三節

日曜日の爽秋の朝、用意した弁当を持ち二人は井の頭公園に来ていた。まだ午前六時では、人気は少なく明るさも今ひとつだ。ジョギングする人とて、寡黙に走り去る。早速二人は、クロの名前を呼び始める。遠慮がちに夏美が呼ぶ。正木は樹木の下にクロの好物の弁当を広げ大声で呼び、さらに一緒に暮らした頃の言葉を添えた。

「クロ、お前の好きな鮭弁当だ。一緒に食ったものを持ってきた。さあ、早く来て食わないか。今頃なら、ちょうど朝飯の時間だろ。近くにいるなら顔を見せてくれ!」

何度も繰り返すが、反応はなかった。

夏美と顔を見合わせる。

「クロったら、ここにはいないのかしら?」

夏美が心配顔になると、正木が慰める。

「まだ始めたばかりだし、野生に戻り一ヶ月も経てば、警戒しているのかも知れない。だいいち、俺の声など忘れているかもな。けれど続けよう。何回もやれば、クロが思い出すかも知れんからさ」

「そうよね、私の声だって、忘れているかも知れないわ」

馴れてきたのか、夏美が大声で呼んだ。

「クロちゃん!居るんだったら、出ていらっしゃい。怖がらなくてもいいの。私よ、夏美。忘れちゃったの。この声を思い出して、心配しなくてもいいの。もしいるんだったら来て、私の肩に止ってちょうだい!

そうよね急に来て、そんなこと言われたって、直ぐには思い出せないわよね。ねえ、クロちゃん!」

懸命に呼びかけた。しかし姿を現さない。三十分が経ち、人がまばらに増えてくる。それでも公園の中を移動し繰り返した。一時間が過ぎ、行き交う人が怪訝な視線を投げるようになった。

「裕太さん、これだけやっても駄目ね。もしかしたら、ここにクロちゃんたちの巣がないんじゃないかしら?」

「ううん、そうだな。今日のところはこれくらいにして、次の土、日曜日に、二日続けてやってみようか。それに朝だけではなく、夕方も試してみるか?」

「と言うことは、二晩あなたのところへ泊まることになるのね」

「そうだが、嫌かい」

「そんなことない…」

夏美の顔が赤らんだ。昨夜のことを思い出してか視線を落とすと、正木が夏美の肩を引き寄せた。

「あら、いけないわ。人が見ているじゃない」

「大丈夫、誰もいないから」

樹木の陰で、熱く唇を重ねた。が、直ぐに離れる。

「あら、いけない。こんなところ、クロちゃんに見られたら大変だわ」

「おっと、そうだった。クロは賢いから様子を伺い、俺たちのことを観察しているかもしれん」

「まあ、どうしましょ。クロちゃん、ご免なさい。これは二人が愛し合っている証なの、心配しないで。あなたにもしてあげるから」

そう言い訳し、正木と共にマンションへ戻っていった。

直ぐに一週間が過ぎた。その間スマートホンで数回打ち合わせ、約束通り土、日曜日をかけて捜すことになった。夏美は前日に泊まり、二人で早朝井の頭公園へと行き、また同じことを繰り返した。やはりクロは現れなかった。次の手として、夕方から夜にかけて試みた。薄暗くなった公園内を呼びまわる。次第に日が暮れ、暗くなっても続けた。反応は早朝と同じである。二人は必死に試みた。真っ暗な公園に、ところどころ外灯が明かりを灯している。その箇所を基点としてクロの名前を呼んだ。小一時間ほど続けたが、まったく反応がなかった。

「駄目だな。もしかしたら、ここにはいないかもな…」

「それじゃ、今度は昭和記念公園で試してみようよ。そこならいるかもしれないわ。だって、これだけ捜しても来ないんですもの」

「そうだな、そっちへ行ってみようか」

肩を落とす二人の影が、公園を離れ家路へと向っていた。

クロに逢おうとする執念は、前日一日かけ捜した疲れなど吹き飛ばした。日曜日の早朝、一番電車に乗って立川駅に降り立ち、急ぎ足で昭和記念公園へと向った。井の頭公園に比べ三倍以上ある公園で、木々がうっそうと茂っている。あちらこちらからカラスの啼き声が聞こえてきた。もちろんカラスだけではなく、他の鳥の囀りもあった。だが二人には、カラスの啼き声が優先する。

「あら、クロかしら?」

「いいや、違う。あの啼き声はクロじゃない。と言うことは、この公園には巣営があるということだ。となれば、仲間同士で連絡し合うことだってある」

二人とも目を輝かせる。

「早速始めよう。もしかしたら井の頭公園で試みたことが、すでに伝わっているかもしれないし、ここで呼べば、ああやって啼き合わせて伝えるかもしれん」

正木は井の頭公園より大声で、クロを呼び始めた。夏美も期待を込め、呼びかける。

「さあ、クロちゃんに伝えて。夏美が来ていると。カラスさんたち教えてあげて。お願い!」

「おお、俺だって。さあ、クロ。俺の声がわかるだろう。飯、持って来たぞ。お前の好きなものばかりだ!」

「クロちゃん、出てきて。あなたの好きな、お弁当を買ってきたわよ!」

「さあ、俺の下に来い。いいや、来てくれないか。あれから一ヶ月経っているが、忘れたわけじゃあるまい。近くにいるなら姿を見せ、俺の肩に止ってくれ。もし、居ないのなら、誰かクロに伝えてくれないか。夏美とここに来ていることを!」

絶叫に近い声で何度も繰り返すが、カラスの啼き声が木々の間で響くばかりだった。

「くそっ、反応がないな。やはりクロはいないのか…?」

「もしかしたら立川の繁華街にでも出かけていて、たまたまこの時間にいないのかもしれないわ」

「そうかな、この公園にはいないかもな。他の場所に巣営を作っていてさ」

「でも、わからないわ。ここは朝だけだもの。井の頭公園で捜したように、夕方から夜にかけて試そうよ。そうしたら、クロちゃんに会えるかもしれないでしょ。だって、他のカラスがいるんだもの。きっとあれは仲間かもしれない」

「ううん」正木が生返事をした。すると、夏美が同調気味に言う。

「そうよ、今日は他へ行っているのよ。裕太が今言ったばかりじゃない。それで私たちが帰った後、聞いたカラスがクロちゃんに伝えるわ。そしたらクロが待っていてくれかもしれない。出来れば明日にでも来たいけど、月曜でしょ。会社に行かなきゃならないから駄目ね。裕太だって同じでしょ」

「うん、仕事は休めないからな。気象予報の仕事、俺がいないと進まないよ。何時か話したことあると思うが、うちの部長は煩い奴なんだ。俺が穴を開けたら、それこそ槍玉に挙げられ、けちょんけちょんに怒られるからな」

「うん、聞いたことがあるわ。随分怖い人ね」

「確かに、『カラスのクロを捜すので休ませて下さい』なんて言ったら、とんでもないわね」

「そりゃそうさ。そんなこと言ったら、『ああ結構だ、休んでくれ。明日だけとは言わない。ずっと来なくていい』なんて、言われるのが落ちだ」

「なによ、それって。クビということ?」

「そうさ、うちの石頭部長じゃ。そう言いかねない。それで人事部へ連絡し、『正木課長が自己都合で退職することになった』と言われちゃう。それも部長の奴、『私は引き止めた。わが社にとって、なくてはならぬ存在だ。どうか留意してくれと引き止めたが、意志が固くて受け入れられなかった。残念でならない』とか言って、俺を悪者にするんだ」

「嫌な部長ね。同じ会社でも、私のいる部署とは大違いだわ」

「そうなのか、でも俺は田口部長の下にいるからどうにもならない。辛いが、君のためにも頑張らなくっちゃな」

「うん、頑張ってね」

「今日のところは、クロに会えず残念だが仕方ない。また次に廻そう。これで諦めては会えなくなるから」

「そうね、何度でも試しましょ。そうすれば、いつしかきっと会えるわ。それまで私も頑張るから、一緒にチャレンジしましょうね、裕太さん」

「そうだな、それじゃ帰ろうか」

二人は後ろ髪を引かれる思いで、昭和記念公園をあとにした。そして月曜日が来た。長い一週間の始まりである。クロに会えぬ気落ちと、二日間夏美と過ごした想いが交差し複雑な気持ちでいた。

予報課は、部長に引導を渡された日から連勝が続いていた。その記録に、課員たちは乗っていた。予測的中の連勝が三週間も続くのは、めったにないことである。むしろ、偉業といっていい。

そんな中で、吉田が些細なミスをした。本人が気づかぬ連勝の中での、気の緩みかもしれない。通信衛星から送られるデータの読み違いをしたのだ。日頃は再確認するが、たまたまし忘れたことが原因である。そのまま翌朝の気象予測とした。事前検討でも、正木の注意が欠けた。再チェックの指示を怠ったのだ。

二重のミスである。そのまま予測の最終点検会議を通り発表されていた。それで、大きく予報が外れてしまったのだ。自然の神様は、ミスを許さなかった。

朝の気象情報で、予報士が天気図を示し「太平洋高気圧が張り出し、晴天が夜半まで続くでしょう。降雨の確率は一パーセントから十パーセントで、帰宅時の傘持参は必要ありません」と発表した。ところが、張り出しが弱く代わりに気圧の谷が進み出て、関東地方を覆い昼頃から雨が降り出していた。その結果、まったく予報が外れたのである。

視聴者からクレームが寄せられた。夕方、反省会が開かれる。もちろん、その前に正木が田口部長に詫びを入れたが、「分かった」の一言で片付けられた。その時に指示されたことがあった。

「何故、外れたのか原因を分析しろ」、さらに「この結果に基づく、今後の対策を作れ」との指示、否、通告だった。それも「一週間、一ヶ月、さらに半年の対策を示せ」との要求である。それを「一時間後の反省会に間に合わせろ」との、無理難題だった。

正木は絶句する。理不尽としか言いようがなく、苦虫を噛み受けた。

「わかりました。至急策定致します…」と語尾が消えた。

「なんだ、その返事は。これは業務命令だ。わかっているな。今回の不始末、ただ詫びればすむ問題ではない。その点、君も管理者だ心得ているだろ。至急、作れ!」

語尾が強かった。

「はい…」

それだけ言い、一礼し下がった。あまりの理不尽に、腹の底から煮え返る衝動が込み上げていた。ぐっと堪え足を早める。自席に着くや、両手の拳を膝の上で強く握り締めるが、ふうっと息を吐き気持ちを切り替える。

逆らっても無駄なこと。やらねば、次の難題が飛んでくる。ここは冷静に行こう。奴の策略に嵌ってなるものか。

正木は、直ぐに課員を会議室に集めた。

「しかし、皆、頑張ったな。これまでの連勝、わが課始まって以来の快挙だ。気象予報史上稀にみる成果と言ってよい。他局でも評判だ。われらの掌る業務は、それほど素晴らしいということだ。だから、胸を張ってくれ。なんでもそうだが、永遠に続くものなどない。勝負の世界でも、勝ち続けることは難しい。視聴率だって高低がある。それを考えれば、負けた時や低視聴率に喘いだ時が、次に繋げるチャンスとなる。

それを考えれば、気象予報課の成果がどれほど素晴らしいものか、誇りに思って欲しい。ただ、ここで重要なのは。敗因の分析とこの記録を乗り越えるにはどうしたらいいかだ」

うな垂れる吉田が、突然起立し皆に詫びる。

「申し訳ない。俺がミスしなければ、連勝記録を止めることがなかったんだ。それも、気の緩みと慢心があったことは事実だ。そのため、チェックもせず提出してしまった。情けない、本当に迷惑をかけて申し訳なかった」

深々と頭を下げた。

「吉田君、それがわかっているなら、課長が言うようにその過ちを二度と繰り返さないために、どうしたらいいかが必要なことじゃない?

じつは、私も反省しているの。自分のことばかり集中して、他の方の仕事のことなど気に止めなかった。チームとして、これではいけないのよね。私だって同じミスを犯すかもしれないもの」

森下が自らを戒めた。

「私だってそうです。皆さんのことなど、考えていなかったです。だって、自分のことで精一杯なんですもの。もう少し努力しなければ、森下さんのようになれないわ」

横山が謙虚に告げた。すると、聞き及ぶ正木が導く。

「そうだな、皆。自分のことだけに目が向いていたことが、単純ミスを引き起こす原因になったんだな。それじゃ、そのミスを防ぐにはどうしたらいいかだ。森下さんが言うように、相互の連携が必要なんじゃないか。なあ吉田君、そう思わないか?」

「ええ、私のミスさえなければ…」

うなだれる吉田を正木が励ます。

「もういい、起きてしまったことは。反省の弁で皆納得してくれた。これからは次の策が必要なんだ。どうだ、吉田君。森下さんの案を叩き台にして、考えてみようじゃないか」

「ええ、そうさせて頂きます」

真顔で応じた。

「吉田君、これから夫々の仕事の相互チェックを、三人で行うようにしてみてはどうかしら?」

森下が、目を輝かせ提案すると、吉田が返す。

「そうだな、三人でのチェックか。それじゃ、そのチェックをどの時点で行うかだ。各自の業務処理状況が違うからな」

「そうね、それが問題だわね」

すると、控えめに横山が発言する。

「いつも私が遅くなる。たぶん相互チェックでも、皆さんに迷惑をかける気がするんですが」

「そうだな。でも、それはいいじゃないか、途中でもさ。互いに自分のペースがあるし、気が急けばミスも起こりやすい。いつものとおり遂行し、それぞれの目鼻がついた時点でチェックする。そして纏め段階で、さらにチェックをかければいいんだ」

「そうね、今までそんなことやらなくても連勝していたんだから大したものよ」

吉田の筋道に、森下が軽口を叩くと皆の顔に笑顔が戻る。正木は嬉しかった。

「皆、有り難う。こうして、一致団結すれば怖いものはない。君たちのお陰で、俺も自信が戻った気がするよ」

「ええっ、そうですか。こんなんで、いいんですか?」

横山が砕けた顔をすると、正木が応じる。

「ああ、これでいい。わが課は少数だが、大部署に負けない結束力がある。一丸となる姿勢こそが必要なんだ。図体が大きくても団結しなければ、ただの烏合の衆でしかない。だが、少人数でも結束力があれば、強固な集団になる。君たちの議論を聞いていてそれがわかった。この態勢こそが、一番求められる姿なんだと思う。皆、忘れないでくれ。肌で感じる連帯感をな」

「わかりました。なにも飾ることなどないんだ。皆が自由に発言できる環境こそ大事であることを、課長の話しで改めてわかりました」

森下が胸を張り応えると、吉田も横山も頷き同じ気持ちになった。

「それでだ。じつは部長から宿題を貰った。これから行われる反省会議までに、対策を作成せよとの要請だ」

「ええっ、なんですか。それって禿部長の野郎、なんだというんだ!」吉田が息巻くと、「まあまあ、ちょっと待て。本題はこれからだ」と正木がとどるた。

「あっ、早とちりしました。すみません」吉田が頭を下げた。

「吉田さんって嫌ね、せっかちなんだから。駄目ですよ、もっと人の話を聞いてから、意見を言わなくっちゃ」

横山が笑いを込め咎めた。

「すまん、すまん。ところで課長、宿題ってなんですか?」

「ああ、今回の予測外れに対する改善策と今後の施策を、週足、月足、さらに期次単位で作り会議に提出しろとのことだ。でも、これは私の責任で策定する。だから、君たちからは意見を聞かせて貰いたい。どんな小さなことでもいい。また奇抜なアイディアでも結構だ。とにかく教えて欲しい」

正木が要望すると、吉田が食いつく。

「それだったら、言わせて貰います。期の始まる前に、PDCAにも載せましたが、今現在、気象予報が朝、夕の二本仕立てとなっていますが、これを一元化すべきと以前から考えていました。気象予報を当てにする人たちにとって、夫々が独立していては連続性がなく、聞き違いの元になります。そう言う俺もその犠牲者となっており、痛切に感じるのです」

「ううん、なるほど。中長期的には、是非そうなって貰いたいな。それで他の人はないかな?」

正木に促され、森下が口を開く。

「課長、宜しいですか。私は短期の週足の策として、是非導入して頂きたいのですが。先ほど話した相互のトリプルチェック。特に三人プラス課長の体制による点検が、有効ではないかと考えます。これを続け改善し、よりしっかりしたチェック機能を、中長期に結びつけて行くことが必要だと思います」

「なるほどな、俺もそう思う。取り入れさせて貰うよ。ところで横山さん、意見はないか?」

正木が頷き横山に振ると、「私ですか、のろまだから、皆さんの足を引っ張らないよう、自分に鞭を打つつもりです。それでないと、せっかくのスクランブルチェックが、有効に働かなくなりますから」と意見を述べた。

「おお、いいね。横山君、その言葉頂き!」正木が調子よく声を上げと、「あら、課長、頂きってどのことですか?」横山が、不可解そうに尋ねた。

「ああ、スクランブルチェックのことだよ。いい言葉だ」

「そうですか、私の発言が採用されるんですか。課長、感激!」横山が目を潤ませ、歓びを表わした。

正木は一通り聞き感謝する。「いろいろ意見を有り難う。これで宿題も片づきそうだ。助かった」

そして、皆に告げる。

「それじゃ、わが課の反省会を終えることにしよう。本番の反省会議まで、あと三十分しかない。急いで改善策を作らにゃならんから、これで終わろう」

そう締めて終えた。正木には、すでに大まかな全体像が頭の中に出来きていた。パソコンに向かい、週次、月次そして期次の改善策を作り初め、その策定も二十分ほどで成し遂げた。

局長の出席する反省会議は、それほど多くない。今回の局長参加は、重苦しい空気の中で進められた。議長役の田口は、いつものように正木をなじり己に非がないと強調する。それも尋常ではなく、局長に対して「今まで連勝を重ねて来られたのも、私が課員に目を配り仔細なことまで指導したから、成し得たものである」と吹いた。さらに、「陣頭指揮で課長には手本を示し任せてみたものの、この有様となった。私は自分の信念に基づき正木君を信用したため、大幅な予測外れとなり失望と自分の未熟さを痛感し、局長には大変申し訳なく不徳の致すところでございます」と失策を重ねた部下が悪いと責任転嫁したのである。

俯く正木や課員らは、膝の上で握り拳を震わせじっと耐えていた。聴取する局長の顔も、苦虫を噛む面持ちでいた。田口にしてみれば、己の面目を保ち、部下を卑下追及すればそれでいいのだ。監督不行き届きは正木に振り、これだけ尽力を尽くしていると訴えた。さらに、点稼ぎの仕掛けを発っする。

「局長、私目は今回の失敗をこのまま終わらせるつもりはなく、どのように反省させ、局が失った信頼を取り戻すか。課長に対し、今後の対策を練らせております。これは私としても、度重なる不祥事に対する警告と位置づけ、策定するよう厳命したものであります」

慇懃に正木を睨みつける。

「正木、局長に先程指示した具体策を述べたまえ。 おっと、局長。申し遅れましたが、これから説明しますものはどのような策にするかを、事前に申し伝えてあるものでして、謂わば私が考え課長が肉付けしたものであることを予め申し添えさせて頂きます」

しゃあしゃあと言ってのけ、「さあ、発表せい!」と怒鳴った。正木がすくっと立つ。

「局長、この度は報道局に対し信頼を損ねたこと、まずはお詫び申し上げます」

深々と頭を下げると、慇懃に田口が怒鳴る。

「なにをやっている。それはわしがすませたことだ。お前の馬鹿っ面を下げてなんになる。さっさと説明せんか!」

正木は耐えた。屈辱と怒りが、胸の内を掻き毟っていた。それでも、ひと呼吸入れ発表する。

三十分ほど前に課員たちの意見を組み入れた、週足としてスクランブルチェック体制の実施。中期月次、長期期次のPDCAの基本と実践施策。さらに今回大きく外れた原因の分析。そして三ヶ月間に及ぶ連勝記録をなしえた理由を、簡潔明瞭に説明していった。

そこに、田口が口を挟む。

「こら、正木。そんな長々と訳の分からんことを発表しおって、局長に失礼ではないか!」

立ち上がって怒鳴り、局長に媚を売ろうとした。ところがである。それを野尻局長が差し止めたのだ。

「田口君、静かにしたまえ。今、正木君が説明しているところだぞ!」

鋭い視線で一喝した。田口は予想だにしなかった。まさかの怒りをかい、唖然としてふにゃふにゃと座ってしまった。改めて局長が告げる。

「うむ、正木君。わかった、君の言うとおりだ。そのスクランブルチェック体制とやらは、じつにいいアイディアだ」

「は、はい。有り難うございます。じつはこの体制、私が考えたものではありません」

「なんと、それはどういうことかね」

「はい、このアイディアは。森下君の発案であります」と名指ししたのだ。

「おお、そうかね。森下君、君のアイディアか」

「は、はい。申し訳ございません」

恥らうように頭を下げた。

「なにを、謝ることなどない。堂々と胸を張りたまえ」

「有り難うございます…。それに横山さんが、スクランブルチェックと名付けました」

「そうか横山君、いい名前をつけたな」

「は、はい。有り難うございます」

森下も横山も、感激のあまり目を潤ませた。局長が満足気に正木に告げる。

「正木君、君はいい部下を持っておる。私も誇りに思う。失敗は誰にでもある。それを気にしていては駄目だ。だからと言って、等閑にすることはなおいけない。今までの偉業、わが局にとって名誉となった。これを糧にし、さらなる挑戦をして貰いたい」

「はい、有り難うございます」

正木は感激した。今までの鬱憤が吹き飛んでいた。課員、皆も同様だった。

そんな時、局長が惚け顔で告げる。

「そうだ、挑戦のついでに賭けでもせんか。連勝記録が途切れた故、一からスタートとなるが、これを上回る記録が出せるかやってみんか。なあ正木君」

「はっ、有り難うございます。これも私たちは、チャレンジすることを決めております。必ずや記録を塗り替えよう。なあ、みんな!」

課員たちに目を向けると、すぐに吉田が応じる。

「課長、私のせいでこんな事態になり、責任を感じるし反省しています。だから挑戦させて下さい。皆、俺にチャンスをくれないか。図々しい願いとはわかっている。だからこそ、課のために努力し名誉挽回したいんだ。頼む!」

立ち上がり、課員たちに頭を下げた。

「何を言っているの。謝ることはすでに済んでいることよ。改めて頭を下げるのは止めて。そんなことしなくてもいい。私たちはすでに走り出しているの。今立ち止まることなどないわ。そうでしょ、課長!」

「その通りだ。森下さんの言う通りだ。さあ、頭を上げなさい。そして正面を見るんだ!」

凛とした正木の言葉は力強かった。

「課長、申し訳ございません!」

また吉田が詫びた。

「あら、嫌だ。吉田さんったら課長に言われたばかりなのに、また謝るなんてさ」と横山が顔を崩した。

「あいや、いけねえ。つい頭を下げてしまった」

 一連の皆の発言に、局長が頷く。

「うむ、正木君。君の課は素晴らしい。これだけ統制が取れている課は他にない。なるほど、これでわかった。君らが連続記録を伸ばした理由がな。さらに誤った事象に対する対策まで、きちんと策定している。この先どれだけ記録を伸ばせるやら。安易にも約束した掛けが悔やまれるわい」

「あれ、局長。それはないですよ。『男に二言はない』ではありませんか。是非とも反故にしないで頂けませんか」笑みを浮かべ吉田が食い下がる。

「こら、吉田君。なんと失礼なことを言うんだ。我々の目的は、そのようなことにチャレンジするのではない。気象報道を見、聞いて下さる視聴者の役に立つことが、究極の喜びではないのか。そのために、データを駆使し予測するのだ。忘れてはいかんぞ」正木が注意すると、森下が続く。

「そうよ、吉田君。元はといえば、あなたの怠慢で起きた問題でしょ。それを局長におねだりするなんて許せないわ。後でお仕置きしてあげるから覚悟していらっしゃい」

「おいおい物騒な話だな。吉田君、それに皆心配するな。私が言ったことは、並大抵の努力ではなしえないことだ。それと果敢に挑戦し記録を作ることが、どれだけ視聴者のためになるか。まあ、私の褒美など高が知れている。約束は約束だ頑張って貰いたい。わが局のためにもな」

野尻局長が期待を込めると、横山が大袈裟に発する。

「ああ、どうしましょう。吉田さん、大変なことになってしまったわ。私って仕事がのろまでしょ。皆の足を引っ張り、天気予報が外れたらどうしましょう」

すると、正木がフォローする。

「横山君、心配するな。そのために我らがいる。それだからスクランブルチェックを活用するんだ。思い切ってやりなさい」

「おお、そうだそうだ。心配すんな!」吉田が後押しした。

「吉田さん有り難う、感謝します」ぺこりと、横山が頭を下げた。

「あれ、君らは随分謙遜屋さんなんだな」

局長が茶々を入れると、皆、大声で笑い出していた。ただ、一人を除いて。田口は完全に蚊帳の外にいた。ぶすっと口をへの字に結び、しかめっ面で眉間に皺を寄せていた。

その日の反省会議は、正木らの心行くまでの発言で終わった。

だが、それは田口にとって、鼻っ柱を折られる屈辱となったのである。己の成果を誇示し、得点に繋げるための反省会議が、まったく逆効果になるとは思ってもみなかったし、それと同時に正木に対する怨念の増幅となった。

自席に戻った田口は、直ぐに正木を呼びつけた。

「君はいったいなにを考えているのかね。反省会議での態度や発言。まったく改心しておらんな。それに許可なく、あのような施策を発表されては、私の立場がないじゃないか。本来なら事前に了解を求めておくのが筋であろう。それを出し抜いて、局長にこれ見よがしに発表するとはなにごとぞ。まったくお前という男は気の利かぬ奴だ。呆れて物も言えん。なにか、君はそんなに偉くなった気でいるのか。わかった。それならそれでいい。わしを抜きにして業務を進めればいいんだ。君もそれくらいの覚悟は出来ているんだろ」

慇懃に説教した。

「いいえ、申し訳ございません。成り行きとはいえ、部長の許可なく頭に乗って発言してしまい、申し訳ございませんでした」

正木は頭を下げた。すると、田口が慇懃に告げる。

「まったく、白々しいもんだ。今頃謝ってもどうにもならん。すでに局長に話してしまったんだからな」そう言われ、正木は丁重に告げる。

「あの、部長。反省会議までに時間がありませんでしたので、事前にレポートを提出させて頂いておりましたが…」

「なにを今さら言い訳する。まったく逆上せ上がりおって」

「はっ、申し訳ございません」

「これ以上君と付き合っている暇はない。席に戻りたまえ!」田口に言われ、正木はそのまま深々と頭を下げていた。

「なにをぼさっとしている。さっさと戻らんか!」

雷が落ちた。だが下げ続ける。上司である田口に向って、たとえ正当であろうと反論する余地などない。

「申し訳ございません…」出た言葉はそれだけだった。

「まったく役に立たん男だ。上司であるわしの面目が丸潰れだ。この強欲者のせいで、よくも恥をかかせてくれたもんだ。さぞ気持ちがよかろう。さあ下がれ。二度とお前の顔など見たくない!」憮然として言い放った。

「申し訳ございません」詫び、正木はそのままでいた。

「まったく、聞く耳持たぬというわけか。随分偉くなったもんだ。わしの言うことも聞かぬわけだな。わかった、今日はお前にとんだ目にあった。さあ、帰るとするか」席を立ち部屋を出て行った。

無言のまま見送った。正木は、田口がいなくなるのと同時に顔を上げる。その表情は怒りに満ちていた。固く結んだ握り拳が小刻みに震え自席へと戻った。

「課長、どうなさいましたか。顔色が優れないようですが…」

心配そうに森下が声をかけた。

「いいや、なんでもないんだ。先ほどの反省会議で、部長が局長に発言を止められてしまっただろ。それで、一応お詫びにと行ってきただけだ。ただ、それだけのことだから」

「お詫びに行ったんですか。その際、また、あの傲慢部長に嫌がらせされたんですね。課長、私たちのミスで、辛い思いをさせて申し訳ございません」

森下がすまなそうに詫びると、正木が否定し促す。

「いいや、いいんだ。そんなことより仕事だ。明日朝一番の気象予報の予測を済ませておこうじゃないか。もう午後八時過ぎだ。十二時ぐらいまでに片づけて終わろうよ」

「分かりました。とにかく勝負がかかっているのいで、張り切らないといけませんね。最初から外しては、部長の思う壺になります。さあ、皆、取り掛かりましょう」

森下が気を利かせて、吉田らに発破をかけた。

「おお、やってやる!」大声で吉田が応じ、キーボードを叩き始めると、アシスタントの横山がそれに続く。

「さあ、足手纏いにならないよう頑張らなきゃ」

「さて、私もひと頑張りするか」正木が自らを奮い立たせ、課員の不安を払拭していた。結局、予測に区切りがついたのが、午前一時を回っていた。明日一番の気象予報の最終打ち合わせを残し、すべての作業を終えた。

「さあ、今日のところはこれまでにしよう。明日一番で部長に了解を貰えばいい。皆、ご苦労様」

「いいえ、どう致しまして。なんだかすっきりしましたね。初めてのスクランブルチェックを試したんで、少々時間がかかったけれど、それも慣れれば短縮出来るんじゃないかな」吉田が方向性を示した。

「そうだな、今日のところはこんなものかも知れん。またスクランブルチェックをやっていて気づくことがあれば、その都度提起して貰いたい。これからもっと精度を上げるために、そうすることが一番だ。それと、後にする時は頭の中に仕舞わず、メモを取っておくことも大切だ。思い出そうとしても、メモがないと思い出せないから。さあ、帰ろうか」

正木が促し、席を立った。

「課長、お疲れ様でした!」と皆がその後に続いて出た。

そして、正木は翌朝一番で部長席へと行き昨日の件を詫び、気象予測の最終案を手渡す。

「今朝の気象予報の最終原稿です。お目を通して頂きたくお持ちしました」

すると、田口は見もせず無言で未決済箱へ放り込んだ。

「部長、お忙しいところ申し訳ございませんが。ご校正を賜りたいのですが…」

正木が促すが、目もくれず無視する。

「あの、部長…」

戸惑うと、田口が慇懃な上目づかいで告げる。

「なんだ、なんの用だ。わしの校正など無用だろ。お前らで済ませているんだろう。なあ、正木。自分たちで勝手にやってくれ!」

嫌味を言っていると、ちょうどそこへ野尻局長が立ち寄る。

「田口君、どうかね。今朝の気象予報の最終チェックは、もう済ませたのか。済んでいるなら、ちょっと私の部屋まで来てくれんか。いいや、今直ぐでなくてもいい。そんなに急ぐことではないから、点検をすませてから来てくれたまえ」

「は、はい。分かりました。それでは直ちにチェックし、終わらせ次第お伺いさせて頂きます」田口が低姿勢で応じた。

「ああ、それとついでだ。君が校正した原稿を、私にも見させてくれないか。連続達成への第一校だからな」

「はっ、かしこまりました」

野尻の予想外の要請に、慌てて原稿を取り出し手元に置く。野尻が離れたあと、直ぐに仏頂面で点検し局長室へ赴いたが、戻ってきた田口の顔が青ざめていた。放心状態で自席に腰を落す。

「うむむ、どう言うことだ。なんで見送られたんだ…」

表情に脱力感が漂うが、直ぐに邪推し始める。

「くそっ、やはり野郎のせいで…。あいつがわしの昇進を妨げたんだ」

頭に血が上っていた。逆恨みの醜い心が、腸をえぐるように乱れる。

田口は、その夜腰が抜けるほど自棄酒を飲んだ。酔うにつれ、気が紛れるどころか益々憎悪感が増していた。そして酔い潰れた。翌日も自席でぼけっと過ごし、算段を始めた。

このままにしておくものか。奴の課内を掻き乱し、ミスを誘発させてやろうぞ。そうか、まずは横山辺りを口説き、わしの言いなりになるようにしてやる。

憎しみの余り、醜い顔の薄笑いが顔に表れる。

まずは横山と関係を持ち脅かす策だ。横山にミスを起こさせ、それをねたに強請りわしの女にすればいい。そうなれば、他人に言えぬ隠し事となろう。それを元に奴らの結束を崩せば、連勝記録どころではなくなる。そうすれば、正木の指導力に疑問符がつくだろう。その時を狙って奴を蹴落とし、わしの息のかかった課長を据えればいい…。

仕事そっちのけで、悪策を練っていた。

くそっ、こうなったのも正木のせいだ。局長に呼ばれた時、「例の内定の件」と告げられ、「すわっ、本決まりか」と早とちりしたが、意に反し「役員会で見送られた」だと。

うぬ、以前から俺の足を引っ張り、究極はこの前の反省会議で奴がわしを出し抜きぬけぬけと喋りやがったことで、面目を丸潰れにされた。そのせいで副局長のポストが見送られたんだ。

目が据わり、憎悪の陰光が輝き出す。

待っていろ、必ずやお前の仮面を引っ剥がしてやる。それにしてもむかつくわい。このまま帰るのも辛い。今夜は憂さ晴らしして帰るか。

それが、ちょうど午後三時だった。誰も聞き及んでないのを見届け、ゆっくりと受話器をとり内線ボタンを押す。すると、可愛らしい声が待っていた。

「はい、秘書部の谷川でございます」

「おお、わしだ。いつものところで、午後六時に待っている。来てくれるな」

名前も告げず誘われ、谷川が戸惑う。

「あの、どちら様でしょうか。秘書部でございますが…」

「なにをよそ行きの返事をしている。わしだ、いいだろ。昨日は辛いことがあって、お前に慰めて貰いたいのだ」

「あの、そう言われましても…」

周りを気にしてか、曖昧になった。

「なんだ、可愛がってやると言ってるんだぞ。なにか不満でもあるのか」

「いいえ、今夕に四星商事の山崎専務とのインタビューが入っておりまして」

「なに、お前がするのか?」

「いいえ、そうではございません。社長が行いますが、そのお供を仰せつかっておりまして。あっ、すみません。今、四星商事から電話が入りましたので、後程こちらから連絡させて頂きます」

「ちぇっ、しょうがねえな。そんな電話早く済ませ、わしの携帯に入れてくれ。わかったな。それと、その役回り誰かに交代して貰うんだ。いいな」

「ええ…」

「ほら、お前だって欲しいだろ。今夜たっぷり可愛がってやるから。色よい返事を待っているぞ」

「は、はい。それでは後程、失礼します」

純子の他人行儀な返答で終わった。田口が心内で嘯く。

なにが四星商事の専務だ。そんなもの純子でなくても事足りるわい。わしのせがれの方がいいに決まっている。先日だってあれだけ荒れたではないか。ちょうど一週間経つし、また欲しくなるころだ。女の身体というのは正直だ。リバウンド現象で疼いてくるものよ。

仕事とセックス。どちらを優先させるといえば、それはセックスだろう。まあ、焦ることもない。ゆっくり待つか。あんな屈辱を味わったんだ。今夜は少し刺激のある方法で責めてやる。そうすれば気持ちも慰められよう。うむ、どうも夜まで待てんぞ。早くかけてこい。なにをぐずぐずしておる…。

苛立ちながら三十分ほど待つと、田口のスマートホンに着メロが鳴った。

「おお、来たな」

素早くトイレへと向かい、もどかしく出る。

「純子か、遅いじゃないか!」

「ええ、すみません。段取りに時間がかかりまして」

「なにをよそゆきの話をする。何時もの通り話さんか。それより、今晩いいな。これだけ待たせたんだ。社長のお供は、他の者に頼んだな」

「なんとか。でも、大変だったのよ。相手が相手ですもの、危うく断られそうになったわ。だから…」

「なんだ、だからとは。先を言わんか」

「いや、恥ずかしいわ」

「なにを言っている。聞いている奴などおらん。その先も聞かせてくれ」

「ううん…」

甘え声に変わる。

「忘れられないの。疼いて辛かったわ。だから…」

「だから、なんだ」

「でも、言うの恥ずかしいわ」

「なにを言う。構わん、言ってみろ」

「でも…。でも、欲しいの。直ぐに会いたい」

上ずる声で告げた。

「そうだろう。わしも欲しくて、ほれ見てみろ。ズボンが盛り上がっている」

「嫌ね、そんなこと言って。電話じゃ見られないわ」

「そうだったな。お前に早く元気な息子を拝ませてやりたいもんだ」

「まあ、崇史なんか嫌い…!」

上気した吐息が電話口から漏れた。刺激を受けてか、田口自身が益々元気になっていた。

「たまらん。お前のその息遣いを聞いていると興奮してくるぞ」

「また、刺激するようなことを言って。いけない人」

「それじゃ、早く仕事を片づけてくれ。わしも六時頃には何時ものところへ行っている。軽く食事をして、しけこもうじゃないか」

「ええ、私もう我慢出来ない。気が狂いそう…」

益々息遣いが荒くなっていた。

田口は電話を切るのももどかしく席へ戻り、未決裁の書類に目くら判を押し、頃合いを見て局を後にした。純子も終業チャイムが鳴るのを待った。その間、仕事など手につくわけもなく、日頃の彼女とは別人だった。すると、同僚の道子が訝る。

「純子、どうしたの。何時ものあなたと違うわよ。なにかいいことでもあるの?さっき慌てて今夜の仕事、由佳里に代わって貰ったわよね。ははん、これとデートかしら?」と道子に小指を立てられると、「いいえ、そんなんじゃないわ。ちょっと母親から頼まれごとがあって、どうしても買い物して帰らなきゃならないの。それに、恋人なんていないもの。道子さんのように素敵な彼氏が欲しいわ」

純子が言い訳染みた嘘をついた。

「そうなの、純子に彼氏がいないなんてもったいないわ。男たちはなにをしているのかしら。私が男だったら猛烈にアタックするわ」

「まあ、そんなこと言って。貶しているのか褒められているのか分からないわ」

「嫌ね、貶してなんかいない。本当に純子って綺麗だもの。それに身体だって、女の私から見ても惚れ惚れするし、男だったら奪いたくなるわよ」

他愛ない会話をするが、純子には時間ばかりが気になっていた。終礼まで小一時間あった。上気する気持ちを抑え、平常心を装うが行動がちぐはぐになる。

勘ぐる女の視線は鋭い。そんな彼女の様子に、道子が突っ込む。

「やっぱり純子、怪しいな。母親の用事と言うけれど、顔に嘘と書いてあるわよ」

「そんなことない、本当よ!」

手を振り否定するが、どことなくピンク色に染まる頬が、わざとらしく否定していた。道子にはわかっていた。心の内で嘯く。

多分、今夜は報道局の田口部長と密会するんだ。この前もそうだし、最近とみに回数が多くなったみたい。こんなこと考えていると、私まで興奮してきちゃうわ…。道子の邪推が熱を帯びていた。

田口部長にしてみれば不倫だし、彼女からみると愛人になるわ。他人の目を盗んで密会し情事を楽しむなんて、なんとなく危険で大胆な秘事だもの。ああ、私まで痺れちゃう。

道子は妄想することで、情欲の世界へと誘われていた。うっとりとした目が泳ぐ。

「あら、どうしたの?にやけてさ…」純子が尋ねると、慌てて道子が打ち消す。

「いえ、なんでもない。つい、あることを想像して、夢の世界へ誘われていただけ。さあ、早く仕事を片づけてデートでもしようかな」

もの欲しそうに呟いた。

「そうね、彼氏がいる道子さんが羨ましいわ。デートでもして、たっぷり可愛がって貰いなさい」

「ううん、そうしよっと。純子さん、それじゃね」

彼女が席を離れた。純子が腕時計を見ると午後四時三十分をさしていた。

「あら、時間経つのが遅いわね。終礼まであと三十分もあるわ」

愚痴りパソコンに向かうが、直ぐに指が止まった。

「それにしても、時間が経つのが遅いわ…」

口から漏れる都度に、田口の熱い抱擁が全身に蘇えり、ふうっと溜息が漏れる。

隣の席では小倉礼子がパソコンに向かい、純子の様子など気にも留めず、懸命にキーボードを叩いていた。

ゆっくりと時間が流れ純子はイライラするが、心はすでに田口の下に飛んでいた。それでも時間が過ぎ、業務終了を告げるチャイムが鳴ると、はやる気持ちを抑え、皆に気づかれぬよう席を立った。

「それじゃ、皆さんお先に失礼します」

挨拶し、急ぎ秘書部をあとにする。早足で待ち合わせの場所に向った。新宿経由で品川駅へと行き、イタリアレストラン「アッタチェアイタリアーナ」へと入った。すでに田口が待っていた。二人で軽い食事とワインを飲み、そこからタクシーを拾い渋谷の道玄坂にあるホテルへと消えた。




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