第17話 ハイハイ
♦♦♦
ヤバい……すごい……もしかして、天才なのでは?
「てってってってってってってってって!」
左手、右手、左手、右手……目の前を疾走するオムツ一丁の赤ん坊だ。おしゃぶりを咥えつつ、息荒げに床を縦横無尽。驚愕と感動が押し寄せてくる。
はいはい……ハイハイ! 昨日までそんな素振り一切見せなかったのに!
「二人とも見て見て! すごくない!?」
感動を分かち合いたくあゆと銀次ママを呼ぶ。しかし、二人はこちらに目もくれずテレビの前ではしゃいでいた。
「あー! 目潰しは卑怯じゃねーの!?」
「毒霧よん。ヒールらしい必殺技でしょん? 技名は【ササ・ヘルミスト】よん!」
「笹って毒あんの?」
「ないわん! ユーカリにはあるけどん」
「へー。パンダってユーカリ食べんの?」
「食べないわん!」
「へー! ……ん? コーナートップに座らせて……」
「ここからすごいわよん! 【スタッドレス・バックドロップ】! 無理やり起こして【熊猫ヘッドバッド】からの【連続珍獣チョップ】! また倒れたところで【モノ・クロスフェイスロック】!」
「ヤベー! 鼻折れてねー!?」
……プロレスに夢中だ。銀次ママの現役時代の試合……銀次ママのことは好きだけど、野蛮だし怖いしプロレスはまったく好きじゃない。
「ちょっと聞いてる!? ハルキのこと見てよ! 初めてハイハイしたんだよ!?」
「ハルキ?」
ようやくあゆが反応したが、当のハルキはあゆの隣にチョコンとお座りしてテレビ画面をじっと見つめていた。「あややー……」とキラキラな瞳で殺伐としたリングの攻防を見ている。さっきまで豪快にハイハイしてたのに。
「いつの間に……」
「ハルキも興味あんのか!? いいぞこれは! おまえも強い男になれ!」
「早すぎでしょ、乳児には。ほら、ハルキ! さっきの見せて? すごかったでしょ!?」
「あっ! じゃあオレの見て見て!」
あゆが私の前に立ち片足を高く上げる。I字バランスだ。私は「はぁ」と短く溜め息を吐いて目を逸らした。
自分の体の柔らかさに気付いてからしょっちゅう見せてくる。最初にすごいと褒めたら毎日毎日……毎回目の前でパンツ見せられる人の気持ち考えてほしい。
「ハールキちゃん、さっきのハイハイ見せてぇ。ほら、手ーの鳴ーるほぉ……へぇ……」
あゆを無視し、手を叩いて猫撫で声でハルキにお願い。しかしハルキはこちらをチラッと見ただけで再びテレビに向き直ってしまった。結構ショックが大きい……。
「んま、赤ちゃんには刺激が強いわねん。今日はお開きにしましょん」
銀次ママがDVDを停止させ、地上波放送に切り替えた。
CMの後ニュース番組が始まり、男性アナウンサーが台本を読み上げる。テロップには【首都高六日ぶりの通行再開】とある。ひび割れた道路の舗装完了の映像と利用者のインタビューが続く。
先週の、スモックとあゆたちの戦いの跡だ。破壊された繁華街、割れた道路、横転したり道路に埋まったり壁に貼り付いたりする多くの自動車——死者はなく一部軽症者が出たくらいで、被害に遭った車がダメになってしまったことを嘆く人の声が印象的だった。
あゆは繁華街でもかなり目立っていたし特定も覚悟していたが、現状音沙汰がない。理由は目撃者の多くがスモックに集中していたことと、一切カメラには映っていなかったことだ。一般提供の撮影や監視カメラのデータには黒い靄しか映ってなくて真っ黒。むしろその靄自体がスモックなのだが、当然知らない人はこれが怪物だなんて思わない。あゆの話では、スモックは常に保有してる魔力を外に出し続けているのでそれが遮っているんだそうだ。ファンタジーはカメラに映るらしい。楓パパに頼まれ死ぬ思いで撮影したあゆの戦闘シーンも同様に黒い靄しか映っていなかった。パパは泣いていた。
でもそのおかげで身バレはなく平穏に過ごせている。化け物と女の子が戦っていたと言う目撃者もいたが、「アニメの見過ぎ」「恐怖による心神喪失」と世間では言われている。心配なのは、あゆが戦闘を始める前にビルを谷間を飛び越えて移動していたのをカメラに収めた人がいて、SNSで一部話題になっていること。写真も動画もかなりぶれていてUMA扱いされてるが、今回の事件と関連付けはされてない。
今後はあゆが暴走しないように注意しないと。あんなファンタジー説明できないし、私は絶対に表に出たくない。
『次のニュースです。昨年起きた長野県——』
テレビを消したところで、銀次ママに肩をちょいちょいとつつかれた。顔を合わせるとママの指先が消えたテレビに興味を失くしてぼーっとするハルキを指した。
「オムツ一丁じゃ風邪引いちゃうわよん」
そうだ、オムツ替えて服着せようとしたところハイハイで逃げられたんだった。
「さぁハルキ、こっちに——」
「あだっ」
「こっち——」
「あぶっ」
柔らかい前屈、後屈、左右の体幹移動……私が背後から伸ばした手を器用に避ける。何度も何度も。
「すげぇ体幹だ……不思議とファイティングポーズも取ってるように見えてきた」
「あたしにはなんならシャドー打ってるように見えるわん。素質あるわんこの子……」
「この——」
立ち上がって腋を掬い上げるように抱こうとしたが、見事な後転からのバックハイハイで回避。私はつんのめって顔から棚にぶつかってしまった。飾ってあったぬいぐるみやら写真立てやらが落ちてくる。痛む鼻を抑えつつハルキを見ると、落ちてきたぬいぐるみ相手にホールドを決めていた。
「新星……爆誕……!」
「ハルキの【春】に因んでん【悪熊珍獣シュンシュン】なんてどおん?」
「リングネームなんてつけないでいいから!」
しかし、目の前の腕ひしぎ十字固めは素人目に見ても完全にキマっている。あんなちょっとテレビの試合を見ただけで? ホントに天才では……。
「ぬいぐるみが青筋浮かべてるからなおさらキマってるように見える……」
「そのぬいぐるみって銀次ママん家に来る前から持ってたヤツだよな?」
「え? あぁ」
あゆに聞かれ、腕がキマっているぬいぐるみを見る。
青筋浮かべたオレンジ色の直立ガマガエル。ハルキが来て、触るのが怖くてこのぬいぐるみ相手に抱っこや寝かしつけやミルクのあげ方を練習した。慣れるまで毎日練習してたが、大変な日々でもう昔のことに感じる。
「なんかの番組のキャラクターよねん確か。あたしあんまり詳しくないけどん」
「ラジオ番組のね。【ガマぐッさん】って名前」
「あらーガマ口由来なのねん? シンプルゥ! 番組のファンなのん?」
「別に。むしろ嫌い」
「あらん? そうなのん?」
「うん。綺麗ごとしか言わないから」
それなのに毎週聴いている。バカみたい……だけど——。
「嫌いな割に大切にしてるんだな」
スリーカウントを叩くあゆがぬいぐるみを覗き込みながら言った。
「一応貰い物だし……物は大切にするモンでしょ」
「そういうもんかぁ——あ、へそ毛」
ビビビィッ!
「あっ!」
「あーーーっ!」
ガマぐっさんのお腹が縦に裂け、中から綿がわっと溢れ出てきた。大声に驚いたハルキはホールドを解除して固まり、一拍置いて泣きだした。
私は慌ててはらわた飛び出たぬいぐるみを拾い上げる。裂け目は大きいが、大事には至ってないようだ。
「へ、へへへそから糸が出てたから引っ張っただけなんだ! ただのほつれ糸だと思って——」
「これは私が縫った糸。その……玉止めが毎回ぴょんと出ちゃって。縫い方も荒いから引っ張ると開いちゃうの」
「針仕事苦手なんだ」
「だって……やったことあんまりないもん」
「あたしが縫ってあげましょうかん?」
「ありがとうママ。でも大丈夫……自分で縫いたいの」
「あらそうん。自分で何度も縫うくらいには大事にしてるようねん。ただ、泣いてる赤ちゃんとの二択なら赤ちゃんを選んでほしかったわん」
グサリとまち針で刺された気分だ。
「うぅ、ごめんハルキ……」
ハルキはもう泣き止んでいる。というより、抱き抱えてる銀次ママの大きな顔を凝視して泣くどころじゃないようだ。何度か見た光景だ。
同時に、ハルキの癇癪は何度かしか見たことがないなと思った。
初日にギャン泣きを見て以来数えるほどしかない。夜泣きも一切ない。ミルクだって嫌がったことない。なのに今日はオムツ替えも着替えも嫌がって、私からも逃げまくって自由奔放。他にもいつもはおしゃぶり咥えないのに、今日はずっと咥えてる。あゆには一切懐かなかったのに、さっきプロレス見てる時はあゆの隣を陣取っていた。
気まぐれ? もしかして私、嫌われた!? ハイハイだって、初めてはもっとゆっくりヨタヨタなんじゃないの?
柔肌にあった痛々しい青あざも目立たなくなった。実は元々元気っ子で、痛みで暴れられなかっただけなんだろうか。
少しはらはらした気持ちで銀次ママの腕に抱かれるハルキを見つめる。銀次ママの大きな顔を凝視してたハルキも見つめ返す。「笑って~」と念を送っていると、ハルキがハッとしてから「あーい」と愛らしく笑いだした……今忖度なかった?
……一瞬だが、最悪なケースを想像してしまった。
クラブ常連の幸隆さんの中身が、あゆの言うノーラってきゃぴきゃぴ女子だという事実が今でも信じられない。先日の、あゆのすべすべの膝にすり寄って泣きついていた姿が、駅前で大胆な告白してた光景が全身の鳥肌を呼び起こす。あゆの中では前世の甘酸っぱい青春の延長だったかもしれないが、端からだとどう見ても事案だった。
……ハルキ、あなたは中身変なおじさんとかじゃないよね?
「あーいぃ?」
……かわい。長いまつ毛から、ぷるぷるほっぺから、全身全てからキラキラが放たれている。変な考えは捨てよう。地球人類八〇億人もいるんだから。
……転生者、何人いるんだろう。
幸いノーラって子はクリスの幼馴染だっていうからきっといい子なんだろう。だが、幸隆さんへの今後の振舞い方は嫌でも考えてしまう。
疲れるのはゴメンだ。もうすでに疲れきってるもんだけど……でも、あゆとの毎日が不思議と楽しいと感じてる自分がいる。かつて、日々がこんなに楽しいと思ったのは他に一度だけ。目を瞑ると思い出す——。
お兄ちゃん……。
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