三節

正木は席に着くや背筋を伸ばし「コッホン!」と咳払いをし、意気込みを示す。

「さあ、始めるか!」とワイシャツの腕を手繰りあげ、パソコンのキーを打ち何やら調べ始めた。そんな別人のような正木の様子を、田口が不可解そうに老眼鏡越しに窺う。

なんだ、正木の奴。あれだけ痛めつけたのに、けろっとしていやがる。頭がおかしんじゃねえか。普通なら立ち直れんくらいがっくりしているはずだが。それが、一時間も立たんのにしゃきっとしていやがる。うむ、これは…。奴め何か企んでいるな…。

さらに、それとなく窺い思案する。

そうか、わしに仕返ししようとしているのか。反省会議で痛めつけた腹いせに、今夜あたり闇夜に乗じて襲うつもりかもしれん。

そう思うとうろたえた。

うぬ、これは一大事だ。せいぜい帰りは気をつけんと。そうだ、この際先に奴の動きを封じよう。

頃合いを見て、田口が正木を猫なで声で呼ぶ。

「正木君、ちょっと来てくれんか」

高圧的ではなく、低姿勢で手招きした。だが、画面に集中する正木は気づかない。ふたたび、田口が少々大きな声で呼んだ。

「正木君、忙しいところ悪いが、こちらに来てくれんか!」

それに気づき正木が部長を覗うと、手招きされた

「忙しいところすまんが、ちょっと来てくれ」

「は、はい。申し訳ございません。気づきませんで」

謝りつつ部長席へと行くと、田口が謝る。

「正木君、先ほどは悪かった。局長の前で恥を掻かせてしまい、さぞ辛かったであろう。本来であれば、このわしが責任を取るべきところを、あのような展開になって。謝るから気を直してくれんか。悪かった、この通りだ」

座ったまま、机上に両手をつき頭を下げた。

「部長、そのようなことしないで下さい。もとはといえば、予測が甘いため外れたわけでして、すべて私に責任があります。ですから、叱責されたことに異を唱えることなどございません。ですので、お手をお挙げ下さい。私がいけないのですから」

正木が逆に頭を下げた。すると、満足気に応じる。

「いやいや、正木君。そこまで言うなら、気持ちも晴れる。あの時はわしも真剣だったので強い口調で責めてしまったが、こちらに戻って反省していたんだよ。分かってくれればそれでよい。そうか、そう理解しているならわしの意見もまんざらではないな」

にやつく視線を正木に向けた。

「はい、ごもっともでございます。私など部長の下に置かせていただき感謝しています。今後ともご指導を宜しくお願いします」

腹にないことを告げた。そう言われ、田口が嘯く。

「わしこそ頼り甲斐のある部下を持って誇りに思っている。これからも、たびたび鞭を打つがついてきて欲しいもんだ」

「宜しくお願い致します…」

杓子定規に告げ、部長席を離れ自席に戻り仕事に就いた。そんな正木の様子を窺い上機嫌で頷く。

これでいい、こうしておけば、先ほどの危惧も絵空事になる。まあ、正木などこうして懐かせればわしに危害など加えんだろう。

危惧する不安が薄れていた。軽く握った拳を口元に添え咳払いをする。安堵感が胸中で広がると、下半身がむず痒くなり情欲が膨らんできた。

うむ、今夜は久しぶりに純子でも抱いてやるか…。

含み笑いを抑え、やおら席を立ちトイレへ向った。そこでスマートホンを取り出し、秘書部の谷川純子を呼び出した。

「はい」

甘い声が響いた。

「わしだ。今晩一緒に飯でも食わんか。都合はどうだ?」

すると、純子が周りに聞かれないように、受話器を手で隠し小声で応じる。

「えっ、急に今晩だなんて駄目よ。だって、友達と食事する約束があるんだから。ちょっと待って。別のところから架け直すわ」

「ああ」

返事を聞あたと受話器を置き、谷川は直ぐに席を離れ非常階段で架け直す。

「ご免ね」

「ああ、いいんだ。しかし、そりゃ困ったな。純子、それ断れよ。どうしても今晩、お前と飯を食いたいんだ」

「なによ、急にそんなこと言って。部長ったら、いつも強引なんだから。駄目、駄目よ」

「そんなこと言うな、今日は特別だから。一緒に食いたいんだ。いいだろ、うんと言ってくれ」

強引に誘った。純子が抵抗する。

「特別だなんて、なにかいいことあったの。教えて、教えてくれなきゃ約束してあげないわよ」

「そうか、教えれば今夜付き合ってくれるんだな」

「まあ、付き合うだなんって。食事するだけじゃないの?」

「なにを焦らすんだ。食事といえばわかるだろ。惚けて」

「なにも惚けてなんかいないわ。ところでどんなことか教えなさいよ。それじゃなければ、先約が優先するんだから」

「ちぇっ、しょうがねえな。じつはな、今日正木の奴を痛めつけてやったんだ。それも局長の前でだぞ。すかっとしたな。おっと、それはどうでもいいが、会議の後局長に呼ばれて内密に教えてくれたんだ。なんだかわかるか?」

聞き入る純子を、田口が焦らす。

「まあ、嫌ね。そんなのわかるわけないでしょ。いったいなんなの」

「そうだろうな、女というのは。もっぱらあっちの方は興味を持つが、出世に関しては無関心だものな」

「えっ、もしかして、あなたが偉くなる話かしら?」

「そのとおりだ。いや、まだ正式じゃないが内定をもらった。副局長昇進を、今度の役員会で推薦してくれるそうだ」

「あらそうなの。それはおめでとう。よかったわね」

純子が、抑揚なく告げた。

「おい、そんな気のない言い方はないだろ。もっと喜べよ」

「それは、ごめんなさい。それはそれは、おめでとうございます!」

これみよがしに告げると、不満そうに返す。

「純子、それだけかい。他に言うことがあるんじゃないか?」

「なによ、まだ他に言って貰いたいわけ?」

「そうじゃない。そんなことより他にあるだろ。呆けちゃって。ほら、答えてくれよ」

「なんだかわからないわ。偉くなるんでしょ。「おめでとう」だけじゃ不満なの。だったら、どう言って欲しいの?」

「わからねえかな。ほら、お祝いにプレゼントするものがあるだろ」

「プレゼントって、昇進祝いが欲しいわけ?」

「馬鹿だな、そんなものいらん。別のものだよ、もっと大事なもの。お前がくれるものでいいものだ」

「ああ、部長って。エッチなこと考えているの。いやらしいわね。遠回しに身体をあげるって言わせようとしているのね。ものすごく卑猥に聞こえる。部長ったら、そんなこと言えないわ。恥ずかしいもの…」

「なにが恥ずかしいだ。昇進祝いに、一番欲しいのはお前だろ。そのむっちりとした裸体を想像するだけで、下半身がいきり立ってくるわい」

「馬鹿なこと言って。私だって、そんなこと言われたら感じちゃうわ。意地悪なんだから…」

「それでいい。こんなめでたいことだから、一緒に飯でも食おうと誘ったんだ」

「そうなの。それじゃ、先約を断らなきゃ。わかったわ、今晩付き合ってあげる」

純子の返事が、鼻に抜けた。

「それじゃ、いつものところで待ち合わせよう。ええと、時間は午後六時でいいな」

「ええ、わかったわ。それじゃ、崇史愛しているわ」

「おお、俺も愛しているぞ。今晩、たっぷり可愛がってやるからな。そのつもりでいろ」

「そんなこと言って、夜まで待てなくなっちゃう」

「そうかい、俺だって下半身が元気になったぜ」

「まあ、嫌ね。そんなこと言って、馬鹿…」

上気したのか、純子の言葉が途切れた。すると、すかさず田口が告げる。

「いいだろ、二人の秘密話なんだから。それじゃ、今晩一緒に飯を食おう。せいぜいスタミナのつくもの食わなきゃな」

「ええ、嬉しいわ」

「それじゃな」

「うん…」

純子の上気した返事を惜しみつつスマートホンを切って、さりげなく自席へ戻った。するとそこへ、森下美穂がお茶を入れ持って来た。

「どうぞ、熱いお茶を入れてきました」

「おお、有り難う。いつもすまないね。それにしても、森下君は気が利くな。ちょうど飲みたいところだったんだ。有り難う」

言いつつ、お茶をすする。

「どういしまして。ところで、部長。いいことでもあったんですか。顔がにやけていますよ」

「そうか、別になにもないがな」

「そうですか。そんな風には見えませんけど。もしかして、今晩いいことでもあるんですか?」

「いいや、特にないぞ…」

「そうですか、私もたまには、部長のような素敵な男性に食事でも誘われてみたいな」

惚け、軽口を叩いた。

「なに、言っている。こんなじじい、こっちが望んだところで誰も相手にしてくれやせん。なんなら君さえよければ、いつでも食事に誘うがどうだ?」

眼鏡越しに冗談を言った。

「まあ、嬉しい。でも、私、部長に興味ありませんから」と森下がさらりとかわした。

「そうだろう。わしが誘うと、いつもそうやって断られる。まったく年は取りたくないな。ところで森下君、私の午後の予定でなにが入っているかね?」

「ちょっとお待ち下さい。直ぐにお調べしますから」

スケジュール手帳を見て応える。

「ええと、午後三時に夕方発表の気象予測の最終チェック会議が入っていますが、今のところそれ以降はございません」

「そうか、それなら今日は定時で上がらせて貰うか。毎日遅いんで、最近疲れ気味なんでな」

「それが宜しいかと存じます。いつも午前様でしょうからね。たまには早く帰って、鋭気を養って下さい」

見栄みえのおせいじを口にするが、心内で毒づく。

「なに言っているの。しゃあしゃあとそんなこと言って。隠したって、顔をみればわかるんだから。まったく隅に置けないわね」

そんな美穂の様子など気にせず、田口がさらりと応じた。

「そうさせて貰うか。近頃、大分疲れが溜まっているから、早く帰り養生させて貰うよ」

そう嘯くが、定時退社する既成事実を作り、純子との情事の思惑が熱く渦巻いていた。

よし、これでいい。早く帰るのもひと苦労だな。女の感覚は鋭いから、気をつけんとバレちゃう。特に、森下にはな。トイレから戻るなりお茶なんか入れてきて、フェイントかけてきよった。まあ、誤魔化せたからよかったが…。

湯呑みを両手で持ち、肘をつき妄想していた。

美穂は自席に戻りパソコンに向うが、そんな部長の思惑は知っていた。日頃退社が遅い部長が、わざわざ定時で帰る言い訳をすること自体珍しくない。時々行う定時帰りの目的は、すでに暗黙の周知事項である。本人にしてみれば、隠しているつもりだろうが、部下たちには先刻承知であった。今日も、言いわけを言って帰えれば誰しも勘ぐる。今夜どうするか、告げた後の田口の行動を窺っていれば察しがついた。

まったく空々しいわ。いつものように、今夜は秘書部の谷川さんと情事を楽しむんだから。と美穂は邪推していた。

一方、田口は終業時間まで、能天気にも正木のことや森下の勘繰りなどすっかり頭から消えた。そんなことゆえ、気象予報の最終チェック会議も身が入らなかった。いつもなら重箱の隅を突っつき修正を求めるが、それもなく会議は終わった。

皆、肩透かしを食った。いつものなら時間との戦いで死に物狂いで纏め、最終原稿ができるのが、締切ぎりぎりになることが多い。それがなく、はぐらかされたような思いになった。

「今日の部長、なんだかおかしいぞ。先般の予報外れの反省会では、あんなに荒れたのに…」

吉田が、ほっとした様子で漏らして憶測し出す。

「やはりそうか。さっき森下さんが言ったとおり、部長も隅に置けねえな。あの年でまだあっちの方が元気なんだもんよ。毎日遅く帰っても、お楽しみだからな。恐れ入っちゃうぜ。今日の予測会議もこんな簡単に終わるんだったら、いつもこのようにして貰いたいね。

そうなりゃ俺だって早く帰れるし、毎晩彼女とエッチが楽しめるしよ。森下さんだってそうだろ。たまにはいけ面の男に抱かれたいよな」

振られた美穂が反発する。

「まあ、吉田君ったら、なにいやらしいこと言ってるの。よっぽど私が男に飢えているみたいじゃない。若い娘に対して失礼だわ!」

吉田を睨みつけた。そして正木に訴える。

「課長、これってもしかしたら、セクハラじゃないですか。そうですよね、吉田君がセクハラ発言しているんですから」

訴えられ顔を上げる。

「ううん、なんだ。森下君にセクハラ発言したんか?」

「いいえ、そんなことしていません」

すると、森下が吉田を問い詰める。

「あれっ、惚けちゃって。今、私になんて言ったの。もう一度言ってみなさいよ!」

すると口ごもる。

「いや、ただ。ちょっとだけ。森下さんだって、望んでいるんじゃないかと思って、代弁してやっただけだ。それをセクハラだなんて。そんな気持ちは、毛頭ないのによ」

「いや、君がそう思わなくても、そう取られたら、それはまずいよ。女性の立場からすれば、君の発言が心を傷つけたことになる。ヘルプデスクへ訴えられる前に謝り、許して貰えよ」

丸く収めようと吉田を諭した。正木にしても、部下の発言が問題になっては立場がない。むしろ、監督不行届きで部長の耳に入れば格好の餌食になる。それだけは避けたかった。

ふたたび吉田に促す。

「ほら、今のうちだ。謝っちゃえよ」

「は、はい。そうさせて頂きます」

吉田が席を立ち、つんとする森下に向う。

「あの、森下さん…。大変失礼なこと言ってすみませんでした。どうかお許し下さい」

神妙な顔で詫びた。すると、森下が因縁をつける。

「なによ、その謝り方。課長に言われたからって、杓子定規な謝り方じゃ許さないわよ。人事部長に訴えれば、間違いなく謹慎処分を食らうわ」

すると、吉田が真顔で抵抗する。

「ああ、それは困る。そんなことされたら、俺の将来が真っ暗になる。これからの薔薇色の人生が台無しになちゃうから、本当にまずいよ…」

「そうよね。こんなことが、あなたの彼女にバレたらどうなるかしら。ふられるかもね。そうでしょ、吉田君?」

「ああ、そんなこと言わないで下さい。もしばれたら、それこそ大変だ」

「それも仕方ないわね。セクハラ発言したんですもの諦めたら。吉田君、あなた男でしょ。自分の発言に責任を持ちなさいよ。きっぱりと彼女のことも、あなたの人生も諦めたらどう?」

ことの重大さに蒼白になり、ますますちじこまり懇願する。

「ご免なさい。許して下さい、森下様。お許し頂けるならなんでもします。毎日机を雑巾がけしろというなら、許されるまで掃除します。それでも駄目なら、一週間に一度は昼食を奢りますから。これで、どうでしょうか?

あっ、待てよ。一週間に一度ということは、月に四、五回になる。それでは小遣いがなくなるので、なんとか二週間に一度でお許し頂けませんか?」

腰を折り上目遣いで乞うが、森下が怪訝な顔で一気にぶちまけた。

「なにを馬鹿なこと言っているの!雑巾掛けを毎日する?昼食を毎週奢るだと。そんなもので、騙そうなんて考えが甘いわ。そんなちぃちゃなことで、許すとでも思っているの。この阿呆、直ぐにトイレで顔を洗ってらっしゃい!」

啖呵を切ると、そこに正木が割って入った。

「まあまあ、森下さん。あまり虐めないで下さいよ。彼も気が小さいから、それ以上追い詰めるとなにをしでかすかわからん。このビルの屋上から飛び降りられたらことだぞ。その辺で手を打ってくれないか」

「課長、申し訳ございません。私の軽率な発言で迷惑をかけてしまい、不徳の致すところでございまして。森下さん、お許し下さい。先程の約束は、必ず守りますから…」

吉田が懸命に詫びた。

森下の暴言も成り行きに過ぎず、正木の仲介に折れる。

「課長がそこまでおっしゃられるなら仕方ないわ」

「ええっ、許してくれるのか。有り難う。いや、助かった。やっぱり森下さんは優しい人だ。感謝します」

吉田が、顔を緩め頭を下げた。

「ちょっと待って。許してあげるけど、一つ条件があるわ」

「な、なんだよ。条件って。直ぐそうなんだから、森下さんって怖いな」

「あら、そんなこと言うならよそうかな。ちょっと甘やかすと、直ぐこれなんだから。つけあがるし反省の色がないんだもの」

「そ、そんなこと言わないで下さい。今、許すといったじゃないですか」

「なに言っているの。許して貰いたいんでしょ!」

「ええ、許して欲しいです」

「それじゃ、条件をのむわね」

高飛車に出た。すると、不安気に伺う。

「そうは言うけれど、その条件ってなんだよ。俺が出来ることか…?」

「ええ、簡単なことよ。だけど今は言わない」

含みがあるように焦らした。

「なんだよ、それって…」

不服気味に言葉が詰る。

「そうね、それだったら今夜付き合ってくれない。お酒をご馳走して欲しいの。その時に話してあげる。それでいいかしら。そうそう、あなたの奢りでさ」

「ええ、それはないよ。割り勘ならなあ…」

「なに、けちなこと言って。さっきの約束、忘れたわけじゃないでしょ。まさか口から出任せ。あなたの人生が台無しになるかもしれない時なのよ。それをけちってどうするの。わかったわね」

「そこまで言われちゃ、嫌だとは言えんよな。ああ、不用意な発言が、首を絞める羽目になるなんて、後悔先に立たずだ」

「なに、ぐずぐず言っているの。男らしくないわね」

「はいはい、わかりました。奢ればいいんでしょ、奢れば」

「そうよ、それじゃ部長と同じく、定時で仕事を終わらせてよね」

「ちぇっ、わかったよ。終わればいいんだろ。弱みを握られると辛いな」

吉田が渋々観念した。そして、定時で終わらせるべく段取りを始めるが、そんな気乗りしない様子に正木が声をかける。

「まあまあ、仕方ないじゃないか。君が蒔いた種だろ。丸く収めるには、のまなきゃなるまい。これで収めてくれるんだ。有り難くお受けしないと。そうだ、仕事の方は俺に任せておけ。最終打ち合わせも、ほぼ無修正で発表できるから安心しろ」

「とほほほ…。それじゃ、課長に甘えさせて頂き、今夜は森下さんとデートさせて貰います」

仕方なさそうに嘆いた。

田口にはそんな出来事など眼中にないのか、とにかく早く仕事を片づけ、純子の下へ飛んで行きたかった。田口の性欲は並外れている。仕事をしているように見えるがまったく身が入っていず、パソコンに向かう指が時々止っては視線が天井を這い溜息をついていた。田口の前のパソコン画面には、何時の間にか純子の肢体が浮かび上がり、さらに活字に変わり裸体が踊っていた。そんな田口が自分の醜態に気づくと鼻の穴が広がっており、周りの皆に悟られまいと頬を叩いては、背筋を伸ばしパソコンに向い直した。そして、仕事をする振りして時間の経つのを待ち、ようやく終業時間を迎えた。

田口は頃合いを見て、気もそぞろに告げる。

「それじゃ、今日は定時で上がらせて貰うから。正木君、後は頼むよ」

浮き立つ気持ちを抑え席を離れる。

「失礼致します。今日はゆっくり養生して下さい」

正木が起立し頭を下げた。

「それじゃな」と言い残し、田口が部屋を出て行った。

すると直ぐに、森下が吉田に声をかける。

「さあ、私たちも出ましょ」

それを見て、正木が笑顔で促す。

「そうだ、吉田君は森下さんとデートだったな。せいぜい楽しんでくれよ。お疲れ様!」

森下が急く。

「さあ、行くわよ。お先に失礼します!」

吉田が気だるそうに、森下に従う。

「なにをぐずぐずしているの。早く行きましょ!」

手を引き、もどかしく部屋を出た。正木は顔をほころばせ見送ると、吉田がいやいや告げる。

「そんなに慌てなくてもいいじゃないか。別に急ぐわけじゃないし、なあ森下さん。それに手を離してくれないか」

吉田が不服そうに告げた。

「あら、いけない。でも、いいじゃない。こうして手を繋いで歩くのも。なんだか、恋人気分になっちゃうわ。どう、このままでいいかしら?」

「うんまあ、俺には負い目があるから。頼まれちゃ断れないし。そんなことしたら、セクハラ発言をぶり返されてひどい目に合うからここは素直に従うよ」

「そう、それならそうさせて貰うわ」

すると繋ぐ手を解き、吉田の腕に手を絡めた。

「あれ、手を繋ぐんじゃないのか。腕組みするとは聞いていないぞ。まあ、どっちでも同じことか」

森下が急ぎ足になり、絡める腕に力を入れた。すると、美穂の胸が吉田の二の腕に当たり、ふくよかな感触が刺激する。さらに、美穂の甘い匂いが吉田の鼻腔をくすぐり、思わず腕に力が入った。

「痛いわ、吉田君。そんなに力を入れたら腕が折れちゃうじゃない」

「おっと、つい力んだ。悪かったな…」

照れ臭そうに力を抜くと、森下が甘えた声で発する。

「急ぐ理由を話してあげようか…」

「そうか。飯食う時間はたっぷりあるし、そんなに急ぐこともないはずだからな」

森下の顔を覗いた。

「それじゃ、これから部長を尾行するわよ」

「えっ、なんだって!」

驚き、足を止めた。構わす森下が急く。

「さあさあ、急がないと見失ってしまうわ」

腕を引く美穂に、不快感をあらわにする。

「部長を尾行するって、なぜそんなことするんだ。どうせ帰えるだけだろ。そんなことしたって、しょうがないじゃないか」

「なに言っているの。部長が、このまま帰るわけないでしょ」

「ええっ、それってなんだよ」

「決まっているじゃない。あなた昼間、部長のなにを見ていたの。なにも気づかなかったわけ?」

「なにが気づかなかっただ。なにかあるのか?」

「そうよ、だから後をつけるんじゃない。あなたも鈍感ね。それじゃ、種明かしするわ」

「おお、種明かしでもなんでもしてくれ。ううん?それを肴に酒を飲むという魂胆か。森下さんも趣味が悪いな。そんなことするから、彼氏ができないんだ」

「あら、吉田君。今、なにか言った?」

「あいや、なにも言ってない。森下さんのことなんか、喋っているもんか」

慌てて言い逃れると、懐疑的に告げる。

「そうかしら、聞き捨てならないこと言ったような気がするけれど。まあ、いいか。そんなこと問うていたら、取り逃がしてしまうもの。実は定時で帰る目的は、愛人に会うことよ」

「ええっ!愛人に会う?本当かよ…」

思いもよらぬ理由に口ごもった。美穂は、そんな驚きなど気にせず続ける。

「あら、あなた。知らないの?」

「そ、そんなこと。俺、知らないよ。部長に愛人がいるなんて。てっきり疲れて帰るもんだと思っていたのに」

「あらあら、吉田君って初心なのね。そんなところが可愛いわ」

「なに言ってんだ。こんな時に。ところで、その愛人って何処の誰だ?」

吉田が興味本位に尋ねた。

「それは、後をつければわかるわ。それに、現場で見つからないよう窺うだけだから。それまでお楽しみにね。おっと、忘れていた。二人で離れて歩くのも夜道にそぐわないわ。それに尾行する時は、人通りに紛れないと。さっきのように、腕組みして歩きましょ。そうすれば、カップルみたいで怪しまれないから」

そう言う美穂の誘いを、吉田が断る理由はない。先ほど腕組みし、ほのかに感じたことを思い起すが、照れくさそうに跳ねつける。

「なんだよ、それって。別に離れて歩けばいいじゃないか!」

「あら、私に逆らう気。それだったら考えがあるわ。さっきの件、訴えてもいいんだけど」

「ああ、それは困る」

「それだったら、素直に言うことを聞くのね」

美穂の手が、強引に吉田の腕に絡みつく。

「わかったよ。仕方ねえ、まったく辛いもんだぜ。弱みを握られると、いざという時強権発動されるんだからな」

愚痴をこぼすが、二の腕に触れる美穂の胸の感触を感じ取っていた。二人は密着し、田口から距離を置きついて行った。

そんな尾行されているとも知らず、田口は純子との情事を妄想していた。

うふふ、今晩はねちっこく責めてやるか。それとも焦らして、思いっきり高ぶらせるか…。

時折、歩幅を緩め胸中で呟く。

ううん、どうも他人に見られているような気がするが、気のせいだろうか。いやいや、純子の裸体を想像していると神経が高ぶるからだな。そのせいだろう。

後ろを振り返り、原因が己の胸中にあることに納得する。

それにしても、あの胸の膨らみ、くびれたウエスト。それに艶めかしい尻といい。思い浮かべるだけで、なんとも情欲をそそらせるぜ。

歩きながらにやつき、午後六時にはイタリア料理の店「クチュール」へと着いた。欲望一心で周囲に注意することなく、彼女の待つテーブルへ向う。

森下たちが後に続き、気づかれぬよう観葉植物に隠れたテーブルに着く。そして田口らを覗い、美穂が小声で告げる。

「ほら、見なさいよ。あの女が愛人よ」

視線で合図し、覗うよう促した。

「相手が誰だかわかったかしら?」

吉田が目を凝らし女を凝視した途端、目を剥き悲嘆の声を発した。

「純、純子…」

口ごもった。吉田の急変に気づかず念押しする。

「どう、部長が定時で帰る理由がわかったでしょ」

言いつつ、興味本位に吉田の顔を覗き込んだ。ただならぬ様子に気づく。

「あら、どうしたの?」

「いいや、なんでもない。森下さん、早く出よう。こんなところにいたくない」

蒼白な顔で、美穂の手を取り強引に席を立とうとした。美穂が慌てる。

「どうしたのよ、急に出ようだなんて。もう少し様子を覗てからでも遅くないでしょ。それにお腹も空いているし、食事してゆきましょうよ」

「いいや、直ぐに出よう。ここにいたくないんだ。だから、早く行こう!」

狼狽する目でせっつき、森下の腕を掴み席を立つ。その異常さに圧倒され従う。

顔面を硬直させ口をへの字に結び、強引に森下を店外に連れ出し暫らく歩いたところで立ち止まった。吉田の呼吸が荒れていた。蒼白の顔が引き攣り、掴んだ腕を離そうとせず目が血走っていた。

「どうしたの、顔色が悪いわよ」

「…」

「なによ、どうしたの?」

心配そうに吉田の顔を覗き込む。すると、遮るようにそむけた。

「なんでもないって言っただろ。なんでもないんだ。さあ、帰ろう!」

ふてぶてしく発し、手を引き歩き出した。吉田の急変に森下が戸惑う。何故だかわからず、黙り急ぎ足て歩く吉田に、引っ張られついて行った。

暫らく黙って歩いたあと二人は立ち止まり、森下が尋ねた。

「どうしたのよ、急に怒り出してさ。なにかあったの。…もしかして、谷川さんって、あなたと関係があるの?」

吉田は応えず、黙り込んだ。

「…」

その異常な様子に、森下が察知する。

「ええっ、もしかして。谷川さんって…?」

吉田の無言の目が頷くと、知った森下が頷いた。

「そうなの、そうだったの。これはとんでもないことをしたみたいね。部長を尾行するなんて。それも私の悪知恵で、あなたを巻き込み見てはならないものを見せてしまったんだわ。吉田君、ご免なさい、私がいけないのね。こんなことしなければ、あなたを傷つけなかったのに。本当にご免なさい」

取り返しのつかぬことを詫びたが、詫びてすむものでないことは動揺する吉田を見ればわかる。けれど謝らずにはいられなかった。彼を奈落の底に突き落としたのだ。

ご免なさい…。

いくら詫びてもしつくせない。まさか、吉田の恋人が田口部長の愛人とは、考えも及ばなかった。

それを探偵ごっこのように、興味本位に尾行の相棒にしたなんて。 

許されることではなかった。

「本当にご免なさい」

弱々しく告げ深く頭を下げると、吉田が突然笑い出し叫んだ。

「がははは、俺も馬鹿な男だな。よりにもよって探偵ごっこに付き合い、助べ根性で部長をつけ愛人が誰かを探ろうだなんて、うすのろ男のようなことしてさ。逢い引き現場を押さえたら、こともあろうに純子だったなんて。まったく笑えねえよな…」

悔しいのか、それとも己の不甲斐なさに腹を立てているのか、夜空に顔を上げ涙を浮かべていた。

「しかし、現場を押さえたんだから。疑うより安しだよ。これぞ現行犯だ。証拠の何物でもない。わはははは…」

笑いながら、よろりと身体が傾いた。

「あっ、危ない!」

森下が差さえようとして、ちょうど抱きかかえる形になった。美穂は、そのまま抱き止めた。吉田の顔が豊満な胸の谷間に埋まる。

「ううう…」

涙腺が切れ、美穂の胸元に涙が溢れていた。温かい滴が美穂を刺激する。

吉田君、ご免ね…。

抱える腕に力を込めた。吉田の鼻腔に、甘い香りが漂い脳裏を刺激した。たわわな胸が吉田の顔を埋め尽くす。純子を失った反動が女を求める欲望に変り、思わず深く顔を埋め込んでいた。

吉田は、周囲のことなど気にならなかった。恥も外聞も、この現実の悲しみの中に埋没した。森下とて、他人の視線より犯した過ちに対する懺悔が優先した。慰め合う二人の横を、怪訝な顔でとおり抜ける人々。助平視線が射られようと、大胆に抱き合っていた。

「ううう、純、純子…」

吉田は寝取られた恨みなのか、嘘であって欲しいという未練なのか、呻きとともに名前を呼んでいた。

嗚咽が、森下の感情をくすぐった。胸の谷間に吉田の顔を埋め込み、頭を優しく詫びるように撫でていた。美穂の頬に詫涙が流れた。

「吉田君、ご免ね。私が悪かったわ…」

吉田の頭を抱き締め、優しく促す。

「さあ、行きましょう。いいところへ連れて行ってあげる。そしてこの胸で、あなたを慰めてあげるわ」

「ううん」

吉田が強く顔を埋め頷いた。

寄り添い歩き出し、近くのホテルへ吸い込まれていった。

そんなことになっているとは露知らず、田口は有頂天でいた。食事もそこそこに純子と連れ立ち、偶然にも吉田らが入ったホテルへと消えた。





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