昼食後の眠気に打ち勝とうと、ぬるくなった茶を口に運ぶ。

 以前なら印刷室で同僚と一服したものだが、昨今の喫煙者への社会の風当たりは厳しい。

 俺を呼ぶ声がする。

 休憩などあってないものだと、眠たくなった腰を持ち上げる。

職員室の入り口では、部活の活動申請書を持った生徒が待っている。

「あまり、根詰めすぎるなよ」

 茶化してやるとムッとした顔で答える。

「大会前なんで、気合いれていきますよ。先生もたまには顔出してくださいね」

「ああ、時間があったらな」

 名ばかり顧問の部活だって言うのに、生徒がひたむきに取り組んでいる姿に心動かされることがある。もう忘れてしまった初心の沈殿物のようなものが刺激されて反応しているのだろう。

 部活動というもののあり方について、同僚と討論したり、生徒に請われて一緒に練習をしたこともあった。ときに不条理なやり方に出会うと我慢できないこともある。動きもしない組織のその末端を相手やり合った。部活動が教育と一体を成し、そのことに向き合うのは教師の役割だと考えていた。そうした思いを持って定年まで勤め上げる先生方もいるが、俺にはとてもそれはできない。

 歳を重ねるごとに当たって砕けて、また回復してというインターバルは長くなる。修復不能になり、日々の糧のためになんとか働かないといけないと毎日に追われる。慢性的な疲れは音もなく俺を睨みつけ、耳元では怠惰が囁くのだ。


 午後の教室は静かである。

 授業を聞く気がある生徒は筆記音や衣擦れの他はほとんど音を立てない。眠りたいものは者は机を枕に眠る。時折ため息が聞こえる。きっと人生の深刻な悩みに打ちひしがれているのだ。そんな生徒に対して俺がどうにかできることはない。

「先生!質問してもいいですか」

 不意打ちを喰らう。

 このクラスには質問魔がいることを忘れていた自分が不甲斐ない。

「ああ、なんだ」

「日本では戦中、自分の様な学生も戦時動員を受けて、戦場にいった。まあ、悲劇ですが、他の国ではどうだったのでしょう。つまり、第二次世界大戦期、ないし太平洋戦争の時代、各国々はどの様な政策的意図というか、若者たちを戦場に送り出すための手法を取ったのか、またどのようにしてそれが可能であったのか、時代的なものがあるのであれば、それはどのような時代的な意志であったのかということです。それはどの様に働いて、この様な悲劇につながったのかということを聞きたいのです」

 純な瞳で俺を見つめ、的を射ていない質問をする。

「いい視点だと思うし、いい質問だから答えたいところだが、今は現代史の時間ではないので、それは社会科の先生に聞くといいでしょう。また、今日紹介しているこの文中にある関連描写の理解を深める意味で、学びを総合的に理解していくことは人生を有意義にすることに有効だと思います。なので自分だけの知識にしないでみんなと共有できるといいと思います。ぜひ調べられることは自分で調べてみてください。そうすることで身に付く力もあると思います。それでは核分裂実験についての話に戻りますが良いですか」

「ありがとうございます」

 授業を終えると、必ず寄ってきて23質問する生徒がいる。

一方で、聞きたいことがあるのか視線を送ってくるが席に座ったままで、自分では話しかけてこない生徒もいる。

 質問が的を得ていて調べるのにコストがかかるか、調べてもわからなさそうなことであれば質問を受けるのも良い。しかし、大半はそうではない。教科書を読んで少し考えたらわかる内容に過ぎない。授業姿勢を高く評価する先生がいて、味をしめて内申点を上げたいか、単純に学び方を知らないのだろう。学び方を伝えるのは難しい。それはほとんど日常の様なものでしかなく、無理のある勉強はそのときだけの暇つぶしに過ぎない。

 視線を送ってくる生徒のメッセージは多様だ。正直、それぞれを拾い上げるだけのスタミナが残っていない俺には、その視線だけでくたびれてしまうことがある。

「これは学校というものが類する、社会的価値と役割とに関連した問題である」と同僚がいつだか話をしていた。俺としては閉塞的な家庭に疲れ、気を抜きに酒を飲みに出ただけのつもりだったのだが、変な演説家に捕まったのであった。

 曰く、生徒が送るメッセージへの疑問符、つまりその命題は多様であって、その命題を受け取るためにまずその生徒にコミットメントしなくてはいけない。そのことをアウトリーチという。そしてそのコミットメントした命題の二大分類は学習に関することか家庭や恋人、友人などとの人と人との関係性に関することに類することがである。前者に関しては専門領域に関する内容、もしくは教師というものの性質から、話しやすい教師を見つけなんでも知っているだろうという前提の下で話をしたがっているということの表れである。後者がより大きな意味的空間を作り出しており、このことがむしろ教師が教師であることを意味づけている…と続く。

 今日の夕飯は何にしようか。

 娘は教え子たちと同じ様な年頃になり、職業人としての価値観はますます軸をずらしていく。ほとんど会話もなく、嗜好もわからない娘が何を考え、どう生きているのかについて、私は教え子たちほどにも知らないのだ。

「阿波連先生―。顔色悪いよ。前向いて」

 廊下をいく生徒に揶揄われる。

「いつものことだ」

「そうとも言える」

 愉快そうにゲラゲラ笑い、その生徒は去っていく。

 生徒たちは廊下の歩き方さえ自由である。学校の廊下は自由に飛び交う粒子で溢れかえり、孤独を恐れてぶつかり合うものもいれば、誰とも接触せずにすり抜けていくものもいる。少し目を離した隙に消えてしまう者も居れば、そのままの者もいる。科学的な仮説はこうした経験的なものの置き換えから成ったのではないかと、思考はオーバーラップする。

 通りかかった教室からわっと歓声が上がる。歓声の質が何色をしているのか、そのことに気を配る。赤色なら即介入しなくてはいけない。一つの暴力は数珠繋ぎになってその全体を拡張させ、いつかはこの学校全体を覆うことがある。

 どうやらただの馬鹿騒ぎのようだった。

「お前たち、もう少し大人しく過ごせ」

 声の渦の真ん中あたりを目掛けて声をかける。

「阿波連先生も声出せば出るんだね」

 相手をせずにそこを後にすると、笑い声が背中に聞こえた。

 以前なら、もっと真っ直ぐに、目の前の生徒に向き合おうとしていただろうが、そうした感情を表に出すことに疲弊している自分がいる。その疲弊が私の思念の底流を作り出し、暗がりに飲まれていく。

 疲弊と呼ぶその堆積物がどこまで積み上がっていくのだろうか。

 積み木を高く積み上げた童心を覚え、少し可笑しく思う。


 授業のコメントカードをチェックし、返す必要のあるコメントを書いていると電話だと呼び出しがかかる。留守にしてくれと伝えるが、妻からだと云う。仕方ないから出ることにするが、気はますます乗らない。

「もしもし、仕事中はやめてくれと言っているだろう」

「あなた、でも大切な用で…」

「それならそうと手短に頼むよ」

「ええ。ハナのことなのだけど」

 妻はいつも深刻そうに前置きをする。彼女にはその問題が目の前の世界のすべてかの様に。

「ああ、なにかあったのか」

「今日遅くなるってメールがあったのよ」

「あの年だからそんな日もあるだろう。それで何時に帰るって」

「いままでは6時を過ぎてなんて日はなかったのに。急にこんなことを言い出すから、なにか事件に巻き込まれていないか心配になって。事件に巻き込まれていないにしても、悪い友達を作って、夜まで遊んで、このままだと犯罪者になってしまうのではないかとおもうのよ。あの子に何かあったら誰が責任を取るって云うんですか、あなたからもいつも通りに帰る様に言ってもらえないかしら」

 妻はヒステリックに喚く。

「俺は君の云うことには全く同意しかねるよ。初めてその年らしいことをして、帰るのが遅くなるのだから喜べば良いじゃないか。それに連絡だって寄越しているんだから、良からぬことではないと思うね。それじゃあ、仕事に戻るから切るよ」

 受話器を置くと、妻の声の余韻が耳元に響く。初めから電話なんて出なければよかったと思うが、そうするわけにもいかない。

 娘だけではなく、私も今日家に帰るのを止したくなる。なのになぜ私は毎日家路に着くのだろう。

 疑問は空に飛ばし、コーヒーを一口飲んだらコメントカードの続きに取り掛かる。

 時折唸らせる様なコメントを書く生徒がいると嬉しくなる。これは俺の授業の効果なのか、その生徒の素養なのか評価のしようがないが嬉しくなる。新たな出会いは人を喜ばせるのが得意なのだ。

 いつからだろうか、新たな出会い探しをしだしたのは。

探さないでも目新しいことしかなかった時代もあった。毎日に疲弊し出すと、自分の経験で処理をし始め、目新しいことは段々と減っていった。手段と目的が逆さまになる様に、いつからか新しいことは探すものになっていた。

 探す様になった目新しいことはすっかり様変わりをした世界の中にあった。俺が迷い込んだ鏡の国には案内人をいなければ、出口もなく、俺は知らぬ間に鏡の国の住人になっていた。

 鏡の国でも変わらないものもあった。

 自分の住む宇宙の物理法則しか思い描けないように、俺の理解できる意味の法則の中に鏡の国はあった。鏡の国も鏡の国の外も同じ物に支配されていた。

 娘は相変わらず理解の範疇を越え、意味づけをされない様に息をし、妻はヒステリックに喚き散らす。いつからだろうか。いつから変わってしまったのだろうか。時間の矢は飛んでいく。静止しているのに飛んでいく。猫は箱の中で絶命をしたのだろうか。


 放課後に上る駐車場の紫煙に咳き込んで、愛車のエンジンを回す。

 整備疲れをしたアルファ33は虫の息だ。

 なんとか家には辿り着くことを願って、ペダルを踏んだ。

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