第三章策略 一節

クロがいなくなった部屋には、巣箱と食器類が残った。正木には、片づけるに片づけられなかった。翌日になればクロが戻るのではと、淡い期待があった。だが、現われる保証はない。かと言って、万が一、戻ってきた時に巣箱がないと悲しむだろうと、そのままにした。

それから数週間が過ぎた。結局、クロは姿を現さなかった。しかし、この頃になると幾分気持ちも落ち着いた。慣れるというか、元の一人暮らしに戻っただけである。また、仕事一筋の生活が始まった。朝出勤し深夜帰宅が常態化した。帰宅し遅い夕食を済ませ、夏美とラブコールをする毎日だった。

すると、その頃になって、どういうわけか正木がカラスを飼っているという噂が、職場内で広まっていた。

興味深げに吉田が尋ねる。

「課長、おはようございます。なんだか、珍しいものを飼っているそうですね」

「ううん、まあな…」

正木が曖昧な返事をすると、さらに突っ込んできた。

「課長、普通なら飼ないんじゃないですか。文鳥とかならまだしも、毛嫌いされている鳥ですよ。それって本当ですか?」

「君、誰からそんなこと聞いたんだい?」

「ええ、うちの課だけじゃなく、他部署の連中も噂していますよ。『正木課長って、最近おかしいんじゃないか』と、それも『部長からこっぴどくやられて、精神的に追い詰められているのか』って。それで『変なものを飼い始めたのか』とね」

「そんなことはない。部長は己に厳しい分、妥協を許さない人なんだ。だから我々にも厳しくしている。俺たちはそれを謙虚に受け止め、気象予測に生かさなければならない。俺が犠牲になっていると勘違いされては困るよ。俺を叱責するのは、わが課全員に対して反省を促していることだからな。これも役目で謙虚に受け止めている」

「そうですか、そんなものですかね。ところで、課長。どうして飼うことになったんですか?」

「ああ、それが。二ヶ月も前になるが、三鷹駅を降り帰宅途中で偶然怪我した幼カラスと目が合い、酔っていたせいもあってか拾って連れ帰ったのが始まりなんだ」

「へえっ、そうですか。でも俺だったら、そんな怪我したカラスなんか連れて帰りませんよ。可愛い小鳥ならまだしも黒いカラスですよ。忌み嫌われているし、気色悪いから拾いませんね」

すると、森下が横から執務の手を止め口を挟む。

「そうよね、吉田君。私だって、課長のように拾わないわ。ましてやカラスなんかじゃ、怪我して道端にうずくまっていても無視して通り過ぎるわよ」

同調されると、さらに興味深気に吉田が尋ねる。

「ところで課長、そのカラスまだ生きているんですか?」

「ああ、元気だ」と正木が応じた。

「そうですか。野生のカラスって、結構しぶといですね。とっくに死んだかと思ったんですが」と吉田が勝手な解釈をすると、正木が経緯を話し出す。

「結構面倒見ていたから、翼の傷も癒え餌を食うようになって、元気を取り戻したんだ」

そんな会話を三人でしているところに、田口部長が顔を出す。

「正木君、なんだって。カラスを飼っているというじゃないか、本当かね」

「はっ、はい…」曖昧に応じる。

「まさか、あんな忌わしい鳥を飼っているんじゃないだろうな」

「いいえ、カラスといっても、決して忌まわしいものではありいません。飼うと情が移るといいますか。可愛いものですよ」

「なんだ君、その噂本当かね。君ともあろう者が、仕事の手を抜きカラスを飼うなど、正気の沙汰とは思えん。とにかく早く捨ててしまえ。するとなんだ、君は毎日そのカラスと暮らしているわけだ。どおりで、最近君の傍へ来ると気色悪い臭いがすると思ったよ。

それでなくても最近君の予測が外れることが多い。仕事に集中せずそんなことしているから、外す確率が高くなるんだ。そんなものを飼う暇あったら、当たる確率が百パーセントになるようにせんか!」

田口の、嫌味の雷が落ちた。

「はい、申し訳ありません。これからは、さらに精進します」

聞く耳持たず立ち去る田口に起立し頭を下げるが、正木は頭に血が上っていた。

なにを言う。なにが外れる確率が高いだ。なにを見てそんなことを言う。ここ二~三ヶ月間の予測結果は、決して悪くない。むしろ的中率が上がっているじゃないか。それを、なんの根拠があってそんな屁理屈を言う。それに、俺がなにを飼おうと関係ないだろう。余計なお世話だ!

胸の内で吠えた。すると、不意に田口が立ち止まり戻ってくる。

「正木君、どうも最近態度が悪いな。それで部下たちの素行が乱れているのか。君の指導がなってないんじゃないかね」

「はあ、何処がいけないのでしょうか。それに私の部下が、なにかおかしなことをしているとおっしゃられるのですか?」

つい、正木は反論していた。

「なにを。君は、わしに歯向かう気か。せっかく注意しているのに、その悪態はなんだ。反省の色がない。そんなことだから、部下の素行が悪くなる。その原因が君にあるんだ。そんなこともわからず、よく課長職が勤まるな。素直に反省したらどうだ!」

田口が目を吊り上げ吠えた。正木は仕方なく詫びる。

「申し訳ございません。つい、言い訳をして失礼致しました」

「最初からそう謙虚になればいいものを逆らいおって。ついでにどんな噂か教えてやるから、しっかり管理するんだな」

「は、はい…」

「君のところの吉田と森下が出来ているらしいな。秘書部の課員から投書があったぞ。まあ、男と女の関係にいちいち口をはさむ理由はないが、仕事に支障をきたしていては注意せざろうえまい。あまり派手にいちゃつくなと言っておけ。君のことでも噂が立っている。カラスだけではない。他にもある。君も同罪だな」

「…」

黙り頭を下げていた。すると、その態度が気に食わないのか、さらに突っかける。

「なんだ君。せっかく注意しているのに膨れっ面とは、わしの忠告が正しいから反論できんのだろう。まったくいい年こいて、いちゃいちゃしているんじゃない。それじゃ、課長職も先が長くないぞ。とどまっていたけりゃ、気象予報の正確率を高めるんだな」

「…」黙っていると、さらに貶す。

「まあ、これくらいの確率が君の限度というなら、それはそれで予測担当の役職も考え直さなきゃならん。今直ぐとはならんが、それまではしっかり勤めてくれ。但し、今後の気象予測はなんとしても当てることだ。そうすれば再考の余地もあろうて」

田口が、驕る態度で言い残し傍を離れた。

その間、森下や吉田たちは聞かぬ振りをしていたが、目は怒りに満ち握る手が震えていた。この田口の所業は、正木に対する侮辱のなにものでもない。それも部下の前で、わざとらしく叱責し人格まで貶したのだ。

正木は、たまらなかった。大きな憤りを感じるが堪え、座り直してパソコンに向う。そして皆を見て告げた。

「皆、俺の指導が行き届かなくて申し訳ない。このとおりだ」

座ったまま頭を下げるが、握り拳が震えていた。

「申し訳ありません。私がいけないんです、許して下さい!」

突如、森下が泣きながら許しを乞う。すると吉田も立ち上がり、「課長、森下さんが悪いのではありません。私がいけないのです。周りに注意を払わず、有頂天になっていました。本当に申し訳ありません」深く頭を下げ詫びた。すると、横山までもが訴える。

「私こそ、ちゃらちゃらと他部署の男性に声をかけていたから。このことが部長の耳に入ったんです。ご免なさい」

森下と同様に涙していた。

正木が顔を上げる。

「皆、有り難う。俺を庇ってくれて、気持ちはよくわかった。なにも君たちのせいではない。デートや恋愛は自由だ。他人にとやかく言われる筋合いではない。これで卑屈になることなどないから、堂々と謳歌して欲しい。

私だって叱咤されたが、止めるつもりはない。けれど、あれだけ嫌みを言われたんだ。今後の気象予報は、統計資料や過去の実績など念入りに調べ、百パーセント近い予測を立ててやる。どうだ、君らも協力してくれんか!」

「はい、俺たち死に物狂いでやります。とにかく、あのへそ曲がり部長の鼻を明かしてやりたい」吉田が憤ると、森下が涙目で同調する。

「私だって、なんでも指示して下さい。力の限り頑張りますから」

頷き正木が応じた。

「ううん、そうか。皆、協力してくれるか。有り難う、本当に有り難う」

すると、森下が泣きやみきりっと目を見張る。

「課長、やりましょう。それと、百パーセント近くだなんて弱気ではいけません。これからは、百パーセント当てる意気込みで取り組まなければ、絶対に達成できない。自然界の神様は厳しい方です。弱気は禁物、隙を見せれば必ずそこを突いてきます。われらが課一丸となり、今後の予測にあたるのです。皆、わかったわね。これが、あれだけ部長に貶されじっと耐え、私たちを守ってくれる課長への恩返しだわ」

「おお、やってやる。俺は命がけでやるぞ!」吉田が大声で怒鳴った。すると、横山が横槍を入れる。

「吉田さん、ちょっとオーバーじゃないですか。命を掛けるっておっしゃるけど、いつも女性を口説く時に言っている落し文句じゃないですか。請求部の人見千賀子さんから聞いたことがありますよ」

「ああ、そんなこと言うなって。せっかく、課長を励ましている時によ」

「あら、吉田君。どういう関係。その人見さんっていう方は?」

森下が噛みついた。

「いや、なんでもない。どうと言う間柄ではないんだ。それに横山君が言っているのは、なんというか女性に声をかける時の軽い飾り言葉みたいなもので、特に意味はない」

慌てて弁解し、言い訳する。

「いや、その…。課長の名誉挽回のために命を掛けると言っているのは、飾りではなく、これは本心で言っていることですから、課長許して下さい」

「わかっているよ、君は大切な部下だ。性格は充分理解しているから、ちゃんと真意が伝わっている、だから安心しろよ。吉田君、有り難うな。共に頑張ろう」

「まあまあ、男って嫌ね。直ぐに妥協するんだから。正木課長、吉田君に騙されてはいけませんよ。もっと叱って下さい。それでないと頭に乗り浮気するから」

森下が吉田に釘を刺すのか、正木に促した。

「わかったよ、森下さん。でも心配ないさ、吉田君はそんな男じゃないから信じてやればいい」

「そうですか、課長。本当にいいんですか…」森下が戸惑うと、「ほれみい、課長は俺のこと理解してくれているんだ。もちろん、気持ちは唯一つ余計なものは見ないよ」吉田が殺し文句を吐いた。

すると、横山が羨ましそうに強請る。

「いいな、森下さん。これは、後輩の私に一杯奢らなきゃならないですよね。そうでしょ、課長」

「ううん、そうかも知れんな」

「また、課長ったら、直ぐ妥協するんですから止めて下さい」

森下は、そう言いながら顔を赤らめ俯いてしまった。

「そうだ、課長。ぐずぐずしていられない。早く取り掛かりましょうよ。時間がありませんから」吉田が話を摩り替える。

「おおっと、そうだったな。それじゃ、皆、頼むぞ!」正木が声を張り上げた。

「はいっ!」結束した返事が返ってきた。

正木はつくづく感じる。本当によい部下を持ったと、心の奥で頭を下げた。そして、正面を向き伝える。

「夫々の役割を明確にし、責任を持って立ち向かおう。疑問や不明点があれば、都度持ってきてくれ。共に意見を交し、納得のいく結論を出そう。心を一つにすれば、森下さんが示す予測百パーセントは、決して不可能ではない。気象の神様が、必ずや応援してくれる」

己を奮い立たせるように告げた。

「わかりました。ご指導お願いします!」

応じる吉田を前にし、森下が乞う。

「あの、課長。吉田君の指導を、くれぐれもお願いします」

「わかったよ、厳しくしごいてやるから、心配しなさんな」

すると、吉田が口を尖らせる。

「ちぇっ、森下さんは余計なこと言うんだから。まったく参っちゃうよ」

「あら、吉田先輩。それくらい手綱締められた方が、いいんじゃないですか?」

横山が茶化した。

「うへっ、横山君にまでからかわれちゃ。俺も年貢の納め時かな」

吉田が惚けると、課員全員が笑いの渦に埋まった。まるでこれからの気象予測が、光り輝くように明るくなっていた。

そこで、正木が打ち明ける。

「君たちに話しておきたいことがある。じつは、カラスの件だが。確かに飼っていた」

「そうですか、噂は本当だったんですね。いや、飼っていたって。それじゃ、もう飼っていないんですか?」と吉田が疑問を呈すると、正木が続ける。

「そうだ。ただ、飼うことになった経緯を皆に知って貰いたいので、詳しく話そうと思う」

「ええ、聞かせて下さい」と、森下が加えた。

「二ヶ月前に遡るが、当時仕事やなにかで滅入って、深酒し深夜帰宅した時だった。最終電車だったと思うが、いつも下車する三鷹駅で降り西口改札を出て駅前商店街を通り抜ける途中、酔いも手伝ってか千鳥足で歩いていると街路樹の隅に怪我をしたカラスがもがいていた。なにかと思い見た時に、そのカラスと目が合った。そのまま考えもせず拾い上げていたんだ。抵抗したかどうかはっきり覚えていない。家に帰って安心したのかバタンキューだったからな。翌朝起きて驚いた。それで、昨夜からの記憶を辿ってみた。

そうか、そうだったんだ。しかし、覚えちゃいないが、よく連れて帰ったと思い自分ながら感心した。それからだ、なにかの縁だと飼い始めたのは」

聞き及ぶ吉田が思いを告げる。

「よく飼うことを決心しましたね。普通なら飼わねえよ。それにカラスと言えば真っ黒な鳥だろ、気色悪くて拾わないよな」

そう言われ、正木が続ける。

「確かにそうかも知れん。素面だったら拾って来るものか。酒飲んで憂さを晴らした後だから、気持ちが和んでいたんだろう。それからと言うもの、本屋や図書館へ行き、傷の手当てや餌などを調べ治療と共に与えた。最初は食わず、そのうち警戒心を解き、食べるようになって共同生活が始まったわけさ。

まあ、人はカラスを毛嫌いするが、賢い鳥だ。俺の言うことがわかるみたいで、仲間意識さえ生まれた。でもな、元はといえば野性の生物だ。自然に帰すのが一番いい。それでつい最近だが、親元へ返してやった。だからもう居ないんだ」

聴き入る横山が納得する。

「そうだったんですか。そうですよね、カラスだって親がいるんですもの。飛べるようになったら放してやるのが一番ですよね。しかし、課長は優しい一面があるんですね」

吉田が感服し、続けて質問する。

「そうだよな、俺らだって親がいる。カラスだって同じだよ。奴にとって、それが一番いい選択じゃないか。課長、大したもんですね。怪我を治して、なつかせちゃうんだからな。それも二ヶ月ぐらいの間にだぜ。それで課長、そのカラスはもう戻って来ないんですか?」

「ああ、来ない。放してから二週間ほど経つけど…」

「そんなものですかね。やっぱり野生の生き物だ。恩だのなんだのは感じないんだよ。少し薄情じゃないか。献身的に世話してやったおかげで死なずにすんだのによ。それを放したら、一度も顔を見せねえんだもの」

吉田が口を尖らせた。

「まあ、いいじゃないか。無事、親元に帰れたんだろうから。その辺はそれでよしとしなけりゃ」

正木も、吉田の言い分に一理あると思ったが口にださず同調した。

話が一段落したところで、正木が改めて促す。

「カラスの件はそんなところだ。噂は本当だが、もう居ないのでこれで終結する。さあ、これから忙しくなるぞ。なにせ森下さんに諌められたからな。これからの気象予報を百パーセント当てなけりゃならん。そうだよな、森下さん」

「そうです、あの唐変木部長にひと泡吹かせるために、皆さん気を引き締めてやりましょう!」

真面目顔で檄を飛ばした。すると、皆が一斉に声を上る。

「おおっ、頑張るぞ!」言い放つ皆の目が輝いていた。

正木は感謝すると共に、改めて身の引き締まる思いでいた。そんな時、吉田が高ぶる気持ちを言い放つ。

「皆、褌を引き締めて取り組もうぜ!」

すると横山が聞き及び、恥らうように反論する。

「あら、嫌だ。吉田さんたら。私、褌なんかしていません。だから…、女の子はどうすればいいんですか?」

「おお、そうだった。これは失礼。そうだな、女性の場合はと。そうだ、パンティーのゴムを強めにするとかしてくれないか?」

自分なりにジョークを飛ばしたが、横山が卑下する。

「嫌だわ、吉田さんって。エッチなんだから、そんな卑猥な言い方するなんて。もう少し気を使って下さい。それじゃないと、女の子に嫌われますよ」

「わ、わかったよ。それじゃ、なんて言ったらいいんだか。とにかく頑張ろう」

「そうよ、そのように上品に言って頂きたいわ」

横山が、鼻をつんと上げた。

「しかし、女って怖いもんだな」吉田が、こそっと舌を出した。


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