第9話 魔王死す

 

 杉谷善住坊の手柄もあり、今川軍は退却を余儀なくされた。

 織田軍はやがて義元の居城を包囲した。

 足軽の雨森嶺二郎は、楽天的な男で、名護屋の鳴海城は敵兵たちに囲まれ、城内では評定が開かれていたが、酒を煽り酔っていた。城主の今川義元は天守閣にて短刀で腹を掻っ捌いて自決、家臣らは、嫡男の氏真うじざねを落ち延びさせ、再起を目指す計画を立てていたが、家老は影で裏切る準備をしていた。嶺二郎は、岡部正綱おかべまさつなという忠臣から氏真を護衛する様に命じられたが、嶺二郎はそそくさと城から逃走する。その後、図らずも氏真に出くわし、氏真に従う美しい女に目を奪われた嶺二郎は、護衛として氏真たちに加わる。裏切り者の家老は、忍者たちに氏真たちを追わせ、氏真の腰元も裏切っていたことから、簡単に襲撃を許すが、これを撃退することに成功。しかしその後も、追手は執拗に氏真と嶺二郎を追い詰める。

 

 鳴海城の概要は次の通りだ。

 室町時代の応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。その際にこの地にあった成海神社は北の乙子山に移された。宗範の死後、廃城になったといわれる。


 戦国時代の天文年間には尾張国の織田信秀おだのぶひでの支配下にあり、配下である山口教継やまぐちのりつぐが駿河国の今川義元に備えるべく城主を務めていた。しかし信秀が没すると、息子の信長を見限った教継は今川氏に城ごと寝返った。その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。天文22年(1553年)、信長は800の兵をもって鳴海を攻めるが落とすことができなかった。やがて教継父子は義元により切腹に追い込まれた(これは信長の計略によるともいわれている)。結果的にいつ寝返るかわからない外様の山口氏から今川家譜代の岡部元信に城主が変更され今川家直轄の重要拠点になった。これに対抗すべく、信長は永禄2年(1559年)ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。


 永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起こり、今川軍はまず大高城に付けられた織田方拠点の各砦の排除を敢行し、残りの鳴海城に付けられた三砦の排除を残すのみとなり作戦は順調かにみえたが、作戦総司令部である義元本陣が織田本隊の強襲により総大将義元が討ち取られ総崩れとなってしまった、しかしあくまで本隊が敗北したのみであったので、砦排除のため待機中であった鳴海城兵はかなりの兵数を維持していたと思われ無傷であった。信長との交渉の結果、元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、ついに城は信長の手に落ちた。戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。現在でも彼の名にちなんだといわれる「作町さくまち」という地名が城下に残っている。


 城の規模は記録によっては一定しないが、丘陵の西に立つ東西に長い城郭であったようだ。たとえば『鳴海誌』によると「東西75間半、南北34間」とされている。現在城があったとされる場所は、道路を隔てて西側の城跡公園から、天神社のある東の小さな高台あたりといわれる。これらには碑が立っているほか、近辺にある東福院という寺院には、鳴海城の廃材で造られたという門が存在する。それほどはっきりとした遺構は残っていないが、公園の近辺には空堀や土塁状の地形が存在する。

 

 近江にある山間の農村。村人たちは、戦によりあぶれて盗賊と化した野武士たちに始終おびえていた。山に現れた野武士達の話を盗み聞いた者がおり、その年の暮れに30騎の野武士達が村へ略奪に来ることが判明する。これまでの経験から首長は今回も頼りにならないことは明白であり、村人たちは絶望のどん底に叩き落とされていたが、今川の残党から近江に逃れてきた僕は、野武士と戦うことを主張する。村人たちは怖気づいて反対するが、首長は首を縦に振り、「十兵衛の言い分はもっともじゃ」と言った。

 

 僕は戦いに備え、いろいろ練習した。まずは素振り、剣道における稽古方法(基本稽古)のひとつ。足さばきを伴って、竹刀や木刀を上下、斜め方向に振る動作を指す。基本的に面などの防具をつけずに行う。

 以下のような効用がある。

◎手・足・体の一致の感覚を習得できる。

◎素振りによって、竹刀操作を習得できる。

◎打突に必要な手の内の感覚がつかめ、打ちの冴えを習得できる。

◎足さばきと竹刀の振りの調和を習得できる。

◎稽古前の準備運動としての効果が期待できる。

 さらに乱取りを行った。

 稽古形態としては比較的新しく、歴史(社会環境)的には『昔日、命のやり取りをした真剣勝負』⇒『天下泰平し流儀が勃興した頃に確立した形稽古』⇒『形稽古とねこがき、畳の使用による乱取り稽古』⇒「再び天下が風雲急を告げた幕末の乱取り」となった成立経緯がある。


 雪煙が立ち上る中、山道を駆けた。ホワイトアウトが起きて視界が真っ白になった。もうダメかと思った。織田裕二主演の映画を思い出した。ライフルを手にした松嶋菜々子がカッコよかった。

 命からがら、僕たちは村に戻ってきた。首長が熱いお茶を振る舞ってくれて、涙が出るほど嬉しかった。

 大晦日の夜、意外な来客があった。小屋の戸がノックされ、開けると嶺二がそこにはいた。

「九条じゃねーか!」

「おまえ、どうしてここに?」

「今川の残党に追われてる、匿ってくれ」

 中に入れ、お茶と餅を振る舞った。囲炉裏の火花がパチパチ音を立てた。

 普段なら紅白歌合戦を見てる頃だ。

 嶺二は夕食を終えて、経緯を話し始めた。織田軍に鳴海城が包囲され義元が自決した。裏切ったのは

 飯尾連龍いのおつらたつという家老と、天野藤秀あまのふじひでという腰元だ。天竜川の河原に氏真は追い詰められ、斬首された。

「逃走中に遥と遭遇とした。氏真に付き従っていたが見失ってしまった」

 僕は全身が興奮するのを覚えた。

 彼女と会うために死ぬわけにはいかない。

 嶺二を追っているのは今川軍だけではなかった。

 近江の浅井長政が勾玉を手に入れるため、魔の手を伸ばしてきた。

 浅井長政は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄の織田信長と同盟を結ぶなどして、浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害し、浅井氏は滅亡した。


 翌年の春、しばしの平和な時も束の間、ついに浅井氏の新庄直頼しんじょうなおよりが現れる。新庄は今川の残党と結託して信長を倒すように長政から依頼されていた。

 史実では摂津山崎城主から近江大津城主、大和宇陀城主を経て、高槻城主。豊臣秀吉の御伽衆。関ヶ原の役で失領したが、文武に優れ人倫をわきまえた人物であったことから、徳川家康に召し抱えられ、常陸麻生藩の初代藩主とされた。

 天文7年(1538年)、近江国坂田郡朝妻城主新庄直昌の長男として生まれた。 天文18年(1549年)、父が37歳のときに江口の戦いで戦死し、11歳で後を継いだ。『浅井三代記』によると、浅井氏と六角氏の間で揺れ動いていたが、最終的には戦国大名・浅井長政に従った。


 元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは浅井側の第四陣を構成して戦っているが、その後、同2年(1571年)2月に浅井方の南方の拠点佐和山城の磯野員昌が降伏して開城し、織田方の丹羽長秀に朝妻城が攻められたことから、直頼も開城して軍門に降った。


 織田家では江北を任された羽柴秀吉の与力とされたが、坂田郡の支配を強めた秀吉によって次第に家臣化された。

 新庄を捕らえ、本拠のありかを聞き出した侍達は、先手を打つため僕の案内で今川残党の本拠へと赴き、焼き討ちを図る。

 本拠とは曳馬城ひきうまじょう(今の浜松城)だ。築城者については諸説あるが、今川貞相が初めて築城したという。ただし、室町時代中期には三河国の吉良氏が支配していたことが判明している。

 斯波氏と今川氏が抗争すると、吉良氏の家臣団の中で斯波氏に味方する大河内貞綱と今川氏に味方をする飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が争い、斯波氏が今川氏に敗れると吉良氏も浜松の支配権を失った。永正11年(1514年)、今川氏親から曳馬城を与えられた飯尾氏は正式に今川氏の家臣となった。乗連は今川氏に引き続き仕え、桶狭間の戦いにも参加した。桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死すると今川氏の衰退が始まるが、この時期に飯尾氏の当主も乗連から子の連竜へと移り変わる。

 天守周辺は天守曲輪と呼ばれ、本丸から独立した曲輪となっている。東西56m・南北68mのいびつな多角形で、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されている。周囲を鉢巻石垣と土塀で囲み、土塀には屏風折などの横矢や武者走りが設けられるなど防御性の高い設計で、創建時には籠城戦を想定した場所だったと考えられている。


 僕たちはあぶりだされた飯尾連龍と天野藤秀を切り伏せ、囲われていた女たちを逃すが、その中の美しく着飾ったひとりは野口遥のぐちはるかだった。

 屍の転がる戦場で僕は遥に尋ねた。

「何故、こんなところにいるんだ?」

鳥辺野とりべので不思議な黒い玉を見つけたんだ」    

 鳥辺野は、京都市の一地域を指す地域名。鳥部野、鳥戸野とも書く。平安時代以来の墓所として、徒然草や源氏物語に登場し、藤原道長が荼毘だび(火葬のこと)に付されたという。「東の鳥辺野」、「西の化野」、「北の蓮台野」を京の三大葬地という。

 利用者たちにシャンプーしたり、爪を切ってあげたり、髪を整えてあげたり、歯を磨いてあげたり、コラージュ療法をしてあげたりした。190cm程度の寺岡の散歩の解除は大変だった。背丈が高いから支えるのが大変で転びそうになったりした。病院に付きそうこともあった。辺見蛍の若年性認知症は日に日に悪化し、病院に行った帰り実家に帰ると突然暴れ出したりした。そういう苦労が実ったのか、勾玉は黒から赤に色を変えた。

 

 最初にタイムスリップした先は明治時代だった。遥は瓜生岩子うりゅういわこという女性実業家の下で働いたそうだ。

 陸奥国耶麻郡熱塩村(現在の福島県喜多方市)に渡辺利左衛門、りえの長女として誕生。生家は会津藩領の商家(油商)で、山形に支店もあった。岩4歳の時に天保の大飢饉が始まり、会津でも天変地異や凶作のため農村は疲弊していた。天保8年(1837年)9歳で父が急病となり死別。その49日後に家が火災に遭い、母の実家である温泉業「山形屋」に母、弟と3人で身を寄せることとなり、瓜生姓を名乗る。


 14歳の時に若松に住む叔父、山内春瓏のもとに行儀見習いのため預けられる。春瓏は会津藩侍医で、産科と婦人科に秀で、和漢の学に通じ、仏教に造詣が深かった。この叔父から教えられた実践的な哲学と堕胎防止の啓蒙運動こそ、岩に大きな影響を与えたのであった。


 弘化2年(1845年)17歳の春、高田在の名主佐瀬氏の次男茂助を婿養子に迎え、若松に呉服店を開く。やがて1男3女をもうけ、商売も順調に進むかにみえたが28歳の時、夫茂助が喀血。以後夫の看病、子供の世話、夫に代わっての商売と精一杯の人生を歩む。こうした矢先、頼りとする叔父が他界、番頭が店の金を持ち逃げするなど不幸が相次いだ。7年間の臥床の末に夫は死亡し、翌年には母も他界。なす術もなく母と同じ運命を背負って熱塩の瓜生家に再び身を寄せたのである。絶望に打ちひしがれた岩は、母の菩提寺示現寺の隆覚禅師に「尼になりたい」と訴えると、逆に「お前より不幸な人は大勢いる、もっと不幸な人のために捧げなさい」と諭され、師の貧者救済の教えに立ち直ったという。


 岩が戻った会津は、戊辰戦争に巻き込まれ、一般の民衆を貧困のどん底に陥れていた。明治元年(1868年)9月、鶴ヶ城開城。前藩主松平容保とその藩士はそれぞれ領内各地に謹慎の身となり、やがて西軍により民政局が組織された。岩の社会活動は、正にこの会津戦争の中から始められた。敵味方なく行われた救済の逸話は勇敢な岩の姿を次のように伝えている。


 岩の住む喜多方にも藩士とその家族が割り当てられた。岩はその生活を助けるために私財を投じて衣類や夜具、玩具などを与えた。やがて子弟の教育を願って幼学校の設立を思い立ち、民政局に出願するも受け入れられず、待ちきれなくなった岩は翌明治2年(1869年)6月に私財を投じて小田付村幼学校を設立する。会津藩教育の主柱であった藩校日新館の復興を願ったものであったが、武芸に代わって特に算術や算盤を採り入れたのである。廃藩置県によって禄を失った武士の、生きる道に役立つ方法を考えたのである。一方、岩は藩士やその家族のために、会津の産業である養蚕や機織り、漉返し紙の製造、染形紙、畳表や笊、籠などの技術を教え、更生への手立てを与えた。幼学校は近郷に知れ渡り、やがてその業績を認められ民政局から表彰されるなど、その事業は軌道に乗ったかにみえた。


 しかし翌明治3年(1870年)、旧会津藩が陸奥国斗南へ3万石で移封され、旧藩士もそれに伴うことになり、幼学校の生徒は半減、また明治5年(1872年)小学校令の予告が政府から会津地方にもあり、小田付村幼学校は閉鎖。岩はこれを機にかねてから興味のあった貧民救済事業の実際を学ぼうと上京する。捨児、孤児や老疾者を収容していた佐倉藩大塚十右衛門の救養会所を視察、帰郷後喜多方の長福寺を借り受け、行路病者や幼学校での貧困者、孤児を移して世話をする。同時に農家の娘たちを集め裁縫教授所を設けた。当時会津で盛んに行われていた観音講や念仏講に自ら足を運び堕胎防止も訴えた。明治15年(1882年)、ときの県令三島通庸の会津三方道路建設強行により福島事件が起きるが、岩は三島の知遇を得ることになり、単なる私的活動が公的性格を帯びると同時に範囲も拡大、喜多方から福島県下、さらに東京へと広がることになる。明治19年(1886年)岩は福島の長楽寺に移り住み、救育所設立の運動に没頭、明治23年(1890年)福島救育所として陽の目をみる。しかし資金調達が思わしくなく、明治24年(1891年)岩は上京し窮民貧児のための救済機関として救養会所の全国設置を求め、第1回帝国議会に女性として初めて請願書を提出。これと前後して東京市養育院に招かれ幼童世話掛長の職に就いた。


 育児会設立のために帰郷を促された岩は、同年12月に若松、喜多方、坂下3ヶ所に貧児を養育する育児会を設置、翌明治25年(1892年)には福島瓜生会を設立。さらに26年に仏教徒による福島鳳鳴会を組織、貧困者の救済に尽力、明治28年(1895年)に鳳鳴会は育児部を独立、これがのちの福島育児院となる。


 日清戦争が始まると岩は東京下谷に移り、いも飴、飴粕の利用で戦時食品の普及を図る一方、後藤新平と出会い、無料診療所の全国設置を企画、台湾の救養活動を計画して長男祐三を台湾に送った。この間三陸津波の救援活動等精力的に救済事業に奔走、明治29年(1896年)に藍綬褒章を受章するも、明治30年(1897年)福島で過労のため病臥、福島瓜生会事務所にて死去した。


 遥が岩子のところで働き始めたのは明治26年からだ。その年は川越で大きな火事が起きたり、シカゴで万博が開かれたりした。遥は平成時代からとろみ剤を持ってきていた。誤嚥のある人を食べやすくする魔法の薬だ。とろみ剤のお陰で遥は評判となり、赤かった勾玉は黄色に姿を変えて安土桃山時代にやって来た。


 4月1日、僕と嶺二郎、遥の3人は信長に付き添って京にやって来た。足利義昭あしかがよしあきと戦うためだ。

 高瀬川の畔の桜の木が風に煽られて、雨を降らせていた。

 曲直瀬道三が信長の宿泊する本能寺にやってきた。道三は精力減退に悩む足利義輝(義昭の兄)を快癒させて名を挙げ、細川晴元や三好長慶、毛利元就などの診察にあたった。元就は道三からあれこれ気を回さず、美食を避け、性生活を律することであると教えられ、75歳まで生きた。

 道三は織田信長が本態性高血圧のため怒りっぽく、脳出血になる可能性が高いと判断した。

「確かに最近頭が痛むな。道三、儂はいつまで生きられる?」

 道三は怯えていた。信長は比叡山焼き討ちなど残虐極まりない。言葉を間違えたら命が危うい。

「それは神のみぞ知るものです」

 信長は冷たく笑い、「なるほどな」と答えた。

 

 4月5日

 嶺二は宵闇の一条大路にて、背後から何者かに短刀で刺され勾玉を奪われる。翌朝、鴉に屍を啄まれている嶺二を見つけ僕は言葉を失った。


 4月10日

 戦国時代を無慈悲に生き抜いてきた織田信長は、隣国の領主、徳川家康と武田勝頼を招いた鷹狩の場で居眠りをしてしまう。そして、そこで己が何者かに斬られて死ぬ悪夢を見た信長は突然隠居することを表明し、長男の信忠、次男の信雄・三男の信孝に3つの城を分け与え、自身は隠居して静かに余生を過ごしたいと願う。更に「1本の矢はすぐ折れるが、3本束ねると折れぬ」という毛利元就もうりもとなりの言葉を引用して、兄弟の団結の要を説くが、信孝は父親の弱気と兄弟衝突の懸念を訴える。信長は激怒し、信孝とそれを庇う重臣の丹羽長秀にわながひでをその場で追放する。近江の領主、浅井長政は信孝の気質を気に入り、婿に迎え入れる。


 家督と一の城を継いだ信忠だが、正室の松姫(武田信玄4女)に「馬印が無いのでは、形ばかりの家督譲渡に過ぎぬ」と言われ、馬印を父から取り戻そうとする。そこで家来同士の小競り合いが起こり、信長は信忠の家来の1人を弓矢で射殺する。信忠は父を呼び出し、今後一切のことは領主である自分に従うようにと迫る。立腹した信長は家来を連れて、伊勢国の松ヶ島城にいる信雄を訪ねた。信忠から事の次第を知らされていた信雄もまた「家来抜きであれば父上を迎え入れる」と信長を袖にする。信長は失意とともに、主を失って無人となった信孝の亀山城(伊勢国)に入るしかなかった。


 そこに信忠・信雄の大軍勢が来襲する。亀山城は燃え、信長の家来や女たちは次々に殺される。その中には信長の正室、帰蝶や森蘭丸もいた。更にどさくさに紛れ、信忠は信雄の家臣に鉄砲で射殺される。繰り広げられる骨肉の争いに、信長は半ば狂人と化して城を離れる。己が犯した残虐非道の因果に脅え、幽鬼の様に荒野を彷徨う信長のあとを、丹羽長秀と九条統が付き従う。

「長年仕えた儂を切り捨ておって、絶対に許さぬ」

 長秀の目は血走っていた。


 夫を失った松姫は今度は信雄を篭絡し、信雄の正室である雪姫を殺して自分を正室にしろと迫る。そんな時、流浪の身の信長を引き取るため、信孝が軍勢を率いて長良川を越えて現れる。信雄、信孝の両軍がにらみあう中、越後の上杉景勝うえすぎかげかつと近江の浅井長政も兵を遣わして様子を伺う。松姫に焚きつけられた信雄は信孝軍に向って突撃命令を下すが、その時、浅井の大軍が信雄の伊賀領に侵入したとの報が入る。

 目の前の浅井軍が囮であったことに気づき、燃え落ちんとしている松ヶ島城に戻った信雄に、松姫は数年前に自分の一族(甲斐の武田勝頼は1576年の長篠の戦いで命を落としている)を滅ぼした織田家が滅ぶのをこの目で見たかったのだと告げる。


 一方、信孝は家臣に指揮を任せて陣を離れ、丹羽と統とともに信長を探し出す。正気を取り戻した信長は信孝と和解を果たし、親子仲睦まじく馬上に揺られる。しかし、平穏も束の間、信孝は信雄が仕向けた鉄砲隊に狙撃され命を落とし、信長も眼前の悲劇に悶えながら、背後から信雄に弓矢で射抜かれて息絶える。「神や仏はいないのか!」と統は嘆き叫んだ。

 

 織田家によって治められる尾張の国は、次男の織田信雄によって滅ぼされる。お家再興と平和を望む僕たちは浅井の手を逃れ、亡き嶺二の勾玉が眠る湖に浮かぶ島へ向かう。

 蘇我民子は絶望し、平成に戻ることをただ祈る。

 虚ろ舟は浅井家に没収されていた。

 長政は捕らえた僕らを処刑しようとし、手始めに民子を火あぶりにしようとする。民子が刑台に掛けられ点火されたその時、絶体絶命の民子が流した涙に応えるように白馬に跨った武者が姿を現す。彼は島が爆破される前に勾玉を守っていた。武者は浅井の家老、雨森あまもり赤尾あかお海北かいほうを倒して不死身になっていた。若武者の正体は民子とこっちの世界にやって来た松永だった。

 

 長政たちは鉄砲や弓矢、大量の爆薬などで反撃するが、次々に追い詰められ配下は滅んだ。長政は一人難を逃れようと湖に小舟で漕ぎ出すが、松永はそれを許さず、雷撃により長政を倒した。すべてが終わった後、民子の感謝と涙を見つめ、松永は穏やかな表情になった。


 僕は京の林秀貞の看取り介護を終えた。涙を流してると勾玉が緑色に煌めいた。

 虚ろ舟は琵琶湖に浮かぶ竹生島に停泊してる。

 僕は馬に跨ると颯爽と駆けた。

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介護クエスト 鷹山トシキ @1982

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