二節
それから数週間が過ぎた。
気象予測連勝が続いていた頃、眠りから覚めたように田口が豹変した。正木たちには、何故そうなったのかわからない。ただ、昔の田口に戻ったことを実感する。責められるのは正木だ。寄りにもよって、祝勝会後の二次会についてであった。二次会は部長の交際費を使った。これは事前に田口が了解していたことであり、むしろ、部長自身の勧めによるものである。「私の交際費を使って二次会に連れて行ってやれ」とのことだったが、それにいちゃもんをつけてきた。
部長席に呼ばれ、その場で烈火の如く怒られた。正木には訳が分からず叱責されたことになる。なんのことかと熟慮するも、思い当たる節はない。黙ったまま頭を下げていると、部長の怒りはさらに激化する。
「なんだ、君は。無断でわしの交際費枠を、わしが使ったように見せかけ小払精算してる。それも、君のところの者と飲み食いに使うとはけしからん。公私混同も甚だしい。それもわしに了解なく、さらに報告もせんとは。これは社内規則に反する行為だ。なんと言うことをしてくれた!」
「はあ、その件は。先般の祝勝会の折りに、部長から勧められ使用したものでして、翌日お礼方々ご報告申し上げたではありませんか」
「なにを今さら言っておる。そんなこと、わしは知らん。祝勝会の席で勧めただと。なにを寝惚けておる。もういい、君の言い訳など聞きたくない。わしの交際費を使ってよいなどと言った覚えはない!」
「そんなこと…」
「反省もせず開き直るなど、貴様はどんな神経をしているんだ。まともだとは思えん」
「あの、部長。確かに交際費の件は、そのように勧められております。それも課員のいる前で、はっきりとおっしゃったではありませんか」
「なんだと、わしを愚弄するつもりか。それとも立てつく気か。けしからん奴だ。『申し訳ない。無断で使用し申し訳ございませんでした』と謝るならいざしらず、ずうずうしくも反論するとはけしからん奴だ。もうよい、戻りたまえ!」
「いいえ、部長。それは濡れ衣です。勝手に部長の交際費など使ってはおりません!」
「なにを開き直って、見苦しいぞ。早く席へ戻って沙汰を待て。わかったな、正木!」
反論を否定する田口の恫喝だった。正木は、田口の理不尽な態度に憤りを持ちつつ、頭を下げ引き下がった。
田口が正木の背中を窺い、胸中で嘯く。
うふふ、これでよい。まずは先制パンチだ。正木の野郎、調子に乗りやがって。策略にまんまと引っかかりおった。今さら言い訳したところで後の祭りだ。わしの交際費枠使用の許可など、酒の上での戯言だ。まともに受ける奴がどこにいる。阿呆な奴だわい。
まあ、使ったことは事実だからな。それもわしのいないところで飲み食いし、付け替えよって。伝票が回ってきた時、決済印など押しておらん。これじゃ、経理も戻してくるわい。うちの経理も処理が遅い。今頃戻ってくるんだからな。それにしても、その方が都合がいい。直ぐに戻ってきては溜めが作れんからな。これで思惑通りの展開になったぞ。それじゃ、次なる策へと進めるか。
田口が笑いを押し殺し続ける。
さてっ、この件を引っさげ局長のところへ行き、奴に止めを刺すか。漫然とした表情で、馬脚を表わしたのだ。ここでさらに、田口は一策を講じる。
局長室に現われた田口に、野尻が褒める。
「やあ、田口君。新記録だね。とうとう前回の記録を塗り替えたじゃないか。これは我が報道局としても、大変な名誉だ」
「はあ、有り難うございます。これも局長のご指導の賜物と感謝致しております。このこともありまして、まかり越したわけでございます」
「そうか、それは丁寧に悼みいる。それとだ、田口君喜びたまえ。この気象予報の的中率新記録は、日本気象予報協会にあっても、じつは記録となる大偉業でな。これも君の貢献が大きい。重ねて礼を言う」
「それはそれは、なんと名誉なことでございますな。あいや、私めではございません。野尻局長、さらには我が社にとって大きな誉れとなるでしょう」
「うむうむ、そう持ち上げられるとこそばゆい気もするが、嬉しい限りだ。有り難う、田口君。これからも如何なく指導力を発揮してくれたまえ。おお、それに忘れちゃならん、正木君の貢献も大きい。君の方から礼を言っておいてくれんか。私も結構忙しくて、すれ違いが多い。特に最近は、予測外れの反省会議がなく、彼の顔をついと見る機会がなくなった。あいや、外れて欲しいと言っているのではないぞ。あっははは…」
「いやいや、局長。ごもっともなことで、私としましてもこれから先どれだけ記録を伸ばせるか心配で、細心の注意を払い指導しており、毎夜胃の痛む思いでおります」
「それは気苦労が絶えんだろうが、頑張ってくれたまえ」
「有り難うございます。局長の微細なまでの心配り、感謝の念に耐えません」
野尻が田口の美辞麗句を聞いたところで尋ねる。
「ところで田口君、先ほど話したいことがあると言っていたがなにかね?」
思い出してか問うた。すると、田口の表情がにわかに曇る。
「いやじつは、大したことでございませんが。これは局長の耳に入れておいた方が宜しいかと、お伝えに参ったのですが」
「ほほ、なんのことかね」
「はい、交際費無断使用の件でございまして」
「ううん、どういうことだ。我が社では役職に応じて交際費枠を持っているが。それ以内であれば、使用後に上司の決済を貰えば済むはことではないか」
「その通りでございますが…」
「それじゃ、一体無断使用とはどんなことか聞かせてくれんか」
「はい。まあ、私としても。ことを大きくしたくはございませんので、事後で決済しておきましたが。じつは、正木課長のところで発覚しまして…」
「なにっ、正木君のところで。それで、どんな内容か」
野尻が意外という反応を示し、先を急かせた。すると、田口がおもむろに説明しだす。
「はい、これというのも。先般連勝記録の件で、局長が彼らと座興の賭けをしていらっしゃいましたが」
「おお、確かに約束したんで正木君らには、私の方から激励金として、金一封を出しておいたが。それがどうしたのだ。わしにも祝勝会の参加要請があったが、あいにく多忙で参加出来んかったが、君は出席したんだろ」
「はい、さそうでございます。局長、その件につきましては直接問題ないのですが、どうも正木君は気が大きくなってか、それとも自信過剰なのか、祝賀会だけでは飽きたらず二次会へと繰り出して、私の交際費を無断で使用したことが判明したもので」
「なに、君の交際費を許可なく使ったというのか。彼自身の枠があるじゃないか、それを使えばいいものを。何故そんなことをしたのか」
「私としても不可解でなりません。と言うのも、経理部から支払明細書が戻されてきて判明したもので、私の決済を取らず勝手に回したようでございます。いや、大した額ではございませんが、十二万円ほどでございます」
田口が大袈裟に吹いた。渋い顔で野尻が返す。
「しかし、正木君らしくないな。もし彼の枠が足りないなら、何故事前に君の了解を取らなかったのか。まあ、これは些細なことなので穏便に済ませたまえ」
「はい、もとよりそのつもりりでして、私の方で彼を呼び説教しておきました。深く反省しているようなので、このように本報告で済ませたいと存じます」
「うむ、そうしてくれたまえ」
野尻の裁断に、田口は尤もらしく応えた。
「私も、このような些細なことで、更新中の連勝記録を絶やしたくはありませんので」
野尻が頷き、きっぱりと告げる。
「その通りだ。これも今や全社挙げての記録樹立へと向っている。もはや一部署だけのものではない。その辺、君も彼らのやる気を削いてはならん。連勝記録はは彼らにとっても、相当なプレッシャーになっているはずだ。まあ君も、その一員であることに変わりはないがな」
「はい、その通りでございます。ですから、穏便に済ませておきたいのです」
己の都合よく進めることに、野尻の賛同を得ることで田口の得点とした。ところが、野尻の意外な質問が飛んできた。
「しかし、田口君。君の交際費枠はどれくらいあるんだね?」
唐突な問い、田口がたじろぐ。
「は、はい。私の枠ですか」
「そうだが、いくらかね」
聞かれた意図がわからぬまま、慎重に答える。
「私の交際費枠は、半期で百二十万円ほどでございます…」
「そうか、それで正木君の枠はどれくらいなんだ」
さらに、予期せぬ質問が続いた。
「課長枠でございますか。ええと、たしか月五万円ですので、半期三十万円ほどになりますが」
「そうか、そんなものか…。君、もう少し増やしてやったらどうだ。これだけ貢献しているし、そんなものじゃ足らんだろ。君の権限で申請してくれんか。私が決裁しておく。そうだな、今期の修正は難しいか。とりあえず来期は倍にしてやったらどうだ」
「有り難うございます。そこまでご配慮頂けますれば、彼も喜ぶと存じます。では早速手配させて頂きます」
田口は腹にもないことを告げ安堵したのもつかの間、またもや野尻の驚く質問が飛んでくる。
「田口君、それでだ。君の今時点の交際費は、どれくらい残っておるのかね?」
この問いにはどきっとした。と言うのも、田口は毎月の使用額は、ある計画を立て使っているからだ。もちろん、残高管理は徹底している。野尻がどういう意図で尋ねたのか、田口は咄嗟の判断がつかぬまま曖昧に答える。
「はい、今期はあと六十万円ほどでございますが…」
「そうか、それなら君。半分とは言わんが、多少正木君に廻してやれんか」
考えもつかなかった野尻の要請に、田口の顔が困惑の表情に変わった。心内で嘯く。
ええっ、そんなこと出来んぞ。いくら局長の頼みとはいえ、女との密会資金が減っちゃうじゃねえか。なんということを言いだす。局長の頼みとはいえ、そんなことはできん。それより、そんなこと言うなら、局長の枠を廻せばいいではないか。それを、俺の枠をいじるなんて…。
しかめっ面で憶測しているところに、野尻の声が飛んだ。
「どうだ、田口君。検討してくれんか」
「は、はい…」
躊躇い曖昧に応えるが、内心たじろぐ。
局長さん待てくださいよ。どうも矛先が違ってきたな。こんな展開になるんだったら、報告に来なければよかったぞ…。
思惑の展開が別方向に向かったことで悔やんでいた。そこに、「どうなんだ、廻せんのか!」野尻の思わぬ追い討ちに、うろたえ言い訳する。
「そ、それは。私としても、この記録更新などで、外部との付き合いが増えておりますれば。なかなか厳しく…」
苦渋の思いつきを並べた。すると野尻があっさりと応じる。
「そうか、そう言われりゃそうだな。こんな記録を打ち立てているんだ、なにかと使う機会が多いだろうな」
田口は思わぬ好転に、言い訳染みた嘘を並べる。
「その通りでございまして。本来であれば局長のご要請の前に、私としても考えておりましたことですが、何分出費が多く廻したくても出来ない状況で苦慮しているところでございまして」
額の冷や汗を拭い、懸命に言い繕った。
「さも、あろうな。うむ、それじゃ仕方ない。私の交際費枠から、臨時に廻すか。そうだな、期末まで百万円ほど使わせてやるか。これも臨時ボーナスならぬ臨時交際費枠とでもするか。私の方で経理の五十嵐部長に手配しておくので、君から正木君に伝えてくれ」
「有り難うございます。私の部下のために、そこまでご配慮頂くとはこのうえないことでございます。正木には今回の不始末を猛反省させ、二度と起さぬよう厳重に管理いたす所存でございます」
「そうしてくれるか、君には苦労をかけさせてすまんが、これも社の偉業達成のためだ。しっかりやってくれたまえ」
ことなく激励で終わった。
田口は局長の突然の要請で、危うく交際費枠削減になるところ、旨く回避できたことに胸を撫ぜおろす。これ以上局長室に居ては、また難題を押し付けられると、早々に退散しようと、「局長、ご多忙のところ長時間お邪魔し申し訳ございませんでした。これで失礼致します」
会釈し下がろうとした時、「ちょっと待ちたまえ」と野尻が呼び止めた。またかと足を止めると、意外な話を切り出される。
「先般の件だが、君には申し訳なかった。今直ぐにとはいかんが、いずれ時期をみて役員会に再度推挙するつもりでいる。しっかり頑張って貰いたい。それに、なんだ。こっちの方も、あまり派手にやらんようにな」
野尻が小指を立て注意を促すと一瞬どきりとするが、思わぬ好転回に平常心を装い返す。
「は、はい。心得ております」
田口は深く頭を下げ退席した。嘘八百の言い訳で凌いだ後の好転に、諦めかけた夢がぱっと広がっていた。
なんと、これは運が上向いてきたぞ。見送られた時には自棄になったが、やっと副局長に昇進できるか。今度こそ何がなんでも射止めにゃならん。それにしても、別れ際の意味深な注意。うむ、局長の示唆はなんだ。もしかして、弥生との密会がばれたのか。もし、そうだとすればまずい。少し控えるか…。
ここのところは旨くやらんと、上向いた運気が逃げてしまうからな。それじゃ暫らく弥生を控え純子を可愛がるか。それに、この際純子に局長の意図を探らせ、ついでに身辺を調べさせるか。局長にも疚しいことの一つや二つ出てくれば、後でなにかの時に役立つかもしれん。
さらに色香の情欲が湧いてきた。
それに余禄で、秘書部の女を陥せるかもしれん。小倉礼子なんぞ、いいかもな。あの尻のふくよかさ、一度抱いてみる価値が有りそうだわい。うふふ…。
自部署に帰り際、局長の注意を勝手に解釈し、またぞろ情欲の虫が頭の中を這いずり出していた。すると直ぐに戻らず、やおらトイレへと向った。おもむろにスマートホンを取り、谷川純子に電話をかけた。何時もの方法でである。内線電話が鳴ると純子が出た。
「はい、秘書部の谷川でございます」
直ぐに田口とわかった。危うく私語になるところを抑えた。
「よう、純子か。どうだ、今夜食事しないか。君と秘書部の同僚を連れて来い。三、四人で合コンをやろう」
田口の意外な誘いに戸惑う。
「ええ、いいわ」と俗語になるところを、慌てて敬語で応える。
「はい、結構でございますが、ご返事の方はどう致しましょうか?」
「そうだな、場所のセッティングをせにゃならん。出来たら四時までに、誰が参加できるか連絡くれんか」との田口の要請に、敬語で返す。
「はい、かしこまりました。午後四時でございますね。お調べしご連絡させて頂きます。それでは失礼します」
田口からの電話を切ったあと、こっそりと同僚の道子と礼子に声をかけ、午後三時過ぎにトイレで田口に連絡した。今度はため口である。
「ねえ、さっきの件だけど、道子と礼子が参加するわ」
田口が外部からの電話のように応対する。
「はい、そうですか。それは有り難うございます。つきましては、最終打ち合わせをさせて頂きたいと存じます。そうですね、ここのところ暑い日が続いておりますので、どうですか夕涼みがてら打ち合わせを致しませんか。いいえ、場所は私の方で、築地辺りの小料理屋を用意致しますから。はい」
「ええっ、そんなところで暑気払いやるの?」
「はい、そのようにさせて頂きます」
「そうなの、私、そんなところ行ったことないわ。相当高いんでしょ」
「いいや、大したことありません。大切なお得意様を、粗末なところへなどお連れ申せません。はい、それでは夕刻お打ち合わせを。失礼致します」
田口がしゃあしゃあと、あたかも得意先と話しているかのように、相手が切るのを待つ振りをして受話器を置いた。それも、酒井弥生に嗅ぎつけられないようにである。そして、終業の五時前になると離席し、弥生に電話を入れた。
「はい、庶務課の酒井でございます。日頃はお世話になっておりまして、誠に有り難うございます」
受けた弥生は、敬語で挨拶をするが内容はわかっていた。
つまらないわ、今日会えないなんて崇史の馬鹿。取引先との接待なんか組まなければいいのに。
そう田口に言いたかった。意図のわかる田口が、尤もらしく告げる。
「弥生か、わかっているな。今夜は得意先を接待せにゃならん。勘弁してくれ。また、いずれ穴埋めするから」
「はい、その件ならば存じております。誠に残念でございますが、次回は宜しくご手配の程お願いします。これからも、当東都テレビをご贔屓に頂きますれば幸いでございます。はい、有り難うございます。それでは失礼致します」
酒井は不満を胸に押し込み電話を切った。そして、ぽつりと呟く。
「まったく、つまらない。今晩どうしよう、あぶれちゃった。それじゃ、たまには繋ぎの彼氏でも見つけるか。年寄りばかりじゃ飽きるし、たまには刺激の強い若い男の子もいいわね」
田口が秘書部の小倉礼子に、指蝕を伸ばすなど気づく由もなく、まったく取引先の接待と思い込んでいた。
次の朝が来た。
田口は満足気な顔で出社した。さもあろう。情欲のエネルギーが次々と獲物を狙う。昨夜の純子たちとの合コンで、小倉礼子のスマートホン番号を聞きだし、今週金曜日にデートの約束を取り付けていたのだ。それも、純子や道子に気づかれぬように。もちろん昨夜は、谷川純子と抜け目なく情事を楽しんだのは言うまでもない。
自席に着くと間もなく、何時ものように正木らから昨夜の気象結果の報告と、夕方発表する予測の打ち合わせが行われた。簡潔明瞭な正木の説明に大筋了承し、二、三の細かな注意を与え終わった。田口にとって、そんな予測などどうでもよいのである。関心は、小倉礼子を陥すことと、何時正木が失態をやらかすかであり、その機を窺うことであった。それと不本意だが、正木に局長からのメッセージを伝えなければならない。
打ち合わせ終了後、課長だけ残した。
「正木君、ちょっと話がある。そのまま残ってくれんか」
「はい…」
昨日、田口から交際費使用の疑惑をかけられたことに納得できぬまま、呼ばれたのだ。ぶり返しかと訝るが、案の定交際費の件であった。ふたたび攻撃かと思いきや、意外な言葉が耳を突く。
「しかし、君もついているな。たまたま連勝記録が続いているから恩恵を受けるのだ。本来であれば大問題になるところを、わしの力でなんとか穏便に済ませられた。昨日局長のところへ行き、仔細を説明したところ大変お怒りになり、『とんでもないことだ。しかるべく人事委員会にかけ処分を決めて貰う』と、いきり立ち大変だった。そこで、わしがお怒りを収めて貰うよう説得したんだ。
本当に大変だったんだぞ。危ないところでお前がクビになるところだ。それを、わしの監督不行届きであり彼には罪がないと力説し、人事部へは回さず局長の胸に収めて貰うことで決着した」
「はあ…」
濡れ衣であることを抱きつつ頷いた。田口がお構えなしに続ける。
「君も感謝したまえ。そのかわり、現在続いている連勝記録を絶やすでないぞ。こんなことが起きた直後は、ことさら注意することだ。万が一、外れたら。もうお前の尻拭いはしてやれん。それ程の危機を救ってやったんだから、よく覚えておけ」
「わかりました。今後ともご指導宜しくお願いします…」
正木には反論出来ぬまま一人歩きしていた。今回のことは、まったく納得できぬが、止む無く頭を下げた。
「それでは、失礼致します」
会釈し下がろうとした時、田口に呼び止められる。
「ちょっと待て。まだ、話は終わっておらん」
「失礼しました。話しと申しますと…」
腹に留め置き尋ねた。すると、しかめっ面の田口が続ける。
「じつは局長から我が部に対して、全社的に貢献が大である故金一封というか、臨時交際費枠増の計らいがあった。わしは気象予測を私利私欲で取り組んでいるのではなく、社のために取り組んでいると断ったが、それはそれ、貢献度が高いので受け取ってくれと言われ、止む無く頂戴することになった」
「はあ、と申しますと…」
正木がうんざり気味に尋ねた。
「ああ、我が部に今期百万円の交際費を臨時増枠してくれたのだ。それで、君の課に五十万円の使用枠をやるから使いたまえ」
田口が局長の意をそのまま伝えず、こすっからく半額を提示した。そうとも知らず、正木には思いがけないことだった。意外とはいえ、局長が我々を評価していることに感謝する。
「有り難うございます。課員たちにも励みになります」
頭を下げる正木を尻目に田口が続けた。
「そこでだ。今回のような不祥事が起きぬよう、この臨時枠の使用は、必ず事前に使用許可申請をわし宛に出し、決済を取って貰いたい。あのようなことを、二度と起こしたくないのでな」
「かしこまりました。事前に許可を頂き、使用させて頂きます」
正木がさらに頭を下げた。
「そうしてくれ。すべてわしの方で管理する」
頷きつつ、田口が薄笑いを噛み殺した。さもあろう、局長からの増枠は百万円である。それを半分ピンハネしたのだから、笑みが零れるのも無理はない。正木に悟られぬよう、こっそりと舌舐めずりした。
これでまた、女どもとの密会資金が増えたというものだ。この金を使って、礼子や他の女を陥して行くぞ。
正木が自席に戻ったあと、未決裁箱から書類を取り目くら判を押しつつ、正木に対する次の秘策を練り始める。
なんとしたものか。この調子でいけば、まだ連勝記録は続くぞ。奴の失敗を誘発させる妙案はないものか。正木に失態を起こさせたいが、それで連勝が途絶えても困る。これは痛し痒しだな。ただ、忘れまいぞ。奴のために、一度は昇進が見送られたのだ。次の機会に推挙するとの局長の話だが、どれだけ遠回りしたことか。本来であれば、とっくに副局長になっているものを。この恨み決っして忘れるものか。
じっと考え込んでいると、田口のこめかみに青筋が立っていた。
くそっ、思い出すと腸が煮え繰り返るばかりだ。奴だけを陥れ、予測の連勝を続けられる妙案はないものか…。
行き詰ったように目くら判の手が止り、苦虫を噛み潰す顔になった。だが、考え続けていると、一筋の悪明を見いだす。
うむむ…、これはどうだ。この策を持ってすれば、連勝記録を止めることなく、奴を打ちのめせるかもしれん。二度と立ち直れない程のダメージを与えられるぞ。では、どのような方法で誘き出し射止めるかだ。うむ、ちょっと待て。そう容易く、乗ってくるとは思えんが…。まあ、じっくり練るとするか。
それとだ、成功したあかつきには、後釜をタイミングよく据えなければなるまい。正木がいずとも後任課長に結果を出させ、連勝が続けられればいいのだ。そうすれば、この記録も奴の力でないことが証明される。と同時に、わしがいればこそ伸ばせるのだとアピール出来るではないか。そうなれば、副局長の座もぐっと手繰り寄せられる。
先ほど、局長も近いうちに推奨すると言っていた。それならわしの存在をさらに強調できれば、今度は間違いなく昇進できる。うふふふ…。そのためには、策を煮詰める必要があろう。これで失敗すれば、今度はわしの指導力が問われ、昇進の芽が摘まれてしまうからな。そうだ、この前弥生に調べさせた資料が役に立ちそうだ。もう一度、見直してみるか。
田口は時間の経つのを忘れ、庶務課員たちの覗う視線など気にせず集中して邪推を繰り広げていた。調査資料を引っ張り出し、見つつ頷く。
そうか、正木の女、山城夏美か。うむ、二十五歳とは若いのう。ちょうど熟れ頃だ。溺愛らしいが、奴にとり己の命より大切なものに違いない。されば、この女を陥れれば、奴も完全に狂うだろう。この秘策こそ、究極の罠といえる。では、算段はどうするか。ここが問題だ。熱愛する女を寝取るにゃ、まともなやり方じゃ旨く行くまい。いやはや、次々と難題が持ち上がるわい。
背伸びをし、軽く肩を叩いた。そんな時、酒井がお茶を入れ持ってきた。
「部長、どうですか。熱いのをお持ちしました」
「いや、有り難う。ちょうど一服しようと思っていたところだ。しかし、酒井君は気が利くな。それに、最近随分色っぽくなったじゃないか」
「いいえ、そんなことありません」と受け流した。田口がさらに突っ込む。
「いいや、彼氏が出来ると女は綺麗になるし、色気がでてくるものだ」
「まあ、嫌だ。部長ったらそんなこと言って、私、彼氏なんかいません。誰かいい人を紹介してくれませんか?」
お盆を持ったまま近寄ると、田口が色目で見る。
「しかし、この腰の辺り艶があるぞ」言いながら、酒井の尻を軽く触れた。
「きゃっ、止めて下さい。部長のエッチ。まったくエッチなんですから!」大袈裟に驚くが、目は受け入れていた。
「悪かった、悪かった。いい尻しているんで、つい触りたくなってしまった。この手が悪いんだ。まったくしょうがない手だ!」
田口が冗談っぽく、もう一方の手で触れてた手を叩きおどけた。
「それにしても酒井君、もったいないな。もしわしが若かったら、放っておかないのにな。しょうがない色男でも捜してやるか」
「ええっ、本当ですか。もし紹介してくれるなら、今のエッチを訴えませんから、是非ともお願いします」
酒井がわざとらしく捻り込むと、胸の谷間が開きたわわな乳房が丸見えになった。すかさず田口が覗き、生唾をごくりと飲む。
「それじゃ、部長。お約束ですよ。それで何時紹介してくれますか。できれば早い方がいいんですが」
「あいや、本気かよ。これじゃ、冗談ではすまされなくなったな」
「もちろんです」
ジョークの掛け合いをして、酒井はウインクし尻を振り自席へ戻った。田口がにやつきながら見届けた時、妙案が浮かぶ。
うむ、この手があるか…。カップル合コンというのは、いい案だ。
姑息な目が異様に輝き出した。そして、「さて、ひと息入れてくるか」と席を立ち、地下にある雑談形式の喫煙室へと向うと偶然にも糸川常務がいた。
「よう、田口君。君のところの成績、大したもんじゃないか。一体何処まで伸ばせるんだ。おかげで私も、他局に鼻が高いよ。これも君の指導力のお蔭だな」
「いいえ、私なんぞ。結果的にそうなっただけでして、偶然の代物です」
「なにを謙遜している。自然現象を相手にする気象予測は、そんなに甘いもんじゃないことは、君も知っているじゃないか。まあ、最近じゃ。昔と比べ科学的技法も発達しているし、過去の統計データも整っているからな。それでも異常気象の中で、よくも的中させているもんだ。つくづく感心するというか、大いなる偉業だぞ」
「有り難うございます。常務にそこまで褒められては、私としてはなんと名誉のことか。痛み入ります」
田口がしたたかな目で礼を言うと、糸川が満足気に誘う。
「ところで、田口君。今晩空いているかね。たまにはゴルフ談義でもせんか」
田口は、自分を売り込むチャンスとばかりに乗った。
「いいですね、常務とゴルフ談義ですか。喜んでお供致します」
「いやいや、スコアーじゃ君に勝てんが。理論では負けんぞ。それに、まだこの歳でもドラコンじゃ、君より飛ぶと思うがな」
「そうですか。常務、そんなこと言って宜しいんですか。この前の筑田カントリーでの二ホール目のロング、たしか私の方が六十センチは飛んでいましたよね」
「なにを言う。あれはまだスタートしたばかりで、肩慣らし状態でのホールだ。力まぬよう抑えて打ったからだ」
「いや、二ホール目であろうと準備をしておけば、私のようにスムーズに肩が回って飛ぶものですよ」
「なにを言う。いや、待て。この話、これで止めておこう。今晩じっくりと付き合って貰うからな」
「はいはい、お受け致します」
田口が調子よく返事すると、「くそっ、負けてたまるか」糸川が力むと同時に、二人は大笑いになった。その後田口は自席に戻り、正木へ電話する。
「ちょっと来てくれんか、頼みがあるんだ」
「はい、承知しました。只今お伺い致します」
直に、正木が部長席へと来た。
「部長、何用でございますか?」
「来て早々悪いが、今日の最終打ち合わせは何時もの時間かい?」
「はい、その予定でおりますが。それがなにか…?」
「いいや、じつは。今夜急に糸川常務のお供をせにゃならんことになってな。五時には局を出たいんだ、少々早目に打ち合わせんか」
「そうですか、それでは一時間ほど早めましょうか」
「悪いがそうしてくれ。それで予測の方はどうだね」
「じつは、ここのところ全国的に猛暑となっておりまして、昨日などは三十二箇所で三五℃を超え、群馬の館林市では最高気温が四十.五℃となりました」
「うむ、それは難儀だな」
「やはり地球規模での、異常気象のせいも影響していると思われます」
「と言うことは、予測する場合は変化を読み取るのが難しいということだな」
「ええ。でも、我々はプロです。難解な現象時に予測することこそ使命であり、待ち望んでいる視聴者の皆様のためにも、ずばり当ててみせます」
「頼もしいね、しっかり頼むぞ」
鼻につく正木の言い回しに反吐を覚えるが、今や社運にも似た期待に応えねばならない雰囲気が絡み、複雑な面持ちで頷いた。
「それでは一時間早め、午後三時よりチェック会議を始めさせて頂きます」
「そうしてくれたまえ」
「それでは失礼します」
正木は自席へ戻り、課員に部長の都合で午後三時から開始する旨を伝えた。
「ええっ、一時間も早まるんですか。それは大変だ、急がないと間に合わん!」
吉田が慌てた。
「ひやっ、どうしよう。私、まだ半分しか終わってない。三時から始めるんでは間に合わないわ。課長、どうしましょう!」
横山が悲鳴と共に助けを求めた。すると、森下が口を挟む。
「横山さん、なによ。それしきのことで、最初から音を上げたら仲間として失格よ。まだ、二時間あるじゃない。諦めてどうするの!」
咎められ横山が俯いた。
「そうだよ、えりか君。森下さんの言う通りだ。頑張ってやってみろよ」
促された横山が、きりりとした目で応じた。
「はい、そう言われたら。私も気象予報課の一員です。負け犬になりたくありません」
「そうだ、頑張れ!」気を取り直す横山に、吉田がエールを送ると、黙って聞いていた正木が、「うむ、うむ」と頷き告げる。
「それじゃ、時間がないから急いでくれ。但し、焦ってはいけない。落ち着いて取り組め。そうしないとイージーミスを起こすから。あとは三十分前のスクランブルで総点検をする。読み違いがあればそこで修正できる。だから安心してやって欲しい」
するとそこで、吉田が惚けた。
「申し訳ございませんね。先般は私のミスで大失態をしでかし、迷惑をおかけしました。大いに反省しています」
「あら、嫌だ。吉田さんったら、自分のことを持ち出すなんて」
横山が苦笑すると、正木が気づく。
「おっと、いけない。吉田君、悪かったな。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。得てしてそういう事例というか、そう言うことが起こりやすいと話しただけだ」
顔を崩しながら吉田が応じる。
「わかってますよ。課長、それより部長の意向に従わないと、また、なんだかんだと難癖つけられるんじゃないですか?」
「まあな…」
曇らせる正木を見て、吉田が憤る。
「俺は、それが悔しくて。なんで課長が、そんな目に合わなきゃならないんですか!」
「まあまあ、吉田君。気持ちはわかった。嬉しいが、さあ、早く取り掛かろう」
「おっと、そうだった。時間がないんだ」
吉田らは、すぐさまスピードアップし、近頃の異常気象の中で懸命に予測を図っていた。何時もより強い意志と目の輝きで、午後二時近くには読み切った。
「課長、大方出来ました。二時半までには時間がありますが、スクランブルチェックをやりませんか?」
「うん、そうだな。皆、よく頑張った。特に横山さん、すごいじゃないか」
正木に褒められ謙遜する。
「いいえ、どう致しまして。じつは、私一人で出来たわけじゃないんです。森下さんに手伝って貰ったものですから」
「おお、そうか。森下さん有り難う」正木が彼女に礼を告げると、森下が横山をフォローする。
「いいえ、私は少しアドバイスしただけなんですよ。後は横山さんの実力です」
「まあ、そんなこと言われたら困ります」横山の顔が赤くなる。
「いいじゃないか、えりか君。もっと堂々と胸を張ったらどうだ」
吉田が茶々を入れた。
「それじゃ早いが、始めるか」
正木の合図でチェックが始まった。スクランブルとは正木も含めた四人連座のチェックである。幸いにも小さな漏れや読み違いを、ここで発見修正することが出来る。
「やっぱり、私のところでやっちゃった。まだ駄目ね」
横山が恐縮し詫びると、吉田がフォローする。
「横山、そこは俺だって違いやすい箇所だ。何時もの見直す時間があれば、発見できたと思うよ」
「そうだよね、今回は特別だから止む終えないところかな」
正木も同調するが、森下が苦言を呈した。
「吉田君も課長も駄目です。横山さんのためにならないわ。始める前に言ったはずよ。私たちは予報課の課員なの。連勝を続けられる原動力は、なんだと考えているの。ねえ、吉田君答えてみなさい」
「ええ…、それは。不屈の精神力と、どんな困難にも立ち向かう闘志かな。まあ、端的に言えば。プロということになるが」
「そうでしょ、私たちはお給料を貰っているのよ。出来て当たり前の世界なの。授業料を払って教えを乞い、導いて貰うような境遇ではないの。わかったでしょ、横山さん」
きつく吉田には呈すが、横山には優しく諭した。
「はい、有り難うございます。つい甘えてしまって。これじゃ、プロ失格ですね。弱音を吐いちゃいけないんだわ、頑張ります」
「そう、その息込みよ」森下が顔をくずと、正木が彼女に感謝した。
「うむ、本来私が諭すところを、代わって貰い感謝するよ」
「いいえ、私も正木チームの一員ですから、当然ですわ」
「しかし、森下さんは大したもんだ。俺なんか自分のことで精一杯だもの。こりゃ、嫁さんにしたら尻に敷かれるぞ」
「なに言っているの、馬鹿。さあさあ、部長を交えた最終チェック会議が始まるわよ!」
吉田のジョークに、森下が己の将来を重ね合わせてか、少々恥らうようにせっついた。その日の最終チェックも了承され、翌日の朝刊に載った前日の予測結果はずばり当たっていた。森下たちは会心の笑みを浮かべ、さらに横山も含め自信のつくものとなった。
そして、数日後の最終チェック会議でのことである。今までに増して異常高温の日が続き、過去に例のない状況が生じていた。正木たちは、フィリピンの沖合いでおかしな海流の動きを察知した。それと、小鳥たちの啼き声が今までと違い、さらにはカラスの異常な啼き声に気づく。
「課長、なんだか不思議ではありませんか。あんなに小鳥やカラスが啼くなんて、近頃聞いたことがないですよね。こりゃ、明日の天気変わるんじゃないですかね?」
吉田が直感的な意見を述べたると、「うむ、確かに晴天続きだが、明日あたり激変するかもしれん。現況の気圧配置から予想もつかぬことが起きるかもな。吉田君、悪いが。衛星受信の南太平洋の海流及び海水温の変化を、詳しく調べてくれないか。遥か三千キロの彼方だけど、どうもそれが影響してくるような気がしてならない」正木が真顔で指示した。
「はい、わかりました。早速、両方の動きを取ってみます」
吉田の五感が突き動かすのか、データを見る目が厳しくなっていた。さらに森下に唐突に言った。
「それと、森下さん。頼みがある」
「はい、なんでしょうか」
「君の意見を聞きたい」
「なんのことでしょうか。ただ、意見を聞きたいと言われましても」
「そうだよな。それじゃ、中国での大気汚染状況と偏西風の動きについて。そうだな、ここ二ヶ月。いや、六ヶ月間どうなっていたか調べ、明日の気象変化にどう影響するか意見を貰いたい」
「そうですか。吉田君には南米ペルー沖のエルニーニョの動き、私には大陸の大気汚染と偏西風の北上原因ですね。どんな結果になるやら。なんだかぞくぞくしてきたわ」
「じつは、私も鳥肌が立ってね」
「そうですか、正木課長がなにを確かめたいか、おおよそ見当がつきました」
「そうかい。まあ、まだわからん。そこで君らの力を借りたいんだ。直ぐに取り掛かってくれ」
「了解、任せて下さい!」
吉田が胸を張り、森下が力強く頷いた。指示した正木はなにを思ったか、急に横山を促し屋上へと駆け上っていった。
「どうだ、東の空を見てごらん」
「はあ、なにも…」
「そうか、それじゃ西の空は?」
「別に変わりませんが…」
「それじゃ北と南を見てみな」
「北と南ですね…」
横山が訝りつつも覗っていると、あることに気づく。
「あれっ、課長。不思議ですね、こんなことがあるんですか。大体、こんな現象起きっこないですよね」
「そうなんだ、私もここへ来て見て気づいたんだ。おかしいだろ、こんなこと有り得ないよな」
「そうですよね。こんな雲の動き…」
凝視する横山が、さらに意外な事象に困惑する。
「あれ、そんな馬鹿な。どうしてですか、課長!。いくら異常気象だと騒がれても、こんなこと起きるわけがないんです。地球は右廻りで自転していますよね。そこに磁気と空気、すなわち風の動きが加わる。あとは、熱せられた水蒸気が上昇気流に乗って上空へと行き冷やされ雲が発生します。その雲が東から西から、そして北から南の方から、一箇所に集まりだすなんて。こんなことは有り得ない…」
あまりに不可思議な現象に、横山は目を白黒させた。
「そうだろ、私も今まで見たことがない。天変地変ほどの異常現象と言っても過言じゃない。だから、さっき吉田君も言っていたが。この異常な現象を察知して、カラスたちが喧しく啼いているのを聞いたんだ」
正木は、この不思議な現象を覗いつつ、鳥たちの異常な啼き声の原因を考えていた。
「こりゃ、明日は雨になるかも知れんな…」ぽつりと呟く。
「ええっ、課長。こんなに晴れているんですよ。それに、先ほどチェックした気象予想図からみても、日本全体が高気圧に覆われ、晴れる確率が高いんです。ただ、北海道の根室辺りは、雲が発生しやすい状態になっていますがね」
「確かに、今までの集計データからいえば、そう予測するだろう。でも、今見ただろ。こんなおかしな現象を。これは意外性を示していると思うんだ。それで、吉田君と森下さんに調べて貰っているのさ」
「そうですか。でも、それらと今の現象とどう結びつくのか、私にはわかりません。ですから、なんとも申し上げられないです。でも、何故こんなことが起きるのかしら…?」
横山は、正木の推測について行けず、思考が混乱するばかりだった。
一時間が過ぎ、吉田が指示された南太平洋の海流の動きと、海水温の状況を正木に報告していた。続いて、森下が中国大気状況と偏西風北上の動き、それに指示外の黄砂の飛散状況と、砂漠化状況まで調べ報告した。
正木はじっくりと両者の報告と、両名の意見までも聞き及んだ。その結果、明日の予測を「今夜半から降り出し、明日は一日中雨になるだろう」と導いた。それも日本列島全体にである。吉田たちは驚いた。唐突な予測であり意外だったからだ。連日の気象状況、さらには太平洋高気圧の張り出し具合から、間違いなく全国的に晴天になると踏んでいたのだ。スクランブルでも正木の予測に吉田たちは猛然と反論した。正木は、その都度根拠を示し、さらにはカラスらの騒ぎ啼くことも加えて説明した。
極めつけはこうだった。事象を横山が明らかにしたのだ。
「一時間ぐらい前なんですが、課長に連れられて屋上に行きました。そこで空を指さして促され、東西南北の空を見たんです…」
吉田がじれったそうに口を挟む。
「それが、どうしたんだ。そんなの決まっているだろ。青い空があったんじゃないのか。それに、太陽が眩しかっただろう。特に午後三時頃なら、まだ頭上かやや西南西にあるからな」
「ええ、青空が一杯ありました」と横山がその通りと応じる。
「そうだろ、決まっているじゃないか。雲なんかなくよ。いや、少しはあると思うが、大勢に影響などあるものか」
吉田が結論付けるように自信を覗かせるが、ある変化を話し出す。
「ただ、気になったのは。さっき課長に報告した気流の動きが今までにないことと、海水温度が二度ほど高いこと。これも日本から遥か離れたところだから、大した影響はない。それは、横山さん。君にもわかるよな」
「ええ、わかります…」
すると、今度は森下が口を挟む。
「そうでしょ、私も調べた中国の大気汚染、黄砂の発生状況それに砂漠化の進行状況を観て、明日に影響すると考えるにはちょっと軽率な気がする」
説明し、明日の天気は晴天と結論付けた。それらを聞きつつも、横山が続ける。
「あの、さっきの続きですけど。東西南北から雲が集まって来たんです…」
両名にとって意外なこと、考えもつかぬことを喋り出した。すると受け流していた二人が、遮断し絶句する。
「ええっ、待てよ、そんなことあるかよ…!」
驚きのあまり、吉田の言葉が詰まった。
それでも横山が淡々と続ける。
「おかしなことなんです。だって、普通雲の動きって、一定方向に流れて行きますよね。それが、各方面から寄せ集められるように、流れて来るんですもの。不思議な現象ですよね。そんなの見たの初めてだわ…」
「…」
森下の目が点になっていた。かまわず横山が告げる。
「始めは錯覚かと思って、目を擦り今一度見たんですけど、錯覚でもなんでもなかったわ。とにかく点在していた雲が集まり出して来るの。
空一面が雲に覆われていたら、そんなのわからないわよね。そうじゃなかったもの、青空の中で展開されていたから。私だけじゃなく、そう課長が発見して教えてくれたんですよね」
横山が振ると、正木がその時の見たままを告げた。
「うん、なんとも奇怪な現象だった。僕もこんなの初めてだ。なんとも言いようがないというか、現実的には有り得ない現象だが、俺一人で見たわけじゃない。横山君も観察しているから、嘘ではない」
「そ、そんなこと有り得ねえ…」
吉田の目が驚きの様相を示していた。
「本当ですか、課長。現実的に有り得ないことだと思いますが、実際には起きている。考えられませんが、それで課長、どれくらい続いていたんですか?」
信じ難いが、森下は肯定的に覗った。横山に代わり、正木が続けた。
「どれくいらいだったかな…、おそらく二分か、いや一分間ぐらいだったような気がする。結局、自然に消えてしまった」
「それで、課長。そんな怪奇現象が何故起きたのですか?」と、さらに森下が質問した。
「うむ、正確にはわからんが。多分、このところの地球温暖化やラニーニャ現象、さらには君たちに調べて貰った各々の変化というか、諸々現象が重なり生じたものと思われる」
「はい…」
森下が真剣に聞き入る。
「それが結果的に、気象状況に現れてくると思う。これが今夜半から、雨になるとする根拠なんだよ。多分、これから各テレビ局に実際に見た視聴者から、不安の声も含め問い合わせが殺到すると思うよ」
「そうですか…」
森下が生返事をすると、正木が今後の予測に言い及ぶ。
「まあ、問い合わせ対応は我々の範疇でないので、まずはいいとして、今夕の気象予測にどう反映させるかだ」
「そうですね、信じ難いけど、これが現実なんだよな。さて、どう織り込んでいくかだ」
吉田が眉間に皺を寄せ、真剣な眼差しになった。
「あの、課長。私はなにをすれば宜しいでしょうか?」
横山が指示を仰ぐ。
「ううん、そうだな。君はまず従来通り過去のデータ分析と、直近の気象衛星データの解析を行い、どのような予測になるか独自に出してみてくれるかい」
「ええっ、それでいいんですか。今課長が説明してくれたことと違うじゃないですか。雨になるんじゃないんですか?」
「そうだが、まずはそれが必要なんだ。それと一緒に観た雲の動きについて、詳しく記述入力しておいてくれないか」
「は、はい。わかりました」
横山が納得し難い顔で了承した。
「課長、それじゃ私は中国関連の調査データ、偏西風それに黄砂と砂漠化の資料と、吉田君が調べてくれた三千キロ彼方の南太平洋の気流及び海温資料を基に、今夜から明日にかけ、どのような気象的影響が生じるか、詳しく分析してみますね」
森下がなすべきことを告げた。
「おお、そうしてくれないか。こんなに晴天続きなのに、今夜半から雨になるということになれば、その確たる根拠を示さにゃならん」
「はい!」
「それじゃ、森下さん。俺が調べた資料を渡すから頼むよ」
吉田が手渡し、正木に指示を仰ぐ。
「課長、俺はなにをすれば宜しいですか?」
「君は僕と一緒に仮説を立て、今夜半から明朝の気象予測の原稿作りを手伝ってくれ」
「了解しました。こりゃ、大変なことになりそうだ。こんなこと前代未聞だからな。俺たちの気象報道を聞いたら、視聴者はびっくりするだろうな。それこそ、さっきの奇怪現象と同様に、局に問い合わせがどんどこ来るぞ」
「まあ、そう言うことになるな。でも、それより先に部長参加の最終チェック会議を乗り切らねばならない」
「おっと、忘れるところだった。あの石頭部長を説得せにゃならんのか。これは難儀なことだ」
吉田がおどけて頭を叩き舌を出した。
「まあ、なによ。その格好、みっともないわ。まるで猿回しの猿じゃない」
森下が毒づくと、「止めて下さい、吉田さん。憧れの人のイメージが崩れるじゃないですか!」横山が嫌った。すかさず、正木が促す。
「さあ、時間がない。夫々各自の業務を進めてくれ。今回の予測は、今までの傾向を覆すのもとなる。それは、ある意味革新的なものだ。自然現象は惰性では計れない。それを正確に、そして慎重に分析し、且つ大胆に予測しなければならんのだ。さらに、最も大切なのは、主張する予測が全員の合意の下に出されることだ。一片の疑問や不満を持って妥協してはならん。そのことは、皆、肝に命じて貰いたい」
「わかりました!」
森下たち全員が力強く応じた。
そして、午後五時。部長を交えた、今夜から明日の気象予測最終チェック会議に及んだ。冒頭、正木から朝の気象予報結果の報告があった。的中したことに、田口が上機嫌になった。
「そうか、でかしたぞ。これでどうなんだ?」
「はい、引き続き伸ばしておりますが」と正木が答えた。
「それは上々。これでわしの鼻も高いわ。君らのおかげだ、感謝するよ」
田口が笑みを浮かべ頭を下げるも、吉田らはその様に白々しく応じた。次に今夜から明日にかけての予測に移る。
正木の説明が始まった。
「それでは、連日晴天が続く昨今ではありますが、…赫々云々と、諸条件が重なりこの晴天も今夜から明日にかけまして、崩れるとの結論に達しました。但し、明後日からは、ふたたび晴天が続くものと見込まれます」
「なにっ、正木君。今なんと言った!」
田口が己の耳を疑うように口を挟んだ。
「はい。ですから、ご説明致しましたように、気象状況が変わり今夜半から明日雨になると申し上げたのですが…」
考えもしなかったことを告げられ、田口が言語道断とばかりに否定する。
「なにを馬鹿なことを言っている。気象状況が変わるとは、一体どういうことだ。こんなに晴れが続いているんだぞ。日本列島を覆う高気圧の状況からみて、そんなことは起きえまい。この重要な会議で、なんという戯言を言っておる!」
「いいえ、部長。お言葉ですが、間違いなく曇りから雨模様と変化して参ります!」と強い口調で正木が反論した。
「正木、なにを寝とぼけているんだ。それに、お前らも頭がおかしくなったのか。そんなこと起きるわけがない。わしの経験からすれば、自ずと結果が出るというもんだ。それを、貴様らは、へんちょこりんな理屈を並べやがって、なにを考えている!」
田口が目の玉をひん剥き言い放った。正木が負けじと主張する。
「いいえ、部長。諸条件というか、過去の気象データの分析、直近の衛星情報。さらには南太平洋の海流の動きと海水温度の変化、それに中国大陸における黄砂や飛散状況などを調べ、詳細に解析した結果、変化するという結論に至ったのです」
すると、田口が真っ向から否定した。
「なにをごちゃごちゃ抜かしている。過去の気象データや直近衛星情報からは、そんなものは出てこん。それにだ、南太平洋の海流、中国大陸の変化などと、尤もらしく理屈をつけおって、本末転倒な予測を出すとは何事だ!」
「部長、聞いて下さい。無関係ではなく、大いに影響しているのです。列島を横断するジェット気流、所謂偏西風の蛇行が及ぼす影響は、無視できないのです。それにですが…」
正木がたたみ掛けると、田口が真っ赤な顔で遮る。
「貴様は、まだ理屈をこねる気か。わしは自信を持って、この晴天が当分続くと読んでいるんだ。だから予測は、この線で決めるぞ」
告げられて正木が、自分らの主張を押し通そうとする。
「あいや、お待ち下さい。それは困ります。明日にかけての気象予報が違って参ります。視聴者の皆様に迷惑をかけるわけには行きません。ですので、私共の予測に合意して頂きたい!」
すると、田口がさらに目ん玉を剥く。
「なんだと、そんなこと出来ん。お前らの主張は、わしを説得出来る論拠になっていない。単なる事象の説明だけで、理屈に合わぬ間抜けな根拠だ。そんな予報をだせば、視聴者から大ブーイングが起こり、我が局の信用が失墜しかねない。断じて許さん。それとも正木、他に尤もだという証拠でもあるのか!」
「は、はい…」
正木が躊躇い言葉が濁ると、それを田口が見透かす。
「それ見たことか。なにもないじゃないか。そんなことで、我らの連勝記録を止めてなるものか!」
「…」正木は言い返さなかった。
「正木、何故黙っている。これで結論が出た。お前らの最終原稿は没だ。即刻、わしの言った主旨で作り直せ。時間がないぞ、直ちに取り掛かれ。出来たら持って来い。まったく馬鹿どもが、くだらん御託を並べおってからに。付き合っておれんわい」
そう言い残し、席を立とうとする田口を正木が制する。
「お待ち下さい。それでは確たる資料をお見せ致します」
「なんだと、今なんと言った。これだけ注意しているのに、まだ屁理屈を並べるつもりか。お前は、わしに逆らう気だな!」
「いいえ、そのようなことはございません。我々は正しい気象情報を、視聴者に届ける義務があります。ですので、我らが導いた予測を発表したいのです」
正木が誤ってはならぬと訴えると、田口が嘲り怒る。
「ほほう、貴様はそこまでわしを愚弄する気か!」
「いいえ、そのようなことはありません」
「それじゃなんだ。言ってみろ!」
勝者の如く田口が睨み恫喝した。すると、正木がひるむことなく告げる。
「わかりました。じつは、本日午後三時頃、ある現象が起きております。この奇現象、先ほどらいご説明している解析情報で裏付けされました。と申しますのは、我々は見たのです。青空に点在する雲が、一点に集中し出したのをです。こんな現象は、今まで見たことがありません。所謂、異常現象と申してよいと考えます。
ただこの現象は、一分から長くて二分ほど生じたものであり、この不可思議な事象が、何故起きたかを理論的に解明したのが、先ほどらい説明申し上げた諸現象の解析結果でございます」
「…」
田口はあっけに取られた。正木の説明が常識を逸していたのである。
「馬、馬鹿な…」
「いいえ、現実の出来事です」と正木が主張すると、田口が狼狽え気味に告げる。
「そ、そんなこと考えられるか。だいいち、雲というのは水蒸気の塊だ。風に流されるか、自転によって動きが生じることを考えれば、一点に集中することなど有り得ん」
「いいえ、現実に起きているのです」
「なに、寝とぼけている。お前は夢でもみていたのか。いや、少々頭がおかしくなり現実に有り得ぬことが、あたかも生じているように見えているんじゃないのか。正木、目を覚ませ。そんな嘘っぱちの話、誰も信用せん。なんだ君たち、ぽかんと口を開け、狂った正木に暗示でもかけられているのか。がん首揃えて、よくもまあくだらん予測で合意したもんだ。呆れて物も言えん」
怒りを通り越したように、醒めた口調で見下した。
すると、横山が発言する。
「部長、宜しいでしょうか?」
「なんだ、まだわしに楯突く気か。くだらんことなら、聞く耳持たんぞ!」
その恫喝に臆しながら、横山が話し出す。
「先ほど、課長がおっしゃられたことですが…」
「なんだと、また蒸し返す気か!」
胡散臭気に田口が遮るが、横山は構わず説明する。
「じつは、私も見たのです。青空の中で、東西南北から雲が集まるところを。最初は信じられませんでした。でも、ひと呼吸し観察しました。間違いございません。これは事実です。嘘ではありません。ここに、当時の記録を詳細に記してあります」
田口に向け、入力した記録簿を掲げた。
「ですから、この現象がどうして影響するのかも、正木課長より詳しく説明して頂いたので納得しました」
田口は唖然とし、口を開けていた。正木一人でなく、横山までもが観ているのである。信じ難かったが反撃に出た。
「なるほど、よくも作り話を口裏合わせしたもんだ。他の奴らを騙せても、このわしを騙せるとでも思っているのか。正木、こんな田舎芝居を打ちおって。この愚か者が!」
雷が炸裂した。だが、正木がキリット見据え主張する。
「お言葉ですが、決して芝居を行っているわけではありませんし、そんなことをする必要はないのです。事実だからです。私たち二人だけではありません」
そこで、田口が吉田と森下を睨む。
「なんだと、それじゃ、森下や吉田も観たと言うんだな!」
すると、吉田がたじろぐ。
「いいえ、私はその現象を観ておりません…」
「それ、みてみい。嘘じゃないか。それに森下はどうなんだ!」
「は、はい。私も立ち合っていません。でも、分析資料が裏付けております」
躊躇う二人につけ込み、慇懃に言い放った。
「みたことか、そんなものどうにでも理屈はつけられる。実際観てもいないのに、主張するとはおかしなことだ。結局、正木と横山の二人だけじゃないか。されば、屋上に行って男と女の関係にでもなったんじゃないのか。怪しいもんだ」
薄笑いし毒づくと、毅然として正木が否定した。
「部長、なんということをおっしゃるんですか。冗談は止めて下さい!」
「なにを言う。お前らの話こそ嘘八百を並べ、わしの成果である連勝記録を止めさせる魂胆だろう。根も葉もない話など、もう聞きたくない。この馬鹿どもめが。もう一度、味噌汁で顔を洗い、予測を作り直して来い。もう聞きたくないわ!」
田口が椅子を蹴って立ち上がると、慌てて正木が止めた。
「お待ち下さい。私がご説明した現象は、横山君と私の狂言ではありません。事実ですから」
「まだ抜かすか。この不埒者めが!」
田口が目をかっと開き恫喝すると、正木が怯まず一枚の紙を差し出した。
「部長、一読願います!」
「なにを小細工しおって。そんなもの見なくてよい。さあ、作り直せ。気狂ったお前らの相手などしていられるか!」
「いいえ、部長。読んで頂くまで、この部屋から出しません!」
正木が身体を張って阻止すると、田口の目が吊り上がる。
その先に紙面を突き出すと、田口の目に活字が飛び込んできた。すると、見る見るうちに顔色が変り、思わず正木の手から奪い強い視線が貫き出した。やがて、手が硬直し足が震え出していた。
「な、なんだ。これは…」
「部長、おわかり頂けたでしょうか?」
「馬、馬鹿な。こんなことあるはずがない。なにかの間違いだ。いや、お前らの作り物だ。信用できん…」
田口はこれ以上強行する気力がなくなっていた。あとは面子と意地だけが、死相のように滲み出る額の脂汗に現れていた。正木がゆっくりと説明し出す。
「この資料は、この奇怪現象が生じた直後から、我が社に入った問い合わせによる情報開示の要請と、他局での視聴者からの問い合わせ件数です。私たちだけではなく、全国で同様の現象が観測されているのです」
「…」田口は抵抗出来なかった。
「部長、ですから今回の気象予測については、私共が出した結論の採用をお願いしたいのです」
「ううう…」
唸り、拒否した。
「お前らの話など信用できん。結論はさっき出した通りだ。これが最終決定だ。わかったな…」
田口はようやくそれだけ言い、ふらつきながら会議室を出て行った。
正木が呟く。
「しょうがない…」
「課長、おかしいじゃないですか。絶対、私たちの主張があっています。それを、意固地になって…」
森下が悔しいのか涙ぐんだ。
「そうですよ、私だって見たんですから。嘘なんかついていない。それに、視聴者からの問い合わせが証拠よ。それを部長ったら、信用しないんだから」
横山までもが泣き出していた。
「くそっ、馬鹿部長め。俺たちの主張が正しいとわかったから、合わせる顔がなくなり出て行ったんだ。この際、俺らの主張を押し通しましょうよ」
吉田が悔しいのか憤ると、正木が課員たちを宥める。
「まあ、仕方ない。最終判断の権限は部長にある。我々の意に反するのは明白だが、やはり説得出来なかったことに私にも責任がある。皆、申し訳ない。この通りだ」深々と頭を下げた。
すると、慌て森下が制止する。
「課長、なにをなさるんですか!」
「そんなことする必要はありません。俺らこそもっと強く主張すれば、部長を動かすことが出来たかもしれない。でも、それが出来なかった」
吉田が肩を落とした。
「止むを得ん、最終的に部長の意向に沿った予測に変更する。後は私に任せてくれ。君らは、ここで諦めるな。今一度集めたデータの詳細な分析を行い、我らの主張が正しいことを見極めてくれ。各自が納得できるまでな。それも、例のスクランブルでやるんだ。今後役に立つから」
苦渋の顔で正木が指示した。
皆、無言だった。言葉の代わりに口をへの字に曲げ、怒りをあらわにしていた。
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