四節

正木は笑顔で吉田たちを送り出したが、決して心穏やかではなかった。今は次の気象予報の段取りで気が紛れているが、さもなくば間違いなく憂さ晴らしに自棄酒を煽りに行っていただろう。それが出来ぬのも自身の性格であり、ともかく邪見を抑え予測に没入していた。いずれにしても今日やるべきことは今日中にすませ、明日にでも夏美に会おうと決めた。

暫らくぶりのデートとなる。相手は経理部に所属する恋人で、名前は山城夏美、年齢二十五歳。正木が溺愛する女性である。

前回会ったのが、何時だっただろう。いや、一ヶ月以上は会っていない。毎日深夜まで仕事に追われ、デートする時間がなかった。

本音のところは、毎日でも会いたいが共に我慢した。その代わり、スマートホンで愛を確認し合った。もちろん、仕事中は出来ないが昼休みにメールした。それも他愛のない内容だが続けた。

夜になれば深夜帰宅しても、必ず電話で互いの愛を確認していた。昨夜もそうだった。正木が帰宅したのは午前一時を回っていたが、それでも夏美の声が聞きたくて電話した。彼女とて気持ちは同じである。彼の愛を確認すべく電話を待っていた。

スマートホンに着メロが流れ、開くと彼からだった。元気な声が耳に飛び込んでくる。

「夏美か、愛しているよ」

「…」

「もしもし、夏美?」

「…」

「あれ、どうしたんだ。あの…、山城さんではないですか?」

「は、はい。夏美です。私、あなたの声を聞けて嬉しいの。寂しかったわ。待っている時間が長くて…。でも、嬉しい」

「俺だって、寂しかったよ。君の声が聞きたくて、それで電話したんだ。夏美、俺のこと好きか?」

「…」

「なんで黙っている。好きか聞いているのに」

「ええ、大好きよ。でも…」

「でもって、なんだい。言ってごらん?」

「いいの、言わない」

「言わないって、それじゃわからないだろ」

「そんなの、恥ずかしいわ」

「恥ずかしいと言われても、余計わからないな。俺はお前が好きだし、一番愛しているんだぞ」

「ううん、嬉しい。私も裕太さんのこと、世界の誰よりも愛しているわ」

「そうか、俺なんか世界よりもっと大きいぞ。地球上でたった一人だけ、永遠に愛している人がいる。その人の名は山城夏美。心の底から愛している。どうだ、君より数段上だろ」

「あら、言ったわね。私なんか、もっと愛しているもん。だから、絶対に負けないわ!」

「おお、言ったな。夏美になんかに負けるか。世界など狭いぞ。何と言っても、地球規模で愛しているんだからな。地球上のすべてに負けないくらいだ。すごいだろ」

「ええ、とっても嬉しい。私、幸せ。でも、私の勝ちね」

「ええっ、そんなことあるか。世界よりずっと広いんだぞ。地球規模の愛より大きいものはない。そうか、言い訳だな。俺の方が勝っているから、そう言っているだけだ。負けは負け。観念して、『私の負けです』って、謝っちまえよ」

「言ったわね。あなたこそ、謝らなくってよ。私の方が、すごいんだから。まだ気づかないの?」

「ええ、なんだよ。気づかないって…」

少々声を落とすと、夏美が攻勢をかける。

「あら、どうしたの。さっきの自信は嘘かしら。それとも、観念しましたか?」

「なんだよ、その態度。随分自信があるみたいだな。本当に俺より、大きな例えがあるのか」

「明かしてもいいけど。でも、話したら裕太さんの負けになるし、どうしようかな。だってあなたが負けたら、がっくりするでしょ。そうなったら、私のこと嫌いになるんじゃないかと思って」

「いいや、そんなことない。たとえ負けても、気持ちは変わらない。でも、ちょっとだけ嫌いになるかな」

「…」

「あれ、どうした。なんで黙っちゃうんだ」

「だって、私のこと嫌いになるんでしょ。私、嫌よ。あなたに嫌われるのは、絶対いや!」

拒絶する言葉が、耳に突き刺さってきた。

「冗談だよ、嫌いになるわけないだろ。負けると悔しいから、ちょっと意地悪して言っただけだ。だから、安心しろよ」

「本当に嫌いにならないわね」

「嘘じゃない。神様に誓うよ」

「嬉しい。私だって、いつまでも愛しているわ」

「それで、さっきの続きだけど。俺の愛より大きいものってなんだい?」

「ああ、そうだった。それじゃ、教えてあげる」

「おお、俺に勝る愛の表現をね」

「ちょっと待って!」

「ええっ、なんだよ。待ったはないだろ」

「そうよね。でも、その前に。私が勝ったら、なにをしてくれるの。それを先に聞いておかなくっちゃ」

「なに言ってんだ。まだ、俺が負けたわけじゃない。それにもし君が負けたら、なにをしてくれるか聞きたいね。俺だって勝つかもしれないし、そうなった場合は権利があるからな」

「あら、自信があるのね。本当に私に勝てると思っているの?」

「ああ、俺も男だ。絶対に自信があるね。夏美になんかに負けてたまるか」

「まあ、言ったわね。それだったら約束してくれる。もし私が勝ったら、言うこと聞くって」

「おお、約束する。その代わり、もし君が負けたら言うこと聞くか。それなら約束してもいい」

「ええ、わかったわ。私が負けたら、あなたの奴隷になるわ。その代わり、私が勝ったらあなたは奴隷よ」

「ああいいとも、勝負だ」

「ええ、迎え撃つわ」

「おいおい、迎え撃つとの威勢はいいが、君が勝つという大それた理由を説明するんじゃないのかい?」

「あっ、そうだった。つい入れ込んで話すの忘れていた。それじゃ話すわ」

「ああ」

「ところで、あなたの愛の表現ってなんだっけ?」

「おいおい、忘れたのかい。しょうがないな。それじゃ勝負にならんぞ」

「ご免、ご免。もう一度教えてくれる?」

「ちぇっ、しょうがねえな。君の愛は、世界の誰よりも愛しているということ。俺はその上を行く地球規模で愛していることだ」

「そうだったわね。裕太さん、男に二言はないわね」

「ああ、決まってら」

「それじゃ言うわよ。私の愛は、もっとスケールが大きいの。だって、地球は太陽系の一つの星よね。よく考えてみて?」

「えっ、なんだよ。それって、意味がわからないな…。太陽系の惑星か。それがどうしたんだ」

「まだ、わからない」

「ああ、わからねえ…」

すると、夏美が種明かしをする。

「地球というのは一つの星でしょ。太陽というのは、幾つの星を従えていると思う。月を含めると十一の星よ。私の愛は、太陽と同じくらい愛しているわ。そう、宇宙の星のすべてより勝っているの」

「ええっ、本当かよ。それって、俺の負けということか?」

「わかった?地球は太陽系の一つでしかないの。そう、私の方が深く愛しているということね」

「うむ、確かに地球は太陽系の一つだ。ということは、夏美の言うことを聞かなきゃならないということか」

「そういうことね。それじゃ、なんでも聞いて貰えるわけだ。それなら、今から私の奴隷ね」

「ええっ、今からかよ。それはちょっと早いんじゃないか。せめて明日からというわけにはいかないかい?」

「駄目よ、約束なんだから。守って貰うわよ」

「ちぇっ、けち!」

「けちもなにもない。今から奴隷でしょ。逆らったらひどい目に遭わせるから。言うこと聞きなさい!」

「はいはい、わかりました。ご主人様」

「そうよ、最初から素直になればいいの。裕太奴隷さん、それじゃ命令するわよ」

「おいおい、もうかよ」

「あらら、また逆らう気ね。お仕置きしたいけど、電話じゃ出来ないし。今度会った時してあげる…」

言葉が詰まり嗚咽に変わると、正木が驚く。

「あれっ、どうしたんだい。急に泣く奴があるか。夏美、愛しているよ」

「うん、私だって。愛しているわ」

涙声で返すが、急に勢いよく告げる。

「そうだった。裕太は奴隷だったんだ。言うこと聞いて貰わなきゃ。命令するわよ。今度会った時、優しく抱いて下さい」

「ええっ、抱いてくれって。…それが命令かい?」

「…」

「なんで黙る。夏美、それが命令か聞いているのに」

「馬鹿、裕太の馬鹿…。何度も聞かないで。恥ずかしいでしょ。でも、どうしてもそうして欲しいの。それじゃないと、私、寂しくて。あなたに抱き締めて貰いたいの…」

「ああ、わかったよ。今度会ったら、唇が腫れるほどキスしてあげるから」

「まあ、恥ずかしい。でも、嬉しい。愛している、裕太…」

「俺も愛しているよ。今からでも会って抱き締めたい」

「嬉しい。でも遅いから、今度会う時まで待つわ。辛いけどそうする。近いうちに必ず会ってね」

「ああ」

感極まるのか、電話口での会話が止まる。正木の胸は激しく揺れていた。どうにも抑え切れない欲望が全身を駆け巡る。夏美とて同じだ。スマホを握る手が小刻みに震えた。愛する裕太の息遣いが鼓膜に響き、それに合わせ胸の高鳴りが激しくなっていた。言葉にならない衝動が胸を揺する。嬉しさが込み上げ、大粒の涙が頬を伝っていた。

「裕太さん、私を嫌いにならないでね…」

嗚咽とともに、それだけ言うのがやっとである。すると夏美の耳に、優しい言葉が注がれる。

「俺だって、誰にも負けないくらい君を愛している」

「嬉しい」

「絶対離さないからな」

「うん。それじゃ、遅いからスマホ切るね」

「そうだな。また明日電話するから」

「待っている。でも、その前に昼間はメールが欲しいな」

「ああ、昼休みにメールするよ」

「裕太、なんて入れるの?」

「決まっているだろ。愛していると入れるんだ。それに、君が欲しいと加えるのさ」

「まあ、恥ずかしい。でも…」

「冗談だよ。君が欲しいなんて入れるわけないだろ」

「馬鹿っ、裕太の馬鹿。本気にしてしまったのに、裕太なんか大嫌い!」

胸中を当てられてか、真逆の言葉を発した。でも、本心から裕太に抱かれひとつになりたいと願った。裕太にしても冗談と言ったが、それは嘘である。心から愛しい夏美を抱きたかった。そして、今別れを告げたばかりなのに、互いに電話を切り難い思いでいた。




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