第11話 食事の約束

 二度目の偶然がやってきたのは一度目から半年程が経っていた。あの事件以来あまり動揺する事が無くなったのか、今回は驚くほど冷静な自分がいた。


 感情を喪失した訳でもなかったし、同僚から性格が変わったと指摘を受けたこともない。内なる変化が行動に出るのは確かではなさそうだ。


 佐久間の一件以来、偶然を期待するのは止めていた。マーフィーの法則との関連性は分からないが、期待するのを止めるとそれは起きたのだ。


 僕はいつもの様にエレベーターを待っていた。以前なら、エレベーターの動きに機敏さを求めていたが今はそうではない。この程度の変化なら誰も指摘はしないだろう。


「おはようございます」


 声の主は本条さんだった。彼女から声を掛けてくれるとは思ってもいなかった。同じ会社に勤務しているので、挨拶くらいは女性からでもする。


「おはようございます」

僕はきちんと本条さんの目をみて言った。そして、僕は言葉を続けた。


「偶然ですね」と、まるで待っていたかのような言葉を自然に発していた。でも、彼女の次の言葉が僕を緊張させた。


「これでですね」

それは僕がたった今思ったことだった。


「そうですね、この前は、たしか、半年程前です」

と、ほぼ正確に前回が何時だったかを答えた。たとえ正確に答えたとしてもこれが2回目であることは彼女から言ったわけで、変な印象を与えることはない。


いや、逆に覚えていたことを伝えた為に一体感の様なものが得られた気がした。


「いつも帰りは遅いのですか?」僕は前から聞きたかったことを尋ねた。

「そんなことはないですよ。定時日はちゃんと守っています。私優等生なの。さんはいつも大変そうですね」


 僕の鼓動はこれ以上加速出来ない所まで達した。なぜ僕の名前を知っているのか。名前を調べる事は難しくはない。モチベーション次第である。


 もう動揺なんてしないと思っていたが、彼女の存在が僕の中でこれ程だったとは思いもよらなかった。ただ、何を話して良いのか考える余裕もなかった僕は言った。


「そうですね、あっ、でもたまにははやく帰るようにしています。出来が悪いので」


 笑う所だろう、と心の叫びが聞こえたがに上手く対応が出来なかった。 


 僕はこの瞬間を逃しては一生後悔するような気がした。そして何より本条さんともっと話をしたいと言う気持ちが全ての障害物を押しのけた。


 例え、この会話の途中で誰かが2人の境界に入って来たとしても恥ずかしくは思わなかった。だから、素直に僕は誘った。


「もし良かったら仕事が早く終わった時に食事でもいかがですか?」


 言葉を発した瞬間、なんて事を唐突に言ったのか自分でも理解出来なかった。同時に理解する必要性を感じ無かった。


 タイミング悪く、エレベータが到着予定のブザーを鳴らし、僕が食事の誘いをした事実を消し去るかの様にドアが開いた。エレベータを食事に誘った覚えは無かったが。


「どうぞ」


 良い返事がもらえる様にとがんを掛ける想いで言った。あの突飛な質問の直後に来たエレベーターは実は絶妙なタイミングだったのかも知れない。彼女に適度な思考時間を与える事が自然と出来たのである。


「ありがとう」


「えっと、何階ですか?」


 僕は彼女が僕の名前を言ってくれた御礼に彼女のオフィスの階を知っている事を7回のボタンを押すことで伝えたかったのだが、質問のボールは未だ彼女の手にあから、止めた。


「7階お願いします」と彼女は言った。

「はい」


 2階でなくてホッとしたが、エレベータが動き出すまで無言が続いた。彼女は断り方を考えているのか、それとも返事をせずにおこうと思っているのだろうか。ひょっとして僕からの誘いが聞き取れなかったのだろうか。


 僕は先ほどの質問をもう一度言うべきか戸惑っていたが、エレベータはお構いなしに上昇を続けた。


「では、早くお仕事が終わりそうな時は教えてください」


 本当に!僕は心の中で叫んだ。でも、こんなことってあり得るのか。最高に嬉しかった。彼女は僕がもう一度きちんと誘うことを待っていたのだった。この瞬間僕の頭の中から3年後に死ぬかも知れないと言う運命の事は忘れ去られていた。


「その時は、メールします」

さすがに電話はできるはずがない。少し間をおいて、彼女は小さく頷いた。

「はい」


 僕は先に4階でエレベータを降りた。どうやってエレベータを降りたのか記憶がないし、会話の内容もあまり覚えていない。


 食事に行く約束をしたことだけは確かな事実であった。今回の出来事とあの出来事のあまりにも両極端な出来事に転びそうだった。



 僕はお勧めのレストランを同僚の水野に相談しようと思った。彼はこう言ったことに対して驚くほどのセンスを持っている。と言っても特別モテるわけでもない。


 本来なら、もう一人の同僚桂木に聞いたほうが良い。桂木はもちろんこう言ったたぐいのセンスはあるし実際にモテていたからだ。しかし、人間良い面と悪い面を持っていて、悪い面が桂木の詮索好きなところである。


 桂木の鋭い質問攻めにあって食事の相手を悟られる事を恐れた。僕としては、相手が分かったとしても気にしないが、本条さんには迷惑を掛けたくなかった。


 それに僕は彼女との歩みにどんなに微塵で有ろうとも第三者の介入を許したくなかった。


 食事に行く約束をしたから思えることなのだが、正式に彼女に電話するなり、呼び出して食事に誘っていたら同じ結果になっていたのだろうか。誘う勇気は僕にあったのだろうか。恐らくそんな勇気はなかったと思う。


 なぜ、誘えたのだろうか。こんな事を考えている自分が不思議に思えた。実際に食事に行く事になったのだからそのことだけ考えていれば良い訳なのに・・・


 浮かれていた気持ちを現実に引き戻す考えが脳裏に浮かんだ。ちょっと待てよ。あの事件がなければのではないか。


 この時始めて僕の未来もあの事件によって変わり始めていることを実感した。僕にはどうしようもなかった。動き始めた慣性は地球の如く途轍もなく大きかったのだ。もう既に心の何かが変わり始めていたのだ。


朝の出来事は片時も忘れずに一日を過ごした。


 意識の中で食事の事がずっと存在しているにも関わらず、仕事がはかどった。男性はマルチタスクが苦手だと聞いた事があるが、これはマルチタスクにあてはまるのだろうか。


 仕事が一段落して、帰宅の時間が迫って来たので、本条さんの顔を水野にすり替え彼の様子を窺った。あまり仕事に集中している様に見えなかったし、丁度水野の隣の席が開いていたので僕は席を立った。


「水野さん、ちょっと相談したいのですが今いいですか?」

水野は途中だった文章を打ち終え保存した。一応仕事をしていた。


「相談って?」

「今度食事に行こうと思っているのですが、どこか雰囲気の良いお店知りませんか?」

仕事の話だと思っていた水野だったが、相談の内容を聞いて身を乗り出して来た。


「何料理がいいの?それに予算は?」


 思った通りだった。彼は誰と行くだの余計な質問はしてこなかった。彼の気にする所はもっぱら自分がいかに短時間で何軒候補を探し出すことが出来るのかである。


「和食ですかね」


 フランス料理を、と思っていたが、マナーに自信がなかったので昔から使い慣れている箸を選択した。初めての食事で料理に緊張するのは避けたかった。り所にされた箸は迷惑に思っているかも知れない。


「やっぱり木の温かみがあって良いですからね」

「何だよ。木の温かみって?」

「いや、なんとなく日本的かな、と思って」

「日本食だから当たり前だよ。それで、幾らくらい?」

「幾らでも良いです」ちょっと格好付けすぎたかなと少し後悔した。

「そりゃ凄い。やる気満々じゃん」


何か嫌な質問を誘発したような気がしたので僕は間髪入れずに、

「幾らでも、って言っても常識の範囲で、ってことですよ。勿論」


お構いなしに、水野は興味をお店選びに戻した。


「それなら良い所がある」と言いながら水野は即座にお薦めのお店のホームページを開きながら

「鉄板焼きはどう?恵比寿のタータントホテルの24階にあって雰囲気もよくデートには最高だよ。まあ、和食かは微妙だけど、拘りはないよな」


 あっさりデートって言ってくれましたね。だけど、僕からは言い出せなかったので、そう言ってもらえたので安心してここに決めることが出来る。確かに和食にした理由は、箸をつかうことなので問題ない。


 水野に言われて思ったがホテルの高層階にあって雰囲気が良いのは、夜景を上手く取り入れる内装になっているはずだから、照明などデートには最適であろう。


 だから、ゆっくり会話も出来るし、周りが個人を過大に美化するような演出はない。ゲレンデでドキッっとするような事は無く有りのままがお互いの印象に残る。


「じゃ、そこにしますかね」

「あ、でもここ結構高いよ。2人で5万は覚悟しといて」


 今更この気持ちを後戻りさせることは出来ない。これが押し売りだったらいらない水晶を買わされていたが、水野にも推薦したプライドがあり、失敗は許されないと言う責任感がある。


「勿論予約を入れないといけないですよね」


水野は無言のまま電話番号をポストイットに書き留めた。


 店は鉄板焼きに決まった。後は、何時にするかだ。週末に設定するのは申し訳ないし、大きなイベントにしたくない。平日だと気持ちのゆとりがある金曜日と思ったが、却下される可能性も高くなる。しかし、折角食事に行くのだからやっぱり金曜日は譲れない。


 カレンダーを確認した。今日が木曜日だから翌週の金曜日となる。本当は今週の金曜日つまり明日に設定したいが流石に予定が入っているだろうと思った。


 さて、いつメールを送信するか、である。流石に今日送るのは今の僕には出来そうにない。



 数日後、帰宅前に電子メールの新規メール作成ボタンを押した。いつもよりメッセージ入力画面がゆっくり開いた気がした。通常なら宛名を先に入力するのだが書き込みの途中で送信されないようにまずは本文から入力を始めたが、なかなか指が動かない。


『本条さん(さすがに下の名前を書くことはできない)、こんにちは(『こんにちは』って今は夜だよな。やっぱり『今晩は』の方が良いか。でももう帰宅しているはずだからこのメールを見るときは朝のはず。やっぱり、『おはよう』の方がいいか。別に僕のメールの発信記録を気に掛けることは無いだろう。僕は、おはよう、に書き直した)おはよう(天気の話は出来ないな~明日の天気はわからない)

お元気ですか?先日はエレベータにて失礼しました。その時の約束したことを現実のものにしたいと思いメールしています。(率直に自分の気持ちを伝えるためにちょっと強気に出てみることにした)来週の金曜日はいかがでしょうか?ご都合よろしければ予約を取りたいと思います。(最後は逆に少し弱気に判定を待つことにした)沢村(名字で始まったのだから名字で終わったほうが釣り合う)』


 送信ボタンを押す前にもう一度読み返した。誤字・脱字が無いことを確認して送信ボタンにマウスは向かった。


 その時、開封通知設定を行うか迷った。開封通知設定とは、相手がメールを開いた場合にそのことを自動的に知らせてくれる機能なのだ。


 通常仕事で緊急度の高いメールには必ず付けるようにしている。しかし、今回の場合、開封通知設定をすると開封した事は分かるが、それから返事が来るまで時間がかかった場合、それにどんな意味があるのか考えてしまう。仕事の場合、開封して返事が無ければ遠慮なく督促できるが。


 僕は開封通知設定をしないで送信することにした。このメールが読まれるのは恐らく明日の朝であろう。


時計を見ると既に22時前だった。僕はパソコンの電源を落とした。



 翌日、いつもと変わらぬ時間に会社に着いたが鞄を置く前にパソコンの電源を入れた。そして直ぐにメールソフトを起動させた。


 本条さんから返事が届いていることは直ぐに分かった。メールの件名が“RE:食事の件”で異色を放っていた。


 差出人の名前はどのメールも同じ書式なのだが、『本条』と言う名前、それだけは大きく、太く、輝いて見えた。


 名前のかたちが頭の中にある姿と一致するのだ。分かり易く言うと有形重要文化財と言った所だ。


一呼吸おいて僕はメールを開いた。


『沢村さん、おはようございます。昨日も遅くまでお疲れ様でした。私は元気にしています。ありがとう。食事の件ですがOKですよ。詳細が決まったら教えてください。楽しみにしています 本条』


 想像と現実の境界線から現実側への第一歩を踏み出した。こので彼女からの了解メールを読むと本当に嬉しかった。


 短文にも関わらず、読み忘れが無い様に何度か読み返した。始めて姿を見て以来話しすら出来なかったのに、この数日で食事の約束をし、既にお店まで決めているとは。


そうだ、早くお店を予約しないと。


 予約するに当たっての本条さんの都合をメールで確認した。直ぐに返事も返ってきた。当日、定時には終われると言うことだったので、予約を19時に入れた。


 僕は予約時間を本条さんに連絡を入れ、具体的な待ち合わせ場所は当日連絡する事にした。


それに対し本条さんからは簡単な返事が返ってきただけだった。


『宜しく』と。


 メールの受信ボックスの差出人に本条が3つ存在している。食事に行くだけでもメールのやり取りが何度か続いたのだ。


 その後は、早々に仕事を終えた。今日は最上と待ち合わせをし、あの占い師を探す約束をしていた。最初に占ってもらった金曜日を考えていたが、大事な約束があるので諦め、同じ時間に再び新宿を訪れる事にした。


 新宿のあの場所に行くとあの占い師はいなかったが、あの時と同じくらいの行列は存在していた。僕たちは行列に並ぶことにした。昨今の寛容なLGBTへの追い風の中でも男性同士で列に並んでいるのは僕たちだけだった。


 1時間近く並んで僕たちの番になった。占ってもらう意思がないことを伝えたたが、占い師は話好きと見えて一向に気にしていない。


 まあ、お金を支払うので当然かも知れないが。しかし、あの時いた占い師のことはなにも知らなかった。勿論、僕たちが占ってもらっていたことも覚えていなかった。結局、全く手がかりは掴めなかった。


僕は思った。全く手がかりが無いことが手がかりになるのでは、と。


 あの占い師はあのとき始めて新宿に現れた事になる。だから彼には誰も並んでいなかったし、定期的に現れる女性の占い師は彼のことを知らなかったのだ。


 僕の予想が段々現実味を帯びてきた。恐らくあの占い師は誰かに頼まれたのだろう。そして僕たちが占って貰うように仕向け、あの日付を僕たちに伝えたのだ。


 たくらみの全貌が対岸に浮かんで来た。目を凝らしてもはっきり見えない。時間をどれだけ掛けても霧は晴れそうにない。


そして、その霧は、僕と占い師との距離を実際のそれよりも遠く感じさせたのだ。


もう二度とあの占い師に会えないような気がした。

 

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