四節
翌日、田口は始業時間ぎりぎりに出社した。昨夜の情事は満足したが、それで正木への憎しみが消えたわけではない。それよりも、意に従わぬことへの憤りが蘇えり、さらに憎悪感が増し昨日と同様に愚痴る。
あの野郎。立場もわきまえず、局長の前でぬけぬけとほざきやがって。思い出すと忌々しい限りだ。よくも俺の顔に泥を塗ってくれたな。おかげで面目丸潰れだ。それだけじゃない、奴らのせいで、副局長昇進も見送られてしまった。この恨みは必ずはらしてやる。
黙想する顔が歪になっていた。
自棄酒の残りか精力の使い過ぎか、ひん曲がった顔は蒼白く疲労感が浮き出るなか、怨念による奇相が滲み出ていた。部下たちが出勤し田口に挨拶すれど、返事も返さず一点を睨む異様な様相に薄気味悪いのか、はたまた災難を避けようとしているのか神経を尖らせていた。
始業のベルが鳴る。
朝礼が始まり朝礼当番が号令をかけるが、田口は仏頂面でじっと座ったままでいた。当番の女性職員がちらりと覗うが、無視し動こうとしない。やむなく今週のモットーを読み始めると、田口が急に立ち上がり皆を睨みつけた。驚いたのは当番で、小さく「きゃっ」と発し読むのを止めてしまった。一瞬、静寂が起きる。すると、田口が大声で吠える。
「おい、横峯。なにをぼさっと突っ立っている。昨日指示した奴の失態を洗い出してきたか!」
怒鳴られた庶務課長の横峰は驚いた。急に言われても、事前に指示されたわけではない。
「はあ…」
返事が出来ずうろたえた。
「なんだ、その態度は。調べたか聞いているんだ!」
二の矢が飛んできた。
「は、はい。いいえ、まだ調べておりませんが…」
尻切れトンボのように詰まった。
「なんだと、なにを仕事している。日頃言うことを聞いておれば、それくらいわかるだろ。それをのほほんとしているから駄目なんだ!」
恫喝する声だった。
「す、すみません」
横峰が深々と頭を下げた。周りの皆も、次は己に矛先が向くのではと萎縮し、顔を上げようとしなかった。もちろん、横峯を庇う者はいず、災難が降り懸ってはたまらずとそっぽを向いていた。すると、さらに田口が怒鳴る。
「横峰、なにをぼさっとしている。直ぐに調べてこんか。この馬鹿者が!」
「ひえっ!」横峰は奇声を発し、目の玉がひっくり返るほど動転し、その場にへたり込んた。
田口がそれを見て、かっと目を剥く。
「なんだ、その態度は。わしに逆らう気か。さっさとやらんか!」
「うぐえっ、申、申し訳ございません!」
発しつつ自席に着き、パソコン画面を見やう。そこへ田口の激が飛んだ。
「馬鹿が。パソコンなんぞ見ていず、人事でも総務でも行って来い!」
「う、ひえっ!」起立し、椅子を蹴散らし出て行った。
職員たちはさらに萎縮し、皆膝が揺れ、女子職員の中には泣き出す者も出ていた。ぶすっとした田口が、泣く職員を睨みつける。
「おらっ、何時まで泣いているんだ。さっさと仕事しろ!」
皆の背筋がぴんと伸びた。
「まったく、どいつもこいつも役に立たん奴ばかりだ」
ぶつぶつ呟き、ぷいっと部屋を出て行った。田口がいなくなると、皆が様子を覗いながら安堵したのか、ぐだっと椅子にもたれた。誰も無口になる。陰口など叩ける状況にない。何時部長が戻るか気になり、共通して仕事に身が入らなかった。
朝の始業開始直後の出来事である。
皆、出鼻を挫かれ苦い汁を味わった。だからと言って、緊張感が消えたわけでなく、異様な雰囲気に包まれていた。
小一時間が経った。何処へ行ったのか、田口は戻らない。そのうち、その緊張感に耐えられなくなった一人の女子職員が、蒼白な顔で吐き気を催し、トイレへと駆け込んでいた。
飛び出した横峰が何処へ行ったのか、気にかける者などいない。そんなものに係わればどうなるか、考えれば自ずと捜すことを避けた。
二時間が過ぎても部長が戻らぬと、その緊張感も徐々に薄れた。すると、事務職の田代が口を開く。
「ねえ、皆川さん。さっきの部長、すごかったわね。びっくりしたわ。だって、尋常じゃないもの」
「そうね、それにしても横峰課長、気が狂ったみたいに出たっきり戻らないけれど、どうしたのかしら」
「わからないわ。それより部長、恐ろしい顔して怒鳴るんだもの。なにかあったの。普通じゃないわよ」
「あのさ、噂によると。どうも例の件、駄目になったみたい」
「例の件って?」
「あら、知らないの。局長から副局長の内定を貰っていたけど、それが役員会で見送られたみたいよ」
「ええっ、本当!」
「本人、その気になっていたのに、それが駄目になったんだ」
「それじゃ、荒れるのも当たり前ね。それで、あんな風になったわけだ。大荒れじゃない」
「それにしても、内定を取り消された理由ってなんなのかしら」
「だから、横峰課長に当たっていたでしょ。ほら、怒鳴って正木課長の失態を調べろって」
「と言うことは、なによ。正木課長を逆恨みしているわけ?」
「そうらしいわ。だって、何時も正木課長を虐めていたでしょ。一種のパワハラというやつよね」
「そうよ、でも正木課長って真面目だから、誰に対しても正論しか言わないでしょ」
「そうそう、聞いた噂だけど。一昨日、それがあったらしいの」
「なに、それって…」
「うん、どうも局長の前で、部長が課長を咎めたらしいの。そしたら、野尻局長が逆に部長を戒めたんだって。『君は黙っていろ!』って」
「そんなことがあったの。そりゃ部長にしてみれば、媚売っていたのが逆になり、信頼が逸失したというわけね。それが原因らしいわ」
田口がいないことを幸いに、二人は噂話に夢中になっていた。さらに熱を帯びる。
「知らなかったわ。でも、部長にしてみれば副局長昇進を見送られ、その原因が正木課長によると思い込んだら、そりゃ恨むわよね。それで横峰課長に八つ当たりしているんだ」
「でもさ、私から言わせればいい気味だと思うわ。予報課の今までの実績からすれば、わがテレビ局でも快挙ですもの。誰がそれを指導しているかといえば、部長じゃなくて課長ですもの」
「そうそう、その成果をただ取りしているのが部長でしょ。やはり局長は偉い。その辺をちゃんと見抜いているのよ。それで、田口部長にお灸を据えたんじゃない」
「案外、そうかもしれないわね」
「それだったら、昇進見送られて当然でしょ。むしろ、正木課長を部長に昇格させればいいのよ。他局だって真似の出来ない成果を挙げているわけだし。それを部長ったら、さも自分が指導したように方便しているから罰が当たったのよ」
「そりゃそうだ。今日だって、なあにあの態度おかしくない。偉ぶり怒鳴るのではなく、導かなければいけない立場でしょ。それを逆恨みするなんて、本末転倒だわ。見送られて当然よ。ざまあ見ろって言いたい気分よね」
緊張感など消え、お喋りに花を咲かせていた時、ぬうっと田口が戻ってきた。憮然とした表情で部員たちを睨む。皆ぎくっとし口が止まり緊張感が走ると、重苦しい空気に覆われた。
そこで突然、田口が吠えた。
「横峰の奴、何時までもたついているんだ!」
ぐるりと見渡し、田代のところで止める。
「田代君」
「は、はい!」驚き背筋を伸ばした。
「君でいい、横峰を捜し連れ戻してくれんか」
田口の慇懃な低い声に、田代は息が詰まる思いで応える。
「は、はい。わかりました…」それ以上続けられず、喉が干からび、ひりひりと痛んだ。
「…」
「どうしたんだ、田代君。忙しいところすまんが、横峰を連れてきてくれ」
「は、はい…」
「総務か人事辺りにいるだろう、頼むよ」
上目遣いで、立ち尽くす田代の胸に舐めるような視線を這わせた。すると、その矢じりが突き刺さり身震いする。
「行、行ってきます」逃れるようにして、そろりと席を離れた。
田代の揺れる尻に田口の視線が鋭く突き刺さる。緊張し足がもつれるが、好色の視線から逃れるようと部屋を出た。すると、田口がなにを思ったか、ついと立ち追いかけ部屋を出て、田代を呼び止める。
「田代君、ちょっと待ちたまえ」
ドキッとして立ち竦む。そこへ近寄り耳元で告げた。
「横峰など捜さんでよい。どうだ、今晩食事でもせんか」囁きつつ、豊満な尻を触り出した。田代は金縛りにあったように、されるがままに受けていた。
田代は首筋に吐息をかけられ、催眠術をかけられたように短く返事した。
「は、はい」
「うむ、それじゃ午後六時に局裏で待っているんだ。車で迎えに行くから。そうだな、イタリア料理の店がある。そこへ連れて行ってあげよう」
「はい、わかりました」
執拗な弄りに、蛇に睨まれた蛙と化していた。
「それじゃ、私はトイレへ寄ってから席へ戻る。君も形式的に人事部へでも行き、時間を潰してから戻りなさい」
さらに田代の尻を強く弄り離れた。呆然と見送る田代が、暗示にかかったように人事部の方へと歩いていく。何食わぬ顔で田口が戻り、一つ咳をした。
「これから永田町の議員会館へ行ってくる。参議員の溝口先生に座談会報道の打ち合わせをし、その足で接待するから今日は戻らん。横峰が帰ったら、例の件を整理しておくように伝えてくれんか」
「はい、かしこまりました。ご、ご苦労様です」
阻喪のないようにと、緊張した面持ちで皆川が応じた。
「それじゃ行ってくる」そう言い残し田口が部屋を出た。暫らくして田代と横峰が戻ってきた。横峰の顔は青ざめ、魂の抜けた蝉殻のような風体がどかっと自席に腰を下ろした。続く田代もまた、何時もの様子でない仕草で座り、パソコンに向っていた。
「あの、横峰課長。部長が…」と皆川に声を架けられた途端、横峰がぎくっと狼狽え視線がさ迷う。
「田、田口部長が、議員会館に行き戻らないとおっしゃっていました。それに正木課長の件、纏めておくようにとのことです」
緊張気味に皆川が伝言すると、横峰は戻らぬと聞くや慄く顔が薄笑いに変った。今居ないこと、それに戻らぬこと。両方の言葉に安堵したのか、また急場を凌いだのか、応える変わりにふうっと息を吐いた。
いずれにしても、どこをさ迷っていたのかわからぬが、田代に連れられ戻ったのだ。横峰にしてみれば、正木の失態を調べろと厳命されても、情報などそう簡単に得られるものではない。人事部、総務部へと行くが教えて貰えなかったし、あろうはずもなく、結局、総務部の外でぼうっと座り込んでいたのを田代が見つけ連れ帰ったのだ。
横峰は張り詰めた神経が切れる寸前だった。おそらく、田口の凶悪な視線をふたたび浴びれば、電球の玉が切れるように発狂していたに違いない。それが、田口が戻らぬことで、一時的にせよ回避できた。その薄笑いは束の間の安堵の笑みだった。横峰の現状は、羅針盤を持たず荒海に漕ぎ出たようなもので、ひと時の凪に過ぎない。
定時近くになっても、なんの手掛かりも掴めずにいたが、残業してまでやる気力がすでになかった。呆然と座る横峰の姿は薄気味悪いほど生気が失せており、課員らが声をかけられる状況にはない。逆に係わりを回避するように、部下は仕事の殻に閉じこもっていた。
終業のチャイムが鳴った。すると横峰がぬぼっと立ち、挨拶もせず部屋を出ていった。誰も「お疲れ様です」の挨拶などしなかった。そして、庶務課の課員たちが、横峰を見るのはこれが最後だった。
翌朝の朝刊の三面記事欄に、「疲れ果てた中年サラリーマン、ホームから飛び込み自殺?」のタイトルが踊り、「昨夜、午後十時過ぎ頃。西国分寺駅下りホームで、泥酔状態の中年サラリーマンがよろけ線路に落ち、入線した高尾行急行電車に轢かれ即死…」。ちょうど、ホームにいた自営業者風の男性のインタビューが記載され、「泥酔してふらふらと、なにかに取り憑かれたように線路に入って行ったんです」と証言し、「悩みごとの多い中間管理職じゃないですかね」と、感想が記載されていた。「八王子市に在住の横峰俊郎さん、五十二歳。勤務先は東都テレビ報道局の庶務課長。日頃の仕事のストレスが積り精神的に追い詰められた結果、酔いも手伝って発作的に飛び込んだのか…」との記事が載っていた。
この一報は、昨深夜に局長の耳に届いていた。直ぐに所属長の田口に連絡するが自宅にはいず、スマートホンも繋がらず連絡が取れなかった。局では蜂の巣を突ついたような騒ぎとなった。当然正木にも連絡が入る。正木は驚いた。直ちに局長から所在を尋ねられた。
「田口君に連絡がつくかね。こちらでも手配しているが、連絡が取れんのだ。こんな時に困ったもんだ。君の方からも、部長に連絡を取ってくれ。取れ次第、部長から一報するように」との指令が飛んだ。
正木も課員たちに非常事態を伝え、あらゆる方面に連絡を取るよう指示し、局長の下へと馳せ参じた。正木が報告する。
「念のため、家族の方にも所在を確認しましたが分からず、誠に申し訳ございません。まだ連絡が取れませんので、今暫らくお待ち下さい。私も自席に戻り、課員たちからの連絡を待つことにします」
「なに、正木君。君のところの課員は、まだ帰っていないのか」
「はい、申し訳ございません。予測の最終原稿チェックが終っておりませんで。本来なれば今日中に部長の許可を頂きたいところなのですが、お帰りになられておりまして、私どもで最終チェックを行っていたものですから…」
「そうか、それでどうなんだ。チェックの方は。明朝の定時番組に出すものだろ?」
「は、はい…」
「それじゃ、田口君がいなけりゃ駄目じゃないか」
「はっ、申し訳ございません」
「それは困ったな」
「いいえ、なんとか我々の手で行います」
「いや、待て。それじゃ、万が一外れた場合は君の責任になるだろう。それに部長の専決事項だぞ。それを君は分かっておるのか」
「存じております。それは覚悟のうえです。なれど、今日中に済ませませんと間に合いませんので…。ですから、その万が一の確率を最小限に抑えるため、課員全員が頑張っているのです」
「分かった。それで何処まで出来ているんだ」
「はい、チェックの後半でありますが、それどころではございません。我が東都テレビから死亡者が出ているのです。それも同僚です。今やらなければならないのは、局長が厳命された田口部長を探すことです。ですので中断し全員が捜しに出ておりまして、続きは見つかり次第やる予定です。まだ放映オンまで七時間ほどありますから」
「なんと、君たちは寝ないつもりか!」
「はい、もとより覚悟しております」
「何を馬鹿なことを言っている。君らの仲間から、過労死でも出たら大事になるじゃないか!」
「ご心配は、無用に願います。我ら課員全員は業務に命をかけております。このくらいのことでへたばれません」
訴える目は凛と輝き、口調も熱を帯びていた。
「うむ…、わかった」
局長が頷き指示する。
「それなら君がチェックに当たりなさい。君の部下との連絡は私がやろう。それで終えたら持ってきなさい。これは業務命令だ。わかったな」
「有り難うございます、感謝致します。それでは戻りまして、その旨を伝えます。失礼します」
会釈をし退席する。正木は嬉しかった。局長の気遣いに感謝した。
それから間もなく、第一報が野尻に寄せられた。吉田からである。二報目は森下、それに横山が続いた。いずれも行方がわからないだった。それでも懸命に捜す様子が電話を通して伝わり、野尻は感銘を受けた。
我が局にこれほど結束がとれ、たった一度の指示で懸命に行動している者がいようとは。うむ…、大した奴らだ。それに、正木君の統率力…。
午前零時を回っての吉田たちの報告も、成果を上げるものはなかった。午前一時を過ぎ、森下から妙な情報がもたらされた。野尻は耳を疑う。
「なんだ、本当か!」一瞬言葉が詰まり、指示が途切れる。それほど驚愕する内容だった。
ううん、なんと言うことだ。まさか田口君が、そんなところから出てくるとは。それも我が局の女性と一緒に…。
野尻は絶句した。電話口でのうろたえる様子に森下が戸惑う。
「局長、まだ部長と決まったわけではありません。私の友人が、それらしき人が出てきたというだけで、直接私が見たわけではありません」
「そうか、君が見たのではないのか…。ええっ、ちょっと待て!」
「はあ、なんでしょうか?」
「…と言うことは、君たちは課員だけで捜しているのではないのか?」
「はい、そうですが。それがなにか?」
「そこまでして、田口君を捜しているのか…。我が社のために、関係のない人たちまで応援してくれるなど、一大事とはいえ誠に申し訳ないことだ」
「いいえ、いいんです。私たちにとっても、大変な出来事ですから。日頃応援してくれる仲間の手を借りているんです。心配なさらないで下さい」
「なんと頼もしいことを言ってくれるな。森下君、感謝する!」
「でも、駄目なんですよね。あれだけ説明したのに、疑問符がつく情報ですから。少し叱り飛ばしておきました」
「あいや、なんということをする。それでは情報をくれた人に悪いじゃないか。一生懸命捜していると言うのに」
「いいや、いいんです。私の仲間は、皆、鈍感な奴らばかりですから。尻を叩かないと駄目なんです」
「ううん、君。一人じゃないのか、手伝ってくれているのは、どれだけいるのかね?」
「少ないんですが。五人ほどです」
「な、なんと。そんなに大勢の人たちが!」
またもや絶句する。
「私なんか、少ない方ですよ。吉田君なんか、七、八人は駆り出しているんじゃないですか?」
「なにっ、本当か。それは驚いた。いや、失礼した。しかし、君たちは大した社外のネット網を持っているな」
「はい、お褒め頂き有り難うございます。これも私たちの課長が、日頃諭してくれる指導があればこそです。『友達から頼まれごとがあったら、手を抜かず助けになってやれ』と何時も口酸っぱく言われていて、耳にたこが出来るくらいです」
「そうか。正木君は、何時もそんなこと言っておるのか」
「そうなんです。今回だって、『後は俺がすべてやる。だから頼む、部長を捜し出してくれ。これも横峰課長のためであり、強いては社のためだから』と言って送り出してくれました。だから、気兼ねなく捜索が出来るのです」
「うむ、そうか…」
驚愕すると同時に、改めて感心した。そんなそばから森下が告げる。
「それじゃ、局長。今一度檄を飛ばしに行って参ります。今度ご報告する時は、必ずや部長を連れ戻しますので、失礼致します」
「そうか、くれぐれも気をつけてくれ。でも、随分時間が遅くなっているから、無理するんじゃないぞ」
「はい、わかりました」
森下からの電話が切れた。すると続いて、吉田から連絡が入る。
「局長、申し訳ありません。私の力不足で、今だ所在が掴めません」
「吉田君、無理するな。頼むから君の仲間に檄を飛ばし過ぎないようにな」
「ええっ、なんでご存知なのですか?」
「いいや、森下君から連絡が入った時に教えて貰ったんだ」
「そうですか…」
言葉が切れた。
「どうしたんだ、吉田君!」
「いいえ、なんでもありません。これだけ捜しても見つからず、己の力不足が歯痒くてなりません」
「なにを言う。君らのお陰で、こうして横峰君のために頑張ることが出来るんじゃないか!」
「そう励まされると元気が出ます。局長、申し訳ございません。つい、弱音を吐きまして。もう一度原点に戻り捜してみます。そうだ、いま一度渋谷辺りで総動員をかけてみます。それでは失礼致します」
「あまり無理するな。君らの頑張りは、今までの捜索で充分わかった。私こそ君たちに感謝せねばならん」
スマートホンを握り、深々と頭を下げた。正木が午前二時頃、チェック済の原稿を持って局長室へきた。
「局長、申し訳ありません。任せっぱなしに致しまして」
「おお、出来たか。それじゃ、ちょっと見せてくれ」
受け取った原稿に野尻が目を通す。
「…うむ、これでよい。今朝はこれで行こう。後は私が責任を取る。それでだが、君の部下たちから情報が入っている。一つは森下君からのもので、まだ確定出来んが。田口君が、じつはホテルから女性と出てくるところを目撃したというものだ。ただ、彼女自身が見たわけでなく、友人からの情報だと言う。確定できないから、再度あたると言っていた」
「そうですか、田口部長に限って、そんなことはないと思いますが」
「それがだ。その女の方が、また問題なのだ」
「と、申しますと?」
「いや、なんだ。君も知っている女性だ」
「えっ、それは…」
「私も、本人に確認してみんとわからんが。もし、それが事実なら。横峰君のこともあるが、さらに問題が大きくなる。まあ、これも私の監督不行届きということになるが、それは後で責任を取れば済む。まずは、田口君を見つけ出すことが第一優先だ」
「局長、それでは私も捜しに行って参ります」
「なにを言う。今何時だと思っておる!」
「はい、午前二時半でございますが。とにかく一刻も早く捜さなければなりません」
「気持ちはよくわかった。それに君の部下たちにも感謝せねばならん。君に命ずる。即時撤収するよう指示を出したまえ。それに、局に戻らんでよい。自宅に帰るよう伝えるのだ!」
「で、でも局長。それでは時間遅れになるではありませんか。一刻も早く捜し、対応策を立てなければならないのではありませんか。局長とて、社長や会長に状況報告と対応策を示さねばならず、朝一番には記者会見を社長に行って貰うわけですよね。一刻の猶予もありません」
「わかっている。わかっておるが、これ以上、君の部下に迷惑をかけるわけにはいかんのだ。だから、引き揚げさせてくれ。あとは私が報告書を作る」
「待って下さい。今一度、私に捜させて下さい。いや、私が出ては行きません。もう一度課員たちに連絡し、最新の情報を集めます」
「…」
野尻は黙って聞いていた。
「それらを基に、対応策を取り纏めるべきです。一時間下さい、お願いです。局長、ご決断を。時間がありません!」
正木が懸命に訴えると、野尻が折れる。
「わかった。君らには苦労をかけるが、社のためだ。それでは頼む。私も、自分なりに調べるから」
「それでは、今午前三時半ですので。四時半にこちらにお伺い致します」
「正木君、有り難う。感謝する」
正木は局長室を出た。一時間があっという間に過ぎる。東の空が薄明かりを帯びていた。正木と課員全員が局長室へやってきた。
「おお、皆。ご苦労様!」
野尻が頭を下げ迎えた。すると、正木が制止する。
「局長、そんなことをなさらないで下さい。我らは局のため動いてきたのです。それはさておき、課員が集めた情報を纏めましたが、結論として部長に横峰課長の件を伝えられませんでした」
「うむ、そうか…」
「しかし森下君が収集した情報は、ほぼ事実であろうと思われます。ただ、確定は出来ません。従いまして、明日といても今日になりますが。部長が出社しましたら、局長室に呼ばれることが肝要かと存じます。それと、横峰課長が自殺するまでの経緯ですが、…赫々云々でありまして、どうもその辺に原因があるのではないかと推測されます」
「何と言うことだ。そんなことがあったとは…」
聞き入る野尻の眉間に皺が寄った。正木が続ける。
「それに、役員への連絡でございますが。失礼かと存じますが、これから行かれた方が宜しいのではと思います。つきましては、筋書きとしまして…云々。この様な内容で如何かと存じます」
正木が説明を終えると野尻が、「正木君、それに森下君、吉田君、横山君。本当に有り難う」一堂の前で起立し、深々と頭を下げた。慌てて正木が制止する。
「なにをなさいますか。局長、止めて下さい。我が社のために取った行動です」
「そうです局長。頭を上げて下さい!」吉田が叫んだ。
すると、一同を見て野尻が告げる。
「君たちは素晴らしい、有り難う。それで正木君、役員への連絡の方だが、すでに済んでおる。後は午前八時に社長が記者会見することで、段取りも取っておいた」
「そうですか、それはよかった」と正木が胸を撫で下ろす。
「横峰君や家族にはすまんが、社として公表せねばならん」と野尻が沈痛な面持ちで告げた。
「そうですね…」皆の顔が曇った。すると、野尻が告げる。
「いや、『これから自宅へ帰れ』と言っても、直ちに出社せにゃならんが、あとは私に任せたまえ」
「はい!」
同意を得たところで、野尻が場違いなことを提案する。
「おい、正木君。今日の第一発目の気象予報。どうだ、賭けんか?」
正木は驚く。
「えっ、局長。こんな時に、なにをおっしゃるんですか!」
「まあまあ、そう怒るな。こう言う時ほど心に余裕を持たなきゃいかん。どうだ、わしは外れる方に賭けるが、君たちはどうする?」
「あの、局長。それはどういうことですか?」
吉田が口を挟む。
「いやな、君らは最終原稿が途中だったよな。正木君がこれで行きますと僕のところへ持ってきたんで、通り一遍読んでOKサインを出した。これじゃ外れると思うんだ。どうだ俺に乗るか、それとも正木課長に乗るか?」
そう聞かれ、吉田が返す。
「そりゃ、決まってるじゃないですか。私らは何時でも課長の味方ですからね。正木課長に全員が賭けますよ」
「おお言ったな、随分自信ありそうだな」
「そりゃそうです。いくら途中とはいえ、全員で予測しているんですから。なあ、皆!」
吉田が自信有り気に応じると、一斉に笑い声が起きた。
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