第2話 ショッピングに行こう
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替えのおむつも無いことに気付かないのだから、私って本当にバカだ。
濡らしたタオルでお尻周りを拭いて、別の清潔なタオルを巻いただけだが、赤ちゃんは満足したのかスッキリした顔で泣き止み、そのまま寝入ってくれた。布団に寝かせ、私もそのまま床に倒れるように寝てしまった。メイクも落としてないしお風呂にも入ってない。朝起きて見た鏡の私は化け物だった。
午前九時。まだ赤ちゃんは寝ている。夢じゃなかったことに膝から崩れそうだ。
「赤ちゃん……年齢……見た目……」
スマホで検索し、並ぶ赤ちゃんの画像と見比べる……柔らかい髪の毛が生えてて、身長が……たぶん一歳弱だと思う……。
次に投稿型の質問サービスで一般投稿を流し読みする。夜泣きとかあやし方の悩みなどが目立つが、この子は昨日寝た後夜泣きはなかった。たぶんあったら心折れてたと思う。
すやすや寝てる間にビクビクしながらサッとシャワーを浴びて、一緒にメイクも落とした。ドライヤーの弱風で髪を乾かす。
近所のスーパーの開店が一〇時から。ベビーカーどころか抱っこひもすら持っていない。でも置いて行くなんてこともできない。
熟考した結果、自分で抱いて行くことにした。頼れる友人やご近所さんのいない自分を呪った。いたとして事情を話せるかは別だけど。
適当な長袖パーカーとパンツに着替え、メイクはがっつり施す。これだけは油断できない。
スマホでもう一度検索。抱っこの仕方を調べる。
実物で練習なんてできない。部屋にあるぬいぐるみで何度か練習し、息を強く吐いて気合を入れた。
「寝ててねー寝ててよー」
割れ物でも扱うように赤ちゃんに元々履いていたズボンを着させる。抱き上げ、手をお尻、顎を肩に乗せてホッと一息。結構重い。スーパーは歩いて数分だが、これは行き帰りだけでもしんどそうだ。帰りは荷物もあるし。
ゆっくり靴を履き、ゆっくりドアを閉め、ゆっくり階段を下りる。端から見たらギックリ腰を患った人みたいだろう。見慣れた道のりがすごく長く感じる。結局一五分くらいかかってしまった。
ベビー用品の棚へ急ぎおむつを吟味する。昨日交換したものがテープ式だから同じものを、と思ったが、サイズがわからない! 合っていることを祈りながらMサイズを手に取った。
次はご飯。ミルク? 離乳食? アレルギーとかあったらどうしよう……結局一番無難そうな粉ミルクを三缶と哺乳瓶を買い物かごに入れた。
抱っこひも、肌着、ベビーウェア、ボディソープ……必要そうなものを次々とかごに入れる。多くは買えない。帰りも片手しか使えないのだ。
おしゃぶり……これ要る? ぐずったら助けてくれるだろうか。一応かごに入れた。
「かわいいですねー男の子?」
レジ打ちのおばさんに聞かれ「おぉ男の子です!」と答えた。かなり吃ってしまった。茶髪で派手メイクでラフな服装……ヤンママと思われてそうだ。
微笑むおばさんにぎこちない笑みを返す。会計を済ませた後、おばさんはレジ袋に詰め込むのを手伝ってくれた。無償の優しさに嬉しさと情けなさで泣きそうになる。
「ありがとうございます」
「はーい。ばいばーい」
赤ちゃんに手を振ったのだろう。会釈してチラリと見ると、ぐりぐりの目がぱっちり開いていた。
「起きてる!」
ギョッとしたが、さらに血の気が引くものを見た。赤ちゃんの眉間に谷ができ、口の両端が引き攣ってプルプル震え出した。この顔は……!
左手に大きなレジ袋を下げダッシュ。と言っても、なるべく赤ちゃんの負担にならないような軽い駆け足だけど。とにかく気持ちだけは全力だ。
「待って待って待って待って!」
家! 見えた! 鍵!
両手が塞がってポッケの中の鍵が取りづらい。ドアの前で立ち往生する。レジ袋を降ろし、鍵に指先が触れた瞬間だった。右手になんとも言えない柔らかい感触が……。
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜…………ったかいぃ……」
柔らかさの次に放水が始まる。おしっこで掌と腕がびちゃびちゃだ。ズボンの薄い布地越しにじんわりとした生温かさが広がる。おむつの大切さを、今間違いなく人生で一番感じている。
しばらく放心していたが、ハッと気を取り戻してドアの鍵を開けた。中に入りドアを閉め、また心を落ち着かせてから鍵を閉める。
こんな短時間にまたシャワーを浴びることになるとは。
さっと済ませ、赤ちゃんの体はウェットシートで清める。
おむつはMサイズで問題ないようだった。ウンチを受け止めてくれたズボンはゴミ袋にサヨナラし、すぐに口を閉じた。生ゴミの日に出していいとは知らなかった。ミルクの作り方も、その後のゲップのさせ方も調べられたし、今日ほどインターネットに感謝したことはない。
赤ちゃんはおとなしい。昨晩はおしめのせいか大泣きだったのに、ミルクをたくさん飲んだ後眠るでもなく、寝返りを打つくらいで静かだ。たまに私の顔をじっと見つめてくるが、表情変えることもないので、可愛いのに不気味さも感じる。私の背後に何か見えてるのかな、とゾッとした。
怖い妄想は振り払い、もっと怖い現実に向き直る。
仕事だ。
審査もあるだろうし、急遽預けられる保育園なんてないだろう。そもそも審査されたら困る。青痣について咎められたら説明しようもないし、同じ理由でシッターも頼めない。仕事を休むのも問題の先延ばしでしかないし……連れて行ってどうにか誤魔化すしかない。
同僚やお客さんに見られたら、もう終わりだ。午後五時からの出勤だけど、もっと早く着くようにしよう。なんとかお店のオーナーだけ説得したい。連絡したら、午後二時にはお店にいるそうだ。
いつ泣きじゃくるんじゃないかと、おとなしい赤ちゃんを尻目に私はびくびくと落ち着かない。昼ごはんのカップ焼きそばも喉を通らなかった。スマホ片手にネットで抱っこひもの結び方を学ぶ。部屋にあるぬいぐるみで何度か練習していると、あっという間に時間が来てしまった。
前には赤ちゃん、背中にはおむつやらミルクやら詰め込んだリュックを背負い、戦に出るような意気込みで職場へと出発した。
電車でも赤ちゃんはおとなしい。同じ車両にはわんわん泣いてる子もいるのに、この子は全くの無表情だ。泣く度に暴力を振るわれていたんじゃないかと、より薄暗い気持ちが溢れてきた。
乗り換え無しで二〇分電車に揺られ、駅から徒歩一〇分。歌舞伎町内にある勤務先のキャバクラ【ClubAsyl】へ着いた。まだ日が落ちる前だ。揺らめくネオンやギラギラした視線などはないが、忙しなく歩く人の多さはやっぱり新宿って感じだ。
店は居酒屋などが営業している雑居ビルの地下にある。階段を下りていき、深呼吸してから店のドアを開いた。
まだ他のキャストはいないようだ。接客フロアを抜け、奥にあるオーナールームへ。ノックすると「邪魔するなら帰って~」と高めのしゃがれ声が聞こえた。
「お邪魔するね。銀次ママ」
「あら~順序が逆になっちゃったわん」
「新喜劇でも見たの?」
「そうなのよん! 最近ハマってるのよねん。ねえ、乳首ドリルしてみないん?」
「あとでね」
渡されたおもちゃの野球バットを壁に立てかけ、屈強な大胸筋をアピールしてくるオーナーに向き直る。
店では【銀次ママ】で通っているが、ホステスにおけるママではない。キャバクラだし。純粋なオネェだ。元プロレスラーの筋肉だるまで背も二メートル近くあり、私が乳首ドリルするならバットを頭上で構えなくちゃならない。スーツの上からでもわかる全身ムキムキマッチョだが、ぱっちりしたマスカラや真っ赤な口紅、黒髪に薄紫のメッシュを入れたセミロングヘアーなど、男性らしさと女性らしさがケンカしている。
銀次ママはヒゲの無いツルツルな顎を指で触れ、じっと私を見据える。とっくに赤ちゃんにも気づいているだろうが、私の言葉を待っているようだ。
「と、友達の子で——」
「はいウソー!」
「早いよ!」
「だってあなた友達いないじゃないのよん。交友関係この店の中だけだしん」
「お隣さんとかご近所友達ができてるかもしれないじゃん!」
「あなたの部屋のお隣さんって、引きこもり大学生と幸も頭が薄いサラリーマンでしょん? どっちも男一人暮らしだしん」
「そうだけどさー」
「にしても可愛いじゃなあい! 男の子? 名前はん?」
「な、まえ……」
答えられずゴニョゴニョ言いながら俯いてしまった。銀次ママは軽く鼻息を漏らし、私の背に手を回して椅子に座るよう促す。慣れない事ばかりで気持ちも足もクタクタだ。ゆっくり腰を下ろして一息吐く。私のお尻二つは入る銀次ママの特注サイズの椅子だ。革の匂いもなんだか落ち着く。
赤ちゃんの小さな顔、銀次ママの大きな顔を交互に見て、私はポツリポツリと言葉を紡ぐ。
「——つまり、捨てられた子を無理やり預けられたわけねん。警察には?」
「……相談してない」
「……その父親と面識は?」
言葉が出ない。言ったほうがいいのに喉がカチコチになってしまった。
「いいのよん今言えなくても。ゆっくりでいいからねん」
「ごめんなさい」
「いいって言ってるでしょん。今に始まったことじゃないんだしん。——さて!」
銀次ママは何か思いついたのか両手を叩いた。ビル風みたいな風圧で私と赤ちゃんの前髪が翻る。
「今後のことは後で考えましょん! まずは買い物よん! 営業開始までまだ時間あるしん、デパート回りましょん!」
「なに買うの?」
「んもうベビー服に決まってるでしょん! さあや、あんたこんなつぶらな瞳ちゃんが個性ナシな無地T無地パンでもったいないと思わないのん?」
銀次ママは赤ちゃんに顔を近づけ「ん~っま!」とキスする素振りをする。赤ちゃんの顔はウンチした時よりも眉間に深い谷ができていた。
確かに焦ってたこともあるけど、スーパーで買った服は無難さを求めて無地やワンポイントのもの数着しか買ってなかった。
「でもお金ないし」
「全部出したげるわよん」
「悪いよ」
「今更でしょん? ほら行くわよん!」
腕を引っ張られ立ち上がり、背を押され店を後にした。ブルドーザーに押されてる気分だ。
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