第6話 虚ろ舟

 寺田屋に運ばれた感じの悪い患者に聞いた話だが、京のどこかに虚ろ舟ってUFOが現れるらしい。

 虚舟は鉄でできており、窓があり(ガラスが張られている?)丸っこい形をしている。

 虚舟には文字のようなものがかかれており、中には異国の女性が乗っており、箱をもっているらしい。

 対馬市の久原の伝承では、浜に流れ着いた朝鮮王族の姫から財宝を奪って殺し、その祟りで佐奈豊の村が滅んだというものがある。

 久原から程近い女連の佐奈豊には、朝鮮出兵時に某という武将によって対馬に連れて来られた(あるいは不義をして舟で流された)宣祖の娘(李昖王姫)のものとされる墓がある。

 上対馬町の三宇田には、『花宮御前はなみごぜ』という高貴な女性が財物と共に流れ着いたが、三宇田村の住人に殺害され財物を奪われ、祟りを恐れた住人は花宮御前を祀ったものの、祟りのせいで住人は絶え村は廃村となってしまったという伝承がある。ただし、花宮御前は黒田藩の女性であり、キリシタンとなったため、黒田藩を追い出され三宇田に至ったという伝説も存在する。

 豆酘には高皇産霊尊とされる霊石(高雄むすふ)がうつぼ舟に乗って流れ着いたので、神として祀られた(現在も多久頭魂神社内に高御魂神社がある)。

 天道法師の母は一般的に内院の照日某の娘とされるが、都にて不義をして懐妊し、対馬に流され着いた女官とする伝承も存在する。

 豊玉町貝口には、高貴な姫とその侍女達や宝物が流れ着いたが、住人が姫達を殺害して宝物を奪ったという伝承がある。

 虚ろ舟に乗ればもしかしたら元の世界に戻れるかも分からない。そして、遥に会いに行くんだ。

 新選組や永倉の家族は僕を恨んでるに違いない。

 こんなところ早く出たい。それには介護してスキルを上げないといけない。

 

 8月1日

 僕たちは木屋町三条小橋の近くを歩いていた。

 いよいよ夏真っ盛りだ。入道雲がもくもくと湧き出て、山みたいな形を作っている。

 認知症と思われる老婆が歩いている。まだこの時代には車椅子などないから介護してる娘さんと思しき女性も大変そうだ。

「瑞山先生はどこにおられるか御存知か?」

 通りがかりの男が女性に尋ねた。

「夫なら祇園の方におられるかと」

 瑞山?もしかしたら武市瑞山のことかも知れない。

 幼名は鹿衛。諱は小楯こたて。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。


 土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子。板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる。


 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。

 つい最近、嶺二によって倒された岡田以蔵は瑞山の手下だ。

 もしかしたら幕吏かも知れないので生垣の陰に隠れた。幕吏は伏見奉行所の方へ向かった。屋敷の近くには宇治川が流れており、小さな魚が泳いでいる。

「あの何かお困りではないですか?」

 僕は思い切って声をかけた。

「おや若いの感心だねぇ……」

 彼女の名前は武市富子たけちとみこ

 嘉永2年(1849年)、武市瑞山に嫁ぐ。夫の瑞山は土佐の若手志士たちと交流が深く、富子はたびたび訪れる志士たちの応対に努め、夫を助けた。文久3年(1863年)、瑞山が投獄されると、自分も夫の辛苦を共にするために、その日以来、板の間で寝て決して畳で眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団を使わずに過ごしたという。慶応元年(1865年)、夫が切腹となると家財のことごとくを没収され、困窮を内職でもって生計を立てた。

 瑞山との間に実子はなかったが、養子に半太を迎え、共に東京に引っ越すも、明治45年(1912年)、半太とともに土佐に帰郷した。

 叔父が島村雅事、従弟が島村衛吉である。

 僕は瑞山の母、ぜんの入浴介助をすることになった。彼女の体はシワシワだった。

「まじまじと見ないでおくれ、ホッホッホッ」

「やだ、お母様ったら照れていらっしゃる」

 ぜんは脳の病気で左半身マヒになってしまったらしい。綺麗好きなので冬でも毎日風呂に入りたがるらしいが、富子は腰痛を発症してしまったらしい。

『あざみ園』では本人の残存機能を活かすと習った。

 脱衣所で衣服を脱いだら、浴槽の隣に置かれている木の洗い台に座ってもらう。このとき洗い台は、浴槽に向かってマヒのない側の隅に設置する。動く方の手や足を軸にして動くので、左マヒの人は浴槽の右側に置き、右マヒの人は浴槽の左側に置くと効率的だ。

 洗い台に座れたら、そこで体を洗う。

 もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われるみそぎの慣習が古くより行われていたと考えられている。


 仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていた。


 平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。


 鎌倉時代には東大寺復興に尽力した重源による施浴にて鉄湯船が見られる。これは南都焼討で被害を受けた大仏殿再建のため巨木を求めた重源が1186年頃に周防国に至り、木材伐り出しに従事する人夫の為に行われた湯施行である。重源が開山した阿弥陀寺の旧鉄湯舟残欠は渡宋経験のある重源が南宋で知り得たものを国内で再現したもので、 キッチン・バス工業会ではこれを長州風呂の元祖と紹介している。現存する鉄湯船は1197年に大仏鋳造に従事していた河内鋳物師の草部是助らにより東大寺に奉納された物、1290年に同じく河内鋳物師の山河貞清による物が成相寺と智恩寺にみられる。


 浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂が登場。慶長年間の終わり頃に、すえ風呂、またはすい風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場した。

 武市家は鉄砲風呂だった。

 ヒノキを用いた大型の小判型木桶に、火を焚くため鋳物製の釜と煙突が付属する形状をしている。煙突のついた釜の形状が鉄砲に似ているため、「鉄砲風呂」と呼ばれることもある。江戸時代から存在したが、一般に普及したのは明治時代から大正時代にかけてと言われている。

 浴槽が一般の湯船より高いので筋力の弱ったぜんにはきつそうだったが、何とか入ることができた。

 富子はお礼に晩御飯をご馳走してくれた。京料理は格別に美味かった。

 野菜や乾物、大豆加工食品を中心とした素材の味を活かす洗練された薄味料理で、味だけでなく、見た目や雰囲気を含めて五感で愉しむ料理であるといったようなイメージが一般に持たれている。京都は、地理的背景から大坂のような新鮮な海産資源に乏しかったこともあり、質素な素材を活かすための料理技術の発達が見られた。古くから都として栄えた京都は、大坂と共に日本の食の中心地として料理文化が発達した。中国料理をもとにした大饗料理に始まり精進料理、懐石料理を経て、西洋料理に出会うまでの日本の料理文化の中心地として京料理は様々な料理手法の特徴を取り入れ発展してきたものである。そのため、京料理が日本料理と同義と捉えられる場合もある。

 富子は片付けをしながら言った。

「あのさ、おまえさんがよかったらでいいんだけど、うちにいてくれんかね?腰が痛くて仕方ない」

 願ったり叶ったりだ。寺田屋にいつまでもいたら宿代がかかって仕方ない。それに僕は指名手配されているはずだ。あの辺にいたらいつ牢屋にぶち込まれるか分かったもんじゃない。 

「お役に立てるか分かりませんが、お言葉に甘えさせていただきます」

 文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した。


 土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと提案し、この提案は一同の同意を得ることとなった。


 8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成し、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた。9月に帰国した半平太は同志を募り、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟した。加盟者の大半は下士・郷士・地下浪人の下級武士や庄屋で、上士は2人しか加わっていない。


 この頃の土佐藩は容堂の信任厚い参政・吉田東洋と配下の新おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。故に藩論は東洋の唱える開国・公武合体であり、また初代・山内一豊が徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風が強かった。10月23日、半平太は藩論を刷新すべく大監察・福岡藤次および大崎健蔵に進言するが書生論であると退けられ、半平太はなおも東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、東洋は「そこもとは浪士の輩に翻弄されているのであろう。婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか。山内家と幕府との関係は島津、毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴した。


 半平太は藩論を転換すべく各方面に運動するとともに、長州の久坂玄瑞に大石弥太郎・坂本龍馬らを使者に送り、薩長土勤王密約実現のための連絡を緊密にした。長州でも長井雅楽の開国論(「航海遠略策」)が藩論となっており、久坂は自藩の萎微を痛嘆する返書を寄こす情勢だった。だが、翌文久2年(1862年)2月、久坂の元へ送った吉村虎太郎から薩摩藩国父・島津久光が精兵2,000をもって率兵上京するとの報がもたらされた。久坂ら攘夷派はこれを攘夷のための挙兵であると解釈しており、吉村は半平太に脱藩して薩摩の勤王義挙に参加すべしと説くが、半平太は飽くまでも一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促した。吉村はこれに納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩してしまった。龍馬の脱藩について半平太は後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」と語っている。


 半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派で連枝の山内大学・山内兵之助・山内民部、家老の柴田備後・五藤内蔵助らと気脈を通じるようになる。半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した。これには来る4月12日に藩主・山内豊範が参勤交代のため出立することが決まり、東洋ら佐幕派に囲まれた藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。


 4月8日夜、豊範に「本能寺凶変」の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩した。東洋派の藩庁は激怒し、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示し、一触即発の事態になった。この事態を打開すべく半平太は山内民部に書簡を送り、これを受けた山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総(酒井勝作)と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握った。12日に東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなっている。


 これより前の文久2年(1862年)3月に薩摩藩国父・島津久光が入洛したが、攘夷派の期待と異なり久光の真意は公武合体にあり、4月23日には寺田屋騒動が起きて有馬新七ら薩摩藩攘夷派は粛清され、彼らと行動を伴にしていた吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士も送還させられた。過激攘夷派を弾圧して暴発を防いだ久光は朝廷を押し立てて将軍上洛、五大老の設置そして一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の大老就任による幕政改革を要求する。4月27日には長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受けた。この後、長州藩では攘夷派が優勢になり、7月に開国派の長井雅楽が罷免されて破約攘夷が藩論となる。


 半平太は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷に働きかけ、これを受けた朝廷は薩長両藩に続き土佐藩を入洛させるべく山内家と姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促の書簡を送った。しかし、守旧派が多数を占める藩庁は婉曲にこれを拒否する返書を送った。吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は6月28日となり、人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ、半平太をはじめ島村衛吉・平井収二郎ら土佐勤王党の同志数十人も供奉した。参勤交代の一行は播磨国姫路で麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目の井上佐市郎が岡田以蔵ら土佐勤王党に殺害されている。

 

 8月6日

 黄昏時の祇園、三条通白川橋(京都における現存最古の道標)の辺りを俺と嶺二は歩いていた。蜩が物憂げに鳴いている。

 虚無僧が笛を吹いていた。その音色には聞き覚えがあった。2004年に流行った一青窈の『ハナミズキ』だ。

 僕は平成時代からやって来た冒険者なんじゃないかと思った。嶺二は虚無僧のことを知ってるらしく、立ち話をはじめた。

 そして、一行は桝屋へと移動した。

 虚無僧の格好をしていたのは武市瑞山だった。

 嶺二が言うには呼び止めるコールとして『ハナミズキ』を用いているそうだ。瑞山はここ最近の動向を教えてくれた。

 8月4日の朝議は、長州の攘夷実行に非協力的であったとして、小倉藩の処分案を内決した。大名の改易を幕府の頭越しに朝廷が行おうとする、幕藩秩序を揺るがす重大事態であった。処分案が中立派の武家伝奏野宮定功から備前藩主池田茂政(一橋慶喜の実弟)に内々に伝えられると、因州・備前・阿波・米沢の攘夷派4侯は強く反発した。

 屋敷から出ると暗雲が立ち込めており、遠くで雷鳴が聞こえた。


 久光の出馬が実現しない間、さらに事態は急迫する。8月13日、大和行幸の詔が渙発された。大和国の神武天皇陵・春日大社に行幸、しばらく逗留して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するということだったが、もとよりこれは天皇の真意に出たものではなく、議奏の三条ら急進派公家や真木が主張したものだった。天皇は憔悴のためろくに寝食も取れない状態となる。行幸の間に御所を焼き払い天皇を長州に迎えるのだとか、横浜の征伐に向かうのだといった風説が流れた。因州・備前・阿波・米沢4侯が参内し、親征中止を天皇に直接述べたいと強く求めた。


 同じ日、薩摩の高崎正風(左太郎)が会津藩公用方秋月悌次郎を訪れ協力を求めた。時が無いため、京都の薩摩藩邸は本国からの出兵を待たず、越前に代わる新たな提携相手として会津に接近したのである。その後高崎は近衛忠熙を訪ねて相談したが、近衛は決断を躊躇った。薩摩と会津は計画を練り、15日に高崎と秋月が中川宮を訪れて計画を告げると、宮は協力を決断した。16日未明に宮が参内し奏上したものの密談できず、天皇には計画の概要のみ伝えられたが、夜になって「兵力をもって国の災いを除くべし」と政変を決断する宸翰が宮に伝えられた。17日に京都守護職松平容保から計画を聞いた右大臣二条斉敬が賛同した。内大臣徳大寺公純も同意であった。近衛忠熙もここで協力を決意する。そして深夜、中川宮・二条・徳大寺・近衛父子と松平容保・稲葉正邦(京都所司代、淀藩主)が参内し、最終的な相談が行われた。

 

 僕たちが桝屋から出ると暗雲が立ち込め、稲妻が遠くで光った。

「あ〜あ〜、元の世界に戻ってゲームがやりてー」

 嶺二は嘆いている。彼はPS2用ソフト『キングダム ハーツII』をやり込んでいた。

「見つけたぞ!瑞山、覚悟せよ!」

 突如現れたそいつは武市邸で富子に瑞山の居場所を聞いてた奴だ。

 瑞山は慌てふためいた。

「後藤!」

 後藤 象二郎ごとうしょうじろう(1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐々木高行)。

 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太やすまた、良輔。象二郎は通称。諱は正本まさもと、後に元曄もとはる。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。


 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。仲の良かった理由の一つには、互いに遠縁の親戚であったことが挙げられる。

 嘉永元年(1848年)7月25日、保弥太11歳(満10歳)の時、江戸藩邸で父が病死すると、義理の叔父・吉田東洋が養育を扶助して育つ。のち東洋が開いた少林塾に学ぶ。また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学び文武の業を修めた。

 安政5年(1858年)、東洋の推挙によって幡多郡奉行となる。万延元年(1860年)9月、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行を仰せ付けられる。文久元年(1861年)に御近習目付となるが、翌2年(1862年)に東洋が暗殺されると任を解かれた。

 象二郎の着てる袴は薄汚れていた。悪臭が漂い、風呂もあまり入ってないようだ。

 象二郎は鋭い目で瑞山を睨みつけた。

「わいをこげな目に遭わせおって!」  

 奴は鞘から刀を抜くなり瑞山目掛けて突きを放ってきた。僕は瑞山の盾になった。何故、そんな危ない橋を渡ったのか自分でもよく分からなかった。

 前途のように痛みは感じなかった。

 僕は刀が突き刺さったまま、象二郎の首を刀で跳ねた。

 一難去ってまた一難、妖怪が出現した!

 七歩蛇という東山に棲息してる奇怪な蛇の一種。

体長4寸(約12センチメートル)ほどの小さい蛇だが、姿形は龍そっくりで、4本の足がある。色は真っ赤で鱗の間が金色に光り、耳は立っている。

 この蛇に噛まれた者は、その猛毒により7歩歩かぬ内に死んでしまうので、『七歩蛇』という名前がつけられたという。

 東山西の麓にある浦井という屋敷で、何匹もの奇怪な蛇が出現したのを退治したところ、ある日庭の木々が次々に枯れて倒れ、庭石も砕け散り、砕けた石の下からこの七歩蛇が出てきたとされる。

 瑞山は七歩蛇に噛まれて呆気なく死んでしまった。僕や嶺二は噛まれても何ともなかった。  

 僕は蛇に凄まじい殺気を放射した。

 蛇は恐れおののいている。

 僕は刀でスパッ!と、一刀両断した。

 嶺二は『蘇生』という魔法を使えた。瑞山は蘇った。嶺二の勾玉は緑色に色を変えた。

 突如、空が光った。

「もしかしたら流星かも知れない」と、嶺二。

「信長が死んだ日、ほうき星が流れたって噂だ」

 僕は無性に腹が減っていた。

 二条城の近くに行くと天文台が聳え立っていた。

 天文台に宇宙船みたいなのが飛来してきた。🛸

「もしかしたら虚ろ舟かも知れないな」

 そう言った嶺二の腹が鳴ったからウケた。

 エレベーターとかない時代だから階段を使わないといけない。

 嶺二は空を飛ぶことが出来る。スーパーマンみたく天辺に向かった。

 僕は汗だくになりながら階段を上った。

 嶺二は虚ろ舟に乗り込んだ。女性が操縦しているようだ。やっとのことで天辺に辿り着いたが、虚ろ舟の扉は僕を拒絶した。勾玉が緑色に光らないとダメなようだ。

 虚ろ舟は僕を残して遥か彼方へ消えていった。

 もっと頑張らないといけないな。

 天文台から降りてしばらく歩くと蕎麦屋があった。京都は古くからの蕎麦屋が多い。これは背後に控える丹波地方でそば作りが盛んだったためである。また、有名なニシンそばは幕末に生み出されたものであり、古くから京都にあった惣菜である「ニシン昆布」に発想を得ている。全体的に見れば、大阪と同じくうどんの方が好まれる傾向にあるが、大阪のようにそば屋がうどんを提供する場合は極めて稀である。

 ニシンそばを食べて、店を出ると徘徊してる老人がいるから助けてあげた。

 彼を御用屋敷に案内してあげた。

 かなり偉い人間で僕の祖先であることが分かった。

 勾玉が黄金色に変わった。目眩がして意識が真っ白になった。

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