第四章猜疑 一節

田口が、正木たちに仕掛けた一弾目の策略は失敗した。

十二分に楽しみ翌日出勤した時、その結果が出ていた。田口は弥生との情事で、その夜、そして朝のテレビや新聞も見ずに出社した。当然ながら正木らは、放映された予報と実際の気象状況を比べていた。完勝である。さらに連勝記録も前回途切れた記録に迫りつつあった。日が変われば朝の天気予報の放映が始まる。こちらも予測通りの展開となった。

正木たちにとっては、ひと安心である。胸を張る気持ちで、部長の出社後の一声を待った。朝礼が始まり、直ぐに昼の気象予測と併せ、前夜、今朝の予報結果会議が開かれる。田口は昨夜精根尽きたのか瞼が腫れていた。正木の報告に、本来なら褒めてやらねばならないし、連勝記録の塗り替え間近であることから、むしろ激励せねばならないのだ。ところが、説明をまともに聞いていなかった。もともと田口の本音は違う。秘めた怨念を晴らさなければならない。正木たちの成果も、簡単に「ご苦労さん」の一言で片づけられた。少なからず期待した吉田らは、意に反し肩を落とした。吉田が小声で愚痴る。

「いくら昨夜の接待で気疲れしたからといって、ご苦労さんのひと言だけはないよな。局長からも期待されているんだ。それは、我が気象予報課だけの問題じゃなく、今では東都テレビとして威信をかけている。その直属の上司から、励ましの言葉もないなんて…」

不満がつい口に出た。すると、正木が嗜める。

「吉田君、気にするな。部長はお疲れなんだ。このことは部長にとっても決して他人事ではない。胸の内では感謝している。だから、これからも頑張っていこう」

「は、はい。課長、すみません。つい、愚痴っちゃいまして。俺ら頑張りますよ、心配しないで下さい」

ぺこりと頭を下げ続ける。

「それで、万が一、また俺がしくじったら、なんのためにトライアングルを導入したかわからなくなりますからね」

「そうだ、そのように気持ちを切り換えてくれ。これで終わったわけでないし、昨夜、今朝の予測など通過点に過ぎんのだから」

正木が促すと、横から森下が吉田の脇腹を小突く。

「駄目よ、そんなことで切れていては!」

「痛てっ、なにするんだ。痛いじゃないか!」

「あら、痛かった。手加減したのに、ご免なさいね。これも私からの愛のムチよ。しっかり受け止めなさい」

「ちぇっ、わかったよ。愛のムチって痛てえんだな、おかげで目が覚めた」

「そう、それはよかったわね。連勝記録を塗り替えなければならないの。一致団結して頑張りましょ」

「そうだ、その通り!」

少々大きめな声で、正木が応じた。すると、はっとして田口が様子を伺う。

「ううん、どうした?」

「あっ、すみません。大声を出して失礼しました」

正木が直ぐに謝った。

「ああ、いいんだ。ちょっと疲れが取れなくてね。つい、ぼうっとしていた。ちょうどよかったよ、目が覚めた。それで昨夜と今朝の気象予報の方は、どうだったのかな?」

田口の頓珍漢な問いが出た。皆、それを聞き唖然とする。当然わかっているものと早合点していたのだ。さもない、新聞やテレビ放映を出社前に見ていればわかることだし、説明したばかりだ。正木も思わず、「ううん?」と聞き直しそうになり抑えた。そして戸惑いつつも正木が再び簡略に説明する。

「部長、昨夜及び今朝の天気は、概ね予測通りの結果となっております。心配をおかけしたかと存じますが、ご安心下さい…」

またしても田口には、この正木の説明が鼻につくような言い回しに聞こえた。

なんだその言い方。くそっ、それに傲慢な言い回し、気にいらんな。それにしても当たりやがったのか、外れればよかったのに。これじゃ、次へと進められねえや。こいつらもついているぜ。しょうがねえ、次が外れるのを願うしかねえ。

心の内で苦虫を噛んだ。

しかし、それにしても疲れたな。弥生の奴め、何回昇天したことやら。おかげでわしもくたくただぜ。

昨夜の興奮が覚めやらぬのか、思いにふける有様だった。

そうこうしているうちに、田口の生返事のまま会議も終了した。

「それではこの辺で、成果反省及び最終チェック会議は終了させて頂きます」正木が終了を告げた。

「おお、ご苦労様。さて、部屋へ戻るとするか。決裁も溜まっているだろうから、早いとこ片づけんとな」言い残し、田口が会議室を後にした。

「くそっ、なんてこった。なんだ、あの態度はよ!」

吉田が不満をぶちまけるが、それでも正木たちは日々の仕事に没頭し、毎日終わりのない気象予測に専念した。

それはさておき、正木らの気象予報課は連勝を続けていた。その結果、前回途切れた記録を塗り替えたのである。早速、局長から祝いのメッセージが田口部長と正木へと届いた。吉田たちは喜んだ。さもあろう、記録を伸ばした偉業は、この東都テレビ開局以来の出来事だし、他局にはない快挙だったのだ。

「おめでとう、正木君。とうとうやったな。局始まって以来の偉業を成し遂げた功績は大きい。課員全員に感謝の意を称する。もちろん、会長、社長にも報告した」

局長からの祝いのメッセージである。

さらに、会長曰く。

「地道に努力することこそ、最大の武器だ。精進し続けた結果の賜物といえる。おめでとう。全社を挙げて気象予報課の諸君に謝辞を送る。これからも初心を忘れず、視聴者のために鋭意努力して貰いたい」

吉田は心から喜び、正木の指導に感謝した。そして心に誓う。

「さらに、記録を伸ばそう。そのために、視聴者の期待に適う謙虚な気持ちで、日々業務に邁進しよう」

森下や横山にしても、気持ちは同じだった。会長からのメッセージを受けた時、じんと胸に熱いものが込み上げた。期待をかけられると、今まで以上に緊張するものだ。正木は、課員が萎縮しないよう心掛けた。

「どうだい、会長や社長からの祝いの言葉、身に余る光栄じゃないか。けれど、振り返ってごらん。我らのやってきたことは、別に特別なことをしたわけじゃないし、背伸びしているわけでもないよな。わかるだろ、横山君」

「はい、なんだか責任が重くなったような気がして、身体が縮こまり普段の力が出せなくなりそうです」

「そりゃそうだ、誰しも褒められれば意識する。平常心でいようとしても、身体のどこかに蔓延っている。でも、萎縮してもいいじゃないか。俺たちはそれだから、やり方など変えたりしない。今までと同じ様に、これからも続けるだけだ。会長が言われたよな。『初心忘するべからず』と。だからこれからもこのことを忘れてはいけないんだ」

皆、正木の言うことを真剣に聞いていた。

「だから、やることは決まっている。今まで通りトライアングル体制でゆく。ただ気をつけなければならないのは、つい高ぶりによる単純ミスを犯すことだ。これだけは防がねばならない。そのために謙虚になれ、何時もの君たちでいろ。知らず知らず傲慢になったら、トライアングルで軌道修正するのだ。修正を求められた者は、愚直に応ずることが肝要だ。これが会長の強いメッセージだと思う」

すると、「あまり難しいことを聞いてもわからない。要は今までの気持ちで、今まで通りの仕事をしようと言うことですね」

森下が自身に言い聞かせるように確認すると、正木が頷く。

「その通りだ。気取ることなどない、君の言う通りだ。それじゃ、皆。今度の金曜の夜に祝勝会をやろうじゃないか」

「いいですね。でも、軍資金が欠乏しているんですが…」

吉田が賛同しつつ、懐具合を明かす。

「じつは、私もなんです。あと三千円しかなくて、とても参加費を払えないわ」

横山が財布を振る仕草をした。

「そうだと思った。飲み代の方は心配するな」

正木が応じると、吉田が期待する。

「ええ、心配するなって。もしかして、奢ってくれるんですか。それは助かる。なあ、森下さん」

「本当ですか、課長。でも、何時も奢られてばかりじゃ、課長の財布が破綻しちゃうんじゃないですか?」と心配するが、正木が胸を張る。

「大丈夫だって!」

「本当ですか、でも、毎回負担したら生活厳しくなりますよね?」と森下が心配するが、正木が否定した。

「だから、大丈夫だって。それはな、種明かしすると。今日、金一封が出だんだ。それで賄うから安心してくれ」

「そうですか、それはよかった。何時も課長に奢られっぱなしだからな」吉田の顔が崩れた。

「そうだ、部長も呼ぼう。この成果も、部長の指導があればこそだといえる。是非参加して貰おう」正木が伝えると、吉田が渋い顔をする。

「ええっ、田口部長を呼ぶんですか。なんだか気乗りしないな」

「あら、吉田君。そんなこと言っちゃ駄目。部長だって、私たちの仲間よ。気象予測だって、最終的に部長の決裁がなければ報道できないのよ。そりゃ実質的には、正木課長が私たちの意見を入れ決めていることだけど、組織上はそうなっているの。わかった?」森下が諌めた。

「でも、ちょっと複雑な気持ちだわ。最終的に決裁するだけでしょ。それに予測過程では、まったく不参加よ。でも仕方ないわね我らの部長だもの。それに、課長の立場もあるし」

横山が不満の残る気持ちを表すと、頷きつつ正木が続ける。

「それじゃ、後で部長に趣旨を話し参加要請しておくから、森下君と横山君で場所探しとセッティングを頼むよ。それと、局長にも報告方々お礼しておかないとな。さあ、夕方発表の気象予測と翌朝の予測をやっつけてしまおうか」

「そうですね。さあ皆さん、何時ものように各自持分を間違いないように、念入りに予測してちょうだい。出来たらスクランブル点検するから」

森下が笑顔に戻り指示すると、「了解、了解!」吉田が二つ返事で応じた。

そして、金曜日夜の祝勝会が催された。予報課全員と田口部長、それにどう言うわけか、庶務課の酒井弥生がついて来た。吉田らにしてみれば酒井は課外者だが、同じ報道局の仲間であり、日頃世話になっていることから田口が何故連れてきたか詮索せず受け入れる。

祝勝会は盛り上がった。

間違いが許されぬ緊張の中で遂行する仕事から解放され、この時ばかりは皆よく飲み語り合い、時の経つのを忘れるほどに笑い声が響き渡っていた。潔癖といっていい結束力である。ひょんなことから参加した酒井には、正木を初めとする課員たちのはつらつとした顔が眩しかった。これほど纏まりのある課は他にないと感じ、連勝記録を塗り替えている原因が、なんとなくわかるような気がした。

だって、目の輝き違うもの。私たちの庶務課も纏まっているけど、それ以上に気象予報課は素晴らしい。羨ましいほどはつらつとしているわ。仕事に対するやり甲斐を自分らで見つけているのね。そこが私たちの課と違う。

やはり課長の指導力がいいんだわ。私も可能なら、皆の仲間に入りたいな。でも、無理な相談ね。だって、部長の愛人なんだもの。そんなんで、仕事に集中できるわけがないもの。

思わずくすっと笑った。

それより、この後の方が楽しみだわ。そのつもりで部長ったら、誘ってくれたんだもの。大胆というか、ずうずうしいとしか言えないわね。でも、早く終わらないかな…。

祝勝会も終盤に差し掛かった頃、弥生は適当な理由をつけ退席した。吉田たちの盛り上がりは衰えを見せない。その中で、時間を見計らい田口が告げる。

「さて、私もそろそろお暇するか。飲み過ぎたしそれに歳だ。老人は早く退散するのがいい。正木君、たまには若い者を二次会に連れて行ってやりなさい。わしの交際費を使っていいから。それじゃ、失礼!」

それだけ言い残し退席した。目的は決まっている。先に出た弥生と落ち合うことだ。ところで田口は、今回の祝勝会に誘われなければ、正木にいちゃもんをつけるつもりでいたが、参加要請されて溜飲を下げ、ついでに弥生との情事を組み入れて、程よく酒を飲み鼻の穴を広げ密会へと臨んでいた。

正木たちも翌日が土曜日である。休日前となれば気分もよかった。二次会へと流れ込み、その後解散し吉田は森下とホテルへ引け込んだ。正木は深夜タクシーで自宅へと帰った。シャワーを浴びたところで、無性に夏美が恋しくなりスマートホンで呼び出す。

「裕太さん、遅かったわね」

「ううん、今帰ったところだ。声が聞きたくて電話したんだ」

「私だって、あなたからの電話を待っていたのよ」

「そうか、会いたいな。これから俺のところに来ないか?」

「ええっ、こんな遅くに」

「うん、どうしても会いたいんだ。それに…」

「なによ、それにって」

「ああ、来てから話すよ」

「いや、直ぐに教えて。それじゃなければ行かないわ」

「駄目だ、直ぐに来て欲しい。タクシーを使えば、三十分で来られるじゃないか。どうしても会いたい。それにキスもしたいし」

「あら嫌だ。それにって、そのことなの。嫌ね、裕太って。キスしたいだなんて、エッチなんだから。でも、私だって同じ気持ちよ」

「そうだろ、それなら直ぐ来いよ。それに明日の朝、またクロを捜しに行きたいんだよ」

「まあ、そうだったの。私もあの日以来捜していないし、どうしてもクロちゃんに会いたいわ」

「そうだろ、明日からまた井の頭公園、昭和記念公園、それに高尾山へも行ってみよう。今度こそ会える気がするんだ。そんな予感がしてさ」

「この前会えなかったんだもの、今度こそ会えるといいわね。それに…、あなたの部屋に泊まれるなんて嬉しいわ。それじゃ、直ぐに行く」

「待ってるよ」

それから三十分程で、正木の住むマンションに夏美が着いた。

「さあ、おいで」

「ええ…」

夏美は小さく頷き、正木の腕の中へ吸い込まれた。正木にとって、夏美を抱くのは久しぶりだ。一ヶ月ほど前、二人でクロを捜す目的で泊まった時以来となる。互いに将来一緒になろうと決めていたし、公言はしないが抱き合うことで証としていた。

翌朝、二人はクロを捜しに、まず井の頭公園へと赴き、前回と同じように弁当を置きクロの名前を呼んだ。一時間ほど捜すが現れない。そこで次に、昭和記念公園へ行き試すも成果がなかった。

「くそっ、駄目か。やはり井の頭や記念公園にはいないんだ。あとは高尾山か」

「そうね、それだったら違う場所に行ってみない。例えば明治神宮とか新宿御苑はどうかしら。もしかしたらクロちゃんの仲間がいて、私たちの訴えを聞き伝えてくれるかも知れないわ」

「そうだな、同じ場所で捜すだけじゃ能がないから。じゃあ明日の高尾山を止めて、そちらの二ヶ所へ行ってみよう。まずは明治神宮なら早朝は入れるから、そこから新宿御苑へと向おう」

「そうね、そうしましょう。でも、会えたらいいね。いや、きっと会えるわ。私たちがこれだけ一生懸命捜しているんだもの。クロちゃんだって、会いたいに決まっている」

「そうだよ。クロの奴、わかっているはずだ。カラスは頭のいい鳥だから、決して忘れてなんかいない。今度こそ会えると思う」

今回の落胆を、次の期待に切り換えた。明治神宮の早朝は人が少ない。気兼ねなく声を上げることが出来たが、新宿御苑ではそうは行かなかった。それだけ来園者が多く、また弁当を置くことも間々ならなかったが、勇気を出してクロの名を呼ぶ。すると突然一羽のカラスが、置いた弁当を掴み木枝へと逃げた。すわ、クロかと目を見張るが違がかった。

「なんだ、クロかと思ったぞ。まったく、人騒がせなカラスだ」

「私だって、クロちゃんかと一瞬喜んだのに。でも、違うのね、残念だわ」

期待しただけに、その落胆も大きかった。

「仕方ない、これだけカラスがいるんだ。そりゃ、腹の減っている奴もいる。餌を探しているのはクロだけじゃないからな」

「でも、残念だわ…」

奪ったカラスに、夏美が乞う。

「ねえ、カラスさん。あなたにそのお弁当あげる。でも、お願いがあるの。あなたからクロちゃんに伝えて欲しい。私たちが捜していることを。そして、裕太さんの部屋に来て欲しいと…」

夏美がカラスに手を合わせると、それを察知したのか「カア、カア」と啼きながら飛び立った。

「ねえ、裕太さん。今のカラス、クロに伝えてくれるかしら?」

「そうだな、わからんが。そう願いたいよ。弁当やったんだからな。それに、これだけ捜しても来ないし、せめて伝えて貰いたいね」

「そうね…」

二人で、飛び去った方向を見やった。結局、明治神宮や新宿御苑でも再会できなかった。昼になり飯を食いながら、がっかりした様子で正木が愚痴る。

「まったく、クロの奴。俺らのこと忘れちゃったんじゃないか。受けた恩なんか、仲間の元へ帰ればもう関係ないものな。それより、可愛い嫁さん貰って、子供を作って楽しい生活をしているんだ。きっとそうだよ」

「まあ、そんなこと言って。クロちゃんに限ってそんなことない。どこかで、私たちを見守っているのよ。そうに決まってる。さっきのお弁当泥棒のカラスだって、今頃クロちゃんに伝えていると思う。だから、今夜辺りあなたのお部屋に来るかもしれないわ」

「そうだな、もしかしたら夏美と同じように、忍び込んで来るかもしれんな」

「あら、なによ。裕太ったら、私、あなたの部屋に忍び込んでなんかいないわ。大体一人ぼっちで寂しいから来てくれって、泣きついたのは誰かしら?」

「あいや、俺、泣きついでなんかいるものか。でも、君を抱きたいから来て欲しいとはいったけれど」

「まあ、嫌ね。抱きたいだなんて。人のいる前で、そんなこと言われたら恥ずかしいでしょ。裕太の馬鹿…」

夏美の頬が赤らみ周りを意識してか俯くと、正木がテーブルに置く彼女の手を軽く握り締めた。

「愛しているよ」

「裕太ったら…」

恥ずかしげに握られた手を引こうとするが、離してくれない。

「裕太さん、離して。人が見ているでしょ」

「それじゃ、言ってくれるかい。目を見て愛していると」

「嫌、嫌よ。こんなところで、恥ずかしくて言えないわ。裕太の意地悪…」

夏美の瞳が涙で曇った。

「あれれ、どうしたんだ、泣いたりして。俺がなにかした?」

「いいえ、なんでもないの。大丈夫よ」

「本当か、それならいいが。泣き出すんだもの、びっくりしちゃうよ」

「もう、大丈夫」そう言いながら、指先で目頭を押さえた。

「ああ、よかった。でも、君の泣き顔って素敵だね」

「なにを言うの、馬鹿。でも、嬉しい。有り難う」

食後のコーヒーを飲みながら、眩しげに見つめ合っていたが、突然正木が提案する。

「これから、高尾山に行ってみないか。夕方の時間帯になれば、カラスたちが夕飯を食うため巣営から出てくる。もしかしたら、クロに会えるかもしれない」

「そうね、行ってみよう。クロちゃんに会えるといいな」

午後三時を廻っていたが、直ぐに出かる。高尾山には、新宿から一時間程で高雄口へ着いた。

「どうする、山頂へ行くか、それとも麓で捜すか、どっちにしよう」

「そうね、麓にしてみない」

「そうだな、山頂よりいいかもしれんな」

意見が一致し、二人は山麓をクロの名前を呼びながら歩いた。麓は山頂に向う山道に比べ人が少ない。それだけ他人の目を気にすることなく、名を呼び捜した。

「クロちゃん、私たちよ。お願い、居るなら出て来てちょうだい。忘れたわけではないでしょ!」

「クロ、俺らが来たんだ。さあ、出て来いよ!」

「クロちゃん!」

「クロ!」

遠くで、そして近くでカラスの鳴く声がするが、一向に現れる気配はない。夕日が高尾山の峰に沈もうとしていた。麓では陽射しがなくなり、見上げる空の明かりだけがくっきりと目に映る。暑かった山風も、疲れた身体に心地よさを感じさせるものとなった。

昨日から今夕にかけて、各所でクロを捜し続けたが出逢うことが出来なかった。気負いと期待が大きかっただけに、沈み行く夕日に虚脱感が漂う。

「ああ、今日も駄目か。このままクロとは、永久に会えないかもしれんな…」

正木の口から、落胆色が漏れた。

「残念だわ。でもクロちゃんは、決して私たちのことを忘れたわけじゃないと思うの。どこかで見ているのよ。だって、そうでしょ。裕太さんが救ってあげなければ、生きていなかったのよ。カラスは賢いって言ってたじゃない。忘れるもんですか。何時かきっと会いに来てくれるわ。ひょこんとね」

夏美は辛いのか、言い訳と共に期待する気持ちを滲ませた。

「さあ、遅くなるから帰ろう。明日からまた仕事だ。君だって家に帰らなきゃならんだろ。送ってあげるよ」

「ううん、クロちゃんに会えなくて寂しいのに。また、あなたとお別れするのは辛いわ」

「そんなこと言ったって、しょうがないじゃないか。何時までも一緒にいるわけにいかないんだ。そりゃ、俺だって。ずっと君といたい。だから家まで送ってあげるよ」

「そう言うことじゃないの。あなたと離れたくないの…」

「また、そんなこと言って困らせる。夏美は悪い子だな」

「いいの、私、悪い子でいい。一緒にいたいんだもの」

「しょうがないな。それじゃ、夕飯を食ってから帰えろうか」

「ええっ、本当。嬉しいな。そう言えば、お腹ぺこぺこだわ」

「あれ、ドライだな。今の今まで、ぐずって泣きそうな顔していたくせに、飯を食うと聞いたらけろっとしているんだもの」

「なによ、言ったわね。裕太の意地悪。それだったら、私、もう帰る。だって裕太は、私のこと嫌いになったんでしょ」

「いや、そんなことない。俺は君が好きさ、嫌いになったりするもんか」

「そうかしら。それだったら、ちゃんと証明してよ」

「なにを証明しろと言うんだ。好きだといえば、それでいいじゃないか」

「そんなの駄目、態度で示してくれなきゃ」

「態度で示せって、どういうことだ…」

「駄目ね、裕太ったら。鈍いんだから」

「なにが鈍いんだよ。わからないから、聞いているんだろ」

「じゃ教えてあげる。証にキスしてくれない」

「ええっ、こんなところで?」

「そうよ、決まっているでしょ!」

「急にそんなこと言われたって、キスというのは雰囲気やタイミングでするもんだ。それをいきなりしろと言われても、人前だし恥ずかしいよ」

「そうなの、それじゃ私のこと嫌いなのね」

夏美が悲しげな仕草をすると、慌てて弁解する。

「そんなことない、君を愛している。昨夜だって抱いてあげただろ」

「あら、嫌ね。あからさまに、そんなこと言って。裕太の唐変木」

「なにが唐変木だ。それが、愛している証拠じゃないか。だから、それでいいだろ」

「駄目よ、それは昨日のこと。今は違うの、私の言っているのは今日の今のことよ。どうなの、私のこと愛しているの。どっちなのよ!」

戸惑う正木にごね迫る。

「参ったな。心から愛しているのに…」

「それがどうしたの。それじゃ、態度で示して!」

困り果てる正木に、目を閉じ顔を向ける。

「わかった。それじゃ、思い切ってするぞ!」

正木は一気に、近づけられた顔を両手で押さえ口づけした。

「わっ!」

夏美は慌てるが遅かった。正木は周りのことなど気にせず、想いを全面的に押し出した。頬辺りへの軽いキスを求めていた夏美にとり、まさか直接唇にされるとは思わなかった。驚き離れようとしたが、両頬を押さえられ深く求められていた。終わったあと黙り俯くと、やったとばかりに正木が告げる。

「夏美、どうだ。わかっただろ」

「馬鹿、馬鹿。裕太の馬鹿…」

夏美がすねるように泣き出した。

「あれれ、どうしたんだ。泣く奴があるか。態度で示せと言うから、キスをしてやったのに。なあ、泣かないでくれ。それじゃ、これから一緒に夕飯食いに行こうか。なっ、なっ…」

「ううん…、有り難う。でも、いきなりなんだものびっくりした。けれど嬉しい。これでわかったわ」

「そうか、よかった。さあ行こう」

「ええ…」

寄り添い腕組みして、新宿へと向かう。

午後七時を廻る新宿は、ネオンの輝く街に変貌していた。とにかく人が多い。すれ違うカップルは腕組し、なかには立ち止まり平気でキスをする。その中で腕組みし歩くが、違和感なく溶け込んでいた。夏美は歩くうちに口づけの余韻が唇に蘇えり、ほのかな時めきとなっていた。意識して寄り添うと、豊満な胸が裕太の二の腕に触れる。

「感じちゃうよ…」

「まあ、嫌ね。裕太ったら。でも、いいの。こうしていたいの…」

甘え、さらに寄り添う。

そんな時互いが無言になり、高揚する気持ちを抑え歩いていると、周りの人波に同化した。新宿は夜のない恋の街である。色とりどりに輝くネオンが幻想の坩堝へと誘い、甘い世界へと陥れてゆく。夏美は、虹色の輝きと切なの空気に酔っていた。足元が揺れる度に彼の腕にしがみつき、高鳴る胸の時めきを吐息と伴に鎮めようとした。

そんな時、「ぐうう…」と、裕太の腹の虫が鳴く。

立ち止まり、互いの顔を見た。

「いや、すまん。腹減っちゃって」

正木の茶目っ気な顔に、夏美がくすっと笑う。

「さあっ、夕飯食いに行こう!」

辺りを見渡し、近くの洒落た店に入った。イタリア料理とワインを注文し、グラスを合わせ飲み干す。顔を見合わせひと息いれた。気持ち的には、クロとの出会いが叶わず気落ちするが、適度の疲れを癒すには喉を潤すワインが格別である。と同時に、新宿夜街の醸し出す雰囲気が、二人に離れたくないという望みを掻き立てた。それは酔いが満ちるにつれ、大きな欲望へと変わってゆく。

裕太には、このまま帰したくないとの欲。そして夏美は、抱かれたいという望み。互いの胸の内で湧き出していた。突然、夏美が漏らす。

「ねえ、私、帰りたくないの…」

「なんだよ、急に。さっき、飯食ったら送ると言っただろ」

「でも、嫌。今日は帰らない、帰りたくない…」

「そんなこと言って…」

甘える仕草に、正木は戸惑う。

「もう一日、あなたの部屋に泊めてくれない?」

「だけど、明日は仕事だぞ」

「いいじゃない、一緒に出勤すれば」

「そう簡単に言うけど、それは駄目だ」

「なによ、意地悪。裕太なんか嫌い。石頭のこんこんちき!」

「あれ、なんだ。また嫌いになったのか。それに石頭はねえだろ。だいいち夏美だって甘えてばかりじゃないか」

「いいでしょ、女が男に甘えたって。どこがいけないの、言ってちょうだい!」

「あれれ、今度は開き直って。それだったら、狼になってやる。夏美を捕まえて食べちゃうぞ」

「きゃっ、狼に襲われる。誰か助けて!」

夏美が周りに助けを乞う真似をすると、慌てて制止する。

「やや、なにするんだ、冗談だよ。本気じゃないのに悲鳴を上げる奴がいるか。ほら、皆が見てるじゃないか」

「それだったら、泊めてくれると約束して」

「なんだよ、また脅す気か?」

「いいえ、脅かしてなんかいないわ。約束してくれないなら、また声を上げるわよ」

「待ってくれ、わかったよ。泊めてやればいいんだろ。まったくしょうのない奴だ」

正木が渋々承諾すると、夏美が勝ち誇ったようにワイングラスを高々と掲げる。

「やった、裕太を負かしたわ。私の勝ちね。泊まるなんて冗談、帰えるわよ」

「騙したな。悪い女だ、尻を叩いてやる」

言いつつ、正木が夏美の腕を手繰る。

「あら、いけないんだ。お尻を触ろうとしている。痴漢だわ、助けて!」

また、夏美が小さな悲鳴を上げた。

「ああ、またそんなこと言って。痴漢なんかするか、お仕置きだけだ。夏美の尻なんか触るもんか!」

正木が慌てて立ち上がり、彼女の肩を押さえると夏美が笑い出す。

「裕太さんって、慌てた顔が可愛いわ」

「ちぇっ、そんなこと言って。まったく俺を弄んでよ。この意地悪女!」

軽く叱るが、夏美の潤む瞳に惑わされ、さらに愛おしさが増していた。

「さあ、飯も食ったし帰るとするか」

「ええ」

夏美は正木の後について店を出た。火照った身体に夜風が気持ちいい。正木が告げる。

「なあ、少し歩かないか。西口公園にでも行こうよ」

「そうね。私、少し酔ったみたい。酔い醒ましに、夜風にあたりたいわ」

東口の歌舞伎町から、西口方向にある新宿中央公園へと歩き出す。駅のアーケード街を抜け京王プラザ前を過ぎ、都庁脇を歩くと人数が少なくなるが、その分カップルは密着し出す。互いにそれを意識してか寄り添うと、夏美の胸が裕太の腕に絡みついていた。

「帰したくなくなるじゃないか…」

「いいの、こうしていたいの…」

「うん…」

「いい気持ちね」

「ああ、そうだな。酔っている身体にはたまらなくいい」

夏美が身体をよじると、裕太の腕が乳房をくすぐった。

「あら、こそばゆいいわ。でも、いい…」

「そうかい、こうしてやるか」

「駄目、そんなことしたら感じちゃうから」

「いいじゃないか、俺だってもう感じているんだ」

「馬鹿、そんなこと言って。意地悪…」

「意地悪って、なんだよ。気持ちがいいんだろ」

「うん、いいわ…」

「それじゃ、こうしたらどうだい」

正木の片方の手が彼女の胸にそっと触れる。

「あら、駄目よ。そんなことしたら、周りの人が見たら恥ずかしいでしょ」

「大丈夫だ。ほら、見なよ。どの二人連れもくっつき歩いているだろ。それに、あのカップルを見ろよ」

「まあ、嫌だ。キスしている…」

程なくして中央公園へと来た。暗い園内に入いると、至るところで抱き合う姿が目に飛び込んでくる。

「まあ、どうしましょ。酔い醒ましが、よけい酔っちゃうわ」

瞳が上気していた。正木の片手が、夏美のブラウスの上から豊満な胸を弄り始める。

「あああ…、駄目。こんなところで駄目よ」

「いいじゃないか、誰も見ていないよ。ほら、皆キスしたり抱き合っているだろ。俺たちだってこうしないとおかしいよ」

「まあ、なんてこと言うの。裕太ったら…」

立ち止まり抱き合うが、違和感はない。暗い公園の所々にある街灯が、夜の暗闇に光の泉と化していた。夏美を強く抱き締める。

「好きだ、愛している」

「私だって。あなたに負けなくらい愛している。好きよ、裕太。あああ…」

むしゃぶるような、熱い口づけが交されていた。

「ねえ、裕太。私、帰らない。帰りたくないの…。どこかへ連れて行って、お願い。ここでは駄目、だから早く連れて行って」

「ううん、そうだな。俺は君のすべてを愛したい、だから今夜は帰えさない」

「いいわ、好きよ。裕太が大好き。ねえ、早く行きましょう」

正木は腕を廻し、夏美の尻を弄る。

「駄目よ、こんなところで。感じちゃうから…」

「俺だって、もう我慢出来ない。さあ行こう」

「うん…」

密着し、近くのラブホテルへと吸い込まれていった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る