三節

「ああ、疲れた。今日も遅くなった。コンビに寄って、弁当を買って帰るか。ついでに、あいつの分もな」

蟹飯弁当とサラダの惣菜を二個づつ買う。それに、小魚の佃煮とフライセットも求めて、急ぎ帰宅した。直ぐに点検したのはカラスがいるか、そして死んでいないかである。彼は巣箱にうずくまり眠っていたようだが、帰ると目を開け伺う仕草をしたので、ひとまず安心する。次に餌を食ったか見るが、そのまま残されていた。

昨夜食べてくれたことで、居ない間に平らげていると予想していたが、裏切られる格好になり若干気落ちする。

なかなか難しいもんだな。しかし、こいつにも好き嫌いがあるのかな。野生の

鳥だし、そんなことはあるまい。自然界では、我侭言ってられないからな。とすると、昼間食わない理由はなんだ。もしかして、傷が悪化し食う気力が萎えているのか。しかし、どうなんだろうか。外見ではわからんが、昨夜薬を塗ったばかりだし、今夜は変える必要ないと思うが。まあ、傷の具合は様子を見るとして、それにしても誰もいない時に、安心して餌にありつけるはずなのに。

不可解さが残るまま、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、買い込んだ惣菜を肴に、一気に喉の奥に流し込む。

「うひゃっ、美味えな。すきっ腹だから、腸に染みるぜ!」

目を細め、続けて飲んだ。

「そうだ、この肴全部食うわけにいかんのだ。こいつに残してやらなければ」

さらに、小魚の佃煮と魚フライを残す。

「あとは、こいつ用の蟹飯弁当を残し、たいらげてしまうか」

ビールを飲み夕食を済ませ、一服しながらつと思い立つ。

そうだ、こいつも名無しの権兵衛じゃ可愛そうだ。暫らく一緒に暮らして行くんだし、名前をつけてやらにゃならん。そうだな、なんと呼んだらいいのか。

はたと考えるが、いざ決めようとすると、なかなか浮かばない。

ええと、そうだな…。太郎や二郎じゃおかしいし。待てよ、こいつ雄か雌かもわからない。雌に太郎はないし、雄にメリーと言うのも変だよな。でも、残飯の横取りで喧嘩するくらいだから、大方雄だろうて。それじゃ。クロとでも名づけるか。黒い鳥だから、クロ。

どうだろうか。他に思い浮かばんし、かと言って、深く考えたところで妙案はでん。これでいい、クロに決めた。

そして、カラスに向かって告げる。

「さあ、これからお前はクロだ。わかったな。それじゃ、今日はもう遅いし、明日また会社に行かなきゃならんので寝るよ。お前、いやクロも寝ろよな」

ほろ酔い気分でシャワーを浴び寝床へ入った。寝静まり、暫らくするとクロは、昨夜と同様に弁当を食い始める。カラスの習性など、正木には分からない。それでも警戒してか昼間は食わず、夜中に与えた食べ物を食っていた。

そんなことが幾日か続いた。

それにより、クロの体力が徐々に回復し、怪我の状態も良化しているように思えた。傷口を消毒して化膿止めを塗り、割り箸を添え包帯で巻きつける作業を、三日おきに繰り返した。

いつものように夜十時頃帰宅し、ビールを飲みつつ夕飯を食っている時に夏美から電話がかかってきた。

「裕太さん、どうしているの?」

「俺か?」

「そうよ、なにしているのかと思って電話したの」

「そうか、それでなんの用だい?」

「別に用事なんてないわ。ただ、声が聞きかっただけよ」

「なんだ、そうか」

「なんだなんて、言うことないでしょ。本当は直ぐに会いたいのに、会えないんですもの。だから、声だけでも聞けたらと思って電話したのよ。それを、なんだなんて…」

涙声になっていた。すると、慌てて弁解する。

「いや、これは口癖というか、仮の返事だ。だから、他意はないので許してくれ」

「なによ、仮の返事だなんて。それじゃ、裕太は私のこと愛していないの。どうなのよ」

「なにを今さら、そんなこと言う。決まっているじゃないか」

「なにが決まっているの。言って貰わなければわからないでしょ」

「俺だって、君のことが好きだ。愛しているに決まっているだろ」

「それって、本心で言っているの?」

「ああ、本心だ。偽りでなんか言えるかよ」

「だったら、証を見せてよ。私を愛しているという証拠を」

「証拠を見せろって、どうすればいいのさ。今直ぐには見せられないぞ。今度会った時見せてやるから、それでいいだろ」

「駄目、今度会った時じゃ嫌よ。今直ぐに!」

「そう無理言うなよ。これから君に会うなんて、もう十時過ぎだぜ。今度会った時で。そりゃ、この前より強く愛してやる。君の身体が壊れるくらい行かせてやるからよ」

「まあ、何ていうこと言うの。まったく裕太って、エッチなんだから。壊れるくらい行かせるだなんて、馬鹿…」

「あれ、嫌なのか。そうして貰いたくないのか?」

「そんなこと、恥ずかしくて答えられないわ」

「なに言っているんだ。二人だけの話だ。誰にも聞かれてなんかいるものか。俺だって、直ぐにでも君が欲しいんだ」

「まあ、そんなこと言われたら。私だって欲しくなっちゃう。だから、駄目よ。そんなこと言っちゃ…」

にわかに上気しているのか、息遣いが荒くなっていた。

「ところで、夏美。さっきの証のことだけど、どうすればいいんだい?」

脱線した話を戻す。

「ああ、そうだった。あなたが変なこと言うから、脇道に逸れちゃたんじゃないの。そう、今直ぐに見せてちょうだい」

「だから、どうすればいいのか聞いているのさ。教えてくれよ、そうすれば見せてあげるから」

「それじゃ、キスしてくれる?」

「ええっ、キスって。会っていないのに出来ないよ」

「いいの、電話でくれれば」

「なんだ、そんなことか」

「ええ、会えない時は電話でキスするの。但し、気持ちを込めなきゃ駄目よ」

「わかった。それじゃ、ディープキスするか」

「馬鹿、そんなこと言って…」

恥じらうが互いに電話を通じ交わし、裕太が優しく言葉をかける。

「夏美、愛しているよ」

「私だって、愛しているわ」

すると、正木がとっぴでもない声を上げた。

「おお、そうだった。君に話したいことがあったんだ!」

「なによ、急に大きな声を出して。いったい、なんなの?」

いいムードに浸っているところを、壊すような奇声につっけんどんに応えた。だが、お構いなしに続ける。

「じつはな、夏美が想像していないことが始まったんだ。なんだかわかるか?」

「私が想像しないことってなんなの?」

「食い始めたんだ」

「なに、食べ始めたって?」

「だから、こいつがやっと餌を食うようになったんだ」

「ええっ、こいつって。まさか、あなたのところにいるカラスのこと?へえっ、野生のカラスが、裕太の与える餌を食べるなんて驚いたわ。奇跡的なことね」

「まあな、俺の献身的な愛が通じたんだ。夏美だってそうだろ。あの時のよがる声など、まさしく俺の愛に応えている証拠じゃないか」

「また、そんなこと言って。よがり声なんて、私あげてません!」

「そうかい。『いい、いい』って、鼻を膨らませていたぞ」

「なによっ、裕太ったらエッチなんだから。嫌いよ!」

「あれれ、あれだけ悦ばせているのに、嫌いだなんて言われちゃ立つ瀬がないよ。むしろ、感謝のひとつも言って貰いたいね」

「馬鹿、裕太の馬鹿。…でも、好きよ」

「そうこなくっちゃ。よしっ、今度会った時は、もっと悦ばせてやる」

「駄目よ、そんなこと言っちゃ。なんだか、感じてきちゃうもの…」

声が上ずるが、突然尋ねる。

「ところで、裕太さん。そのカラス、名前はあるの?」

「おお、あるぞ。クロと名づけたんだ。いい名前だろ」

「ええっ、クロ?…そうね、確かにカラスは黒いから、そういう呼び名になるわけね。でも、裕太って単純ね。カラスの名前がクロだなんてさ」

「悪かったな。どうせ俺は単純さ。黒いカラスをクロと名付けてなにが悪い。呼びやすい名前じゃないか」

「言われてみれば、そうも言えるわね。妙な名前付けるより、いいかもしれないわ。…クロちゃんか。ねえ、今度紹介してくれる?裕太さんの恋人としてさ」

「そうだな、今度わが家に招待するから、その時に紹介してやるよ」

「嬉しいわ。でも、私に懐いてくれるかしら?」

「どうかな、カラスという鳥は賢いから、意地悪するような邪な考えを持っていると駄目だと思うよ。まあ俺みたいに、たっぷり愛情をかければ別だがな」

「私、そんな。虐めるなんてしないわ。あなたが面倒見ているように、私も手伝ってあげたいの。翼の傷が早く治り、空を飛べるようになるまでね」

「それだったら、調べてくれないか。今の治療方法で正しいかを」

「わかったわ。それじゃ、近いうちに図書館へ行って調べてみる」

「それじゃ、ついでに食い物も頼むよ」

「そうね、一緒に調べるわ。目途がついたら連絡するから」

「やっぱり、夏美は頼りになるな。協力に感謝する。ほれ、クロだってこっちを見て聞いているぞ。なあクロ、今度俺の恋人を紹介するから。絶世の美人だぞ」

電話口で聞く夏美が恥らう。

「まあ、そんなこと言ってもわからないわよ。でも、褒めてくれると嬉しい。ところでクロって、男の子なの女の子なの?」

「いや、そこまではわからん。でも、クロの取った行動から、怪我をするくらい気性の激しいのをみると、男だと思うがな」

「そうなの、それならクロちゃんでいいわね。女の子じゃおかしいもの」

「それもそうだな。夏美、今日は有り難う」

「あら、どう致しまして。裕太、随分謙虚な態度ね」

「いいや、常に感謝の心を持つことが大切だ。それで、その意を表している」

「そうなの、それじゃ私もあなたの声が聞けて感謝します。有り難うございました。それじゃ、今夜はこれでね」

「あれ、ちょっと待てよ。このまま終わっていいんですか?」

「ええ、どういうこと。なにか言いたいことあるの?」

「忘れていませんか?」

「なにを?」

「ほら、あれだよ。あれ!」

「あれと言われても…。あっ、いけない。それじゃ裕太、愛しているわ」

「俺も愛しているよ」

二人は電話口で長いキスをし切った。正木はスマートホンを置き、クロを見ると様子をじっと伺っていた。

「あれ、お前。盗み聞きしていたな」

すると、クロが「カア!」と鳴く。

「そうか、聞かれてしまったか。夏美が、今度治療方法や好物を調べてくれるから期待して待っていろ。さてっ、時間も遅いしシャワーを浴びて寝るか」

正木の長い一日が終わった。翌朝起きてみると、鮭弁当が空になっていた。

「おお、クロ。食ってくれたか、有り難う!この調子で体力をつけ元気になってくれ。とにかく、飛べるように傷が治るといいな」すると、クロが「カア!」と返してきた。

それから一週間が経つと、夏美から返事がくる。説明によると、治療方法はやはり同じものだったし、餌も正木の考えと大差なかった。

最近、クロも食が進んでいるせいか、当時に比べ元気が出てきたように思えるが、翼の方は完治まで程遠かった。欠かさず三日に一度の割合で消毒し、化膿止めを塗り包帯を巻いてやった。

以前と比べ暴れなくなったし、馴れたせいか治療の方も手馴れてきた。それから一ヶ月があっという間に過ぎた。ここまでくると翼の傷も癒えてきたのか、しきりに羽をばたつかせるようになる。そろそろ、割り箸を添えた包帯を取る時期かもしれない。専門家でないので、どのタイミングで取っていいのか迷ったが、もう少し様子を見ることにした。

「包帯を外す時期を、夏美に相談してみるか」とぽつり漏らす。

この時期になると、愛着というか、一ヶ月も伴に暮らすと仲間意識が強くなった。一方では完治後仲間の下へ返さねばと思い、他方で手元に置きたいと望む。そんな相反する思いが交差し、複雑な気持ちになった。それは、クロを介した職場からの逃避詭弁であり、拠りどころになっていたからだ。

正木の職場での境遇は相変わらずだった。気象予報が外れると、部長の異常なまでの罵声が響き、心の傷を癒してくれるのが夏美でありクロだった。それ故、クロがよくなるにつれ複雑な思いが大きくなっていた。




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