第8話 義元反旗

 信長と秀吉の戦は休戦中だ。だが、安心は出来ない。いつ、攻め込んでくるか分からない。

 新世界の戦国時代の織田氏は、柴田勝家しばたかついえ佐久間信盛さくまのぶもりが両翼を担い、本能寺の変で信長を討って三日天下を獲った明智光秀あけちみつひで朝倉義景あさくらよしかげに仕えていたとき越後の上杉謙信うえすぎけんしんとの戦に破れ、この世を去っている。

 足腰の弱った今川義元は車椅子生活を強いられるようになっていた。

 僕は林秀貞はやしひでさだの食事介助をしていた。

 林氏は元々尾張国春日井郡沖村(現在の愛知県北名古屋市沖村)を本貫とする土豪であったが、秀貞は父・林通安と共に織田信秀に仕えて、政治や外交に手腕を発揮し、軍団のまとめ役(統率)として信秀の信頼を受け、重臣となった。

 幼少の織田信長に那古野城が与えられると、信長の二番家老となった平手政秀と共に一番家老として信長付きの家臣となり(『信長公記』)、天文15年(1546年)に古渡城で行われた信長の元服においては介添え役を務めるなど、まさしく信長の後見役と言える存在であった。しかし、当時の織田家臣団の例に漏れず秀貞も信長の奇行には頭を痛めており、天文21年(1552年)に織田信秀が死去し、天文22年(1553年)に平手政秀が死去すると、秀貞は信長の弟である織田信勝(信行)の擁立を画策するようになる。


 弘治元年(1555年)に清洲城主・織田信友が織田信光に殺害され、信長が清洲城を占拠すると、秀貞は那古野城の留守居役に任ぜられた。


 清州城の占拠後も織田氏の諸分家を糾合するなどして戦国大名として頭角を現し始めた信長であったが、秀貞の不安と不満は解消されなかったようで、弘治2年(1556年)に柴田勝家や弟・通具らと共に織田信勝を擁立して挙兵。しかし、稲生の戦いで信長に敗北し、この戦いで弟の通具が信長自らの手で討ち取られた。ただし、秀貞自身は参戦せずに静観しており、その動向は不明である。稲生の戦いの後は勝家と共に信長に許され、宿老の立場に据え置かれた。


 なお、『信長公記』によると、稲生の戦いの前に林兄弟の不穏な動きを察知した信長は異母兄弟の織田信時と2人だけで那古野城を訪れ、これを好機とみた通具が「これから信長公を襲って切腹させよう」と主張したが、秀貞は「三代報恩の主君に手はかけられない」と反対したため、信長は無事に帰ることができたという。


 秀貞は行政官として堅実な手腕を持っていた事が信長に評価されたものと思われ、稲生の戦い後に赦免された秀貞はそれまで通り織田家の家宰として清洲同盟の立会人を務めるなど、外交や行政面を中心に活動しており、武将というよりは政治家としての働きが目立つ。また、信長が発給した政治的文書に常に署名しており、永禄11年(1568年)に信長が足利義昭を奉じて上洛した際に信長の重臣と義昭の重臣が交わした起請文では秀貞が1番に署名している。また、『言継卿記』によると、山科言継が信長に拝謁する際には常に秀貞が奏者(取次役)を果たしていたとされる。


 政治面で信長から重きを置かれる一方、秀貞の武将としての活躍機会は非常に少ないが、武将としての働きが全く無かったわけではなく、播磨神吉城攻防戦など、僅かながらも出陣した形跡が『信長公記』に見られる。ただ、恐らくは軍監や軍目付、後詰など予備部隊を率いる武将として従軍していたのではないかと推測される。


 天正4年(1576年)11月に信長が家督を嫡男の織田信忠に譲ると、秀貞は信忠付きの家老となった。与えられた所領という面においては柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉などに追い抜かれていくが、筆頭家老(宿老)としての地位を保っており、信長が開く茶会においても秀貞は他の重臣と共に招かれるのが常であった。また、天正7年(1579年)に安土城の天主が完成した際に信長は秀貞と村井貞勝の両名にだけ天主の見物を許しており、少なくとも秀貞が突如として追放される前年までは信長との関係が良好であった事が伺える。


 天正8年(1580年)8月、信長の命により秀貞は突如として安藤守就や丹羽氏勝と共に織田家を追放された。信長は秀貞の追放理由として、秀貞がかつて織田信勝を擁立して謀反を起こした事を挙げているが、それは24年も前の出来事であることからも余りに難癖じみており、その真相については不明な点が多い。『信長公記』では「仔細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」とあり、信長がかつて信長包囲網で窮地に陥っている時に謀反を企て敵と通じたというのであるが、この記述はあまり信用できない。


 一説には、秀貞が老齢で役に立つ事が少なくなったことから、実力主義を採用していた信長が秀貞の働きに不満を持ったためともいうが、そうであるならば秀貞を強制的に隠居させれば済む話であり、織田家中に動揺を招く追放処分とした理由は不明である。


 秀貞は京に居住していた。信長は小姓の森蘭丸もりらんまるから秀貞に不穏な動きがあると聞かされていた。介護士として林邸に潜入することになった。林邸は勘解由小路かげゆこうじにある。僕がいた時代の下立売通しもたちうりどおりに相当する。近隣には花園駅や京都御苑などがある。勘解由小路の名前は、朝廷の機関(令外官)である勘解由使に由来する。

 信長のところから来たって言うと警戒されるから、家の前で待って出てくるのを待った。

 咳をしながら出てきたところを声掛けした。

「大丈夫ですか?」

 秀貞は腰が曲がり杖をついていた。

「お〜お〜若いの、ありがとうな〜」

 それにしても戦国時代はメチャクチャ暑い。クーラーはおろか、扇風機すらない。

 秀貞が名前を聞いてきたので、九条十兵衛と名乗った。こっちの時代で使ってる名前だ。僕はスーパーファミコンの『サムライスピリッツ真』に出て来る柳生十兵衛やぎゅうじゅうべえが好きだ。

「あれ〜儂はどこに行こうと思ってたんだっけ?」

 いや、知らねーよ。

「それにしても今日は暑いのぅ?お主、名前はなんじゃ?」

 秀貞の認知症はかなり深刻なようだ。  

 認知症の初期症状は、同じことを何回も話す・尋ねる、物を置き忘れて、探すことが多い、料理・買い物など以前できたことに手間取る、金銭管理ができない、ニュースなど周囲の出来事に関心を示さない、趣味・活動の意欲がない、怒りっぽいなど喜怒哀楽が激しいなどだ。

 判断がここまで鈍ってる秀貞にクーデターを起こせるとは思わなかった。信長は猜疑心が強そうだ。

 屋敷の前であーだのこーだのやってると、嶺二がやって来た。

「ここにいたのか、探したよ」

 スマホなどない時代、連絡も取れないしマップ機能も使えないから目的地に辿り着くのも一苦労だ。

「何かあったのか?」

「今川が裏切ったぞ」

「あの豚……」

 嶺二はリュックサックからミネラルウォーターを出して渡してくれた。

 喉を鳴らしてゴクゴク飲んだ。

「で、林殿の様子はどうだ?」

「彼に謀反は不可能みたいだよ」

 秀貞はお漏らしをしてしまい、悔しそうに泣いていた。

 嶺二はリュックサックからオムツや尿器、尿器収納ラックなどを出して秀貞に渡して使い方を説明した。寝たきりの人は吸収部分に尿を固めるポリマーが内蔵されてるオムツ、トイレやポータブルトイレで排泄が出来るが時々失禁する人ははくオムツ、尿がほんのちょっと漏れるだけの人は失禁パンツがおすすめだ。一見するとふつうの布パンツだが、パンツの股部分の吸水性が強化されてるので、少しの尿なら吸い取れる。秀貞なら失禁パンツで十分だ。

 

 今川軍は安土桃山城を包囲した。

 安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。


 この城を築城した目的は岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。


 蝉時雨の中、馬を駆って僕たちは安土桃山城へやって来た。

 城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城は大手門からの道が幅6mと広く、約180mも直線が続く。また、籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備も著しく少ない。

 もしかしたら、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと僕は推理した。

 僕は太原雪斎たいげんせっさいと対峙した。彼は俳優の田中泯たなかみんに似ていた。

 今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与したことから「黒衣の宰相」「名補佐役」「軍師」などと評価されている。『今川分限帳』では「執権」と評している。このように雪斎の手腕は今川義元の全盛期を築き上げた人物として後世には見られていた。そのため「雪斎が生きていれば桶狭間の敗戦はなかったろう」とまでいわれる。また『甲陽軍鑑』では雪斎の死後、山本勘助が「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」と評したとしている。家康も「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と評したという。

 

 雪斎が義元と初めて出会ったのは大永2年(1522年)頃のこととされる。はじめ雪斎は九英承菊きゅうえいしょうぎくと名乗って、駿河富士山麓の善得院(現在の臨済寺)に入寺し、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めた。後に京都五山の建仁寺で修行をしていた。この頃から秀才として将来を嘱望されていたと言われる。この噂を聞いた主君の今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう要請されるが、一説にはこの要請を2度までも断ったと伝えられる。享禄3年(1530年)、建仁寺の師である常庵龍崇によって芳菊丸(義元)が得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改める。2人はさらなる修行のため、大永5年(1525年)と天文2年(1533年)の2度に渡って上洛し、善得院から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った。この頃に承芳(義元)は道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗った。


 今川家では大永6年(1526年)に氏親が死去。その葬儀の頃、義元は富士郡の善得寺にいた。氏親は、今川領国としては不安定な河東の安定化を図り、同地において重要な立場にある庵原氏出身の雪斎に、義元の補佐役・養育係を任せていた。


 天文5年(1536年)3月17日、氏輝が死去、為和の日記や武田家臣の日記『高白斎記』などに拠れば同日に氏輝の後継的立場にあった次弟の彦五郎も死去している。継嗣が無かったため、氏親の3男で義元の異母兄である玄広恵探と栴岳承芳こと義元の家督争いが起こる。この時、雪斎は義元の家督相続に尽力し、花倉館に籠城した玄広恵探を攻め、自刃に追い込んだとされる(花倉の乱)。このため、還俗して家督相続を実現させた義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用する。


 雪斎は義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与えた。天文6年(1537年)、雪斎は氏親の時代から悪化していた甲斐の武田信虎との関係改善に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎え、信虎の嫡子・晴信に三条公頼の娘・三条の方(今川家の遠縁)を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させた。だがこのため、これまで同盟関係にあった相模の北条氏綱との関係が悪化し、氏綱は駿河東部に侵攻し、同地を占領した。雪斎はこれに対して拙速を避け、天文14年(1545年)に関東管領の山内上杉憲政を誘い込んで武田晴信と共同して河東に出兵し、同地を取り戻している。


 天文12年(1543年)、雪斎は臨済寺の開山として迎えた大休宗休の門人となることが許されて同じ臨済宗でもそれまでの建仁寺派から離れて妙心寺派に転じ、法名も後世に知られる太原崇孚と改める。これは、当時妙心寺派の勢力が東国を中心に急速に拡大していたことに対応しようとしたものとされる(ただし、妙心寺が五山系の諸派と対立していた訳ではないことに注意を要する)。なお、それに先立って雪斎は同じ妙心寺派の明叔慶浚を臨済寺に招いて一時的に住職の地位を譲っている。


 天文15年(1546年)10月、織田信秀が西三河に侵入して松平広忠が救援を要請してきたのを機会に、雪斎は大軍を率いて西三河に介入する。天文16年(1547年)、今川軍を率いて三河田原城を攻めて、同城を落とした。天文17年(1548年)3月19日、三河小豆坂で尾張の織田信秀と戦い、織田軍を破った(第2次小豆坂の戦い)。天文18年(1549年)11月、三河安祥城を攻めて織田信広を捕縛し、織田信秀と交渉を重ねて、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏のもとへと取り戻している。この時の人質交換は三河の西野笠寺で行なわれた。安祥城を失ったことにより織田氏の勢力は著しく減退し、今川氏は西三河の支配権を得た。


 天文19年(1550年)6月に義元の正室・定恵院が死去し、今川家と武田家の婚姻関係が絶えた。このため天文21年(1552年)11月に義元の長女・嶺松院を晴信の嫡子・義信の正室として嫁がせて同盟・婚姻関係を保持した。


 天文23年(1554年)3月には甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。この同盟に伴い、義元の嫡子・氏真に氏康の娘・早川殿が嫁ぐ。これにより、今川家は三河など西方面への作戦に兵力を集中することが可能になったこの同盟に際し、武田晴信、北条氏康、主君の今川義元の三家の当主を駿河の善得院(現・臨済寺)で会合させたとの伝説もあり、現在では面会そのものは後世の創作との説が有力である。


 このように外交と軍事の活躍が目立つ雪斎であるが、天文14年(1545年)に高僧を招いて駿府に臨済寺を開寺し、自らは2世住持となり、天文19年(1550年)には京都妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶としても活躍している。雪斎の時代に駿河では善徳院と清見寺を中興し、今林寺や承元寺、葉梨長慶寺、庵原一乗寺が、遠州では定光寺が、三河では太平寺が興され、妙心寺派の普及がなされている。


 天文22年(1553年)、今川家の分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定に寄与する。また臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、在来商人を保護する商業政策なども行ない、今川氏の最盛期に大きく貢献した。中国の史書である歴代序略を印刷している。

  

 弘治元年(1555年)閏10月10日、駿河長慶寺にて死去した。享年60。

 既にあの世に逝ってるはずの雪斎がここにいるのは、きっと僕たちが時代を変えたからだ。

 雪斎は85歳にしては屈強で、馬乗で槍をグルングルン回して威嚇してきた。

 嶺二は風邪をこじらせた為に参戦していない。

 僕だって今日まで何もしてこなかったわけじゃない。陣太刀や短刀、槍などで訓練した。時代がかなり狂ってるから今川軍にフランキ砲が配備されていてもおかしくない。


 フランキ砲とは、16世紀の大砲の種類で、原始的な後装砲である。フランキとも。主に東アジア史で西洋人によりもたらされた後装砲を意味する用語である。1576年(天正4年)、キリシタン大名の大友宗麟が、日本に布教に来たポルトガル人宣教師達から火縄銃や硝石等と共にフランキ砲を輸入したとされ、日本で最初の大砲といわれる。

 砲はインドのゴアで交易品として作られたもので、本来は艦砲用の設計である。

 輸入された2門(10門とも)のフランキ砲は、その大きな威力から「国崩し」と名づけられた。これは「(敵の)国をも崩す」という意味であったものの、配下の中にはこれが「自国を崩す」意味にもつながるとして嫌った者もいたと言われる。果たしてその後大友氏は薩摩の島津氏に蹂躙されることとなった。しかし宗麟の臼杵城篭城の際は、その巨大な砲弾と威力で敵の島津軍を驚かせ、食い止めるのに役立った。

 大友氏除国後も、江戸時代を通じて臼杵城本丸に配備されていた。


 信長は櫓の上にスナイパーを配置していた。スナイパーの正体は杉谷善住坊すぎたにぜんじゅぼうだ。

 鉄砲の名手であったという以外の確かな人物像は不明であり、出身については甲賀五十三家の一つである杉谷家出身の忍者とも、伊勢国菰野の杉谷城の城主とも、あるいは雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。信長を狙った理由も、近江国を追われた六角氏からの依頼、信長への個人的な怨恨、鉄砲名人としての腕試しなど諸説ある。


 元亀元年(1570年)4月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され一時京都に逃れていた織田信長は、翌5月に岐阜城への帰途についていた。5月19日、善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江国の千草越え(千種街道)を通過していた信長を狙撃するが失敗に終わった。12-13間(20数m)の距離から2発銃撃したとされるが、信長はかすり傷のみで済んだ。


 その後、善住坊は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。その結果、近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、領主・磯野員昌に捕縛される。織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。

 彼も僕たちが時代を変えた影響で、処刑されることなく織田氏の軍門に下っていた。

 信長は嶺二から武器を買い取った。その武器とはレミントンM870だ。アメリカのレミントン・アームズ社がM31の後継として開発したポンプアクション式散弾銃である。

 レミントンM870は、1960年代中期に開発され、1980年代からは民間での狩猟用としてだけではなく警察用としても採用されているショットガンであり、安定した性能と信頼性の高さが評価されている。現在はモスバーグM500やイサカM37・ウィンチェスターM1300などと並び、ポンプアクション式ショットガンの定番として幅広い用途で使われ続けている。


 削り出しのスチール製のレシーバー等、レミントン社の製品らしく堅牢な構造で耐久性が高いため、各国の警察や軍隊でも戦闘用だけでなくバードパトロール用などとしても広く採用されている。日本では陸上自衛隊の特殊作戦群や警察の刑事部特殊班、海上保安庁の特別警備隊などで使用されている。民間でも狩猟用として多く使われており、日本国内でも流通している。

 

 スコープの十字の真ん中に雪斎が入った。

 善住坊の人差し指がくの字に曲がった。

 ズドンッ!!

 

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