第3話 藤森神社

 文久3年6月5日

 僕は目を覚ますと有馬稲荷の前で倒れていた。

 勾玉は赤々と輝いていた。ゾンビや父、墨染駅などありとあらゆるものが姿を消していた。

 はたと気づいた。タイムスリップしたのか!?

 僕は広い通りにやって来た。統がいるのは伏見街道だ。

 豊臣秀吉が、関白を辞し伏見に居を移すにあたって、天正年間あるいは文禄年間に京と伏見を結ぶ道として開いたといわれている。その北端には方広寺大仏(京の大仏)が、南端には伏見城があった。


 江戸時代の伏見は交通の要衝であり、京と伏見の間の物資の運搬路として、この伏見街道に並行して、陸路の竹田街道や、水路の高瀬川水運が開かれた。しかし、当時の旅の中心は徒歩であり、稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)をはじめ沿道に名所が多いこの道は、観光の道として旅人の往来が多く、沿道には京から伏見に掛けて家屋が連担し、にぎわいを見せた。


 近代に入り、伏見街道に並行して荷役を担う鴨川運河(琵琶湖疏水)が開削され、さらに疏水によって発電された電力で日本初の路面電車(京都電気鉄道伏見線)が竹田街道に沿って京都と伏見を結ぶなど鉄道が整備された。 また、車両中心の道路交通としてのメインストリートとしての役割は、現在の国道24号・竹田街道、師団街道や国道1号が担うことになり、主要な交通路としての役目を終えた。


 しかし、現在でもなお地域の生活道路として重要な街路であり、道幅が狭くほぼ全区間で二輪車を除いて北向き一方通行であるが車両の交通量も多い。また、家屋の更新により新しい建物も多いが、古くからある町屋も散見され、街道として栄えた面影を残している。沿道には東福寺、伏見稲荷、藤森神社など由緒ある古社寺が並び、特に伏見稲荷の行事(初詣、初午など)の際には伏見区深草藤森以北で進入規制が行われる。

 

 僕は街道で倒れてる男を介抱した。

 阿比類鋭三郎あびるえいざぶろう(天保13年(1842年) - 文久3年4月6日(1863年5月23日))は、壬生浪士組隊士。名前は阿比留鋭三郎、阿比留栄之介、阿比原栄三良、阿比留栄三郎とも。

 対馬藩出身。千葉栄次郎(千葉周作の次男)に弟子入りし、北辰一刀流を修めた。


 文久3年(1863年)2月、江戸で浪士隊に加わり上京。殿内義雄・家里次郎の一派となる。浪士隊江戸帰還決定後、近藤勇や芹沢鴨らと共に京都に残留。壬生浪士組、結成時24名の一人となる。隊に在籍中は近藤らと共に行動した。


 同年4月6日に死去。死亡日は3月25日説もある。享年22。壬生浪士組隊士として最初に死去した人物としても知られる。

 本来なら既に死亡してるはずだが、叔父の右京がタイムスリップしたときに、長州藩士から追われてるときに助けられている。

 僕は阿比留から新選組に入らないかと誘われないかヒヤヒヤしていた。例え仲間であろうと気に食わない奴は粛清する。それが新選組だ。

 

 幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。


 江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意を知った近藤勇や芹沢鴨らが反発して脱退。 そして、その思想に意気投合した会津藩・野村左兵衛の進言で京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護のもと、新選組として発足した。


 同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組はその多くが町人・農民出身の浪士によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。


 隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった。商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。


 慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊。局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた。その後、副長の土方歳三が戊辰戦争最後の戦い・函館戦争で戦死。新選組は新政府軍に降伏することになった。

 

 僕はすぐに刀を手に入れないといけないと思った。今の今まで叔父の話は半ば、迷信だと思っていた。あのゾンビは時代が歪んだことによる弊害かも知れないと思うようになった。喉が乾いた。コカ・コーラが無性に飲みたかった。

 

 藤森神社ってところにやってきた。

 創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国深草の里の藤森に纛旗とうきを立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、本殿中央に祀られる7柱で、本殿の東には纛旗を立てたといわれる旗塚がある。


 本殿は正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中賢所(内侍所)であり、現存する賢所としては最も古く、東殿・中央・西殿の三座から成る。


 本殿中央には、元からこの地に祀られていた三韓征伐にまつわる7柱を祭る。


 東殿は、天平宝字3年(759年)に藤尾(京都市伏見区深草藪之内町・稲荷山の麓)の地に崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祀る神社として創建されたもので、元は藤尾社と称していた。永享10年(1438年)に後花園天皇の勅により、室町幕府第6代将軍足利義教が稲荷山の山頂にあった稲荷神の社を麓の藤尾に遷座(現 伏見稲荷大社)した。そしてその地にあった藤尾社を藤森に遷座させて本殿の東殿として祀ったといわれている。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子となっている。その際、元々当地藤森にあった真幡寸神社は現在地に遷座(現 城南宮)させたという。


 西殿は、延暦19年(800年)に早良親王を祀る神社として塚本(京都市東山区本町16丁目 現在の東福寺近辺)の地に創建され、文明2年(1470年)に当社に合祀された。そのため、東福寺周辺の住民は現在でも当社の氏子となっている。早良親王は生前当社を崇敬していた。陸奥国で反乱が起こったとき、早良親王は征討将軍となり当社に詣でて戦勝を祈願した。その出陣の日が5月5日で、これが現在の駆馬神事の元である。また、延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件に連座し、廃太子され絶食して命を絶った早良親王を祀った事により、当社は藤森天王社ともいわれて御霊信仰の要素も併せ持つようになった。


 吉田兼倶の「藤森社縁起」、あるいは『拾遺都名所図会』巻五等によると、光仁天皇の天応元年(781年)、に異国の蒙古が日本へ攻め寄せ、早良親王が大将軍となり率いた軍勢がこれを退けたが、その際に当社に祈願したことより当社に弓兵政所の異名がつき、また境内にある蒙古塚は、この時の蒙古軍の大将の首を埋めたものと伝わる。


 本殿の左右後方にそれぞれ末社の八幡宮と大将軍社の社殿があるが、永享10年(1438年)の建築当時は本殿と並んで一列に建っていたと見られている。


 中央が土間となっていて通り抜け可能な「割拝殿」のそばに「むらさきの 雲とぞよそに 見えつるは 木高き藤の 森にぞありける」という待宵の小侍従作の歌碑があり、かつては藤の叢林があったと思われる。


 南と西の参道入口の両側にある石垣は、伏見城取り壊しの際に城壁の一部を奉納されたもので、伏見城城壁建造時に刻まれた大名のしるしが確認できる。

 僕は不二の水ってのを飲んでいた。喉が潤い、生き返る。

 大柄な男が虚ろな目で僕を見ていた。奴の正体は岡田以蔵おかだいぞうだ。

 

 土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)に、二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれる。弟に同じく勤王党に加わった岡田啓吉がいる。


 嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備に、父・義平が郷士として従事した記録が残る。それ以後城下の七軒町(現在の高知市相生町)に住むようになった。


 武市瑞山(半平太)に師事し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。安政3年(1856年)9月、瑞山とともに江戸に出、桃井春蔵の道場・士学館で鏡心明智流剣術を学ぶ。翌年9月、土佐に帰る。万延元年(1860年)8月より、時勢探索に赴く瑞山に従って、同門の久松喜代馬、島村外内らと共に、中国・九州で武術修行を行う。途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するであろうと武市が配慮し、豊後岡藩の藩士に、以蔵の滞在と藩士江戸行の便への随行を頼んだ。武市と別れた以蔵は、岡藩で直指流剣術を学ぶ。文久元年(1861年)5月ごろ、江戸に出て、翌年4月土佐に帰る。その間の文久元年(1861年)8月、武市の結成した土佐勤王党に加盟。文久2年(1862年)6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。


 土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺に参加。また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、安政の大獄を指揮した長野主膳の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた。村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた。このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられた。


 なお、一般的に「幕末の四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、後年の創作物によって「人斬り」の呼び名が定着したものであり、以蔵は同時代の同志から「天誅の名人」と呼ばれていた。(ただし、以蔵は文久2年(1862年)10月12日、幕府に攘夷を迫るため京を出発した勅使一行に加わって、副勅使姉小路公知の護衛を務め、10月28日から12月7日まで江戸に滞在しており、11月15日に起きた多田帯刀殺害には関わっていない)


 以蔵は瑞山在京時の文久3年(1863年)1月に脱藩して江戸へ向かい、2月より高杉晋作のもとで居候となる。3月に高杉が藩の命で京へ赴くと、以蔵も京に滞在。同時期に高杉からの6両の借金を、勤王党員の千屋菊次郎が代わりに返済している。同志と疎遠になった後は、一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に身を寄せたが行方知れずとなり、後述する洛中洛外払いの際は脱藩者であることから無宿者として処断されている。その後八月十八日の政変で土佐勤王党は衰勢となる。


 元治元年(1864年)2月、商家への押し借りの科で犯罪者として幕吏に捕えられ、5月に焼印・入墨のうえ京洛追放処分となり、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。


 土佐藩では吉田東洋暗殺、および京洛における一連の暗殺に関して、首領・武市瑞山を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられていた。以蔵は女も耐えたような拷問に泣き喚き、武市に「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されている。間もなく以蔵は、拷問に屈して自分の罪状および天誅に関与した同志の名を自白し、その自白によって新たに逮捕される者が続出するなど、土佐勤王党の崩壊のきっかけとなる。以蔵の自白がさらに各方面へ飛び火することを恐れた獄内外の同志によって、以蔵のもとへ毒を差し入れる計画まで浮上したが、瑞山が強引な毒殺には賛同しなかったこと、以蔵の親族からの了承を得られなかったこともあり、結果的には、獄の結審に至るまで毒殺計画が実行されることは無かった。慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。享年28。

 

 岡田以蔵から殺されそうになってるのをそいつは助けてくれた。そいつの名前は呂宋嶺二るそんれいじというらしい。

 そいつは僕と同じ勾玉を持っていた。黄金色に輝いている。

 嶺二は呂宋助左衛門るそんすけざえもん(永禄8年(1565年)? - 没年不詳)の末裔だ。戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。本名は、納屋助左衛門なやすけざえもん。堺の貿易商・納屋才助の子。

 『太閤記』などによれば、安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た。文禄3年(1594年)7月20日、織田信長の後を継いで天下人となった豊臣秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺(呂宋壺)、唐傘、香料など珍品を献上し、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商として活躍した。


 慶長3年(1598年)、あまりに華美な生活を好んだため、石田三成ら文治派の讒言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処分を受けることになるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の怒りを買ったともいう。


 慶長12年(1607年)、スペインがカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。


 現世

 九条佳祐は京都府警の傘下にあるタスクフォース、『レイヴン』に所属していた。

 オフィスは御池大橋の近くにある。

 佳祐はコンビニで買ってきたアイスコーヒーを飲みながら資料を読んでいた。

 2008年12月25日、宇治川取水ポンプ場近くにある廃墟で男性2名の遺体が見つかった。

 1人は瑞龍院大輔ずいりゅうだいすけ、45歳。もう1人は伝馬道雪でんまどうせつ、37歳。

 瑞龍院は首をスッパリ落とされ、伝馬は背中を刺されていた。犯人はかなりの手練だ。

 2人は結婚詐欺師だ。彼らの人生を狂わされた女性は50名近く存在し、中には自殺をした者もいる。

 2人を殺した犯人を必殺仕事人に出てくる『中村主水』と称賛する者もいたが、佳祐はどんな理由があれど犯罪者は裁かれないといけないと思っている。

 武器庫から愛銃のベレッタM92Fを取り出し、マガジンに弾が込められてることを確認しホルスターに納め、オフィスを出た。

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