二節

正木は久しぶりの夏美との情事に熱く燃えた。彼女とて然りである。夢中になって貪りあった。それで満足である。男と女の濃密な契りにより、愛の証を確認した二人は、ホテルを出てJRの新大久保駅まで腕組みして歩いた。

そんな時ほど、言葉はいらない。ゆっくりと歩く。夏美も意識的に寄り添うと、正木の腕に豊満な胸が当たり、その刺激が交わしたばかりの情事を脳裏に甦えらせるが、胸の奥に封印した。帰る方向が違うため、新大久保駅の改札を通り抜け別れた。プラットホームで惜しみつつ手を振り、正木は来た電車に乗る。新宿経由で三鷹駅で下車し、改札を抜けいつもの道を自宅へと向った。

午後十一時過ぎである。

正木は酒と情事の酔いに満ちていた。人影のなくなった舗道を覚めやらぬ思いで歩いていると、前方の街路樹の下に小さな黒い物体がうずくまっているのに気づいた。 

おや、何だろう…。と近くまで来て、それが傷ついた幼いカラスであることを知った。見過ごし通り過ぎようとした時、偶然にもそのカラスと目が合った。そのような気がした。

助けて欲しい。とその目が訴えていた。

満ちいる想いでいたこともあり、なんの躊躇いもなく、また後のことも考えず拾い上げ、自宅へと連れ帰ったのである。幼いカラスは抵抗することなく、正木の手に収まり拾われていった。久しぶりの激しかった情事のせいか、はたまた酒飲による酔いのせいかその夜は熟睡した。朝起き、あらためてカラスがいることに気づく。

その幼カラス、片羽が折れ衰弱し床にうずくまっていた。それを見て、安易にも連れ帰ったことを悔いた。

ああ、これはどうしたことか。つい、拾ってきたわいいが、どうすりゃいい。このままにしておくわけにもいかんし…。とは言え、飼うことなど出来ない。それに、片羽が折れているではないか。このまま見捨てるわけにもいかんし。さりとて、参ったな…。

負傷したカラスを見ながら思案にふけるが、よい知恵が浮かぶわけもなく、困り果てていた。ところが見詰めていると、戸惑いとは別に救命思考が疼き出す。

しかし、この傷をどうしたらいい。それになにを食っているのか。けど、そんなこと考えたこともなかったな。そう言えば、たまに朝夕の飲食街で、残飯に群がっているのを見たことはあったが…。

さらに、いつぞや見たカラスの行動が目に浮かぶ。

早朝出勤時に、新宿の歌舞伎町を通り抜けた際に見たことがあった。

残飯の入ったごみ袋を漁っていたな。気色悪かったから、よく見なかったが。そんなところを考えれば、雑食性かも知れんな…。

そのまま深く考えず、冷蔵庫から秋刀魚の缶詰を取り出し、そして椀に水を入れぐったりするカラスの前に置いた。もちろん、怪我をしていても野鳥である。警戒心から身構え、じっと窺うだけだった。

このままじゃなんだから、とりあえず巣箱でも作ってやるか。と周りを見回し、手頃な菓子箱を見つけティッシュペーパーを敷き、そこに傷ついたカラスを入れてやった。

抵抗はしなかった。と言うより、衰弱し抵抗する力がなかったのかもしれない。

暫らく様子を見るが、正木には勤めがある。このまま世話を続けるわけにはいかない。そうこうしているうちに朝飯を食う時間を逸し、慌ててカラスをそのままにし自宅を出た。

気がかりではあったが、致し方なかった。とにかく、今夜帰宅する前に本屋に立ち寄り、治療方法やどんなものを食うか調べるつもりでいた。もちろん、帰宅時まで生きていればの話である。

その日は業務上で差し迫ったものはなく仕事を終えた。何故そうなったかというと、昨夜の気象予報が的中したからだ。これでは、部長にしても反省会を開き正木を吊るし上げるわけにもいかず、すんなりと終えていた。

普段であれば、いつものように部下たちと居酒屋へ繰り出し午前様となるが、今日は違った。負傷した幼カラスが気になり、部下たちとの飲み会もせず、帰りがけに本屋へと直行した。書棚を覗くも、カラスに関する本などない。仕方なく鳥類全般の病気怪我、あるいは餌類などの記された本を買い、さらにコンビニへ寄り弁当を二つ買って帰った。

自宅へ戻ると箱の中にカラスがいて、まだ生きていた。正木は、それを見てなんとなく安堵する。

ただ、警戒心からか、与えておいた秋刀魚には口ばしをつけていなかった。酔っていたとはいえ、飼う気などないまま拾ってきたことに、安易だったとあらためて悔やむが、今こうして急ごしらえの巣箱で息づくカラスを見るとなんとなくほっとした。だが、これからどうするという当てもなく、生き物の生命を考えると次の不安に駆られる。

カラスが餌を食わなければ、いずれ衰弱して死んでしまうだろう。さらに、怪我をして飛べないのだ。手当てせずそのまま野に放てば必ず死に向う。そうかと言って、どう治療してよいのか…。

まったく見当がつかなかった。ただ、購入した本を読み雑食性であることから、自分用のと弁当を二つ買ってきた。それに拾ってきた時の状況から、ドラックストアで消毒液、包帯、化膿止めを買い揃えた。

怯える眼差しでいる幼カラスと向かい合い、まずは腹ごしらえをする。食いながら話しかける。

「どうだ傷の具合は。どうも羽が折れているみたいだな。痛いか?しかし、お前もどうしてこんなことになったんだ。犬にかじられたんか。まあ、そんなへませんだろうが。じゃ何故、こんな怪我をしたんだか。うむ、俺には分からん。

そう言えば。昔、ある本で読んだことがある。お前たちは縄張りを持っているそうだな。それに仲間でも位というか、上下関係があるらしいな。当然残飯を漁る時も序列があるんだろ」

語りかけていた時に、突然閃いたのか声を張り上げる。

「そうか、もしかして。お前、それを破ってお咎めを受けたんじゃないのか!。それとも他の集団に縄張りを荒らされ、そんな風になってしまったんか。まあ、俺には分からねえが。いずれにせよ、怪我をして飛べなくなったんだ。これじゃ、餌だって捕れないし、ねぐらにも帰れないよな」

弁当を食いつつ、缶ビールを飲む。

「それに、お前たちは単独で行動しないとなれば、集団から離脱したことになる。となれば、怪我をした時点で仲間外れになったことを意味する。そうか、お前は見捨てられたんだ」

箸を止め、改めて幼カラスを見つめた。

「しかし、お前も哀れだな。このまま俺に拾われなけりゃ、野良犬に襲われていたかも知れない。とんだ命拾いをしたな。けどよ、俺はお前を救う知恵がない。だけど、なににかの縁だ。こうしてここにいるんだからな。それにしても、どうしたものか」

「本当のところ困っている。最善策としては、まず餓死しないようお前が飯を食うこと。それに、翼の怪我が治ることだ。そうであれば、俺はそれに手を貸してやる。怪我が治り飛べるようになったら、仲間のところへ帰れ。それまで、面倒見てやるしかないだろう…」

いつの間にか、飼うことにしていた。早飯を済ませ、ひと休みする間もなく次の思案へと移る。

「そうだ、早速傷の手当てをしてやらねばならん。その前に、どんな具合だか」とカラスに近づくが、警戒心から差し出す手を口ばしで攻撃し、逃れようと羽ばたくが、片方の羽根がだらりと垂れ、思うように動けない。

「こらっ、静かにしろ。傷の具合を見てやるんじゃないか。なにも、お前を取って食うわけじゃない。ほら、静かにしろ。あまり動かすと余計傷が悪くなるぞ」

逃れようとするカラスの羽の根元を持ち、折れた翼を広げてみた。

「ここのところが、折れているのか。それに突っつかれ傷がある。やはり推測が当っていたな」

暴れるカラスを押さえながら、傷の具合を診た。そして巣箱へ戻し、本を読み始める。

「うむうむ、そうだな野鳥を治療するのは難しいか。書かれているのは飼い鳥のことばかりだ。でも、やるしかないか。元はといえば自然界の掟だ。怪我をし飛べなくなった野鳥は、生きる権利を剥奪されたのと同じなんだ。やはり、難しいかな…」

眉間に皺を寄せた。

「けどよ、このまま死を待つなんて、そんな冷酷なことは出来ないし、見放すことなど出来るか。よしっ、とにかく怪我の手当てをしてやろう」

そう思い、消毒薬を取り、再びカラスを掴もうとした。

「さあ、治してやる。絶対とは行かないが、一生懸命治療してやるから暴れるな。それでなくても、初めてなんだからよ」

翼の根元を持とうとすると抵抗する。

「ほれ、静かにしろ。それじゃ手当てが出来ないだろ!」

ぎこちなく押さえるが、余計に暴れ出した。

「ちぇっ、しょうがねえ」

暴れる幼カラスを巣箱へ戻す。

「こりゃ、消毒薬も塗れん。さてどうするか」思案し始めるが、カラスはますます警戒心を募らせていた。

「あれ、待てよ?」

不思議なことに、あることに気づく。

奴を掴んだ時、逃げようと羽ばたいたが、本来、身に危険が迫れば口ばしで攻撃するはずだ、それがない。それに、鳴き声だってちょっと違うぞ。どうしてなのか…。

解明つかぬが、なんとなく意思が通じてかと勝手に解釈し、どうすれば薬を塗れるかに思考が向いていた。考えた挙句、単純なことを思いつく。

「折れかけている翼を固定すればいいんだ。それには添え木が必要だな。そうだ、今使った割り箸を使おう」

割り箸を翼の長さに折り、二本用意した。

「まずはこの箸で羽を固定し、消毒薬で傷口を洗わんと化膿してしまう。そうなったら、こいつの命だって危うい。それにしても、暴れるから上手に固定できるかどうか」

警戒するカラスに手を添えた。

「ほら、静かにしていろ。俺もこんなことするのは初めてだ。最善の処置かわかぬが、これしか思いつかんのでその通りにやる。だから、素直に言うことを聞いてくれ。決して危害を加え様としているんじゃない」

そろりとカラスを捕まえた。その瞬間、激しく羽ばたく。危険を察し、逃れようともがいた。

「静かにしろ、暴れたら固定できないじゃないか!」

なおも動くカラスを両手で押さえる。すると、折れかけた翼を広げて動きを止めた。

「そうだ、そのままじっとしていろ!」

宥めつつ、慎重に消毒薬で傷口を洗い、割り箸を添え応急的に包帯を巻いた。

「ううん、それでいい。こうしておけば助かる。偉いぞ。お前、俺の言うことが分かるのか。そうそう、そのままじっとしていろ」

必死の思いで翼を固定した。

「やっと出来た。まずはこれでいい。これで一段落した」

安堵の色が顔に出るが、この間警戒心を解いたわけではないが正木の成すことに従ってくれた。

「よし、これでいい。とりあえず処置した。そのままじっとしていろ。少し経ったら、化膿止めを塗ってやるからよ」

この治療の間、口ばしで攻撃するかのように身構えるが、痛みに耐えじっとしていた。時折、押し殺す様な鳴き声を放つ。

「クウ、クウ、カウ…」

「このままじっとしていろ。第一弾はこれで終わりだ。痛いのはわかるが、とにかく耐えて治す気持ちを持つことだ」

さらに訴える。

「これもなにかの縁だ。こうして治療してやるのはな。おっと、待てよ。この処置で助かるかどうか分からん。本を棒読みし、治療しているだけだからな。だから治らなくても恨むなよ」

言い訳染みた釈明をする。少し経ち、「さあ、そろそろいいか。消毒薬が乾いたら次の段階に移ろう」正木は警戒心を持つカラスの簡易包帯を取り、傷口に化膿止めの軟膏を塗った。そして、その上にガーゼをあて、また包帯を巻いてやる。

「さあ、終わったぞ。なあ、カラス。俺の出来ることはこれまでだ。あとは神様が助けてくれるかどうかだ。祈ってやる。元の身体になり、空が飛べるようになるのをな。そうすれば、仲間の下へ帰れる。そうだな、傷の具合にもよるが、どれくらいかかるかな。まあ、その間。化膿止めを塗り続けてやるから心配するな。そうだ、あとはお前が治りたいという強い意志を持つことだ。それなくして傷は治らん」

ひと息入れ、ふと気がついた。

「そう言えば、お前は昨夜からなにも食っていないんだろ。治すには体力が必要だぞ。そのためには、食わなきゃ駄目だ。お前は缶詰の秋刀魚が嫌いか。全然食ってないじゃないか。食わねえと死んでしまうぞ。しかし、カラスの餌ってなにがいいのか分からん。でも、お前たちは残飯を漁っているよな。それなら食えねえはずがない。

それに、本によれば生きた蛇や蛙も食うらしいな。まあ、そんなものを探すのは無理だから、俺の食う物と同じものをやる。それで我慢してくれ。とにかく食わなきゃ、餓死するだけだ。俺はそれを望まない。まあ、ここまでやってやるのはなにかの縁で、拾ってきてしまったからだ。そういうお前も、俺に拾われたのが、これまたなにかの縁と思え」

カラスを見つつ、さらに続けた。

「しかし、俺の言っていることが分かるのか。そうだよ、分かるんだ。だって、割り箸を添える時も薬を塗っている時も、従ってくれたものな。普通、野生の生き物は抵抗するのに任せた。と言うことは、お前も生きたいからだろ。それだったら、食わなきゃ生命を繋ぐことが出来んぞ」

缶詰を押し出すが、じっと見ているだけだった。

「まあ、焦っても仕方ない。とにかく食うんだ。わかったな」

一通り見よう見まねの治療が終わったことで、ひと息つこうと椅子に腰掛けて気づく。

そうだ、完了のビールでも飲むか。と思い立ち冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、テレビをつけた。そこで腕時計を見ると、午後十時三十分を回っていた。

「あれ、もうこんな時間かよ。それじゃ、ひと風呂浴びてから飲むか」

冷蔵庫に戻し、風呂場でシャワーを浴びていると、昨夜の夏美との情事が思い起され悶々とする欲望が渦巻き始めるが、そうだ、電話しなくっちゃ。と思い立つと情欲が飛散した。

早く出て電話しよう。夏美も驚くだろうな。カラスの治療をしたと言ったら、信用せず疑うんじゃないか。

半ば期待するように素早く入浴を終え、冷蔵庫から缶ビールを出し一気に喉の奥へと流し込む。

「うひゃっ、美味えな。さあ、電話かけなくっちゃ」

スマートホンの短縮ボタンを押すと、直ぐに夏美が出た。

「裕太、昨夜は有り難う。とても嬉しかったわ。それに、あなたの愛を心ゆくまで受け取った。愛しているわ」

「俺だって君が大好きだ。愛してるよ」

「ところで、こんな時間になにか用かしら。それとも、私が忘れられなくて電話をくれたの?」

「そうなんだ。また身体が君を恋しがって、だから電話したのさ」

「そうなの、私だって同じよ。ねえ、今度いつ会える?」

「そうだな、近いうちに。本当は明日にでも会いたいけど、仕事で遅くなると思う。我慢するから君も我慢してくれ。必ず近いうちにまた会おう」

「そうね、待っている。ねえ、裕太。私をどれだけ愛しているのか教えて?」

「言うまでもないさ。昨夜のことでわかるだろ。深く愛しているよ。それじゃ、君はどうだい?」

「誰にも負けないくらい愛しているわ」

「そうか、俺と同じだな。あっ、そうだ。知らせておきたいことがあったんだ」

「あら、なに?」

「じつは今、カラスの治療を終えたばかりなんだ」

「えっ、なんですって。カラスの治療?」

驚く夏美に、おもむろに応える。

「ああ、そうだ」

「どうして、そんなことになったの。びっくりすること言わないでよ。でも、それって本当なの?」

半信半疑で聞き返した。

「本当だ。でも、驚いただろ。俺だって正直言って、自分のしたことに驚いている。だってそうだろ、怪我したカラスを助けたんだからな。考えてみれば、君にも責任の一端があるような気がしてな」

「また、なんで私に責任があるのよ」

「昨夜、君と愛を確認しあっただろ」

「それとなんの関係があるの?」

「まあ、直接的には関係ないが、それが大いに関係ありだ。そうだろ、君だってあれだけ燃えたんだからな」

「なに、馬鹿なこと言って。そんなこと言われたら、思い出しちゃうじゃない」

上気する息遣いが聞こえてきた。

「俺だって、君の吐息を聞くと下半身が元気になっちゃうよ」

「馬鹿、そんなこと言って…。でも、どうして関係があるのかしら?」

「おお、そうそうだった。そこなんだよ。あの時は俺も激しく燃えおおいに満足し、酒の酔いも手伝ってか上機嫌で家路についた。そんな時、三鷹駅を出て歩いていたら奴を見つけ目と目が合ってな。つい拾い上げて帰った。と言うことで、俺を気持ちよくさせた君にも責任があるって言うことさ」

「あら、嫌だ。そんなこじつけて、恥ずかしいわ。でも、それって、ちょっとおかしいんじゃない。確かに私も燃えたわ。だからおあいこじゃなくてって。だから、私に責任があるなんてずるいわよ!」

「まあ、そうかりかりするな。言い過ぎかもしれんが、あの時は最高だった。ああ、また早く抱きてえよ」

「何、馬鹿なこと言っているの。裕太って、本当にエッチなんだから」

「あれ、それじゃ君は、抱かれたくないのか」

「そんなこと言わないで。私だって、馬鹿…」

恥らいが伝わってくる。共にひと呼吸置いた。

「ところで、裕太さん。さっきのカラスのことだけど、よく治療してあげられたわね」

「うん、苦労したけど。なんとか本を読み出来たが、これでいいかわからん。とにかく傷口が化膿しなけりゃいいが。それと、ひとつ気になることがあってな」

「それって、カラスのこと?」

「そうだけど。あれっ、もしかして別のこと考えていたのかい。例えば、次回会った時のセックスのこととかさ」

「変なこと言わないで。カラスのことよ!」

「そうだと思った。それでな、こいつ野生のカラスだろ。このままなにも食わなきゃ餓死する。それは本能的にわかっていると思うが、警戒心が強くて与えた缶詰の秋刀魚を食わないんだ。どうすれば食うか、いい知恵ないかな」

「急にそんなこと聞かれても、私だってわからないわ。でも、犬は愛情を注げば、心を開いてくれるわ。けれど、野生のカラスではどうかしら。それに、生き物すべて優しく接すれば心通うと言うわ。昔、確か本で読んだことがある…」

「それなら、こいつに愛情を注いでやるしかないか」

「そうね、そうしたら」

「そうだよな。俺と君だって同じだもんな。愛を深く注ぎ込むと、大胆に迎い入れてくれるしな」

「また、そんなこと言って。例えが違うでしょ!」

「ちょっと違うか。でも、相通ずるところがあるかも知れんぞ。少し粘り強く、餌を変え試してみるか。まあ、傷の具合と合わせやってみるよ」

「そうね、それがいい。あなたとそのカラス、なにかの縁で関係が出来たわけでしょ。それだったら、一生懸命世話してやるの。そうすれば、心が通じ食べるかもしれないし、頑張ってね」

「うん、君の励ましで、迷いも吹っ切れた気がするよ」

「どう致しまして。あっ、それと、忘れないでね。カラスのことばかり考えて、私のこと忘れちゃ嫌よ」

「決まってら、忘れるものか。今度会った時、ひいひい言わせてやるから」

「まあ、裕太さんったら。馬鹿…。でも、嬉しい。愛しているわ」

「俺だって、君のこと一時たりとも忘れちゃいない。だからこうして、電話しているんだ。それじゃ遅くなるから、これで切るな」

「ううん、わかった。それじゃおやすみ」

「ああ、おやすみ」

長い電話を切った。

胸中で疼きを覚えつつカラスを覗う。包帯で巻いた翼を広げ、巣箱で正木をじっと見ていた。秋刀魚を食う気配はない。正木は椅子に座り直し、再び鳥類の本を読み始める。

「うむうむ、『餌を巡る争い…』か。なるほど、『残飯を前にして争い、最初に食べ物を口にするのは、決まって争いに勝ったカラス』か。へええ…。それで、『負けた奴は傍で順番が来るまで待つ。待ちきれず横から掠め取ろうとすると、強いカラスに突かれ逃げ回る』のか…。ふうん、『こうした争いは、群れの中で強弱を決め序列を作り統率が保たれる』か。ふうん、カラスの仲間も弱肉強食なんだな。それでか、お前はその争いに敗れ怪我を負ったのか」

巣箱でじっとするカラスを見て頷いた。

「こうやって見ると、お前、まだ幼いんだな。それじゃ強い奴に負けるな。でも、命がけだから、盗み獲りしてでも食わなきゃ生きて行けんし。残飯が多けりゃいいが、少なけりゃ強い奴に食われてしまうよな。それじゃ死活問題だ」

さらに哀れむ。

「しかし、怪我して飛べなくなったら、仲間が助けてくれるわけじゃないんだろ。このまま見捨てられたらどうにもならんわけだ。自然界は厳しいな。俺らは怪我をしたり病気になっても、病院があるから大丈夫だけれど、お前たちにはないからな」

じっと見ていると、目を閉じる姿が幾分衰弱しているよう覗えた。

「このまま食わずにいたら生きていけんぞ。おい、カラス。安心しろ、俺は敵ではない味方だ。この食い物だって、毒なんか入っていないから、少しは食え。そうしたら、俺が味方かどうかわかるからよ」

そう言いつつ、皿に乗せた秋刀魚を近づけると、目を開け身構えた。

「心配するな。俺は味方だ。食わなきゃ死んじゃうぞ。手当てした時だって、最初は暴れたけど素直に応じてくれたじゃないか。だから安心しろ」

諭しながら、さらに近づけた。すると、翼をばたつかせ逃げようともがくが、飛び立てるわけがない。皿を引っ込めると、翼を戻し巣箱の中で正木を覗う。

「そうだろうな、お前と知り合ってまだ二日目だ。野生のカラスが二日程度で懐くわけがない。焦っても仕方ないし、気長に食うまで待つか。それと、夏美が言っていたが、やはり愛情を持って世話をしなければ、こいつだって心を開いてくれねえな」

再びテーブルに戻り椅子に腰掛け、さらに先を読み出す。

「うむ、『カラスのねぐら…』か、なるほど。なに、明治神宮ね。ああいうところか。それに『日本に生息するカラスの種類が十種類』か。結構あるんだな。

それにしても、区別なんかつかねえよ。なに、『ハシブトカラスは口ばしが太く、おもに町のゴミ捨て場や、汚れた河口や海岸に見られる』か。それに、『ハシボソカラスは山際の田畑、河原を縄張りとする』…のか」

本の写真と、巣箱のカラスを見比べた。

「…と言うことは、街中にいたし、若干口ばしも太い。こりゃ、ハシブトカラスだな」

さらに、カラスに顔を近づけじっと観察する。

「こいつがハシブトカラスか…。言われればそのように見えるが、まだ幼鳥だから。まあ、そういうことにしておこう」

そして、また本に目を移した。

「それに、『カラスの繁殖季節が三月の半ば頃』か。なに、なに、結婚のことも書いてあるぞ。なるほど、そうだよな。結婚となれば当然巣作りと産卵ということになる。『毎日一個づつ、合計で三個から六個を産む』のか。これが『七つの子』と言う童謡になるんだ。それに、やはり縄張りか。『巣を中心に半径五百メートルの広さ』ね。『そして春から夏の間、縄張りに散っていたカラスが、また冬のねぐらに集まり群れの暮らしを始める』のか。なるほどな。カラスの生態も俺ら人間と似ているな。それに弱肉強食というのも同じだ」

一通り読み、感想を漏らす。

「どちらにしても、このカラスは落ちこぼれたんだ。強いカラスに打ちのめされた哀れな奴か…。なんだか俺みたいだ。何時も部長に罵倒されているものな。くそっ、あのへっぽこ部長に負けてたまるか」

「よお、お前もこれしきのことで負けては駄目だぞ。とにかく、傷が癒えるまで面倒見てやる。だから秋刀魚を食ってくれ」励まし、腕時計を見ると午後十一時を回っていた。

「さあ、寝るか。また明日から頑張らにゃならんから。さあ、お前も寝ろ。それに腹が減っているだろうから、少し警戒心を解いて食ってくれ。それじゃ、おやすみ」

部屋の電灯を消し、ベッドへもぐり込んだ。昼間の激務と慣れぬカラスの世話で、直に寝息が漏れだした。その暗い部屋で、カラスがごそっと動き出す。なにをしているのか見当つかぬが、じっとしていなかった。

正木の鼾に警戒していたが、リズムカルな音に徐々に慣れ周りの様子を覗い始めた。用心深く見ていたが、そのうち危険がないことを察知し、秋刀魚を突っつき始めた。

よほど腹が減っていたのか、人為的に与えた餌を食い始めたのだ。それは、正木との仲間を認めることになる。拒絶し死を選ぶことから、共存しようと決断したのだ。

カラスという鳥は賢い。本能的に察知したのか、自らの境遇からどうすればよいかを決断したものと思われた。

その選択は、カラスにとって生易しいものではないだろう。

生と死。

集団行動からの離脱。

翼の怪我による飛行不能。

それは、仲間との別れであり死を意味する。そんな最悪の状態で、正木に拾われた。

それだけではない。

絶体絶命の窮地の中、献身的に我が身を考えてくれた。奈落の底に落ちる寸前で、手を差し伸べてくれたことに感謝してのことである。そして、彼が最も喜ぶ行動を取った。幼カラスには、それしか頭に浮かんでこなかった。

伴に生きて行こう。とにかく、この人間の期待に応えよう。それしか、恩に報いる方法はない。と判断した。

夢中で食った。いつの間にか、正木に対する警戒心が消えていた。この怪我をしたカラスはハシブトカラスで、年齢は一歳弱と幼きカラスである。仲間の暮らす巣営は井の頭公園にある。そこから、餌探しに三鷹駅前の商店街へやってきた。普段は早朝に来て残飯にありつく。いつもはそうしていたが、ありつけた量が少なかった。それで、ひもじい思いをしつつ巣営で過ごし、夕方から夜にかけて仲間の先導で再び餌を求め来ていたのだ。この幼カラスは、後順位で順番待ちをしていたが、腹が減っていた。つい、横取りしようと試みてリーダーに見つかり、袋叩きに合い翼を折られ飛べなくなった。仲間たちは、怪我した彼を見放しねぐらへ帰っていった。

それが自然界の掟なのだ。少なくとも、集団生活する群れでは規律が優先する。仲間とて、飛べないカラスを助ける手段は持ってない。自ら飛ばない限り仲間についていけない。それは結局、死を意味する。どうあがこうと、折れた翼は元に戻らない。飛ばなければねぐらに帰れず、野良犬や猫らの攻撃を避けられず、その危険から逃れることは出来ない。

そんな、窮地の危機を迎えていた時に、正木に拾われ一命を取り止めた。それも、深い愛情を持って怪我の手当てをし食べ物まで与えてくれたのだ。

カラスは頭の賢い鳥である。この正木の所為を脳裏に深く刻んだ。夢中で食い、腹を満たしたカラスは、今までの疲れから警戒心を解き巣箱の中で眠りに就いた。

セットした目覚まし時計が、時刻を告げる。起こされた正木が、空ろな眼差しでトイレにゆき、続けて洗面所で歯を磨き顔を洗うと目が覚めた。すっきりした顔でテーブルへと戻り、気になるカラスを見やり驚いた。

「やや、秋刀魚がねえ。食ったのか。そうか、やったぞ!これでお前も死なずにすむ。よかった、よかった!」

目をしばつかせ、巣箱にいるカラスを見て告げる。

「それにしても、どういうわけだ。野生のカラスが食うなんて。そうか、夏美が言っていたとおり愛情を注げば、それに応えてくれるんだ。これで、こいつも死なずにすむ。あとは怪我した翼の傷が化膿せず、治ってくれるといいんだが」

愛しそうにカラスを見つめた。

とにかく、こいつが飯を食って体力をつけなけりゃ、治るものも治らん。それにしても、俺が寝ている間に食ったということは、昼間は食わないということか。いや待てよ、そんなことはあるまい。

本の読んだページを思い起す。

それによれば、「だいたい早朝群れをなしてねぐらを飛び立ち、繁華街などに来て残飯を漁る」と書かれていたからな。と言うことは、秋刀魚を食ったのは夜中ではないということになるが。でも、たしかに寝る前はあった。それが朝起きたらなくなっていた。結局、俺が寝ている間に食っているわけだ。まあ、その辺詳しくわからんが、食ってくれればそれでいい。

安堵し、出勤の仕度に取りかかった。

さあ、コーヒーでも飲んで出かけるか。それじゃ今日は、昨夜買っておいた豚肉の細切れ。これは生ものだから、あとはスパゲッティーを置いておこう。食ってくれるといいが。

その後、急ぎコーヒーを沸かし、満足気に少々時間をかけて飲み身支度した。

「それじゃ、行ってくるからな。ここに置いておくから、腹が減ったら食え。そうだな、今夜は忙しいから遅くなる。午後十一時頃には帰るから、それまでお前一人だ。気兼ねなく過ごせるだろう。それじゃ行ってくるな」

言い残し部屋を出た。残されたカラスが、きょとんとした目で見送る。

「それにしても、夜に食ってくれたんだ。なんだか気分がいいな」と、漏らし駅へと向う足取りが軽やかになった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る