第7話 播磨の戦い

 詐欺師2人&宍戸備前を倒し不死身になった九条統だったが七歩蛇を倒したので今は不死身モードではない。後藤象二郎を殺してるので不死身モードになるまで残り2人殺す必要がある。

 

 安土桃山時代に来た僕は曲直瀬道三の弟子となった。

 曲直瀬 道三(永正4年9月18日(1507年10月23日) - 文禄3年1月4日(1594年2月23日))は、戦国時代から安土桃山時代の日本の医師。本姓は元は源朝臣(宇多源氏)、のち橘朝臣。今大路家の祖。日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。養子に曲直瀬玄朔があり、後に2代目「道三」を襲名している。


 父は近江源氏(宇多源氏)佐々木氏庶流の堀部左兵衛親真、母は多賀氏。道三が誕生した翌日に父と母が相次いで死去した。なお、『近江栗太郡志』によれば、道三は近江国栗太郡勝部村(現・滋賀県守山市)の佐々木氏一族勝部氏の一門の出とされ、母は目賀田攝津守綱清の娘、諱を正慶とし、父母死別後伯母に育てられたと伝えられている。幼少時、守山の大光寺内吉祥院にて学んだ(道三は勝部村に五反の農地を持ち、大成した後一反を大光寺に寄進したと伝えられ、天正5年12月翠竹庵道三著名の寄進状がある)。


 永正13年(1516年)、五山文学の中心である京都の相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする。享禄元年(1528年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と佐野ノ赤見で出会い医学を志す。なお柳津で面会したというのは根拠のない俗説で佐野市赤見が正しい。入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。なお李朱医学とは便宜的造語で、当流医学が実情に則した実際の学派名である。当流は道三が創り出したとする説があるが、これは明らかな誤りで田代三喜から相伝されたものである。天文15年(1546年)、再び京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍・足利義藤(後の足利義輝)を診察し(以後、皇室や幕府へ出仕している事実から察すると、侍医として招聘されたものと考えられる)、その後の京都政界を左右した細川晴元、三好長慶などの武将にも診療を行い、松永久秀には性技指南書である『黄素妙論こうそみょうろん』を伝授するなどして、名声を高め京都に啓迪院けいてきいんと称する医学校を創建した。


 それまでの観念的な治療方法を改め、道三流医道を完成させ、実証的な臨床医学の端緒を開き、四知(神・聖・功・巧)の方を生み出した。


 永禄3年(1560年)10月、道三は初めて皇室に参仕し、正親町天皇の脈をとっている。以後皇室の医療にも従事することになる(『御湯殿上日記』)。


 永禄5年(1562年)、幕府の芸・雲和平調停に加担して毛利氏に対する諸約定の早期履行を促すために中国地方に下向し、その後も毛利元就の疾病治療のため何度か下向することになり、道三流医術を中国地方に伝える契機となる。


 永禄9年(1566年)、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際に、これを診療し、『雲陣夜話』を記す。


 永禄9年(1566年)から永禄12年(1569年)にかけて、畠山義綱と道三の交流が確認される。この医道奥儀相伝を基礎とする交流の背景には能登畠山氏の歴代当主が文化を尊び、医道に深い関心を持っていたことと、義綱が中風の治療を希望していたことが挙げられる。


 天正2年(1574年)には『啓迪集』を著し、同年に正親町天皇に拝謁を許され、診療を行い、同書を献上した。正親町天皇は僧・策彦周良に命じて序文を作らせている。この際に翠竹院の号を賜る。織田信長が上洛後は、信長の診察も行い、名香・蘭奢待を下賜された。


 天正16年(1588年)7月22日、京都に到着した毛利輝元が道三の屋敷で饗応を受け、輝元から道三に祝儀として銀子100枚、妻の介石にも銀子30枚が遣わされている。しかも輝元の暇乞いにあたっては道三が銀子20枚、妻の介石が銀子10枚を贈られており、破格の進物であった。


 著書は『啓迪集』以外にも『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』『弁証配剤医灯』『黄素妙論』『雲陣夜話』など数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。天正12年(1584年)、豊後国府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。天正20年(1592年)には後陽成天皇から橘姓と今大路の家号を賜る。文禄3年1月4日(1594年2月23日)に没した。葬儀の際には平僧だけで20名が読経し、鹿苑院の院主も結縁のため参列していた。享年は88歳であった(『鹿苑日録』)。死後、正二位法印を叙任された。


 墓所とされる京都の十念寺には、「一渓道三居士、文禄三年正月四日」と刻まれた石碑が現存している。


 当代第一流の文化人でもあり、特に茶の湯のたしなみが深かった。宮本義己は道三の茶の湯執心の一因が禁裏や当世の有力者との交際を確保するための必要な手段であったと分析している。


 長男の守眞は早逝したが、もう一人娘がいた。道三は妹の子・玄朔を養子に迎え、娘の子と娶わせて跡継ぎとし、門人と孫たちを縁組させ曲直瀬姓を継承させている。玄朔の今大路家を本家として、娘の長男の守柏(翠竹院)、門人で孫娘婿の正純(亨徳院)、門人で正純未亡人と再婚した玄由(寿徳院)、門人で玄朔の娘を娶った正琳(養安院)などの系列があった。その後も代々官医として続き、今大路家は半井家と共に幕府奥医師筆頭の典薬頭を世襲した。


 僕たちが時代を変えたせいで、信長の配下には桶狭間の戦いで信長に殺されたはずの今川義元や、小谷城の戦いで自刃した浅井長政などがいた。

 

 信長と戦う敵は羽柴秀吉だった。

 1580年4月、三木城攻略から約3ヶ月、羽柴秀吉が播磨(兵庫県南西部)を完全に平定するべく動き出した。


 播磨で抵抗を続けていたのは西部の宇野一族で、落城した三木城の別所氏と共に織田家に抵抗していた勢力だった。


 4月24日、秀吉は、黒田官兵衛孝高・荒木平大夫・神子田半左衛門らに播磨西部の宍粟郡にある宇野氏の本拠・長水城の支城の攻略を命じた。

 宇野一族が守る林田松山城、常屋城(宇野祐光)、香山城(香山秀明)、篠の丸城(宇野光景)などの支城は短期間で陥落。宇野一族をはじめ、多くの将兵が長水城へ逃げ込んだようだ。


 秀吉は、長水城包囲を蜂須賀小六正勝に任せると、自らは英賀(阿賀:姫路市)へ軍を進めた。この地域には別所氏や本願寺一向一揆の残党が残っていたが、ほとんど抵抗もせず船で毛利領内へ逃亡。秀吉は難なく英賀の寺内町を占拠た。


 長水城を残し、播磨はほぼ平定され秀吉は、弟の羽柴秀長に但馬の山名氏攻略を命じた。長水城内では、宇野政頼の長男・満景と次男・祐清(民部)が対立し、この情報は秀吉の知るところとなった。

 秀吉は満景派の安積将監を調略。田路五郎左衛門らを内通させることに成功した。


 5月9日、田路らは、秀吉軍を城内に手引きし、翌日長水城は炎上し陥落。宇野政頼や祐清(民部)ら一族は、わずかな共を連れ脱出した。


 6月5日夜、宍粟郡に潜伏していた宇野民部らは脱出を試みたが、秀吉配下の木下平大夫や蜂須賀正勝の追撃を受け宇野政頼や祐清ら一族を含む将兵数十人が討ち死に。こうして播磨一国は平定されることになった。


 6日、秀吉は一気に因幡(鳥取県東部)・伯耆(鳥取県西部)にも攻め込み国境付近の領主はたいした抵抗もせずに降伏を申し出、これを知った信長は「秀吉の大手柄」を喜んだ。

 この直後、秀吉は反旗を翻した。

「我らが力を集めれば、信長を倒すことも不可能ではない」

 この計画には前田利家や蜂須賀正勝、石田三成、加藤清正などが参画した。


 僕は馬を走らせて播磨へと向かった。🐎

 播磨は7世紀に成立した。針間国(加古川以西)・明石国(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)・針間鴨国(賀茂郡・多可郡)が大化の改新以降に播磨国(針間国)へ編入されたと推定されている。


 飛鳥池遺跡や藤原宮跡などからの出土木簡の中に飾磨郡を「志加麻評」、宍粟郡を「宍粟評」、神崎郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記しているものがある。郡制の前には評里制の地方行政区画が行われていたことを示すものである。


 713年(和銅6年)に編まれた風土記の内、現在にまで文献が残る五か国の一つでもある。


 江戸時代には、山崎藩・安志藩・三日月藩・林田藩・三草藩・龍野藩・小野藩・姫路藩・赤穂藩・明石藩・福本藩・新宮藩・姫路新田藩・平福藩が置かれた。

 銀山に向かい薬を調達しないといけない。

 途中の林道で羽柴軍に行く手を阻まれた。

 前田利家まえだとしいえが三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍で襲いかかってきた。

 僕は悲鳴を上げながら逃げ惑った。

 虚ろ舟が現れ、嶺二が助っ人に現れた。車椅子やウージーサブマシンガンを手にしていた。

 

 嶺二はウージーで羽柴軍と戦い、利家を蜂の巣にした。

 利家は尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。


 信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。

 

 嶺二は尿意を覚え、虚ろ舟を丘の上に着陸させ木陰で放尿してるとき、馬の嘶きと僕の悲鳴を聞ききつけ助けに来てくれたらしい。

「危ないところ、ありがとう。助かったよ」

「高くつくからな?」

 僕は困惑した。顔に出ていたようだ。

「ハハハッ、冗談だよ」

 嶺二は緑色に輝く勾玉を誇らしげに見せた。

「元の時代に戻ったけど、人が人を殺すのが当然の世の中になっていた。障害者や老人は真っ先に殺される」

「こえーな。ところで向こうって怪物いたか?」

「ゾンビとかいたけど、ありゃあ中国が造った生物兵器だった」

 霧子を殺したゾンビは生物兵器だったようだ。

「虚ろ舟でバブル時代に行ったけど、ジュリアナ東京面白かった」

 そのとき、巨大な船が煙を上げながら浮かび上がった。矢を射る音も聞こえた。

「あぁ!虚ろ舟が!!」

 嶺二が叫んだ。虚ろ舟は段々と小さくなり、やがて見えなくなった。

 2人は息を切らして丘の上に辿り着いた。嶺二は唖然としていた。

 でっぷりと太った男が「ホッホッホッ、口ほどにもない」と甲高く不気味な声で笑っている。

 彼の正体は今川義元だ。義元は弓矢を手にしている。義元は『海道一の弓取り』の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者だ。

 義元は酒乱でかなり太っていた。戦中でも酒を飲むところはどことなく、芹沢鴨に似ていた。

 虚ろ舟におののいた義元は弓矢で戦ったところ、煙を上げながら飛び立ったそうだ。

「先ほどの戦いぶり見せてもらったぞ。麿の下で存分に働くが良い。うわぁ、疲れてもう動けん」

 僕は義元を車椅子に乗せて介助した。

 義元は武勇に関しては幼いころから仏門に入っていたため、武芸を学ぶ機会に恵まれず優れなかったと伝えられているが、桶狭間の戦いでは信長の家臣・服部春安が真っ先に斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退、さらに毛利良勝が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした良勝の指を食い千切って絶命したと伝えられており、武芸の素養が無かった訳ではない。

 公家文化に精通し、京都の公家や僧侶と交流して、京都の流行を取り入れて都を逃れた公家たちを保護した。山口の大内氏と一乗谷の朝倉氏と並ぶ戦国三大文化を築いた。さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味に溺れた人物とされることもある。しかし公家のような化粧をした話は後世の創作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは武家では守護大名以上にのみ許される家格の高さを示すことこそあれ、軟弱さの象徴とは言い難い。武士が戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりか嗜みの一つであったという説すらある。

 それにしても重い。腰に負担がかかる。向こうの世界からコルセットやバンテリンを持ってくるべきだった。

 

 僕は曲直瀬に命じられて生野銀山いくのぎんざんに行かなければいけないことを話した。生野銀山は、兵庫県朝来市(但馬国)に開かれていた戦国時代から近代にかけての日本有数の銀山である。

 生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられるが、詳細は不明。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊により、石見銀山から採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まった。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者は直轄地とし、佐渡金山(越後)、石見銀山(石見)とともに重要な財源とした。

 山名氏が織田氏に屈服した今、生野銀山は織田氏の直轄地となっていた。

「信長の許可なしに立ち入ったら、お主命はないぞ。麿が信長に掛け合ってやる」

 交渉の結果、曲直瀬を信長のお抱え医師にすれば認めるってことになった。

 こうして僕は織田氏に仕えることとなった。


 

 

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