駅の時計はもうすぐ12時を打つ。

 久しぶりに着けたロンジンの時計の針は全く違う時を刻んでいる。

 不自然ではなかっただろうか。いつもと違った化粧をする妻を夫はどんな表情で見送っただろうか。見ることもしなかった夫の視線の先が今になって尾を引く。

 彼が改札を出て、私に近づく。

 右足、それから左足。

 私も一歩前に踏み出す。

「やあ」

「ええ」

 言葉というのはこんなにも深みを持ったものだったろうか。

 彼を前にしていつも驚く。

 考えていることはほとんど口に出すこともできない。

「じゃあ、行こうか」

 彼は歩き出す。

 声を交わすことなく、私たちは抱き合い、求め合う。

 なぜ彼とこうした関係になったのだろう。

 過去は今に潰されて、薄れていく。私は今幸福だ。

「ハナは元気か」

 タバコを咥えた彼が言う。

 娘に話せるはずのない関係の彼が言う。

 高校生になった娘が、その日になって帰らないと連絡を寄越した話をした。私はパニックとなり、頼れない夫を頼って連絡をとった。夫はとりつく島もなく、不安な気持ちで過ごした一人の夕暮れを思い出す。

 彼は私の涙をその無骨な親指で拭い、自分の唇を私の唇に重ねる。

 不安が欲情にシェイクされて、今の襞が極大化する。

 夫にも言わない言葉を彼の耳元で囁く。彼の耳の裏から、雄が香り、汗に濡れた頭皮を指先に感じる。熱っぽくなった腰の肉に私たちの生きてきた年月を覚える。


「次はいつ会えるかな」

 何本目かのタバコを咥えた彼に聞く。彼が咥えたタバコの銘柄は夫のそれと同じであることを皮肉と思うのか、それとも因果と呼ぶのか。

「仕事のスケジュール次第だけど、遠からず会えると思う。その時にはまた連絡をするよ」

 次の確証が欲しいわけではない。

 でも、愛おしさは不安を誘う。

 彼は唐突に連絡を寄越す。

 私はいつも待っている。

 いつまでも待っている。

 彼は時に半年連絡を寄越さないこともある。その間彼の身分を私が何かできるわけではない。私はただ待つだけ身なのだ。

 彼の指が私の頬を、胸を、腰を、腿を撫でる。

 私は彼の輪郭を忘れないように、強く抱きしめる。骨の一本が肉に包まれて、大して変わらないヒトの作りが、なぜ愛おしさと嫌悪感に分かれるのだろうか。

 彼の舌が私の突起したものを遊ぶ。私の腿に挟まれ、撫で、掴まれくしゃくしゃになった彼の髪に目をやると白い線がいくつか見える。

 沈黙が苦しく感じる時と、その吐息すら愛おしく感じる時との差はなんだろうか。問いはその時を強化し、私に都合よく成形されていく。嫌悪はより強く、愛おしさはさらに大きく、無関心には言葉すら当てがわれることは無い。

 彼と体を重ね、求めあう。お互いに確認しあうこともなく、そのオーガズムのタイミングも分かりあって、でも終わりには別離がある。私たちは離れるから、重なりたがる。夫とはどうだったろう。

 夫と私とは学生の時に出会った。

 なんのサークルかは忘れたけれど、友人に誘われて行った飲み会に夫はいて、今と同じ顔でタバコを吸っていた。一人だけ、周りから離れて、遠くを見ながらタバコを口に咥えていた。その時の私にとって夫は手の届くところにいる、遠くの人だった。

 夫はその夜私を抱き、結婚しようと告げた。

 それが彼なりの誠意であった一方で、無責任な決定だったと思い返す。その時私は喜びに溺れていた。将来は可能性で溢れ、どのようにもなれる希望に満ちていた。見通し用の無い未来は着々と足元から迫り、そのことを直視することはあまりにも私には辛い出来事だった。

 私と夫は卒業の年に結婚した。数年してハナが産まれ、私は仕事を辞めた。あの頃はまだそうした頃だった。

 これまでの苦難と喜びが入り乱れた経験が今の私を支えている。

 私はようやく人生を愉しみ、そのことを自ら決めることができるようになった。夫は私をせせら笑い、娘は私を理解できないだろう。

 しかし私は確かに選び取り、愉しみ、息をする。

「ケーキが食べたい」

「え?」

「お肉も食べたい」

「どうしたっていうんだい」

 彼がはにかむ。

「私であることを忘れるくらいたらふくお酒だって飲んでみたい」

「僕なんてしょっちゅうだよ。それで後悔する」

「そう。後悔したい。後悔するって分かりきったことをやって後悔して、大して傷つきもせず、明日を夢見るの」

「そんなバカな」

「そうバカでありたい。バカであることを分かりながら、そんなことは気にせずに街を歩きたい」

「そうするとどうなる」

「あなたを見つけて、引っ叩いて皆さんに私たちの関係を暴露する。後戻りできない」

「僕はどこに逃げたらいい」

「逃げ場はない」

「抱き合うか」

「それから口付けするの」

「爆発音」

「ヘリコプターが近づいてきたわ」

「ソナタ」

「エンドロール」

「めでたし、めでたしってわけか」

「それでは終わらない、シーズン2の始まりを考えなくっちゃ。私以外と根に持つわよ」

「そうか、それじゃあジャングルで汗をかいている抱き合っている二人」

「ポルノ映画ね。もう少し若い子向けのがいいわ。高校生くらいの男の子が興奮するような子供騙し」

「直接的じゃないけど少しエッチなそんなののことか」

「そう、でも私たちじゃせいぜいポルノサイトの投稿するくらいしかないわね」

「撮って公開してみるか。お前の夫が指をしゃぶって喜ぶかもしれない」

「いえ、私たちだけであることに意味があるの。私たちは凝集していて、そこにブドウの房のように繋がっているものがある。私たちは隣の房を眺めて…んッ

 彼の唇が首筋を撫でる。朝より少し伸びた口周りの髭が痛痒い。

 突起した私の乳房の先端に指先が触れる。

「どうしたらいい」

 彼のものがまた固くなる。

「歳の割にお盛んね」

「お前は昔よりずっと良い」

「あなたは随分お腹がたるんだ」

「それから」

「匂いが老いた」

「君は熟れた香りになった」

「恥知らずになった」

「求め方が直接的になった」

 彼が求めれば私も求める。そういう体の構造になっている。

 それが夫ではなかったことが残念だと思うこともあるが、私は総じて幸せだと思う。彼に一緒になろうとは告げない。彼が私の行動を決めさせるような言葉を言うことはない。

 ホテルを出ると夜の暗がりに道沿いの街灯の列が見えた。

「じゃあ」

 彼と駅で別れる。

 彼が見えなくなるとなぜだか肌寒さを感じる。

 目に見えて世界は熱を失い、脳は温もりを奪い去る。

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まだ無題 井内 照子 @being-time

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