第10話 脱皮

 東京に戻った僕たちは確立した社会的地位に対する責任を果たさざるを得なかった。


 最上は戻ったその日に重村と日高に連絡を入れた。あいにく日高は留守だったが重村とは話をし、健康診断に賛成だった。


日高には最上が翌日連絡を取ったが健康診断を受ける必要はないと断ったらしい。


 日高には妻がいる。そして今回のことは妻にはなにも伝えていないらしい。健康診断は会社で毎年行っているので妻に受ける理由を説明できないと言う。


 直接話せてはいないが、その気になれば説得は出来る事は最上も承知していた。最上はもうこの件について日高とは話したくないからと、僕が後を引き継いだ。


 僕はその日の夜日高に電話をした。健康診断のことは言わずにただ会いたいといって、日高に会う約束をした。


 作戦やどうやって話せば良いなどアイデアはなかった。事前に準備する事なく会えるのが友人たる所以ゆえんであるからだ。


 ただ、結果はそんな簡単にはいかないと思い知らされることになる。社会的地位には、自分の家庭も含まれる。それは、時に社会的地位の枠から外れ何よりも優先させる事がある。それを僕は思い知らされるのである。


 数日後、僕は仕事を予定通り終え、日高との待ち合わせ場所へと向かった。責任ある立場になると、時間の自由は失われるが優先順位の設定においては優位になる。


 僕は、時間丁度に現地に到着した。店に入ると既に日高が待っていた。ビールと簡単なつまみを注文していた。


「すまん、遅くなって」僕は遅れていないが謝っていた。

「俺もそんなに待ってないよ」


 ビールも一杯目らしく殆ど飲まれてなかったので、本当にそんなには待ってなかったようだった。僕も取り敢えず同じものを注文した。そして、家庭人の日高を思い、前置きを省いた。


「最上から実家へ行った時のことを聞いたか?」

「佐久間が保険に入っていたってらしいな」


 日高から思ってもいなかった事を言われたので少し驚いた。他に強調するところがあると思えたからだ。日高の立場になって思案すると、生命保険以外は、僕の気持ちであって、共有されていないし、具体性に欠ける。


僕は正直に自分の意見を伝えた。

「佐久間は自分の死を分かっていたとしか思えない」


日高は首を横に振った。


「本気でそんなことを信じているのか。最上にも言ったがお前たちはどうかしているよ。何を根拠にそうなるんだ。確かに保険に入っていたことは驚いたが俺は単なる偶然だと思っている」

「だったら佐久間の死亡日と占い師の言った日付が一致したことをどう説明する?」

日高は再び首を横に振った。


「そんなの説明できないし説明する必要もない。それもたまたまでないか。だってそんなこと予言できる訳がない。出来るとしたら佐久間の担当医ぐらいだよ」


僕は驚いた。


「今何て言った。佐久間の担当医なら死亡の予測が出来ただと。お前は何が言いたい!」

日高は冷静に答えた。


「佐久間は何らかの持病があり医者から死を宣告されていた。そして占い師を雇って一芝居売ったのだ」

「お前いつからそんな言い方が出来るようになったのだ!」


 これは日高があの日遅れて来て、占い師とのやり取りの現場に居合わせなかった事とは全く関係ないと思った。


「俺はトラブルには巻き込まれたくないんだよ。俺にはお前達と違って家庭がある。だから、はっきり言っておく、この件に俺を巻き込まないでくれ!」


 僕は青色リトマス紙を塩酸に付けた様に落胆から怒りに変わっていく自分がはっきり分かった。


「佐久間は死んだ。お前は平気なのか。何も感じないのか?」


 日高の顔も僕のリトマス紙の様に赤らんで来た。これはアルコールによるものではない。


「それはこっちの台詞だよ。お前たちは無神経にも佐久間の実家までなにしに行った。そっとして置くべきだろ。お前たちの行動こそ佐久間を裏切っている」


 日高の指摘は痛いほど分かっていたので、はっきり言われて堪えた。

しかし、佐久間が言った『重村を頼む』が僕の胸を突き刺していた。


 ただ、日高の立場も理解できる。彼が言っている内容には本当の思いは込められていない。偶然だの、担当医だの、理由は何でも良いのである。


 彼にとって家庭を守りたいだけの事なのだ。彼の優しさのベクトルが家庭に傾いたに過ぎない。


「日高、分かったよ。もう巻き込まない。でも、最後に一つだけ協力してくれないか?」

 

 僕は日高がもう昔の日高でないと思い、と言う言葉を使った。これにより日高も僕がどういう気持ちでいるか察したと思う。


「何をして欲しい?」

「だから健康診断を受けてくれ。頼む。全員が受けないと意味が無い」

日高はため息を付いた。恐らく妻への言い訳を考えているのだろうか。


「分かったよ。健康診断は受けるよ。ただし、この件に関して俺が協力するのはこれが最後だからな」

「ああ、分かった。感謝するよ」

「勘違いするなよ、俺は佐久間のために協力する。これ以上お前たちが変なことを考えないように今回だけは協力する」

「ありがとう」


 僕はそれ以上何も言わなかった。このまま日高との関係がこじれるのを避けたかった。日高も本心は不安で仕方がないのだから。


「日高、ところで奥さんとは上手く行っているのか?」

「ああ、相変わらず口うるさいけどな」

 

 日高は、娘の大事な行事があるらしく、夕食は家で済ますといい、ビールだけ飲んで別れた。


 恐らく、本当に、娘の大事な行事なら今日会うことはしなかっただろう。用件のみで帰宅した日高の残したメッセージはとてもクリアであった。


 僕は帰宅後片桐に連絡し、日高が健康診断を受ける事に同意したと伝えた。

電話を切ってソファーに寝転がり天井を見た。


 じっと天井を眺めた。いつも存在していた天井なのだが、こんなに見つめた事はなかった。見上げた正面のやや右に茶色くなっている所があることに気付いた。はて、いつからあんな風になったのだろうか。


 僕はおもむろにソファーから起き上がり洗面代の下にある扉を開けメラミンスポンジを取り出し、鋏でライター位の大きさに切り取った。


 それを水で濡らしてキッチンから椅子を持って先程の茶色くなった天井の真下に置いた。


 椅子に上がり茶色くなった箇所を間近でじっと見た。特に変わった様子も見られなかった。手に持ったスポンジを茶色の箇所に擦り付けた。


 それは、簡単に色を失った。僕はスポンジを裏返し何度も擦った。何処が茶色くなっていたのか分からない程、跡形も無くなっていた。


 僕は少しがっかりした。ある程度激戦を期待していたからだ。以外と弱かった茶色君。何の為に君はそこに居たのだ。こんなに簡単に消えてしまっては意味がないじゃないか・・・


 これまでなら何気なく過ごす日々が幾度となくあった。人類誕生から今日までの時間を考えると僕の一生なんてこの茶色君と同じ様に一瞬の内に消えてしまうのだろう。僕は自分に問うた。このまま何の抵抗もせずに消えてなくなって良いのかと。


 僕は人並みに元旦にその年の目標を決める。その時は強く決心したと錯覚していた。しかし、それは単なる行事に過ぎない。そうしないと新年が幸運にならないと思い込んでいただけなのだ。


 節分には豆を撒き、七夕には願い事をし、クリスマスにはケーキを食べた。それにどんな意味があったのだろうか。


 毎年同じ事を繰り返す。確かに繰り返すことは人間を安心の世界に導いてくれる。地球の自転の様にスパンの永いものから心臓の鼓動など。朝起きてから寝るまでの間に繰り返している動作は多い。歯磨き、通勤、トイレ、タバコなど。


 こんな繰り返しは生きていることに関係があるのだろうか。生きながらえる事に関係が無いかも知れないが、これを成さないと生きては行けない。社会と人間の構成がそうさせているのだ。


 人生なんて永遠に続くわけがないが、まるで永遠に存在するかのように生きてきた。くだらない暇つぶしの支配下で。


 新年に5円玉を投げ込むのと天井に出来た茶色い汚れを落とす行為に何の違いがあるのだろうか。このふたつを識別する能力を僕は手放したが、それと引き換えに、自分に向かってくる現実に、正面を向いて大きく開ける眼を持ち始めた。

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