第1話 みなしご
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そんなこと言われたって、どうしようもない人はいるんだよ。
イヤホンから流れるラジオを聴きながら、口にせず悪態を吐いた。
同時にうだる暑さにも文句を言いそうになる。七月も残り二週間だが夏は始まったばかり。今日も今年最高気温を更新し、夜でも汗が吹き出てくる異常な暑さだ。地球もストレス溜まってるのかな。
もうすぐ家だ。電車から降りたらそう思うだけの家路に溜め息が出る。それとも、それしか思わないことがマシだったりするのかな。
「あれ?」
音楽と歩調を合わせつつ、見えてきたアパート二階の自宅を見据える。自分の部屋に明かりが点いているのを見て、眉を顰めた。
消すの忘れただろうか。
それなら良かったのに、ドアノブを捻り鍵が開いていることに気付いて一気に鳥肌が広がる。昼出る時絶対に閉めたはずだった。
ゆっくりとドアを開くと冷たい空気が顔を撫でた。エアコンも消して家を出たはずだ。そう思った直後、玄関に立つ細身の男が視界に入る。男は小さく口角を上げた。
息を呑みすぐにドアを閉める。しかし男は足をドアに挟み、私の腕を掴んで室内に引き込んだ。キッチンのある廊下に放られ、私は逃げ道を失った。
「遠慮するなよ。おまえの家だろ?」
知らない顔ならただ恐怖を抱くだけだ。だが、目を細めドアに寄り掛かる男の顔は、古傷のように脳裏に焼き付いていてじくじくと疼きだす。私を見る三白眼の視線がナイフのように鋭く突き刺してくる。
「そんな怖い顔して、お兄ちゃんの顔忘れたか?」
「誰が兄だよ……さっさと出て行って!」
声が震える。気持ち悪い。鳥肌が止まらない。
「いつ退院したの……? どうしてここが……」
「東京って狭いよな。ホント、偶然、似た顔だと思って後つけたら本人だなんてよ。管理人もボケジジィだとセキュリティ無いようなもんだよな。身内って言ったら鍵開けてくれんだもん。しかしねぇ、お兄ちゃん悲しいわ」
男はジャケットのポケットから紙を一枚出して弾く。床を滑って私の足元で止まった。名刺だ。【ClubAsyl:綾見さあや】。自分の仕事先と名前だと、一拍置いて理解する。
「妹がキャバ嬢なんて。いやまぁ合ってるとは思うよ。おまえビッチだもんな」
「どうしてこれ……」
「おまえが相手した客から貰ったんだよ」
「ら、乱暴なことは……」
「……お客様は大切にしねぇとな。結構稼いでるんだろ?」
ニコニコと顔だけは爽やかに、声は粘性を感じる。私は震える手でスマホを握りしめた。
「警察呼ぶか? 別にいいけど、おまえの立場もバレちまうかもな」
指が止まる。
「なんなら俺が呼ぼうか? 新宿のキャバ嬢が実は——」
「やめて!!」
大声で叫ぶ。しんと静まった部屋に、ワンテンポ遅れて隣の部屋からドンと壁を叩く音が聞こえた。
うえぇん。
「え?」
部屋の奥から泣き声が聞こえた。ぐすぐすと小さな嗚咽の後、だんだんと大きくなっていく。
私は不快な男に向き直り、困惑の視線を向けるだけ。何も言葉が出なかった。
「参るよなぁ、堕ろせって言ったのに。勝手に産んどいて責任取れとか、女って怖いよな。それで少し躾けたらガキ置いて逃げるし、本当に最低な奴だったよ。おまえはそんな奴じゃないよな?」
またお隣から壁を叩かれる。
「近所迷惑だろ。早くあやしてこいよ」
なに言ってるの?
「あ、あんたの子供じゃ——」
「俺に子供なんかいねぇよ。おまえの子だろ? それじゃ、邪魔しちゃ悪いし俺帰るわ」
男が玄関を乱暴に開け放ち部屋を出て行く。アパートの階段を下りるカンカンと軽快な音が聞こえ、泣き声だけがわんわん響いた。
私はゆっくりと閉じる玄関のドアに飛びつき、急いで閉めた。
落ち着け……大丈夫……大丈夫……。
目を閉じ数十秒かけて心を落ち着かせ、ゆっくりゆっくりドアの鍵を閉める。ガチャリと音がしてから慎重に目を開き、鍵がちゃんと閉まっていることを確認した。
靴を脱いで狭い廊下を恐る恐る歩き、部屋を覗いた。
信じられない。本当に赤ん坊がいる。八畳のワンルームいっぱいに泣き声を散らして、仰向けで手足を振り回している。
生後半年くらい? 一歳過ぎてる? わからない。赤ちゃんなんて、今までまともに触れ合うことがなかった。
呆然としていると目が合って、赤ちゃんはたと泣き止んだ。まじまじと私の顔をじっと見ている。真っ黒の綺麗な目だ。涙で潤んで、水底に沈む黒真珠を覗き込むようだ。
一瞬時間が止まった気がしたが――そのまま止まってくれとも思ったが――赤ちゃんはまた顔を歪ませて泣き喚いた。またお隣に壁を叩かれ、私はビクッと背筋を伸ばす。慌てて歩み寄り赤ちゃんを抱き抱えた。
「はいはいいいこだねーよしよーし」
笑いかけそれらしい言葉をかける。しかし嫌がって大暴れだ。ほっぺにいいパンチも貰ったし、とりあえず元気はある。そして首はすわっているようだった。少しホッとする。
あやし方もわからない。抱き方も合っているかわからない。焦る気持ちが膨らんでいく。きっとずっと遅いんだろうが、おむつじゃなかろうか、とやっと気付いた。
仰向けに寝かせて小さなズボンを脱がす。
「やっぱり」
おむつは湿っていた。光明が見えて安堵に声が漏れる。紙おむつのテープを剥がして「男の子か」と有るか無いかを確認。
なんとかなりそうだ。そう思ったが、目に入ったものに息を呑んだ。
太ももの付け根に楕円状の青く小さな広がりがあった。すぐに青痣だとわかった。よく見ると膝の裏やおへその下にもある。治りかけのものも新しいものも。シャツは怖くて脱がせられない。
「警察……病院……」
スマホを手に取る。すぐ通報するべきだ。あんな男にしてやられる必要なんてない。この子を最優先にするべきなんだ……そうしたらどうなる?
あいつは虐待と保護責任者遺棄とかで逮捕されて、私は関係を聞かれ素性が知れて場所を追われて、この子は母親が見つからなければ施設行き。見つかったとして、その母親だってこの子を捨てたようなものだ。
それでも警察に相談するべきだった。わかっているのに手が動かない。代わりに、頬を伝ってディスプレイに涙が落ちた。反射して映る自分の顔は見るに堪えない。マスカラが落ちて顎まで黒い筋を引いている。
いろんなことを天秤にかけて、結局保身に傾いてしまう。本当に私は私が大嫌いだ。
泣き声は止まない。私も涙が止まらない。
「痛いよね? わかるよ、私も同じのたくさん作ってたし……」
また壁が叩かれた。
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