三
父の怒鳴り声がする。
瞼をわずかに開き、すこしだけ隙間ができたカーテン越しに漏れ入る陽光に朝を知る。じとっと濡れたような自分の皮脂の混じった汗を感じ、匂いもないのに色づいたそれが香る。腿裏と二の腕、腰回りの肉が地球に引かれて、ひどく重たく感じられる。起きなくちゃと焦る心が体を引き起こし、頭の重たさにバランスを崩す。
カーテンと窓を開き、乾燥した空気を深呼吸すると今まで消失していた世界が現れて、また消え、明滅を繰り返す。
父が家から出て、乱暴に車のドアを開け閉めする音がした。アイドリング。径が無駄に大きな3気筒の不格好な音。霜が窓に張ってすぐには出発できないようだ。十分に燃焼し切らない排気ガスとタバコの煙の混じった匂い。
階下に降りると、父がいつ車を走らせていくのかと耳をそば立てる母がいた。
「おはよう、お母さん」
「うん」
怯えの残る瞳で彼女は私を見つめる。
暴力はその力が制圧していた空間に、その力が支配していた場に、その余韻をいつまでも留める。それは笑いや幸福感がその余韻を絶望の中にしか残さないのと似ている。目の前には存在しないその力が、細胞の一つに生きて、劣化コピーを繰り返し、自食できないまま肥大化していく。わずかな生存本能とでもいうべきものが力に屈し、自由でいること、つまり「私が私であるということ」をどこまでも薄れさせていくのだ。
父の車が遠ざかる音を聞き、胸を撫で下ろしている母を他所に、私は身支度を整え、朝食をとり、家を出る。
誰かの時間に、誰かの労働に、誰かの服従心に期待しているような余裕は私にはないのだ。誰かに期待をするために必要なゆとりは私の自由と引き換えにしなくてはいけないのだから、そんな不利な取引は初めから成立しないのである。私が生きるという、依存のそれは、確かな手順を踏み、その容量を徐々に移し替えていかなくてはいけないものである。
川辺の風の冷たさは湿気ていて、霜が溶けて土の蒸れた香りが私を包みこむ。朝の陽に暖められて湯気たつ田畑の向こうに、白い山が青の空に立っている。遠く見る水平線が同じ高さにあることをなんと言ったか、思い出せないが答えを返す人も辺りにはない。
2台のカブ50の排気音がだんだんと近づいて、野球バットを担いだ男子校生が笑い声を一緒に私を追い越していく。
駅前の大通りには通勤を急く車が猛スピードで駆け抜けていく。
急いて行き着く先にはそれほど魅力的なものがあるとは思われない。あの男子校生たちのように楽しく通えばいいのではないか。
私はどうだろうか。
足は考えることをやめて体を前に押す。
移動することについて考えても、今移動しなくてはいけないことは何ら変わらずにある。そうして思考することを止めて、あらゆる作業をだんだんとオートマティックに変えていく身体が移動している。何ら疑問を持たず、膨大な粒子が移動し、街を作る。列車網の抹消から中心に向かって行く私はその一粒になって、移動していく。
巨大なものの一部になった私はその意志すら、ちっぽけに思えて、私の決定はどこまでも無責任に世界に放り出される。
列車は朝靄を割いて、焦げ臭い匂いを抱いて走っていく。
いつもドアのそばに立つ彼の吐息がドアの窓に白い筋を点ける。その隣で頬を赤らめて立つ彼女の視野の広がりをトレースしてみるが、その感情を見つけ出すことはできない。そもそも私と大きく隔たっているのだ。彼女がではなく、すべ手の人が。新聞越しにその様子を見ているサラリーマンと目が合う。視線の交流は続かない。蛍光灯が揺れる車体と共に点滅し、感じないほどの吐き気と頭痛を感じると、世界の全ては嘘っぽく思えてくる。
ただ一点の真実っぽさは、今日に対してのわずかな期待と生存本能のようなもの。お腹は空くし、目は乾く。
目的地がすぐそこまでくると列車は急速に速度を下げていく。もしくは私の認知能力が下がっていく。心は鈍摩し、周囲はたちまち質感を失くしていく。線画の視界に糸人間が行き交い、喧騒だけはどこか他人事のようだが聞こえてくる。
降りようとする人が皆呼吸を整え、次の瞬間を待つ。ドアが開くその瞬間を。ドアが開いた後に無数の私がホームを行き交うことを想像している。想像し、準備する。次の行動を準備しなくては対処できないほど、私は不安なのだ。この時をオートマティックに、もっとスムーズに、自在にできたらいいのにと思い、毎日試みるが、今の所成功したことはない。他人があたりに溢れるということはそういうことなのだろう。
階段を登り、改札を見やると高くまできた日が窓を差して、その脇で自販機が黙って突っ立ていた。
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