第4話 抗争

 嶺二は以蔵の子分を挑発して瞬時に3人を斬り倒す。

「これで怪物を倒すことができる」

 僕には嶺二の言ってることが理解できなかった。

「どういうことだ?」

「おまえ、この勾玉のことをよく分かってないようだな?この勾玉は3人殺すと怪物を殺すまで不死身になる。それだけじゃねー、様々な魔法を使えるようになれるんだ」

 嶺二は空高く舞い上がって舌をダラリと出して戯けてみせた。

「すげーな、天狗みてぇや」

「おまえも人を斬ればこんな風になる」

 嶺二は着地して言った。

 以蔵が斬られたとき血が大量に出た。あんな気持ちが悪いこと僕にできるかな?だいいち、怖いだろうな?一歩間違えたら自分が斬られる。

「おまえ、どこの時代から来た?」

 嶺二はそう言うと大きなアクビをした。

「平成だよ」

「俺もだよ!奇遇だな?」

「嶺二はもとの時代じゃ何の仕事してたんだ?」

「介護士、『あざみ園』ってところで働いてた」

「うわ!一緒じゃん!ところで、おまえ名前はなんてゆーんだ?」

「僕の名前は九条統」

 僕は生い立ちと、ここに来た経緯を話た。

「叔父さんのことは残念だったな?きっと、天国で見守ってくれてるだろうよ」

 

 木陰からこれを見ていた壬生浪士組(新選組の前身)の芹沢鴨は嶺二を用心棒として五十両で雇い、祝いの酒席で清兵衛に名前を尋ねられた嶺二は窓の外の雨を眺め、とっさに雨森嶺二郎あまもりれいじろうと名乗る。凄腕の浪人を手に入れた鴨は、多摩からやって来た近藤一派を倒そうとしてることを打ち明ける。 

 

 同じ頃、九条佳祐は伏見北堀公園にいた。

 2人の詐欺師を殺した犯人はなかなか見つからなかった。伝馬たちを従えていたボスの自宅がこの辺にある。ボスの名前は豊後弁慶ぶんごべんけいという。館を見つけたと同時、雨が降り出してきた。偶然、老婆が館から出てきた。彼女は豊後家の使用人、坊城ぼうじょうパリス。父親がフランス人らしい。

「雨がひどいから雨宿りさせてください」

「畏まりました」

 応接室でパリスの淹れてくれたアメリカン・コーヒーを飲みながら待った。それにしても統が突然消えたのは何故だろう?あれは神隠しと言っていいだろう。アイツはカナヅチだから溺れたりしなけりゃいいが。心配で仕方がない。

 ドアがノックされた。「どうぞ」と佳祐が言うと豊後が入ってきた。どことなく反町隆史に似ている。統は一時期、『GTO』に憧れて教師になりたいと言っていたことがあった。

 豊後が佳祐と向かい合ってソファに座った。

「で……」

「であるか」と、反町が大河で信長を演じたのを佳祐は思い出した。

 伝馬たちが殺された日、豊後は高校時代の友人の結婚式に出ていた。DVDを見せてもらった。酒に酔ってゲラゲラ笑ってる豊後が録画されていた。アリバイは証明された。

「部下を殺すほど汚れちゃいませんよ」

 豊後が誰かに依頼して殺させたってことも有り得る。しばらく泳がせることにした。


 6月20日

 一気に抗争の決着を付けるとして総力を挙げて攻め入ろうとするが、鴨と愛人のお梅が事が済んだら嶺二を始末する算段をしていたことがばれ、嶺二は土壇場で報酬を突き返して足抜けしてしまう。嶺二の狙いは本格的な抗争を起こさせて両勢力を共倒れさせることにあった。

 嶺二は二条城近くにある黒門通にやって来た。

 鴨の側近である新見錦にいみにしき平山五郎ひらやまごろうに追い詰められた。

 新見は狐みたいな顔つきをしている。平山はゴリラみたく屈強で右目に眼帯をしている。花火職人時代に爆発事故で失明したそうだ。

 新見が鞘から刀を抜いた。

「そろそろ年貢の納め時のようだな?」

 そこに京都見廻組が来るとの一報が届き、抗争は中止となってしまう。

 隊長である与頭は旗本、隊員は御家人であった。詰所は二条城の側に置かれたとされる。与頭、与頭勤方、肝煎、見廻組、見廻組並、見廻組御雇、見廻組並御雇などの職階があった。


 見廻組は新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したが、見廻組は主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄とし、新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄とした。そのためか、新選組と共同戦線をとることはあまり無かったようである。また、身分の違いにより反目することもあったという。見廻組は旗本の次男・三男で剣術に秀でた者を募っていた。


 見廻組には格別な規律を当初は定めていなかったが、その後、見廻役から与頭と与頭勤方へ「京都見廻役勤中心得方」が出され、組士の心構えや行動規範が示された。また、私的な依頼による行動も外部からの信頼を失うため、禁止された。

 役人の逗留中は平穏を装い休戦することとなったが、芹沢と近藤は互いに大金を積んで嶺二を雇おうとする。

 佐々木只三郎の眼光に僕は萎縮してしまった。

 

 僕たちは伏見にある寺田屋に逃げてきた。

 部屋で嶺二は僕に耳打ちをした。

「俺は土佐の武市瑞山たけちずいさんに雇われてんだ。薩長土肥のいずれかについておけば間違いないと思ってな?」

「スパイはまずいだろ」

 薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允や伊藤博文、土佐の坂本龍馬など名だたる人物を僕は思い浮かべた。

 薩長土肥は、江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。西海道と南海道の有力諸藩で「西南雄藩」。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた。


 薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。また、戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治政府に人材を供給させた。

「以蔵を斬ったのは武市殿から粛清するように命じられたからだ」

「あ〜もう日が暮れるなぁ」

 僕は畳に仰向けに横たわった。烏が塒へと帰っていく。

「嶺二は結婚はしてんのか?」

「ああ、6つになるガキがいる」

「そうなのか。大変だろ?」

「部屋が散らかってしょうがねー」

 遥のことを思い出した。無事だろうか? 

 嶺二は突然舌打ちをした。

「それにしても六角の奴、ムカつく」

 六角若葉ろっかくわかばは『あざみ園』の事務長だ。四十路の男性で狐みたくほっそりしてる。

「あいつ、大卒なのにさ高卒待遇にしやがった」

「え?おまえ、大学出てんの?」

 口調も身なりもチンピラみたいだが、意外だ。嶺二はB-BOYの黒いキャップに軍パンだ。

「地方大学だがな……」

 僕は巌流島銀次がんりゅうじまぎんじを思い出した。高校時代の剣道部の仲間だ。

 銀次は幼稚園の頃から剣道をやっていたので、練習も試合も物足りなかった。

 16歳の僕にとって、毎日は苦痛の連続であった。学校では成績も悪く、いたずら好きで先生に叱責される。家では母の家事に毎回父が文句をつけ、息の詰まる生活。布団にくるまって両親のケンカを聞かされる日々。ある日、登校中に親友の銀次と出会い、学校へ行くのを止める。

「ゲーセンでも行こうぜ」

 銀次は昼間っから土手でタバコをスパスパやっていた。( ゚Д゚)y─┛~~

 午後に母が街中で見知らぬ男と抱き合っているのを見て視線が合う。母は帰宅せず、翌朝、前日の欠席の理由を教師に追及されて「母が死んだのです」と答えるが、欠席を知った両親が現れてウソがばれる。

 そんな僕の楽しみは映画を観ることだけだった。

 図書館のAVブースで『ミスター・ビーン』や『あぶない刑事』などを見た。司書にフザケて、「馬場ビッチシリーズ置いてませんか?」って聞いたりした。ビッチは当時流行ったAV女優だ。

 部活をサボっていたのは僕だけじゃなかった。

 小説コーナーに銀次がいたのでビックリした。

 大沢在昌の『アルバイト探偵』って本を読んでいた。本を閉じ、点眼薬を差して彼は言った。

「俺、将来探偵になろうかな?」


 10日後、蹴上で町役人が殺されたとの報が届き、見廻組は去った。しかし再開するかと思われた抗争はそのまま沈静化してしまう。実は、近藤勇の腹心である切れ者の土方が仲介役となって手打ちの算段を始めたのだった。またもや計画が狂う嶺二であったが、町役人殺しは見廻組を早く町から追い払いたいと考えた近藤が仕組んだことと知り、雇われた下手人を捕らえて芹沢に売りつける。一転して有利となった芹沢は手打ちを破談にする。

 

 7月1日

 寺田屋には怪我をして運ばれてくる者もいた。

 僕は率先垂範を心がけ介護をしたが、中には機嫌が悪いのか箸を投げつけてくる者もいた。

 僕は悲しくて苛立っていたたまれなくなって、涙を溢した。

「気分悪いや!」  

「おめーが作った飯がまずいんじゃないのか?」

 嶺二は口が悪いし、臭い。 

 嶺二は少し前に起きたことを話してくれた。

 藩兵1000名を率い上洛した薩摩藩主・島津久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負っていた。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。また久光は秩序を重んじる厳しい性格で、すでに西郷隆盛、村田新八、森山新蔵を捕縛して大坂から帰藩させるように命じて粛清しており、京都の志士の思惑とは全く趣を異にした考えの持ち主であった。それで4月13日に伏見に到着した久光は、16日に入京し、朝廷より志士始末の命を授かる。


 この展開に驚愕した薩摩藩の過激派は、憂国の念から憤激し、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは、諸藩の尊王派志士、真木和泉、田中河内介らと共謀して、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃してその首を持って久光に奉じることで、無理矢理にでも蜂起を促すということに決した。この襲撃の前に、根城としていた薩摩藩の28番長屋から出て、伏見の船宿寺田屋に集まることを計画していたが、当時寺田屋は薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである。


 志士暴発の噂を聞いていた久光は、側近の大久保一蔵、海江田武次、奈良原喜左衛門を次々に派遣して説得を命じ、藩士を抑えようと試みたが失敗した。23日、薩摩藩邸では永田佐一郎が翻意し、決起を止めようとしたが止められなかったために切腹した。これによって計画の決行日が迫ったことを知った在番役高崎左太郎、藤井良節(工藤左門)の二人は急ぎ京都に注進した。久光は驚き、出奔藩士を藩邸に呼び戻して自ら勅旨と今後の方針を説明して説得しようと考えたが、一方で従わぬ場合には上意討ちもあると言い含めて、奈良原喜八郎、大山格之助、道島五郎兵衛、鈴木勇右衛門、鈴木昌之助、山口金之進、江夏仲左衛門、森岡善助の特に剣術に優れた藩士8名を鎮撫使に選び、派遣することにした。奈良原、道島、江夏、森岡が本街道を、大山、鈴木、山口が竹田街道を進んだ。後から上床源助が志願して加わり、計9名となった。


 23日夜、寺田屋に到着すると、奈良原喜八郎ら4名は有馬新七に面会を申し出たが、2階から橋口伝蔵に「いない」と言われて断られたので、江夏と森岡が力づくで2階に上がろうとして押し問答した。柴山愛次郎が応対して1階で面談することになった。有馬と田中謙助、橋口壮介が降りてきて議論に加わったが、埒が明かず、薩摩藩士はともかく藩邸に同行するように求めたが、これが拒否された。そこに大山ら4名が追いつき、寺田屋に入った。奈良原は説得を続けたが、君命に従わぬのかと激高する道島が「上意」と叫んで抜打ちで田中謙助の頭部を斬り、こうして“同志討ち”の激しい斬り合いが始まった。


 斬られた田中謙助は眼球が飛び出たまま昏倒。山口も抜刀して背後から柴山愛次郎を斬り捨て、これらを見た有馬新七は激高して道島に、橋口壮介は奈良原に斬りかかった。有馬は剣の達人であるのだが、渡り合っていて刀が折れたので、道島に掴みかかって組み合い壁に押さえつけた。近くにいた橋口吉之丞は狼狽してか加勢できずにいたので、有馬が「我がごと刺せ」と命じ、橋口吉之丞はその言葉に従って有馬の背中から道島と共々貫いて両名を絶命させた。他方、橋口壮介は奮戦していたが、奈良原に肩から胸まで斬られて倒れ、最期に水を所望して飲んだ後で息絶えた。森山新五左衛門はちょうど厠に降りてきたところにこのような斬り合いが始まり、斬られて重傷を負った。大山格之助は梯子下で待っていて、騒動を聞いて降りてきた弟子丸龍助を刺殺し、さらに降りてきた橋口伝蔵の足を払った。橋口伝蔵は立ち上がって刀を振るい、鈴木勇右衛門の耳を切り落としたが、鈴木昌之助に刺されて絶命した。そこにまた降りてきた西田直五郎を森岡が槍で突き、西田は転がり落ちたが、刀を振るって森岡と相打ちのような形で息絶えた。


 2階は下の状況がわかっておらず、美玉三平(高橋親輔)は伏見奉行の捕方が来たと誤解して「捕方だ、防戦せよ」と叫んだことから、柴山竜五郎を先頭に各々抜刀して1階に降りてこようとしたので、奈良原は刀を投げ捨ててこれに立ち塞がり、「待ってくれ、君命だ、同志討ちしたところで仕方がない」と、ともかく剣を収めて同行するように求めて「仔細な話は直接久光公に聞いてくれ」と訴えた。1階の別の部屋にいた(志士側の)真木和泉と田中河内介が出てきてこれに同調して説得したので、ようやく治まった。


 この戦闘によって、鎮撫使側では1名(道島五郎兵衛)が死亡、1名(森岡善助)が重傷、4名(奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門)が軽傷を負った。残りの3名は無傷だった。志士では、6名(有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助、森山新五左衛門)が重傷を負ったが、この負傷者2名は後で切腹させられた。


 まだ2階にいた尊王派の薩摩藩士の大半は投降し、美玉三平などは逃亡した。岩元勇助、西郷信吾、大山弥助、三島弥兵衛、木藤市助(市之介)、伊集院直右衛門、篠原冬一郎、坂元彦右衛門、森新兵衛(真兵衛)、深見休蔵、吉原弥二郎、永山弥一郎、柴山龍五郎、是枝万助(柴山矢吉)、林正之進、谷元兵右衛門、吉田清右衛門、町田六郎左衛門、有馬休八、岸良三之介、橋口吉之丞の21名が帰藩謹慎を命じられた。


 なお、京都藩邸で療養中の薩摩藩士山本四郎(義徳)もこれに加わるところであったので、帰藩謹慎が命じられた、しかし彼はこれを佳しとせず、服さなかったので切腹させられた(彼を含めて9人の殉難者が烈士とされた)。


 残りの他藩尊王派志士たちの多くも投降し、何人かは逃亡した。真木和泉とその息子真木菊四郎、酒井伝次郎、鶴田陶司、原道太、中垣健太郎、荒巻平太郎、吉武助左衛門、古賀簡ニ、淵上謙三は久留米藩に引き渡され、他数名は土佐藩等の所属する藩に引き渡された。


 引き取り手のない浪人は、鹿児島で引き取ると申し渡された。これは薩摩藩では月照の時と同じく日向への道中での斬り捨てを暗に意味していたが、それを知らない浪人の田中河内介とその息子田中瑳磨介、甥千葉郁太郎、さらには中村主計、青木頼母、そして秋月藩士だが同行を望んだ海賀宮門はこの条件を受け入れ、進んで船に乗った。4月28日、大坂より二船に分乗して出航。5月2日、田中親子は薩摩藩士によって斬殺されて海へ投げ捨てられた。遺体は小豆島に漂着して同地の農民によって埋葬された。海賀、千葉、中村は7日に日向細島沖で決闘と称して斬殺されて海へ捨てられ、遺体は近くの金ヶ浜に漂着。同じく埋葬され、中村を除く2名は殉死者とされた。青木は田中親子と同船で同じく斬られたが、遺体は上がらなかったのか、墓はない。


 この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かった。


 同じ頃、薩英戦争が勃発した。この戦は薩摩藩と大英帝国(イギリス)の間で戦われた戦闘。文久2年8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。

 薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。


 鹿児島ではまえんはまいっさ(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が「前の浜」と呼ばれていたため)。


 薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦「ユーライアラス」の艦長ジョンスリングや副長ウィルモットの戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡)に及んだ。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。


 朝廷は島津家の攘夷実行を称えて褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた。


 本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。

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