まだ無題

井内 照子

 本の最後のページに挟んでいた栞を、人差し指で止めた読みかけのページに挟む。三日月を見つめる後ろ姿の梟のシルエット。

 あの人に送った手紙にプレゼントといって同封した。

 あの人の持つものとわたしのものとを重ねると、二匹の梟が寄り添って、満月を眺めているように見える。

 二つで一つの栞。

 もちろん大きい梟がわたし。あの人はおなじ栞をわたしも使っていることなんてきっと知らない。

 あの人からお返しにといって送られてきたのはブックカバーだった。淡いベージュの和紙で出来ていて、手に吸い付くようで滑らかな触り心地がする。

 本を閉じながら、あの人はいまどんな本にこの栞を挟んでいるだろうかと思う。あの人もわたしとおなじブックカバーを本にかけているのだろうか。とも思う。

 本は帆布鞄に仕舞われて、わたしは人に押されて電車を降りる。朝の駅はいつもごった返していて、色んな匂いがする。

 強すぎる香水、男の頭に乗ったポマード、脇の汗、磨かれていない口、拭き切れていない便、乳児用のクリーム、クリーニングで落ちない煙草のヤニ、カビ臭いコート。とにかく色んな匂いが、色んな顔と歩いている。そんな匂いが、駅を中心にして線のように細く細く分かれ、この街をくまなく埋めていく。

 改札を出て、エスカレーターを降りバスターミナルへ行くと、いつものように見知った顔が列を成し、眠たそうにビルかそれとも道路を眺めている。あるいは本やスマートフォンを睨んでいる。

 毎日がほとんど似たような風景で並び、その違いを見つけることが億劫になると、それさえも昔から知っているものだという気さえしてくる。

 そういえば昔見た大人の瞳はそれを見つめていたのだと思う。いまではまるでその中にわたしはいるのだと思う。あの人はどうだろうか。あの人はそんなわたしを見てどう思うだろうか。

 わたしはほとんどそのことばかり考えている。

 まるで信仰を頑なに守ろうとする信者のように。神はどう見るのか、どう考えるのか、どう語るのか、どう裁くのかというように。

 バスが滑るように停留所に乗り込み、開いたドアから人が溢れ出す。溢れ出した人を避けながら列が進み、バスはまた人で満たされる。音で満たされ、匂いに満たされ、色に満たされる。海から引き上げられて海水が溢れ出し、それからまた海へ沈んでいくように。

 ドアが締まり、バスは動きだし、エンジンの震えが段々と高く細かになる。バスは停留所を出て、街が後ろへ向けて走り出し、わたしは期待する。バスがどこまでもこのまま走りつづけることを。

 でもバスは止まる。

 バスを待つ人が居る。

 バスを降りる人が居る。

 バスは目的を持って、行く場所を知って走っている。

 じゃあわたしはどこへ行くというのだろう。どこへ行きたいというのだろう。

 バスは決まった所へ止まる。わたしは決まった所でバスを降りる。

 決まった駅で電車を降りたように、わたしには目的がある。

 わたしは行き先を知っている。目的があって電車を降り、行き先を知りバスを止める。

 わたしの他にも幾人か降りる。みな決まった方を向き、歩き始める。


 冷たい風が吹いている。

 葉の落ちたヒメリンゴの木が道に沿って並び、見上げた空は青く澄んでいた。その切り取った一角を写真に撮りたいと思った。この風の匂いを閉じ込めた写真を撮って、あの人へ送る手紙に入れたいと思った。写真は香りを写し取るものではないのだけれど、風の匂いを写真に出来たら良いのにと駄々っ子のように思った。

 長い時間日差しや雨にあたり劣化したレンガとセメントとでできた校門の前に、退屈そうな顔をした大人が立っている。見知った顔。

 わたしは「おはようございます」と、あいさつをする。そういう決まりなのだ。彼は「おはよう」とソッポを向いて返す。

 彼は私達に興味などない。わたしには興味などない。彼は退屈そうな顔をしているが、私達も彼に対して退屈している。つまり、なにも期待していない。期待していないから、興味もない。興味がないから、期待のしようもない。興味もなく、期待しないということは、退屈だ。

 それで上手くいっているのだから、それで良い。

 不意に背中を押された、身体が少し前のめりになる。体勢を立て直して後ろを振り向く。ハナは笑っていた。ひとしきり笑って、わたしを見つめて「冬香(ふゆか)おはよう」と言った。

 冬香はわたしの名前だった。白い陽が彼女を照らし、長い髪の縁が空の青に溶けていた。わたしは恥ずかしくなった。彼女の笑顔の価値を知って、今日も恥ずかしくなった。でも赤いのは彼女の頬。

 それからわたしたちは無言で歩き始める。お互いの距離を計りながら、ゆっくりと。

 ハナはつめたい冬の空気を楽しみながら、おしゃべりを始める。

次の瞬間には忘れているような、そんなおしゃべりを。

 彼女だけがしゃべっている。それをいつもわたしは聞いている。聞いていることだけは彼女に伝わるように、聞いている。同意もしなければ、否定もせずに、ただ聞きつづける。終るまでただ聞きつづける。

 対話には終わりが来る。第三者によって、予定通り、あるいは唐突に、そして余韻を残し、終わりが来る。ハナの白い吐息だけが跡をひく。

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