第24話 閉じていく
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空っぽのベビーカーを見て、手押しする両手が力んで震える。逆に足からは力が抜けて地面が揺れているみたいな感覚が襲ってくる。額から汗が垂れる。茹だる暑さなのに、背筋は凍るように冷えた。
「あゆ!」
私の震えた声に異常を察したのか、泣き顔元気顔沸騰顔と忙しかったあゆの顔はサッと引き締まる。私の視線を辿り、彼女もハルキがいないことを理解した。しかし何か言うでもなく、一心に空のベビーカーを見つめていた。一切のブレもない。
「おじさん、誰かベビーカーに触る人とか見ませんでしたか!?」
しかし屋台のおじさんは首を横に振る。周りにいた子供やその親の顔も見て訴えたが、みんな心当たりがないようで顔を俯かせた。
昨日はパワフルなハイハイを見せてくれたが、一人でベビーカーから降りられるわけがない。連れ去った人間がいる。金魚掬いをしてたたった数分の間に、誰にも気付かれず……。
屋台が並ぶ寺の境内を見回す。多くの人の往来、話し声、足音、全てが歪んで見え、聞こえだした。
「あの、警察に連絡しましょうか?」
心配そうに見ていた女性が言った。金魚掬いを応援してた子供たちの母親の一人のようだ。
「けい……さつ……」
警察は……嫌だ……あそこに戻りたくない! でも……でも……。
「……自分で連絡します……」
バッグからスマホを取り出す。通話アプリを起動し、一一〇番を——怖くて指が動かない。ハルキを失う怖さと、躊躇する自分の醜さが折り混じり、小さく、押し潰されたい気持ちが溢れてくる。
「不安ですよね。私がやりますから」
女性が私の手を掴んで止めてくれた。自分のスマホを持って笑いかけてくれる。
「お……お願い……します」
「大丈夫ですよ。名前は?」
「……綾見さあや……です」
「綾見さん。大丈夫、すぐ見つかりますからね」
私、今どんな顔してる……? きっと、子供を心配する母親の顔じゃない……観念した罪人の顔だ……。
屋台のおじさんも祭りの組合に連絡を取ってくれている。周りの人たちも励ましの言葉をかけてくれる。優しい人ばかりだ——やめて……優しくしないで……励まさないで! また暗い想いが……。
「……え?」
暗い想いに呼応したように、右腕から黒い靄が現れた。排水溝から粘ついた水が逆流するように隠した火傷痕から溢れ出て、這うように私の体を侵食していく。
これってスモック!? 私も幸隆さんみたいになるの!?
どうしようどうしよう! 払っても払っても消えない!
浴衣の袖の上から何度も払うが、靄は益々膨らんでいく。動揺して息が上がる。足に力が入らなくなり、無意識にしゃがみ込んでしまった。
周りの人たちは暗い靄に驚き何人かは一歩離れたが、優しい言葉をかけ続ける人もいる。「落ち着いて」「大丈夫だから」……差し出される言葉を自分の声に置き換えて言い聞かせる。
「おい、大丈夫だぞ! がんばれ!」
異変に気付いたあゆも私の腕を掴み、背中を擦ってくれた。
それでも心が暴れだす。私から生まれた化け物が街を壊し、人を傷つけ、どこにいるかもわからないハルキを——怖い想像が止まらない!
「あの……どうかしましたか?」
……聞いたことある声。
顔を上げる。見知ったほどでもないが、先週から何度か顔を合わせた顔がそこにあった。もじゃもじゃの頭と分厚いメガネ……。
「さあやさん?」
幸隆さんの部下のメガネさんだ。よくあるプリントTシャツにジーパン姿だ。スーツ姿しか見てないから、一瞬誰かわからなかった。
彼は先週の初来店から同僚と一緒に三度も店に来ているが、いずれも本指名せず席についている。確か私を指名すると言っていたと思うが、私は未だに同じテーブルについてはいない。
「あゆさんも。お祭り来てたんですね——ってその腕どうしたんですか!?」
彼のメガネの奥の瞳が心配の一色に変わっている。駆け寄ってくる。腕が伸びてくる——咄嗟のことだ。反応できなかった。
彼はしゃがみ込む私の手を掴み、黒い靄の源泉を見ようと引き上げた。浴衣の袖が、自らの重みでずり下がっていく。立ち昇る黒い靄のその奥に、しっかりと醜い火傷の痕が露わになった。
見られ……た?
腕を引かれ中腰になったまま、目の前の男性の顔を見た。口がゆっくり動く。
「え……その火傷……」
掴まれた手を乱暴に払い逃げだした。
あゆが呼んでる。人々の騒めきが聞こえる。荒くなっていく自分の息と、心臓の鼓動で聞こえなくなっていく。眩暈も、吐き気も酷くなる。
見られた……見られた……! 心と体、両方とも『男』の人に……!
地面が柔らかく感じる……走っているのに、落ちていくような感覚。どこへ向かっているかもわからない。景色もよく見えない。私泣いてる……。
へとへとになっても走り続け、息ができなくなったところでやっと足が止まってくれた。霞んだ視界で辺りを見渡す。木々が生い茂る林のような場所……たぶん、浅草寺の庭園に迷い込んだらしい。少し離れたところに屋台が連なる会場の明りが見える。思ったより遠くに行けなかったようだ。
大きな木に背中を預け座り込んだ。周りに人はいない。きっとみんな花火を見に隅田川へ向かっているだろう。安心がやってきて、再び離れていった。
どうしよう……どうしようどうしようどうしようどうしよう……! ……どうしよう……。
あの人、また店に来る。もう顔なんて見られない……もうお店に行けない……怖い……。
あゆを置いてきてしまった。ハルキのこともほっぽりだして……。
膝を抱いて、膝小僧に額を擦りつける。走るのを止めたのに、ぜぇぜぇと、どくどくと、息と鼓動はなお激しく小刻みになっていく——余裕がない……心に隙間がない……!
黒い靄は腕に留まらず全身を包み始めた。目を閉じてないのにもう真っ暗……怖さに目を閉じた。暗闇の中に【私】が現れる。
腰まで伸びる亜麻色のロングヘアーとセーラー服姿の【私】……虚ろな瞳でじっと見つめてくる。
落ち着け……落ち着け! 大丈夫……大丈夫……次に目を開けたら、私は【私】じゃない……! 大丈夫だから……。
目が開かない……暗い……。
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