五節
田口は昨夜帰りが遅かった。そのままテレビも点けずベッドへ潜り込み、今朝も起き抜けのまま出社した。思う存分情欲を吐き出し満足した心持ちで、表面上は何時ものように仏頂面で局に入るが、なにやら重苦しい空気に包まれているのを肌で感じる。すれ違う社員たちは伏し目がちに挨拶するが、視線を合わせようとしない。
田口が訝る。
なんだ、こいつら。副局長昇進が見送られたのを嘲り笑っているのか。くそっ、こいつらわしを馬鹿にしおって。
さらに不機嫌な顔で、報道局の己の部屋に入った。だが、ここも重苦しさが満ちていた。
田口が慇懃に挨拶する。
「おはよう!」
むっつり顔で自席に着いた。
「おはようございます…」
部員たちが目を合わせず迎える。その態度に田口はむかついた。
こいつらまで、俺を馬鹿にしおって…。内心憤慨しながら、昨日の用件を思い出すと、正木に対する憎悪が噴き出てきた。目を剥き、皆川に向かって怒鳴る。
「おい、横峰はまだ来ておらんのか!」
振られた彼女は驚いた。係わり合いを持ちたくないと俯いていたからだ。仕方なくおずおずと田口の方を覗う。
「どうした、横峰はどうしたと聞いているんだ。ちんたらせず、答えんか!」
「は、はい。横峰課長は…」涙目で口ごもる。
「なんだ、その目は。わしを馬鹿にするのか!」ぎょろっと睨み一喝した。彼女が途端に耐えられなくなり泣き出した。
「なんだ、ちょっと怒ったぐらいで泣きやがって。まったく役に立たん女だ!」
皆川は机に突っ伏して泣き出し、思い余って部屋を飛び出していった。
「ちぇっ、なんだというんだ。これくらいのことで、まったくしょうがねえ女だ。しかし、横峰は遅いな。もう始業時間が過ぎているぞ。連絡もなく、なにやってんだ。横峰の野郎、指示したことを調べ終わっておるのか。それにしても正木のせいでこの有様だ。絶対に許さん。なんとしても奴の失態を暴き、蹴落としてやる」
非常事態であることも気づかず、ぶつぶつと呟き執念の鬼と化していた。
ねっちりと攻めてやるからな。そうだ、それに。奴には女がいたな。「おい、田代君。正木と付き合っている女を知らんか!」
「いいえ、存じませんが…」
「なんだ、知らんのか。お前も女だろ。正木の彼女ぐらい知らんでどうする」
「申し訳ございません。本当に知らないんです」
「そうかわかった。それじゃしょうがねえな。それにしても横峰はまだ来んのか。とっくに九時を回ったぞ。無断で遅刻するつもりか、けしからん奴だ。朝一番で報告せよと、あれだけ言っておいたのに。それを反故にしやがって、来たら怒鳴りつけてやるか」
聞く皆の心情など考えず息巻いた。すると、酒井が独り言のように反抗する。
「こんな時に、なにを寝とぼけたこと言ってるんですかね。なにも知らないで御託ばかり並べて、大切な部下を怒鳴り散らして泣かせているんですからね」
それを聞き、「な、なんだ、その言い方は。わしに喧嘩でも売る気か。一事務員の分際で、上司に歯向かう気か!」目の玉が飛び出るほど彼女を睨んだ。
すると酒井が平然と応じたる。
「いいえ、別に逆らったわけじゃございません。あまりにも身勝手で傲慢ですから、注意を申し上げただけでございます」
「なにっ、お前なんぞに言われる筋合いはない。何様だと思っているんだ!」
青筋が立ち、唾を飛ばしながら怒鳴った。
「さようでございますか、それは失礼致しました。あなた様が尋ねるもんですから、ついご注進申し上げただけでございます」
「なにを抜かす、ふざけるな。この売女め!」田口の目が釣り上がっていた。自制心を失い、握り拳がぶるぶると震えていた。
「なんですって、そんな言い方はないんじゃないですか。仮にもあなたの部下ですよ。部下に対する雑言。言っていいことと悪いことがあります!」酒井が怒り、涙目で睨みつけた。
「なにが部下だ。役立たずが聞いて呆れるわ!」怒鳴る田口の目が座っていた。
「それじゃ、言わせて頂きます。部下というのは、すべてがあなた様の言い成りになるわけではございませんが」
「なんだ、わしの言うことが聞けんというのか。そんな役立たず女などいらん。くび、くびだ!」
「いいんですか、そんなこと言って。私、知っているんですよ。部長の秘密をばらしても宜しいんですか。社内メールで一斉公開しますよ」
酒井が開き直ると、突然田代が叫ぶ。
「止めて下さい。そんなことされたら、私、この会社にいられなくなります!」酒井が平然と応じた。
「あらどうしたの、田代さん。そんなに慌てて。なにも、まだ公開したわけじゃないのよ。この禿親父が謝れば、そんなことしないわ」
その酒井の挑発に、田口の目がさらに釣り上がった。
「なにを、この期に及んでくびになるのが怖いのか。根も葉もないことを抜かしおって、なにが知っているだ。証拠もないくせに張ったりやがって。お前のような女など、我が社にはいらん。直ぐに立ち去れ!」
指を差し睨みつけると、酒井が跳ね返す。
「部長さん、宜しいんですか。そんなに高飛車に出て。今なら、言ったことを撤回し、お謝りいただければ許してあげても宜しいんですよ」
「馬鹿者、お前のような餓鬼に脅かされる筋合いはない。言いたいなら言え、メールでもなんでも打て。わしをたぶらかせるものならやってみろ!」
田口が見得を切った途端、田代が絶叫した。
「わあっ、止めて下さい。私がいけないんです。つい、軽はずみに部長の口車に乗ってしまったことですから!」
田代は聞いていられなかった。昨夜、関係があったことなど公開されてはと、生きた心地がしなかった。冷静に考えてみれば、昨夜の今日である。他人に見られない限りわかろうはずがないものを、動転し考えが及ばなかった。泣き崩れ椅子にぺたりと座り込んだ。それを田口が見て嘯く。
「うろたえるな、田代君。君がなんで泣く、関係ないじゃないか」
すると、酒井が言い放つ。
「なにを惚けているんだ、田口部長。彼女の立場を考えてみろ。お前は遊びのつもりだろうが、世間様はそんなこと許すとでも思っているのか!」
その言い放つ勢いで、皆の目が田口に集中した。
「何を言うか…」田口が、ドキッとし口ごもる。
すると、酒井が核心を突く。
「それにな、お前はさっきから横峰課長を貶しているが、もう二度とここに来ることなどないんだ。そんなことも知らずに、ぬけぬけと彼女をホテルへ引っ張り込んで、関係を持っているとは情けない男だ!」
「な、なんだと!」言い返すが、一瞬たじろぐ。
「横峰が二度と来んとは。一体、ど、どういうことだ…」語尾が消えた。すると、酒井が貶す。
「馬鹿野郎、このうすのろ禿げ親父が。新聞も読んでねえのか。テレビ局の人間なのにニュースも見てねえというのか。田口、お前こそこの会社にはいらねえ人間だ!」
「な、なんだと。それが上司に言う言葉か。許さんぞ…」語尾が小さくなり、途切れる。
事実、田口は知らなかった。今朝は、新聞はおろかテレビも見ず出社していたのだ。
「まだわからねえようだな。それなら教えてやる。横峰課長は死んだんだ!」
「…」直ぐに理解できず、ぽかんとした。
「阿呆面して、耳の穴かっぽじいて聞きやがれ。お前のせいだぞ。昨日、課長にどれだけ仕打ちをしたか思い出してみろ。それをぬけぬけと言いたい放題。局内の空気も読めず、皆の気持ちもわからねえで、怒鳴り散らしやがってよ!」
「ど、どういうことだ。横峰が死んだとは…」
頭の中が混乱するが、怒りで震えていた拳がだらりと垂れた。
「馬鹿野郎、まだわからねえのか!」酒井が怒鳴った。すると、止っていた拳が再び震えだす。酒井の剣幕にではない。
「こ、この俺が指示したことで。奴が死んだとでもいうのか…」
「そうだよ、あんな残酷な無理難題を押し付けやがって。そうだよな、田代さん。あんただって、横峰課長がどんな状態だったか知っているよな」
「…」
振られた田代は応えられなかった。さらに、酒井が突っ込む。
「それを知りながら、部長とホテルでお楽しみかよ。横峰課長を自殺に追い込んだ奴と同罪だな。二人して追い込んだようなもんだ」
「そ、そんな、私…、ご免なさい。私が連れ戻して、少しでも慰め協力してあげていたら、こんなことにならなかったのに。うわっあああ、ご免なさい、ご免なさい!」机に突っ伏し泣き出していた。
「なんと、横峰が自殺した…」口走り、田口がぐらぐらと揺れ出した。目が空を舞い、そのまま自席にへたり込んだ。酒井は息を一つ吐き席へと座り、パソコンのキーボードを打ち始める。それから間もなく田口に局長から電話が入ると、うなだれなにも言わず席を立つ。そして一時間もすると、田口部長と田代の不倫メールが全社員に流れていた。
ことがことである。田口は懲戒処分として一週間の自宅謹慎を受けた。己が蒔いた種とはいえ辛かった。悶々とした日々を送るが、そのうち憎悪の芽が膨らんできた。
「くそっ、横峰の件も。元はといえば正木のせいでこうなったんだ。こいつのせいで泥を被り、昇進の芽も摘まれた。どうしてくれようぞ。奴さえいなければ、こんな目に合わなかったものを。正木はわしにとって疫病神だ。奴さえ追い払えば邪魔者がいなくなる。怨念で焼き殺してやろうぞ」
反省するどころか、さらに目の敵にし憎悪感を募らせていた。そして、とんでもないことを画策する。
そうだ、正木の女を寝取ってやる。奴との間を引き裂き、気を狂わせ横峰の後を追わせてやるぞ。うむ、蹴落とすにはこれしかあるまい。しかし、どう算段すればよいか、これからじっくりと考えるか。
そうか、皆を欺くために表面上は反省しているように見せかけ、安心させた上で奴らの仲間に入り込み、合コンでも催して一網打尽に陥れればいいんだ。うむ、この手しかあるまい。早速謹慎が解けたら作戦開始といくか。まずは奴らの警戒心を解く。それからだ…。
一週間後自宅謹慎が解け、しおらしく報道部に顔を出す。自席に着き慎重な面持ちで皆に詫びた。もちろん、局長や役員に対しても平身低頭の行脚をした。それから一ヶ月近くが過ぎた。思惑通り予報課に深く入り込んでいた。正木たちの意見も愚直に聞き、各段階のチェックも以前とは様変わりする。正木に対してもそうである。従来の攻撃がみられず、しおらしく聞いては後押した。それにより、次第に吉田たちの警戒心が解け、部長を仲間として気象予報課は一つに纏まっていた。そのうち定期的に開いている、お疲れ会と称する飲み会にも、田口が参加するようになった。それも自ら望んでではなく、課員から誘われるようになった。始めのうちは断った。
「私には前科があるし、正木君と疲れを癒せばいい。そんなところに私が出ては、かえって邪魔になるだけだ」と腹にもないことを言って断った。そのうち吉田が強引に誘うと、仕方なさそうに告げる。
「正木君、悪いね。君らの親睦会に参加しては迷惑だろう」
「いいえ、そんな気遣いは無用です。課員全員が、部長を仲間だと認めているのですから」
「うむ、そこまで言われたら、断っては逆に失礼になるか」
「はい、その通りでございます」
とうとうきたな。と田口は心の内でほくそえむ。これでハードルを一つ越えた。さあ、次へと進むか…。
これらの飲み会は二週間に一度か、一ヶ月に二度の割合で催された。そのうち田口が、すべてに参加するようになった。ある夜、二次会へと流れ込む。そこでチャンスとばかり田口が身銭を切り、正木や吉田たちを六本木のグラブへと誘った。
「ひゃっ、部長。こんなところへ連れてきていただいて、宜しいんですか!」
吉田が感嘆の声を上げる。
「いいや、心配無用だ。たまには私のおごりで、君らを労ってやらねばならんからな」
「恐れ入ります。私までご馳走になりまして」
正木が丁寧に礼を言った。
「なにを言うんだ。君が統率力を発揮しているから、予報課も成績がいいんじゃないか。何時ぞやの失態が嘘のようだ。どうだ、あれから何ヶ月連勝が続いているのかね?」
「あら、部長さん。なんなの、その連勝って?」クラブ「綾」の美人ママが口を挟む。
「おおこれか、これは連れてきた彼らの成績の話だ」
田口が正木を見据え返した。
「あら、いい男ね。お名前はなんと申しますの?」
ママが正木に、問うたことなどそっちのけで誘う眼差しで尋ねる。
「はい、正木と申します」
「まあ、正木さん。それで下の名前は?」
「は、はい。下の名ですか。裕太と申しますが」
「あら、可愛いわ。裕太さんね、今度誘ってもいいかしら?」
色香の漂う眼差しで告げられると、戸惑いつつ断る。
「いや、それは困ります…」
「ねえ、部長さん。いいでしょ、裕太さんと食事ぐらいしたって。お願い、部長さんからも言ってちょうだい」
ママが田口に差し向けると、それに田口が乗った。
「なんだ、わしはもう用なしか、参ったな。確かに課長は男前だし、もてそうだもんな。仕方ない、正木君許可する。ママを一度食事に誘ってあげなさい」
田口の援護に、ママが喜んだ。
「わあ、嬉しい。部長さん有り難う、感謝するわ。でも、部長さんのこと忘れたりしないから安心して下さい」
「おお、そうして貰いたいね。たまには、ほんのたまにでいいから一緒に飯食ってくれよな」
「わかりました。それじゃ、部長さんの許可を頂いたんですもの、強引に誘っちゃおう。ねえ、裕太さん。覚悟してちょうだい」
「あの、すみません。私みたいなものを相手にしてもつまらないですから、止めた方がいいですよ」
「あら、裕太さんって。意外と冷たいのね。振られちゃったわ。ああ悲しい、部長さん慰めてくれない」
「しょうがねえな正木君、駄目じゃないか。綺麗なママをそでにしちゃ!」
「あいや、申し訳ございません。私としてはそんなつもりはないのですが。結果的にそのようになってしまい、お詫びします」
正木が真面目に頭を下げた。吉田たちは、問答にぽかんとしていた。所詮、来るところではない別世界のようで、狐に摘ままれた面持ちでいた。そんな様子に、ママが促す。
「さあ、どうぞ皆さん。お飲みになって下さい。部長さんのおごりのバーボンですから」
そう言われ吉田が驚く。
「うへっ、そんな。バ、バーボンなんて飲んだことねえ。こりゃ、部長。有り難うございます。遠慮なく頂きます!」
各自のグラスに注がれたところで、ママが音頭を取った。
「皆さん。揃って乾杯しましょう。それじゃ、部長さん。一言どうぞ」
「まあ、堅苦しいことは抜きだ。高級クラブだからといって、遠慮はいらん。それじゃ、乾杯!」
それだけ言い、互いにグラスを合わせた。
「うひゃ、美味いな。こんな酒飲んだことない!」
吉田が喉の辺りを擦り感激を表わした。高級クラブということもあってか、吉田たちは舞い上がり、酔いが回っていた。巧みなママの誘導に酔いしれる。店の雰囲気と美人ママの色香に、吉田は酔っていた。次第に情欲が膨らんでくる。求めるのは恋人関係にある森下だ。森下にしても同様である。
暫らく歓談が続いた後、二人は示し合わせたように演技する。森下が嘯く。
「なんだが飲み過ぎて、気分が悪くなってきたわ。私、これで失礼したいのですが」
「おお、そうか。気をつけて帰るんだよ」田口が気を遣う。
「森下さん大丈夫?何なら吉田君、送ってあげたらどうかしら?」ママが促した。
「いや、大丈夫です」と言いつつ、森下が席を立とうとしてふらつく。
「ほら駄目よ。吉田君、送っておあげなさい!」とママ。
「は、はい。そうします。そこいら辺で倒れたらどうにもならんからな。しょうがねえ、送ってあげるよ」
吉田が理屈をつけて、二人はクラブを出た。行き先は決まっている。タクシーで御徒町へと向い、抱き合うようにホテルへと吸い込まれた。
「私たちも、そろそろ失礼します。今日は部長、有り難うございました」正木が告げ席を立つ。
「いいや、いいんだ。君らには何時も世話になっている。これからも宜しく頼むよ」田口が返した。
「まあ、寂しいわ。課長さん、今度誘うから待っていてね」
ママが声をかけるが、曖昧に頷く。
「は…、それじゃ、失礼します」
軽く会釈をし、横山と共にクラブを出た。残った田口が呟く。
「まあこれで、奴も警戒心を解いただろう。それじゃ、いよいよ次の策へ移るとするか」そんな独り言に、不可解そうにママが田口に顔を寄る。
「なに言っているの。もしかして焼いているの?」
「なにを馬鹿なこと言っている。あんなひよっこに、負けるとでも思っているのか。ママも罪な女だな。その気もないくせに、正木をからかいよって」
「まあ、ターさんったら。久し振りなんだもの。男が欲しくて、待ちわびていたのよ。それを、あんな素敵な人を連れてくるんだもの。少しぐらい、からかってもいいでしょ」
「まあな…」
「でも、振られちゃった。これじゃ、身体の火照りが納まらないわ…」
「そうかい、それならわしが、その火照りを鎮めてやろうじゃないか。どうだ今夜。もう店を閉めたらいい。わしとママしかいないんだから」
そう言いながら、ママと口づけを交す。そして、着物の合わせから手をねじ込もうとすると、「あら、駄目。そんなことしたら…」くすぐったそうに身体をよじった。
「ほら、気持ちいいだろ」田口が強引に差し込み揉み始める。
「ああ…、駄目よ、お客が来たらどうするの。待って、お店閉めるから」
「わかった」
着物の合わせから手を抜いた。ママが店を閉めにかかると、後ろから近づき鍵をかけた途端抱き締める。
「うん、まあ…。ターさんって強引なんだから。ここでは駄目なの」
「いいじゃないか」
振り向かせ手で顎を押さえ、紅の唇を求める。
「ああ、駄目、駄目よ。ここじゃ、駄目だったら…」
抵抗するが、上気する身体の力が抜け田口の腕の中へと落ちた。長い口づけが続く。
「ねえ、連れて行って。お願い、早く連れて行って。欲しいの」
「うん、わかった。俺もお前が欲しい。さあ行こう」
寄り添い店を出て、タクシーで渋谷のホテルへと向った。車中でもぴったりと寄り添い、田口の手がママの太股を弄り続ける。懸命に耐えるママの口から、押し忍ぶ吐息が漏れた。十五分ほどで道玄坂へと着き、急くように先夜田代を連れ込んだホテルへと二人して消えた。
翌朝田口が出勤すると、気象予報課の全員がすでに業務に就いていた。部長に気づくと挨拶をし昨夜の礼を言った。
「いやいや、昨夜は楽しかった。君らのおかげで命の洗濯をさせて貰った。そのせいか、今朝は清々しい気分だよ」
田口が上機嫌で応えると、森下が礼を述べる。
「私たちこそ、あんな高級グラブへ連れて行って頂き、有り難うございました。本当に楽しかったです」
「そうか、それはよかった。また連れて行ってやるからな」田口が思惑含みで返した。
「本当ですか、それは嬉しいっす!」満面の笑みで吉田が声を上げた。
「あんな高級なお酒を頂けたんですもの。普通じゃ、とても飲めないわ。部長、有り難うございました」森下が再び頭を下げた。
「そうかい、それはよかった。今日も仕事、頑張ってくれよ!」
田口が檄を飛ばすが、腹の内で嘯く。
なにを言う。満足したのはバーボンだけではあるまい。あっちの方も励んだんだろ。ママが見抜いて、そうなるよう計らったじゃないか。酔った振りして、下手な芝居しやがって。まあ、そう言うわしもママと楽しんだから、貶すわけにいかんがな。
まあ、これで。こいつらを手懐けたと言うもんだ。あとは次の策として、男女ペア参加のパーティーを画策すればいい。もちろん、会費は各自負担とし、二次会は六本木の昨夜使ったクラブで、今度も交際費を使っておごる。そうだ、名目は業務交際費としよう。これなら、局長に対しても得点が稼げる。まあ、一石二鳥ということだ…。
密かに練っていると、そこへ庶務課の酒井が熱いお茶を入れてきた。先日来の確執はすでに消えていた。これも田口が詫びにと食事を誘い、手を出し懇ろな関係を作ったからだ。
「おはようございます。お茶をお持ちしました」
「おお、有り難う。何時も気を使って貰いすまんね」
「いいえ、どう致しまして…」湯呑みを机に置くと同時に、小さな紙片を添えた。田口が湯呑みごと取りポケットに収める。
「さあ、仕事しごと。今日も頑張らないとな!」
田口が屈伸して座り直し、皆にわからぬよう目を通した。「今晩付き合って欲しい。何時ものところで待ってます」とのメモである。田口がほくそえんだ。
弥生の奴も、しょうがねえ女だな。欲しがりやがって、まあいいか。今日も可愛がってやるか。おい、息子よ。三連ちゃんだが頑張ってくれ。昨夜は綾のママ、一昨夜は田代、そして今夜は弥生だ。そうだ、マムシドリンクでも飲むんでおくか。
メモをしまい、受話器を取り内線ボタンを押すと、酒井の机上電話が鳴った。
「はい、庶務課の酒井ですが」
田口がとぼけて話しだす。
「あの、四菱商事の南部長さんですか?私、東テレの田口と申します」
酒井が別人と話すように対応する。
「はい、そうですが。あいにく課長は離席しておりますが」
「そうですか。本日、お会いする約束がありまして、伝言して頂けますでしょうか?」
田口が続けると、また酒井が合わせる。
「はい、結構でございますが。それで、どのようなご用件でございますか?」
適当につじつま合わせ、接待と伝えた。
「は、はい。夕食を一緒にしたいと言うことでございますね。そうですか」
田口が取引先との待ち合わせ時間の振りをして、落ち合う時間を告げる。
「それでは午後六時に、先般の店でお持ちしております」
すると、酒井がすまし顔で応じた。
「はい、結構でございます。その旨お伝え致します」
おもむろに田口が電話を切って、トイレへと向かう。そして、スマートホンで酒井にかけ直す。酒井が受話器を取り応じた。
「はい、庶務課の酒井ですが。は、はい申し訳ございません。只今、外線電話が終わりましたものですから」
すると田口が、密事を話し出す。
「それと、弥生。今晩お前を悦ばせてやる。だからスタミナをつけておけ。それに頼みだが、お前の下着、刺激的なものにしてくれんか。せがれが驚くようなやつがいい。興奮すれば、いっそう悦びの坩堝に嵌まるからよ」
「…」
受ける酒井の顔に赤みが差し、隣席に悟られぬよう吐息を洩らす。
「わかったわ…」気づかれぬよう返し、社交言葉で返す。
「は、はい。申し訳ございません。それでは、そのようにさせて頂きます。では失礼致します」
外線電話を切るかのように受話器を置いた。
男と女の関係は、不思議なものである。あれだけ言い争った彼女が、田口に堕ちたのは何故かと戸惑うが、そこは田口の好色と強かさであった。予報課の課員と打ち解けたことにより、庶務課にも雪解けが生じた。横峰に代わる柿田が赴任してから、横暴さが影を潜め反省しているかの印象を与えていたからだ。
それに部長の計らいで、女性職員が追加配属された。川口よねである。酒井が音頭を取り、新任課長と川口の歓迎会が催された。そうすることで、さらに庶務課員らも警戒心を解いた。もちろん、そこに田代はいなかった。酒井が流したメールが基で田口との愛人関係がばれ、いられなくなり会社を辞めたのだ。
そんな中、数日後田口主催の「ご苦労さん会」が開かれる。庶務課全員が参加した。そして二次会へと流れ込んだ。そこで、言葉巧みに酒井を堕したのだ。一度関係を持てば、男が勝る。酒井は田口に溺れた。ちょうど付き合っていた彼氏と別れ、傷心していた時ゆえ、田口の誘いを躊躇いなく受け入れた。二人の間の情事は、今までに経験したことのない刺激であったため、弥生は忘れられなくなった。身も心も捧げるほど、言いなりになったのである。
そこで田口は酒井を使い、横峰がやり残した正木の失態や人間関係、さらには生い立ちから今日までの生き様を調べさせようと謀った。もちろん、その駄賃は情事で甚振ることであり、焦らし究極の悦びを与えることであった。女の最大の悦びは、これらの行為が秘密裏に、あるいは大胆に弄ばれることにある。時には人目をはばからず、夜の銀座を腕組みし、立ち止まっては熱い口づけを交す。そして密事でむせび泣くような情欲の世界へとおとす。現実との落差が大きいほど、酒井は虜となりのめり込んでいった。
職場では上司と部下の関係だが、夜は濃密な男と女の関係に変わる。一日の中で、それほど違いのあるものはない。仕事中であっても酒井の頭は、田口のことが描き出され潤んでいた。はっと気づき恥じらうが、隣席に気づかれぬよう装う。午後三時を過ぎると、自然に身体が疼いてくる。我慢できなくなるのだ。田口の誘いがない時は、仕方なくトイレで自慰をし鎮めなければならなかった。
田口は酒井を狂わせた。ホテルの一室で情事に励むが、田口の仕打ちは容赦ない。欲しがる弥生を焦らした。
「いい…、ああん、駄目よ。ねえお願い、早く。もう駄目、あああ…」
上気した顔を左右に激しく振り、欲望をあらわにした。
「あああ…、欲しい、欲しいの」
「いいや、まだ駄目だ。もっと焦らしてやる」
「嫌よ、お願い。崇史、後生だから…。ああ、こんなこと言って恥ずかしい」
両手で顔を覆った。
「そうかそうか、それならこれから言うことを聞くと約束するか?」
「ああ欲しい。だから言って、約束するから。早く言ってちょうだい!」
「それじゃ、言うぞ。正木のことだ」
「あうん、正木課長…?」
「そうだ、奴の失態を調べろ!」
「ええっ、正木課長の失態って…。この前、横峰課長を狂わした件のこと?」
「そうだ。嫌か?」
酒井は一瞬躊躇うが、打ち寄せる情欲には敵わなかった。
「調べる、調べるわ。だから…」
「そうか、それとだ。奴の生い立ちや経歴も調べろ」
「わかったわ、だから早くちょうだい」
「いや、まだ駄目だ。それに、正木には女がいるな?」
「女…?」
「そうだ、彼女がいるだろう。どこのどいつだ!」
「ええ、そんなことまで?」
「おや、不満か。それなら今日は止めてもいいんだぞ」
「ええっ、そんなの駄目よ。そんなことされたら、気が狂っちゃうわ。なんでそんな酷いことするの。それじゃ、蛇の生殺しじゃない」
上気しつつ不満顔になると、それに乗じる。
「それだったら、言うことを聞くんだ」
「ああ、薄情な人。私、もう限界なの。だから聞くわ、言うこと聞くから」
「それじゃ、言って貰おうか。女の名前と何処にいるかをな。それと、そいつのスマートホン番号も調べろ。いいか分かったな。どうだ。欲しくないのか」
にやつき、せっつく。「ああ、言うわ。言うから…」酒井は我慢の限界に達していた。
「ああ…、名前は山城夏美…、年齢は二十五歳で課長と好き合っているわ」
「そうか、それでどこに勤めている」
「ええ、それは。あああ…、うちよ」
「ええっ、そうなのか。社内恋愛ということか。それじゃ、どこの所属だ」
「経、経理部にいるわ」
「そうか、経理にいるとはな。これは都合がいいわい」
田口が指の動きを止める。
「ああ駄目、止めないで。ああ…、早く欲しい」
「わかった。それじゃ、さっきの件とスマートホン番号を調べてくれるな。一つ調べたら一つ返してやる。一つづつ楽しみが増えるという寸法だ。これから正木のことを調べ報告する度に褒美をやろう。どうだ、嬉しいか?」
「その都度、私を可愛がってくれるの?」
「ああ、そうしてやる。それじゃ、正木情報の礼をしてやる」
「ああ、嬉しい…」痺れを切らす弥生と、激しく交わる。
今夜は珍しいほどむせる夜だった。冷房の効く部屋でさえ、激しさに汗が飛び散るほど情欲の世界へとのめり込んでいた。
酒井弥生は狂った。田口の思うがままに操られ、翌日から正木の身辺を探り始める。それも恩情が欲しいからだ。一週間もすると、失態といっても個人のものはなく、気象予報で外した予測の仔細を調べ上げ、さらに分析による弱点まで追求していた。
これには田口も喜んだ。
「でかしたぞ、弥生。こんな詳細なデータはない。これはすごい。よしっ、今夜は特別に念を入れ悦ばせてやる」
弥生の受ける快楽は、今までになく強烈だった。死ぬほどの情愛を注ぎ込まれ、弥生はさらに堕ちた。次に調べてきたのが、経歴と生い立ちである。これらは多分、人事部の男性職員をたらし込み得たに違いない。これに対する褒美も、彼女の身体に刻み込んだ。無類の悦びを顔中に表わし頂点に達していた。
すでに、酒井は性の奴隷と化した。ことが終わり一日経つと、また欲しくなる。そこで今度は、正木の彼女の経歴と、彼以前の男関係をも調べ上げていた。これは社内情報だけでは無理である。金を注ぎ込み興信所に依頼したに違いない。それによれば彼女は、昔、女友達と合コンに参加した際酔わされて、気がつけばホテルで見知らぬ男と寝ていた。あってはならぬ出来事である。山城夏美は誰にも知られぬまま記憶の中に沈殿させた。学生時代の出来事である。それから我が社に入社し、時を経て正木と付き合うようになった。もちろん、当初そのことは秘密にしていた。
酒井は田口が欲しく、情報を持ってホテルにしけこんだ。
「おお、これは非常に美味しい情報だぞ。弥生、でかした。こんな情報を持ってくるとは、なんと役に立つ女か。これでは、お前を可愛がってやらねば罰が当たるというもんだ!」
「嬉しい、そんなに喜んでくれるなんて、調べた甲斐があったわ。ねえ、くれるんでしょう。お駄賃を…」
「ああ、当たり前だ。今夜は特別念入りに可愛がってやる。いいか、もしかしたら行き過ぎて死ぬかもしれんぞ」
ホテルの一室で戯れる。
「あああ…、嬉しいわ。死んでもいい…」
「それじゃ、裸になれ。服を脱ぎ全裸になるんだ」
「ええっ、あなたの前で裸になんて。恥ずかしいわ」
「なにを言う、お前はわしの女だぞ。すべてわしのものだ。早く脱げ」
弥生は躊躇いつつブラウスから脱ぎ始め、ブラジャーを外すとたわわな乳房が揺れる。たまらず田口は生唾を飲み、むしゃぶりついていた。
そんな情事は、夜毎激しさを増す。互いに気が狂うほど燃え貪り合った。その繰り返しが、まともな男と女の関係ではなく、獣と化していたのである。
翌日の朝が来た。何時ものように田口は出社し、何事もなく昼を迎えた。その間、弥生から得た情報を元に、正木に対する策略を練った。含み笑いが込み上げてきては懸命に抑え、正常心を装うがその目は輝き陰鬱な光となっていた。何か思いついたのか、大きく息をし酒井に視線を投げると、応えるように愛撫の眼差しを返してきた。
お前の情報が役に立っている。こんどこそ、奴をぶちのめしてやる。今夜もまた、褒美をくれてやるからな。田口の視線が弥生の胸元に食い込んでゆく。
「ああ…」小さな吐息が弥生の口から漏れた。そして目と目の会話が続く。
馬、馬鹿。あなたの視線が私を犯しているの。ああ、感じるわ。止めて、これ以上責められたら、耐えられなくなる…。
そうかい。お前が自制できずわしに飛びついては、えらいことになるからこれまでにしておこう。後は今夜のお楽しみだ…。
ええ、嬉しいわ。だって、あなたが欲しくて仕事が手につかないんだもの。
なにを朝から悶えている。まだ一日は長いぞ、我慢しろ。
そんな密事を、視線で連想し合っていた。
おといけねえ、脇道に逸れたぞ。これ弥生、いい加減にしろ。わしは今忙しいんだ。憎っくき正木を叩く秘策を練っているからな。それにしても弥生よ、よくやった。お前のおかげで叩きのめす策が出来そうだ。正木、待っていろ。地獄へ落してやるからな。
田口の執念は異常だった。酒井との情事の激しさと、これから仕掛ける謀略が、頭の中で渦巻いていた。その真剣さは尋常でない。それだけ、正木に対する執念が支配していたのだ。夕方近くになり、ようやく策略が整う。
さて、これくらいにしておくか。まあ、二、三の計画を立てておけば万全だ。後は何時仕掛けるかだ。まずは、気象予報課の動きを利用して進めてゆくか。
思考はそこで止める。策謀に自信が満ち笑みが零れた。
わしを陥れ、己の欲望を満たそうとする不届きな野望を打ち砕き、正義の鉄拳として奴の悪行を暴き罰を受けさせるのだ。綿密に計画し実行に移す。さもありなん。あの屈辱を味わった後、仮面を被ぶり心を入れ替えたように振舞ってきた。
これも策略がばれぬよう、注意を払ってのことだ。奴らは、そんなわしに警戒心を解き、仲間のように振る舞っている。着々と近づく危機も知らずによ。一度策を講ずれば、どのようになるか覚えておくがいい。わしの執念は、腹の中でぐらぐら煮え滾り噴火寸前であることをな。
暫らく机に両肘を付き、掌に顎を乗せ思惑に耽っていた。弥生にしてみれば田口のその様子が、今夜の情事に手の込んだ秘技を考えているものと勝手に解釈する有様で、そう思うと余計身体が火照った。ついと腕時計を見る。午後四時三十分を指していた。
仕事が終わるまで、あと一時間三十分もあるわ…。
待ち切れぬのか火照りが増すと、下半身がむずむずとこそばゆくなる。
まあ、嫌だ。 思わず腰を振った。そんな浮つきを、田口がちらりと覗う。
うむ、弥生の奴。もう興奮して、その気になっているぞ。おっといけねえ、他人のことは言えねえや。俺自身も疼いてきちまった。
田口は上気する気持ちを静めようと、大きく息をした。そして改めてパソコンに向うが、どうも気乗りせず仕事が手につかない。すると、そこへ正木が現れる。
「あの部長、お忙しいところすいませんが、これから夕方発表の最終予測データの打ち合わせを行いたいのですが。ご都合は如何でしょうか?」
「そうだったな。ええと、今何時かな…」
田口はついと忘れていた。慌てて思考しだす。
待てよ、こんな会議をまともに付き合ったら二時間はかかる。まずいぞ、弥生との約束が六時だ。間に合わなくなる…。くそっ、もっと早く持ってこんか。この野郎、わざと遅らせ弥生との情事を妨害する気だな。
腹の中で貶しつつ尋ねる。
「正木君、それなんだが。予報発表は何時だ?」
「はい、夕方といっても午後六時半でございます」
「そうかそれじゃ、直ぐに始めよう。私もちょっと約束があって、五時過ぎには社を出たいんだ」
「そうですか、それであれば一時間ほどしかありませんね」
「そうだ、どうしても遅れるわけには行かん先客があってな」
「わかりました。最終チェックですので掻い摘んで説明し、ご了承頂ければ結構かと存じます」
「悪いね、時間がなくて…」詫びるが、腹の中で憤る。
くそっ、この野郎。わざとらしく、わしの情事を邪魔しおってふざけるな。と言いたいが。まあ、ここで化けの皮が剥がれては、今まで苦労した甲斐がなくなる。ここは我慢だ。いずれ見ていろ、ぎゃふんと言わせてやるからな。胸中で嘯き、そして告げる。
「それじゃ、直ぐやろう。場所はどこかね?」
「はい、六階会議室を押さえてありますので、ご同行致します」
「わかった。君は課員と先に行ってくれ。わしはトイレに寄ってから行く」
「承知致しました」正木は会釈し下がった。田口は用を足しながら、弥生に電話を入れる。不安そうな一声が、田口の耳に入ってきた。最初はよそ行きの声である。次にそれとなく確認する仕草。周りの同僚に聞かれまいと気づかう様子が伝わってきて、田口が宥める。
「弥生、心配するな。聞いていたと思うが、あんなもの小一時間あれば片づく。いや終わらせる。それにしても正木の奴、わしらのことを邪魔しているんじゃねえのか」
「は、はい。そのようでございますね」と弥生のよそ行きの声。
田口が応じる。「今夜のお前との契りを妬んでいるんだ」
「はあ、そのようなことは存じませんが…」
「うむうむ、それでいい。他の奴らに気づかれんようにな」
「ええ、わかっております。ところで先日お約束頂きました件は、ご履行頂けますでしょうか?」
「おお、当たり前だ。正木なんぞに邪魔されてたまるか。お前の方も準備は出来ているだろうな」
「ええ、もちろんでございます。ご履行頂けること確約頂きまして有り難うございます」
「ううん、今夜は寝かせねえぞ。思いっきり可愛がってやる」
「まあ、そんなこと言って…」ついと本音が漏れた。慌て田口が注意する。
「おい、駄目だ。そんな言い方しちゃ、ばれちゃうじゃねえか!」
「失礼しました。それでは、その件宜しくお願い致します。失礼します…」
弥生が高ぶる気持ちを抑え受話器を置くと、澄まし顔で田口がトイレを出て、六階会議室へと向った。
とにかく内容はどうであれ、わしの楽しみを遅らせるわけにはいかん。適当に指示し、万が一予測が外れれば、奴の責任にすればいい。ちょうど弥生が調べた資料で転化方法も出来ている。こんな時役立つものよ。それにしても、もっと早く始めればいいものを。愚図野郎はこれだからいかん。
そんなことを考えつつ、席へ着いた。
「さあ、始めよう。課長、簡潔にしてくれんか。今日は五時に外出せにゃならんでな」
そう促されると、正木が説明しだす。
「はい、わかりました。それじゃ、皆、私が概要を説明する。補足説明があれば、終わった時点で頼む。それでは、ご説明申し上げます。今夜六時三十分の天気予報ですが、停滞前線が弱くなり、太平洋高気圧の勢力が強まり…云々。概ね晴れるものと思われます。部長、このような予報内容にしたいと存じますが、如何でしょうか?」
「うむ、そのようだな。それで、過去の九州地方の梅雨明けはどうだったかな。ここ五年間の宣言日を述べてみよ」
正木の発表内容など、さわりしか頭に入らぬと言うか、ほとんど上の空だったといってよい。それもそうである、心中は午後五時以降の弥生との密技の方に向いていた。正木が答える。
「はい、九州方面の梅雨明けですが。平成十二年が七月十九日、十三年が七月二十一日。それに十四年が…」
「おいおい、そんな細かく言ってどうする。平均値でいいんだ。簡潔に答えてくれればいい。先ほど言っただろう」
「はい、申し訳ございません。平均値で申しますと、七月二十日となります」
「そうか、そんな早かったかな」
「は、そのようになりますが…」
「うむ、まあ今夜の気象予報的観点からは、さほど視聴者の感心には影響せんと思うが、中、長期的視点から視れば、やはりこのところは重要な位置づけになるな」
「と申しますと…」
「なんだ、君。そんなこともわからんのか。視聴者の立場から考えてみなさい。梅雨時の心境をな」
「は、はい」
「そうだろ、二ヶ月以上もじめじめした日が続くんだ。それは九州地区の人だけではない。全国の視聴者の感心の的になるはずだ。わしにしろ君らだって、この時期になれば梅雨明けを期待するだろう。なあ、皆!」
「ええ、ごもっともです。俺、いや私などこの鬱陶しい気分を早く解消したいですからね。おそらく視聴者全員、そう願っているんじゃないですか」
吉田が同調すると、得意気に及ぶ。
「そうだろう、正木君。ここが重要なんだ。視聴者がどのタイミングで、なにを期待しているか。ここいら辺んを的確に捉え、気象予測に反映させる。わかるね、わしの言っていることが」
「はい、部長のおっしゃる通りだと思います」正木が応えた。
「そうか、わかっているならいい。その考えが最終原稿に入っているかだ」
田口が親切に指導するつもりで言うと、「は、はい。そこまでは入っておりませんで、早速取り入れたいと存じます」
鼻につくような正木の返答に、田口は一瞬昔の己に戻りそうになった。
なにを調子のいいことを抜かしやがる。そういう返事が屁理屈というんだ。まったくもって、高く留まりやがって…。
思わず口に出かけ止めた。
おっと怒鳴っては、積み重ねてきた計画が台無しになる。
ぐっと耐え頷く。
「そうか、それであれば宜しい」
「はい、有り難うございます。梅雨明けの件につきましては、先ほどの内容で発表させて頂きます」
「うん、それでいい。それにだ、今夜から明日にかけての発表内容だが、君の考えとしては大丈夫だろうな」
「ええ、全員のコンセンサスを得た予測ですので、まずは外れることがないと考えます」
また、傲慢な言い回しに聞こえ、田口はカチンとくる。
なんだこの言い方は。まるで、わしの意見など要らぬという態度ではないか。まったく、何様だと思っている。たかが課長ごときで連勝が続いているからと、この態度。今に思い知らせてやる。このわしを蔑ろにしていればな。うむ、我慢しろ。こいつの挑発に乗ってなるものか。今、陥れられれば築いてきた謀略が瓦解し、水の泡と化してしまう。
憤る気持ちを抑えようと、田口がぐっと下っ腹に力を入れた時、「ぷっ!」と思わず屁が出て悪臭が漂う。
「ああ…」
よもやの出来事に、皆、唖然とする。
「あいや、すまん」田口が面目なさそうに頭を掻いた。
「いいえ、自然現象ですから…」
正木が曖昧なフォローをした。皆の顔に苦笑いが生じるが、場合が場合だけに懸命に耐えていた。気まずそうに田口が詫びる。
「悪かった。議論白熱している時に、水を差すようなことをしでかし許してくれ。じつは昨日食ったものが腹に合わなかったのか、昼間から腹の調子がよくないんだ。本当に失礼した」
「いいえ、いいんです。さあ、部長の退席まで時間がない。急ぎましょう」
正木が急かす。
「おお、そうしてくれるか」
田口の頭に上っていた血が引いた。
「それでは部長が危惧されております、今夜の気象予測ですが、…赫々云々」
正木の説明が終えるも、田口は聞いていなかった。時間が近づくにつれ、弥生の裸体が脳裏に浮かび怪しく蠢き出した。すると下半身が疼き、思わず片手で押さえていた。
「…と言うことで。部長、今夜の予測内容について、私どもが責任をもって発表させて頂きます」
その時、正木の「私どもが責任を持って」の言い回しに、田口ははっと我に返る。
ううん、言ったな。こいつ、とうとう言いおった。この言質を忘れんぞ。今夜の予報が外れた時、大いに使えるわい…。
胸中でほくそえみ、おもむろに確認する。
「そうか、君らの努力の結晶だからな。そりゃ、自信があるだろう。わしも予測が外れんことを期待するよ」
すると、吉田が自信有り気にしゃしゃりでる。
「ええ、お任せ下さい。連勝記録を更新してゆかねばなりません。そのために、あらゆる資料と気象衛星からの最新データを細かく解析し出した結論ですので、そりゃ自信があります」
「そうか、吉田君。頼もしいな。それに課長を筆頭に森下君、横山君らが結束しているんだ、心配はしておらんよ」
「有り難うございます」
森下が笑顔で返した。最終原稿の許可が出たところで、田口が腕時計を覗き込むと、すかざす正木が促す。
「部長、まだ五時前ですが目途がつきましたので、先約の方に行かれては如何ですか?」
その勧めに、調子よく合わせる。
「そうだ、接待は遅れるわけにいかんからな。先方より早く行き、迎えるのが筋というものだ。それじゃ、お言葉に甘えようか」
「そうなさって下さい。後は我々が原稿内容に誤記がないか、再点検し提出しておきますから」
吉田が促すように告げた。田口にしてみれば、こそばゆいものがある。接待などあるわけではない。口から出まかせで、目的は弥生との密会である。後ろめたい気もするが甘えた。
「それじゃ、そうさせて貰うよ。正木君、後のことは任せたぞ」
急く気持ちを悟られぬよう、おもむろに会議室を後にする。社外に出るまで尤もらしい顔でいたが、タクシーに乗り込むと急に表情が崩れた。
こりゃいい、六時に待ち合わせとなれば一時間ちょっとある。六本木まで行っても五十分ぐらい余る。そうだ、サウナに寄ってひと汗流してから、迎えるとするか。その間にマムシドリンクで精力をつけておこうぞ。
にんまりし、さらに嘯く。
今夜は特別ねっちりと可愛がってやるか。おお、もう下半身がこそばゆくなってきた。これ息子よ、今からエキサイトしてどうする。先は長いんだ。途中で息切れせんよう頑張ってくれよな。
下半身を叩くと、びくんと返してきた。
あいや、頼もしい返事だぜ。
田口はサウナに立ち寄り午後六時に、何時ものイタリアンレストラン「アタッチェア・イタリアーナ」で弥生を迎える。会ったその時から、すでに弥生の瞳は潤んでいた。田口の目に映る胸が眩しく感じ、揺れる尻がさらに情欲を誘った。
小一時間ワインを飲み食事を取るも、二人の気持ちは次が気になり場の雰囲気を楽しむ余裕なく、酒の酔いとこれから臨む期待に益々上気していた。そして、交す言葉もぎこちなく、弥生の鼻を鳴らす回数が増えていた。
田口もはやる気持ちを抑えようと幾度も空咳をし、弥生の胸元が広く開いたワンピースから、はみ出る乳房に目線を投げては生唾をごくりと鳴らした。すると刺激を受けてか、彼女が胸を揺する。田口が情欲を抑え切れず、思わず声を漏らす。
「弥生…」
酒井が反応し、紅色に染まる潤む瞳が甘く誘う。
「崇史…」
二人は我慢できなくなっていた。抑え切れぬ衝動が両者を襲う。テーブルの下で足が絡み、田口の片手が内股へと伸び彼女の太ももを弄り始めた。触れられる弥生は身体を硬くするが、呼び込むように指先を導き入れていた。弄る動きが早くなると、彼女の顔に快感が表れ、周りを気にしてか身体をよじる。
「もう駄目。ここじゃ駄目よ…」
「おお、ここで悶えられたらまずいな」
「ううん…」
「それじゃ、そろそろ出ようか」
黙って弥生が頷いた。待ちきれぬのか、二人はそそくさと店を出てタクシーに乗り、常泊の道玄坂のホテルへと向かった。
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