、田口が見下すように告げた。

「おはよう、君を呼び出したのは他でもない。昨夕の気象予測の件だ。どうだ、さぞかし鼻が高いだろう。お前の主張が当っていたんだからな。それを強引に変えさせ、結果連勝を止めさせた。さぞ、このわしが憎いだろう。どうだ、憎けりゃ恨め」

「部長、外れたのは事実です。私だけでなく、課員全員が悲しんでいます。が、仕方ありません。だからと言って、部長を恨んだり致しません」

正木が、心中とは裏腹に言い放った。

「なにをこしゃくな。その目はなんだ。表情といい視線といい、恨みでわしを蔑んでいるではないか。図星だろう」

「いいえ、そのようなことはありません…」

正木の握り拳が震えていた。その様子を窺いつつ、田口が秘策を繰り出す。

「それじゃ、正木君。取引しようじゃないか」

「はあ…?」

田口に不意を突かれた。

「だから、取引しようと言っているんだ!」

唖然とする正木に、田口が高飛車に出た。正木は意外な展開に戸惑う。

「なんですか、急に取引とは。なにもそうする必要はありません」

「そうかな、君には秘密があるだろう」

田口が慇懃に迫るが、正木は反論に出た。

「秘密など持っておりません。今回の気象予測においても、主張すべきは行いました。最終判断は部長の専権です。意向に合わせ修正させて頂いただけです。結果、部長の判断の誤りが証明されましたがね」

正木は嫌味を添えると、田口がぐっと目を剥く。

「なにを言う。わしを愚弄する気か!」

「いいえ、そのようなことはありません。事実を申し上げたまでです」

「だから、それが愚弄している証拠じゃないか」

「いいえ、そうは思いません」

「なんだ、君は。わしに逆らう気だな。それなら考えがある。どうなんだ、取引に応ずるか聞いておる」

正木の返答に、つい頭に血が上っていた。その態度に、正木が潔白さを主張した。

「ですから、私にはなにもないと言ったではありませんか!」

「ほう、そう強気に出てもいいんだな。わしを本気で怒らせる気か!」

田口が睨み恫喝した。

「ですから、私には部長と取引するような、疚しいことはございません」

「言ったな、正木。偉そうに、その傲慢さが命取りになるんだ。わかった、それなら話してやる。お前が折れねばならぬ弱点をな」

「…」訝り黙る正木に、慇懃に話し出す。

「君には彼女がいるな。たしか、山城夏美。年齢は二十五歳。ぞっこんらしいな。どうだ、将来は一緒になるつもりか?」

「部長、なんですか。そんなこと、あなたには関係ないことじゃないですか!」

「確かに、君の言う通りだ。だが、今言ったばかりだぞ。お前には弱みがあるとな」

「私には脅かされる弱みなど持っておりません」

毅然と正木が応えると、夏美の弱みに変えた。

「そうか、それならお前の彼女にあったらどうする?」

思ってもみない展開に、正木は慌てた。

「ええっ、なんですって。部長には関係ないことじゃないですか!」

「だから、取引せんかと言ったはずだ。それを、お前は断った。そうじゃないのか?」

田口の慇懃な物言いに、言葉が詰まった。

「そんな…」

 田口が夏美の秘密を暴き出した。

「お前の女、山城夏美には過去に口外出来ない秘密がある。お前も知っているな。それが暴かれたらどうする。そうなれば白日の下に曝され、今までのように勤められるかな?」

「なんということを。夏美の過去を出すなんて…」

他人には知られてはならないことである。よもや、田口が知っているとは予想

もしなかった。正木は遺憾し難く膝を折る。

「部長、それだけはお許し下さい。お願いです。そのことが公になれば、彼女は生きて行けなくなる。職場にだっていられない。どうかご勘弁を…」

正木は立ち上がり、深々と頭を下げた。彼女のことを口外されてはどうにもならない。無念にも、汚い要求を受け入れざろう得なかった。

田口は、逆転した形勢に勝ったと確信し、見下すように告げる。

「それじゃ、取引しようじゃないか」

「…」

「今回の気象予測の誤りで、わしとお前の主張を逆にするんだ。どうだ、応じるか!」

「ええっ、なんですって。そんなこと…」

「それは出来ないと言うのか、お前らしいな。それじゃ、取引不成立となるが。いいんだな」

田口が勝利者の如く言い放った。

「ああ、待って下さい。そ、そればかりは、お許し下さい。部長、お願いです」

「それじゃ今回の取引、応じなきゃならんだろ」

正木の弱みを突いた。

「は、はい。でも、私としては。自説を曲げるわけには…」

「そんな堅苦しく考えることもあるまい。自然界を相手にしているんだ。いくら的確な予測を立てようと、狂うこともある。絶対なんて有り得んのだ。そうじゃないのか、正木君」

慇懃にごり押しした。

「そんな…」

正木にとり、信念を曲げることは最も辛いことである。だが、夏美のことを考えれば、断腸の思いで応じなければならなかった。がっくりと肩を落とし、無言で頷いた。

「正木君、よく了解してくれた。それじゃ、取引成立だ」

 征服者の如く告げた。

「…」

無言のまま唇を噛み締める。すると、田口が言い放った。

「これから、局長のところへ行く。そして、君が犯したものだと謝るのだ。いいな」

「ええっ、それは…」

「おい、『それは…』はなかろう。そうでなければ、取引に応じたことにはならんぞ」

「…」返す言葉がなかった。

「わかったな。さあ、行くぞ」

田口が先に立ち、正木が後につき会議室を出た。田口が勝ち誇るように背筋を伸ばし、局長室の前に来て止る。

「局長、田口ですが。入っても宜しいでしょうか?」

「おお、いいぞ!」

「それでは、失礼します!」

俯く正木を伴い入室する。

「あれ、正木君も来たのか。それと、田口君。先ほどはご苦労様。また、どうして正木君と来たのかね?」

「局長、改めて正木と共にお詫びに参りました」

田口が頭を下げた。ところが、突っ立ったままでいる正木に気づく。

「こら、謝らんか!」

横目で睨み怒鳴ると、慌てて正木が頭を下げた。

すると、野尻が制止する。

「君も、正木君も、もうよい。予報が違った理由は、先程聞いた。自然界を相手にしているんだ。そんなこともある。むしろ、今まで連勝できたことが不思議なくらいだ。まあ、それだけ君らの分析や視点が鋭かったからであろう。だが、気を抜いたり甘く見たりと驕りが出ると、そっぽを向かれるものだ。

なあ、正木君。君は優秀な社員であり管理者だ。そういう意味からすれば、どうしても慢心する部下を束ねるのは難しいと思うが、いい機会じゃないか。初心に戻ってやり直してくれたまえ」

田口は局長の諭しを思惑通りと聞き及ぶが、正木の心中は穏やかでなかった。部長に弱みを握られ、脅かされている身では局長に反論など出来ない。唇をへの字に結び視線を足元に落として、煮え返る気持ちを抑えていた。そして胸の内で訴える。

局長、田口部長がどのように説明したのか。私たちは、絶対に間違ってはいない。あれほど主張したのに部長が覆し、止む終えず指示に従い、あのような予測となったのです。現実は、我ら気象予報課全員で導いた気象状況なのです。決して外したわけではありません!

正木の握り拳が震えていた。すると、見透かすように田口が吠える。

「正木、なんだその態度は。お前の犯した過ちだぞ。形だけの反省でどうする。局長のご鞭撻を真摯に受け止め、心から謝らんでなんとするんだ!」

部長の狂言に、正木は胸の内とは異なる侘びを入れなければならなかった。

「私の責任で、昨夕の気象予測を誤ってしまいました。局長にはご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」

深々と頭を下げるが、悔し涙が足元をぼかしていた。

「まあ、よい。正木君、今後とも頑張ってくれたまえ」

だが、局長の諭し方は何時の様でなかった。これこそ、田口が最も期待する成り行きである。

どんなもんだ、正木。局長は今回の件で、貴様を見限ったのだ。これで、お前も終わりだな。早晩課長職を外されるだろうよ。

田口の視線に、勝ち誇った輝きが生じていた。そして、わざとらしく整えて、切り札を切る。

「局長、私の指導が行き届きませんで、このような結果になりましたこと、深く反省し今後の糧にしたいと肝に命じております。誠に申し訳ございませんでした」

尤もらしく頭を下げると、正木もぎこちなく下げたが、田口の一矢が飛んだ。

「正木、お前は性根が腐っている。それが、態度に出ているじゃないか。局長に対し失礼だぞ。誠心誠意謝らんか!」

矢が正木の胸に刺さる衝撃を受けていた。止む無く頭を下げ直す。

「まあ、よい。田口君、その辺にしておけ。君も大変だろうが、しっかり手綱を締めて貰いたい」

「承、承知致しました。それでは失礼致します。さあ、正木帰るぞ。一から叩き直してやるから、そのつもりでいろ!」

局長の受けをよくしようと、二の矢を放った。受ける正木の顔が歪んでいた。

そして、共に自部室へ戻る途中、田口が声をかける。

「正木君、これでいいんだ。後は私に任せなさい。悪いようにはせん。それと、取引のことは他言無用だぞ」

「はい…」

「うん、素直でよい。まあ、今回のことは。これで決着がついた。君も辛いだろうが、我慢してくれ。連勝記録は途切れたが、これからまた挑戦すればいい。地道にやっていればいずれ芽が出る。それまで辛抱強く己の課を纏めるんだ。いいな」

「はあ…」ようやく絞り出すが、そこを突かれた。

「うん、なんだその気のない返事は。不満でもあるのか」

田口が傘を掛けた。すると、無念そうに折れる。

「いいえ、ございません。これからも、ご指導願いします」

「まあ、精々頑張ることだ。それしかお前の進む道はないと心得よ」

「は、はい…」

正木が部屋に戻り自席へ着いた。そして大きく溜息をつく。そこへ、森下が心配そうに歩み寄った。

「課長、顔色が優れないようですが、どうしましたか?」

「いいや、なんでもない。心配させてすまんな」

「いいえ、例の件ですね。あの馬鹿部長のせいですね」

「いや、他人のせいにしてはいけない。私がもっと強い意志を持ち、説得出来なかったことが原因なんだから」

聞き及ぶ吉田が我慢できず割り込んだ。

「そうじゃありませんよ。我々は、あれだけ主張したじゃありませんか。それを部長は強引に、意見も聞かず押し通したんだ。だいたい、部長の論拠が場当たりで、意固地になって手前の愚論を強要したから外れてしまったんだ」

興奮して、有体に田口を批判した。正木は黙って聞いていた。森下や吉田の言い分は、まさしく己の意思でもある。だが、課を纏める立場では、同様に批判するわけに行かなかった。

じっと天井の一点を睨む正木を見て、吉田が吠えた。

「課長、なんで黙っているんですか。せっかく苦労して積み上げた予測を強引に外され、部長の誤った予測を通されたんですよ。こんな馬鹿な話がありますか。俺は納得できません!」

「そうよね、私だって同じ気持ちだわ。部長に抗議したいのは山々だけど」と森下が加勢した。すると、「そうですよね。私だって、偉そうに言えないけれど。それなりに努力したんです。それが水の泡になったんですから。部長に謝って貰いたいわ」横山も涙混じりに訴えた。

「そうだよ。課長、外れた原因は部長にあるんだ。謝って貰いましょうよ!」

吉田が勢いづいた。

「ちょっと待って。一番辛いのは、正木課長よ。そんなこと出来ると思うの。課長の立場も考えたらどう」

森下が正木の立場を思い制した。

「ちぇっ、これじゃ、気分が収まらねえや。くそっ、どうすりゃいいんだ。この憤りを処理するのになんとかならんか!」

吉田が息巻くと、横山が宥める。

「吉田さん、我慢して。森下さんの言われる通りだわ。私たちより、どれだけ課長が悔しい思いをしているか。そうでしょ、昨日なんかあれだけ抵抗してくれたのよ。私たちがどれだけ部長に主張しましたか。そうでしょ、私たちの気持ちを、すべて代弁してくれてたんじゃないですか!」

めずらしく毅然と訴えた。すると、森下が意外と受け止める。

「あら、すごいこと言えるようになったわね、横山さん。その通りよ、吉田君の気持ち分らないわけじゃないけれど、横山さんの言う通りだわ」

「うん、そうかも知れんな。ちょっと頭に来ちまって意気込んだが、ずばりそうだ。俺なんか、課長と田口部長のバトルを聞いていて、迫力あったんで萎縮していたからな」

今までの勢いを取り消すように、吉田が舌を出した。

すると、聞き及んでいた正木が皆に目を向ける。

「今回の件は、すべて私に責任がある。君たちに多大な迷惑をかけ、深く陳謝する。私の説得力がなかったことが、最大の原因だと反省している。悪かった」

頭を下げると、吉田が制止した。

「課長、またそんなこと言って。決して課長が悪いわけでも、説得力がないわけでもありません。俺たちにはわかるんです。例え上司といえど、すべて完全とは言えんのです。本来己の主張が間違えと気づいたら、その時点で素直に謝り、相手の意見を尊重しなければ、その人間についてゆく者などいない。俺は正木課長に、何処までもついて行きますよ。例え地獄の果てでもね」

「あら、馬鹿なこと言わないで。あなたは地獄に落ちても、課長を道連れにするなんて言い過ぎよ。謝りなさい!」

乗り過ぎる吉田のジョークに、森下が強い口調でとがめた。

「あいや、これは例えだ。課長が地獄へ落ちるわけねえだろ。森下さんは、直ぐマジに捉えるんだから」と吉田が慌て言い訳した。

「そうですよね。正木課長って、正義感が強いし立派な方だから、きっと天国へ行きますよね」

横山が胸元で手を合わせ微笑むと、正木が否定する。

「おいおい、おだてるのはいいが、俺はまだ死なんぞ。ほれ、ぴんぴんしているだろ」

握り拳を振り回した。

「あいや、いけない。そんなつもりで言ったんじゃありません。私、誤解されると困るんです。吉田さんが、地獄へなんて言うからいけないんだわ。それで、つい調子に乗り天国と言ってしまったんですもの」

「あのな、横山君。確かに失言したが、それだからといって俺のせいにされても困るな」

惚け顔で反論した。

「まあまあ二人とも、責任の擦り合いは止めてくれない。醜いわよ」

森下が仲裁に入ると、正木に笑顔が戻る。それを課員たちが見て安堵したのか、一斉に笑いの渦が起きていた。

だが、皆の心は、それとは正反対だった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る