直列6気筒のバスのエンジンは朝にあまり似つかわしくはない。毎朝バスに揺られるたびに、排気量はそのままにこの無駄に大きなエンジンと車体を縮めたらと想像する。一緒に人も小さくできたら少しは環境にやさしくなれるのだろうか。技術は進歩する。移動もきっと進歩する。いつか移動の必要はあまりなくなって、バスのような短距離での人の大量輸送は無くなるだろう。

 バスは低いため息をつきながら、高校前の停留所で停まる。私もほとんど無意識にバスを降りる。バスにあって電車にないものは何だろうと、脳裏に引っ掛かりを感じる。

 彼女の後ろ姿を見つけると少し嬉しくなる。彼女はいつも、一人だけ、周囲とは違う空気を纏って歩いている。というより、纏って歩こうとしている。そうすることはコストに違いないと私は思う。私はそこまで器用ではない。周囲に迎合しようと思いその難しさに絶句することはあっても、周囲と違うことをしてうまく振る舞えずに苦しもうとは思えない。

「冬香おはよう」

 彼女の名前を呼び、私は少し恥ずかしくなる。彼女に嘘をついたのだ。彼女の名前を呼び、彼女の名を声の中で抱きしめたくなる。彼女の名前を呼び、私は嬉しくなる。誰に説明をするのでもないのに、私は彼女の名前を呼ぶときの私の感情に名前をつけようと試みている。

 自分の頬が紅潮していることがわかる。冬の乾いた風が熱い頬に当たり、頬をむず痒く感じる。母は父と出会いどう感じたのだろうか。父は母と出会いどう感じて子を成したのだろうか。出生の秘密につながっているようでつながりもない冷たい思考が時計の歯車のように回っていることに気がつくと、私の存在はどこまでも軽く、薄く、ほとんど消えかけていた。

 彼女はいまこの時になにを求めているのだろう、こんなに近いのに、誰よりも近いのに、はるかに隔たった私たちの間に無言が落ちる。彼女に誰よりも近い私は無言に喜びを感じる。でも無言は長くは続かない。きっと彼女はお求めではない作り話を繰り出して、なんとでもない彼女の表情を覗き込む。どんな話をどんなふうにしても変わらない彼女に私は安心をする。私を愛してくれない人に私は安心をする。

「ハナー」

 彼女との時間に邪な何かが割って入る。

はじまりは終わりから予定をされていて、終わりの方からソレは私たちをじっと見つめている。始まらなくたってよかったその時をソレはじっと見つめていて、終わりの時にはじまりなんてなかったかのようにソレはベールの中にはじまりを隠す。

「ハナ、昨日さー」

 金切り声が耳元に響く。さっきの私がしていたように、この言葉の中にもなにかの奥行きがあって、それを私が汲み取れないだけなのだろう。

 友人と放課後にボーリングへ行き、他校の先輩と合流したあとで、カラオケに行って、相手の下心をうまく受け止める技量がなかった話を私に共有する意図は一体なんであろうか。私は彼女にさっきまで何を感じていたのか。私の移し替えに失敗する。どこまでも私は私でしかない。

 目頭と口角とに違和感を覚える。

 冒険をしたことの優越性を私との関係に延長したいのか、次回の誘いであるのか、それとも特に意味がないのか。私たちは相手に弱さを曝け出し、優位性を持たせることで愛を確認しようとする。その過剰や欠乏の境界はどこなのだろうか。母は父に何を与えたと言うのだろう。

「じゃあ、またね」と言って、去っていく足音に安心を覚える。私はうまく振る舞えていたのだろうか。

 私たちの教室はまだ冷えていた。

 教室が冷えているのではなく、地表が冷えて、それでは自分達が過ごしにくいので人間は火を使い、体や食べ物を温める術を見つけたのだ。それがいつの間にか逆転している。私たちはきっと、いつだってそうだ。目の前の世界が都合よく振る舞わないことに対して、腹持ちならない感情を持って過ごしている。腹持ちならないものをどうにかしようという原動力はそのものの優先性を逆転させ、目の前に存在させ、把握し、支配することを支持している。父の大きな声、母の無力さを讃えた様な表情、どうにもならない気だるさ。

 私はきっと救いを求めている。

 私が欲している強さの正体はわからないけれど、私は強さを求めている。力を求めている。敵が何かはわからないけれど、打ち勝てる力を欲している。力は救いである。腹持ちならないものを自分に都合よく振る舞う様に支配することではなく、そのことから逃れ出た先にある力を私は欲している。救いを欲している。

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