二月の朝の教室はいつものように冷えていた。

 教室の後ろでは暖房がごうごうと音を立てているが、ボイラーからはまだ十分な熱が届いていないようで、埃臭いだけの空気が吐き出されている。

 朝の教室は音を不器用に包んで、声を出すと攫われていく寂しさがある。ハナとわたしの他に2つのグループが居たが、おしゃべりの笑いも低調で、そんなものに飽き飽きさせられて、みんななんとなく机に向かい出す。

 机に向って、何をするでなくぼうとしたり、スマートホンを弄くったり、ノートを開いて気になる科目の復習を始めたり、時おり誰となく誰に向うでなくぽつりと呟いたり。

 世界はこれくらいの静けさが調度良いように思う。そんな静寂を乱さないように、気にしておしゃべりもひそひそと交わされる。

 わたしの席は窓際の後ろから2番目だから、教室も、校庭も、校門もみんな見渡せる。見渡してもなにも良いことなんてないけど、見渡してひとしきり安心する。見渡して知った気になることで、自分を俯瞰できる。わたしのこの視界すらもまるで外から眺めているように。

 本を開いて梟の栞を一番後ろのページに挟み、続きを読み始める。するとわたしの前の席に座るハナが話しかけてくる。

「ねえ冬香。なに読んでいるの」

 いつもそうだ。ハナはいつもわたしの読書の邪魔をする。本を読んでいる人は誰かが読んでいる本に興味を持ってもらいたいから本を読んでいると思っているのだろうか。もちろんそれもなくもない。趣味が合って、それなりに会話が弾んで、面倒でない友達が居れば良いのにと思うこともある。あの人が読んでいる本がなにか興味があるし、わたしの読んでいる本にあの人が興味を持って読んで、それで一緒になれたらとも思う。でも同じ本を読んでも、わたしと誰かは一緒には成れないし、同じように本は読めないのだ。

 わたしはハナの声が聞こえなかったフリをした。

「ねえ、冬香ってばぁ」

 彼女は声を強くしていう。わたしは身体を大げさにびくつかせて「ごめん、ごめん。気がつかなかった」と言い訳する。

「もお、いつもそうなんだから」と彼女は呆れ半分に笑う。その笑顔を見ると、胸が痛む。だからどうかわたしに関わらないで欲しい。

「それで」

「だから、なに読んでいるの」

「うん、なんだろう」

 本の題も、内容も、語りも、今は意味がない。わたしの視界からは消えている。それを知って何になるのだろう。

「いま読んでいたのでしょ」

「うん、読んでいた」

「なんて題名なの」

「宝島」

「それって焼き肉屋さんの話」

 クールなジョークだ。

「たぶん違う」

「ふーん。読み終わったら貸してね」

 わたしはハナから眼を逸らす。彼女にそう言われれば断れないけど、わたしは人に本を貸すのがいやだった。

 人に貸して汚れて返ってくるのも、折れ曲がって返ってくるのもいやだった。汚れたり、折れたりした時に謝られて許してしまうのがいやだった。謝られもしないのはもっといやだった。

 仮に奇麗なままで返ってきても、折角貸したのに本当に読んだのか分からないのもいやだった。それと、自分が読んでから期間が空いて、読みたての本の話をされるのもいやだった。

でも彼女にそう言われたら断れなかった。いつもそうなのだ。

 わたしはまた宝島に目を戻す。ちっとも頭に入らないから、梟の栞を挟んで鞄に仕舞った。

「ごめん。集中できなくなっちゃった。ごめんね。話しかけたりして」

「いいの。別にハナのせいじゃないから。わたしがそういう気分じゃなかっただけ。ハナが話しかけても、かけなくても」

「うん」

 ハナはにっと白い歯を覗かせて笑う。ハナの歯茎は奇麗なピンクで、見た目にちっとも生々しさがない。だからときどき傷つけたくなる。ハナの白い肌から血が伝ったらきっと奇麗だろうなと思う。ハナの顔に痣が出来たら、首筋にキスマークをつけたらきっと完成する。彼女にそういったものが加われば、いっそう良いのにといつも思う。

 加えたらその分だけ確実に摩耗する。摩耗したものはもう戻らない。だから奪いたくなる。奪って、摩耗させて、そして加えたい。そんな欲求が人を造り上げる。あの人へのわたしの恋慕もきっとそんな欲求でできあがっている。顔と顔が向き合った時に多寡はあっても、自分を相手と摩耗させたい、自分を相手に加えたいという欲求を抱く。

「それで、昨日はどうだったの」

「うん。昨日?」

 ハナはこのわたしの問いかけを待っていたはずなのだ。そのためにわたしが本を読んでいるのに声をかけたはずなのだ。

「うん。昨日」

「うん。行ったよ」

「ふうん。そっか。それでどうだった」

「うん。たのしかった」

「それから」

「それで、映画見てからね、お茶した。お茶して、彼が家まで送ってくれた」

「そう」

「家なんて見られたくなかったけど、恥ずかしいから。でも家まで送ってくれて、私の家を眺めて、ここで育ったんだねって言うの。なんだか生まれたときから知ってるよって言うみたいに、ニッて笑って。まだ出会ったばかりなのに、そうなの。不思議な感じがした。これで良いんだって思った。泣きそうになって、じゃあって言って、家に入った。私が二階の部屋の窓から下を見たらまだ彼が家の前に居て、それで手を振って帰っていった。それからメールを送った。長いメール」

「どんな内容」

「…。はずかしい」

 対話は終わる。第三者によって、予定通り、あるいは唐突に、そして余韻を残して、終わる。

 席をたっていた者は席に着き、姿勢を正して、前の席の者は教卓に立った教師を見上げる。わたしは教室を見渡して、それからハナの背中を眺める。まだ熱があって、すこし丸まっている。抱きしめたくなるような愛くるしさがある。

 教師は報告を事務的に済まし、出欠を取る。休みはほとんどないのだから、休んでいる者だけ確認すれば良いし、そちらの方が効率的だろうに、出欠を取ることが教師と生徒とのコミュニケーションの最後の手段であるように、あるいは始まりであるように、ことあるごとに名前を呼ぶ。呼ばれた名前は呼び声に応える。応えた声は虚しく響く。

 教師が教室を出ると、また教室には雑音が溢れる。わたしの期待から外れた音。注意からほんの僅かにズレて、頭の中の思考を分断にする音。あるいは狂ったように世界を満たし、放たれる音。そんな雑音が教室にが溢れかえる。それと反比例するように私の喉の底は静まり返って、その静寂の中に一束の観念が芽生える。それは無意味に、また無目的に、そして無為に、定められていたように。

 思念は途切れる。会話とおなじように、どれだけ馴染んでいても、どれだけ親ししげにしていても、どれだけ深く潜っていても。断線する。いつか浮かび上がってくるもの、沈殿して忘れ去られるものが、どれもおなじようにその時には打ち消される。

 

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