六
日曜の朝に陽の高さを覚える。
全身の気だるさに、昨日の夜に整備した車の仕上がりへの充実がある。娘はすでに家を出た様だった。妻が布団を弱々しく叩く音が聞こえてくる。
顔を洗うと水の冷たさに目覚めを感じる。
固くなったタオルが臭い、鼻は不貞腐れる。
コーヒーを挽いていると、妻が災厄を見つけた様な顔をして居間へ入ってくる。
「昨晩はいつお休みになったの」
こういった質問は俺を痛めつける。妻は自分のフレームに俺を仕舞い込もうと必死なのだ。
「いつだったろうか。時計はすっかり回りきっていた様に思うけど」
「じゃあお疲れでしょう」
「ああ、良い疲れだよ」
「ハナはもう出かけていったわ。せっかくの日曜日だというのに、家族で過ごさないなんて、どうにかしている。いってきますとだけ言って出ていったのよ」
「君も飲むかい」
妻は首を横に振る。俺は話の通じない宇宙人で、黒くて苦い謎の液体を変った作法で抽出し、飲む理解不能な存在なのだろう。
「どうしたっていうのかしら、私がどうしたっていうの。あなたはなんで平然とコーヒーなんて飲んでいられるの。結局あなたはお腹を痛めたわけでもなければ、ハナのお世話だって気分が向いた時にしかしないじゃないの。ハナがあんなに変ってしまってもあなたは無頓着で、自分には関係ない様な涼しい顔がどうしてできるというの。あなたに構ってほしいからハナはああした行動を取っているのよ。それをあなたは理解しようともしないで。理解しようとする私の気持ちも蔑ろにして、夜遅くまで車をいじっていると思ったら、今度は寝坊ですか。あなたに私の何がわかるって云うの。あなたは私のなんだって云うの」
コーヒーミルから引いた豆をフィルタに移し替える。
沸騰したケトルはカタカタと小気味よく蓋を跳ねている。
蒸らされたコーヒーが香り出して、その空間だけは安全だと教えてくれる。
一滴一滴落ちる黒茶の液体がガラスのサーバーの底面を打つ。
妻はキッチンでガタガタと準備を始める。
冷蔵庫から何かを取り出すと力任せに扉を閉める。
火をかけたフライパンに卵を割るが、殻が落ち、黄身は潰れる。
妻に注意を向けている内にドリッパーのお湯はすっかり落ちて、抽出は中途半端な工程で止まっていた。落ち切った後にお湯を注ぐよりは濃いのを飲む方が良いかと諦める。
「早く洗って退いて」
1口目の風味を楽しむ時間は崩れ去る。
今の机にマグを置き、ドリッパーとサーバーを簡単に洗う間に妻は目玉焼きを盛り付け、フライパンをシンクに置いていく。
洗い物を済ませて、居間では落ち着いてコーヒーを飲むこともできないので、アルファの中に逃げ込む。
タバコに火を点け、一息着くと動悸は少し大人しくなる。
妻と居合わせると動悸がする様になったのはいつからだろうか。
初めから。
と云う答えが正しいのだろうが、初め感じた動悸は全く異なっていた。苦しみに色があるなら全く違った色をしていた。全く違った色をしていたかはわからないが、異なった感じ方をしていた。ニューヨークのリンゴの赤は誰の目からもその赤なのかわからない様に、この苦しみの色は異なってしまっている。
濃いコーヒーの苦味が喉に香る。
コーヒータイムを終え家に入ると、妻は出支度をしている。
靴を脱ごうとまごついている俺を他所に、妻はと家を出る。
妻の残した香水の跡に動悸の色は時間を行き来する。
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